おまけのエッセイ


●ラヴモード (親心とモーツァルトのアンダンテ-「ピアノ四重奏曲第一番」Gm K478 第二楽章

 人から見たら、ちょっと神経質すぎるように思われるかもしれぬが、僕は電車などで、見知らぬ成人男性などに近くにすり寄ってこられると、非常に疎ましく不快感を感じる。
 こんな時の僕の精神状態はすこぶるよろしくない。
「何の用だ?!、用が無いならどっかいけー!」モードになる。その相手に対する抵抗感・嫌悪・憎悪でいっぱいに満たされ、最低の精神レベルに陥る。
 我ながら、よくぞここまで落ちるところまで落ちるもんだ、とさえ思うレベルに落ちる。

 ところが、ごく、本当にごく、まれーに、そのすり寄りが全然気にならなくなる時がある。
 きっかけはいろいろあるのだが、その時は無意識に精神レベルが徐々に向上していて、ある臨界点に達すると、何かがプチンと切れるように、急に気にならなくなる。大体それは急にやってくる。まさに「やってくる」という感じである。

 僕はこれを自分で「ラヴモードに入る」と称している。

 なぜラヴなのかということは、これから説明する。
この「ラヴモード」の状態では、他人への不快感なぞ全然ない。そればかりか、周りの人間が、皆一生懸命生きている仲間のように感ずる。そして平穏で冷静で落ち着いていられる。
 先程の「どっかいけー!」モードとは大違い、雲泥の差である。
 この理想的な精神状態、言葉で言い表すのは難しいと思ったが、いい言葉があった。
 そう、「愛、ラヴ」である。
 なんかわかったように偉そうに言っているが、やはりどう考えても、「愛」という言葉がしっくりくるような気がするので、マザーテレサや、ガンジーなどの偉大な先達の足元にもおよばぬかもしれぬが、勝手ながらこの状態を「ラヴモードに入る」と称させていただいている次第である。

 先程このラヴモードに入るきっかけはいろいろあると述べた。
 車中で何かを読んでいて感動したり、音楽を聴いて高揚したり、要するに何か大いなる心で自分が満たされる時=愛で満たされるとき、になりやすいようだ。きっと感動などによって自分の波長が高まっていき、愛のメガヘルツと自分のメガヘルツの数値がピッタシと一致するのかもしれない。

 しかし普段外出している時にこのラヴモードに自分をセットするのが、結構困難である。家に居れば割とた易いのだが、修行が足りぬ自分としては、先述のように電車の中などで自然にラヴモードに入る確率は、かなり低い。
 そこで自分なりに意識的に、自分をラヴモードにセットするには、どうしたら良いか試行錯誤することにした。
 通常の精神世界系の手引本などでは、自分の精神状態を安定させる為に、ヨガや瞑想を薦めている。
 しかし荒々しい都会生活、特に混んだ電車の中で、瞑想やヨガはちょっと不可能に近い。

 そこで以前こんなことがあったことを思い出した。
 その日は例の如く、電車で自分の近くに不審な男性がすり寄ってきた。僕はズルズルと自分の意識がダウンするのを感じたが、ふとその男性の脇を見たら、小さな子供が男性に寄り添うようにくっついていた。

「父親か・・・」
 僕のレベルが、少し上がった。
 そしてそれから、さらにこんなことも考えて見る気になった。
「もし自分がこの男性の親だったら・・・」、僕はイメージしてみた。
 自分の息子に孫ができ、すくすくと元気に育っている。平凡ながらも、ささやかな幸せをきずいている。
 いろいろと衝突もあったが、今は小さいながらも家庭を持ち、親として皆に頼られて立派に生きている我が息子。
 何も無くても良いけれど、とにかく健康であれば・・・、そんな親の願い・・・
 そんなことをあれこれと考えている内に、この擦り寄り男性に対する憎悪が、いつしかすっかり消え伏せていた・・・。

 ちょっと策を弄するようで、抵抗があったが、これだ!と僕は思った。
 つまり、自分をラヴモードにセットする為には、「親心」になることだ!と。
 変なヤツが来たら、自分がそいつの両親だったらば、とイメージしてみること。これは良い方法かもしれん!

 ・・・と、まあ、せっかく良い方法が見つかったのだけれども、実はこれもそう簡単にはいかない。世の中そんなにうまくはいかない。
 大抵は「うーッ!キーッ!、なれるわけナイヤロ!、チャンチャン。ドモありがとゴザイマシター」で終わる。
 しかしながら、うまくいかないけれども、何回か成功例もあったことはあったので、今のところ僕にとってのラヴモードセットへの一番有効な手段であることには変わりない。当分はこれで行く。

       *   *   *

「親心」というのは、いわゆる本当の「愛」という言葉の意味に、もっとも近い状態では無いかと思う。
 まあ、実は私は子供を持ったことが無いので、偉そうに言える資格などは無いが、まあきっとおそらく、そうなのでは無いかな、ということでお許しいただきたい。
 親心は愛。それも無償の愛。
 キリスト教なんかで、神の愛などというが、良く考えてみると、神というのは、地球上の全てのものの「親」であるといえるから、親心を拡大していくと、きっと神の愛というものに近づくのではないか?という気がする。親心=神の心である。

 ちょっと大げさになってきたので、この辺にしておくが、今後ラヴモードに自分をセットする為の、もっといい手段を開発したいとは思っている(本当かよ?)。
 ま、とにかく基本はいかに「愛」の状態になるか、ということであるのだから、意外と簡単なのかもしれないが、でも頭でわかっていても実際うまくいかんとこが、この地球のもどかしくも、面白いとこなのかもしれませんな。
 まあ皆さんは平素から瞑想やヨガで正道を試みられるのが無難かもしれない。もちろん恋愛でも可。

          *   *   *

 さて、以前この「親心」をとても深く実感したことがあった。

 いとこの結婚式の披露宴での話であった。
 宴も大詰めとなり、いよいよ両親から新郎新婦へのスピーチという段階になった。
 結婚式での親の気持ちというのは本当に感慨深いものであると思う。特にそれまでいろいろ苦労していたり、結婚自体に障害があったりなどすれば、その感慨もひとしおであろう。

 それぞれの親からの感動的なスピーチがなされる中、新郎の母親(つまりは私の叔母)の番になった。

 実はスピーチ前から感極まっており、叔母はまともに話をできる状態では無かった。
 しばらくハンカチが顔から離せないような状態だったのであるが、ようやく母親はマイクの前に向かった。

 そして新郎を見つめながら、母から言葉が発せられた。

 それはたった一言、呼びかけるように、自分の息子の名前を発したのであった。
 「Y・・・」

 これには僕も一瞬ハッとした。

 そして、その後は、また感極まって言葉は続かなかった・・・。
 
 しかし、この一言で十分だった。
 この息子の名前一言には、母の全ての思いが込められていた。
 この一言にそれまでの息子との20数年の様々な思いがあった。

 人間は自分の思いを伝える時に、時として饒舌な言葉はいらない時がある。
 まさにこの時がそうであった。
 母が呼びかけた息子の名前、これだけできっとその場の皆は母の思いを理解したに違いない。

 これは結構グッときましたな。僕も。

        *   *   *

 ところで、先述の結婚式のエピソードと「親心」という言葉にインスパイアされて、いつも浮かんでくる音楽がある。

 それはモーツァルトの「ピアノ四重奏曲第一番」ト短調K478の第二楽章アンダンテ。
 この曲にも僕は随分とお世話になった。
 7分弱の短い楽章であり、この音楽には饒舌な表現は無い。
 そこに出てくるのは、極めて単純なわかりやすい上昇もしくは下降音階や、モーツァルトお得意のフレーズ。

 しかし、そんなシンプルなフレーズだけで作られた音楽が醸し出す響きの、なんと慈愛に満ち溢れていることか!。

 まるで母が子供に語り掛けているような暖かさ。
 息子の名前を呼ぶようなやさしさ。
 息子を見つめ慈しみ抱きしめるようなメロディ。
 まさに親心ではないのか・・・。

 この音楽は、あの時母親が呼びかけた息子の名前だ・・・!
  

 モーツァルトが自分にとってかけがえの無いところは、音楽というものは通常、癒しとか高揚という効果があるものであるが、そうしたものすら越えて、更にそれ以上に自分をラヴモードまで引き上げてくれる、神の領域まで持っていってくれる、そんなところにある。
 モーツァルトにはもちろんこういう側面だけでは無いが、モーツァルトが国境を越え時代を越え愛され続けているのは、こんなとこに理由の一つがあるのかもしれない。

 それにしてもモーツァルトのこの音楽のような領域に、常に自分がいれることができるようになるのは一体いつのことになるのやらと、今日も反省多き一日を振り返りつつ、曲に耳を傾ける、そんな日々がずっと続いておりますけれども。
(2000.3.27)

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