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●チャイコフスキー ピアノ組曲「四季」より舟歌 |
チャイコフスキーのこの小品にまつわる文章を、学生時代のサークル誌の卒業記念特集にのせていたものがあって、ちょっと面白かったので、ここに挙げておきます。
私もまだ若くて、かなりいきがって書いてあるようなところもあり、お恥ずかしいのですが、当時の感性がどんなだったか、自分自身面白かったので、あえてのせます。 但し、文中分かりにくい箇所や、不適切な箇所もあったので、若干加筆修正しました。それでも当時の感じはなるべく損なわないようにしました。 * * * 『一つのメルヘン 学生生活四年間の 一番最後の授業は、僕にとって非常に印象深いものであった。
一番最後の時間は小林秀雄(*1)をやるということだったので、僕は勇んで出席したわけなのである。そして、その小林秀雄の題材ももちろん良かったのだが、更に感銘を受けたのは、残った時間に紹介していただいた、吉田秀和氏(*2)のエッセイからのエピソードであった。 N先生は吉田氏の作品の中から「中也(*3)の思い出」というのを紹介してくれた。
話は中也がまだ23歳位の頃---ちなみに今の僕と同じ歳である---、当時高校生だった吉田秀和が、中原中也の家に良く遊びに行った時の話である。
さて中也は、クラシックのある曲をかけるとき、必ずそれに合わせて、日本のある和歌を口ずさむ癖があったそうだ。
そして日本の和歌というのは、次の歌である。 ひさかたの 光のどけき春の日に しづ心なく 花の散るらむ
N先生は、このエッセイの話を一とおり終えた後、恒例により、早速このチャイコフスキーの小品をテープで聞かせてくれた。
僕は黒板に先生が書かれた「ひさかたの・・・」の歌をジッと見つめていたわけだが、曲が鳴り始めると、どうだろう!
僕は例によって教室の一番後ろの席に、うずくまるように座って、黙ってこの感傷にひたっていたのであったが、そのうちに、いつしか不覚にも涙が目ににじんできてしまった。なぜか、いろいろな思いが頭の中を駆け巡ってきて、状況は違えども、きっとこの和歌の作者も今の自分と同じような気持ちだったかもしれない、なんて思ったりした。 今までの学校の授業などでもやってきたはずの、この和歌だったが、その時は棒読みしていただけで、実感として、その歌のニュアンスをとらえられていなかった。
過度に甘いと言われるチャイコフスキーのメロディだが、この時は実に何もかもが適切であって、こうしてこのメロディにのせて和歌を口ずさんでみると、作者の気持ちが手に取れるような気がするのであった。
皆さん、もし金とヒマがあったら、これ、やってみるといい。自分でレコードを探してくるんです。
吉田秀和氏は、中也がもし生きていて、一つだけ許されることがあるとしたならば、もう一度だけ、この歌を歌ってほしい、と結んでいるとのことだった。』 * * * さて、以上が学生時代に書いたものなのですが、サークルが実はクラシックのサークルでもなんでもなく、日本の古典芸能のサークルだったので、この文章は、今読んでもこの文集からは、浮いてるな、という感じです。 ちょっと補足しておくと、この文章を書いた当時、私は青春期にはありがちな失恋と、卒業とは言ってますが、実は学校の留年、というダブルショックに見舞われ、かなり精神的にすさんだ状態にいたようです。 今から考えれば、もう笑い話の領域ですが、それでも一つ言えることは、この頃もそして今も、自分は随分と「音楽」に助けられていたな、ということであります。 (2000.1.24) |
注)
(*1)こばやし‐ひでお【小林秀雄】 文芸評論家。東京生れ。東大卒。自我の解析を軸とした創造的批評の確立者。著「様々なる意匠」「無常といふ事」「本居宣長」など。文化勲章。(1902〜1983) (*2)よしだ・ひでかず【吉田秀和】
(*3)なかはら‐ちゅうや【中原中也】
(*4)エス‐ピー【SP】
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