JR川口駅を降りて、とりあえず東に向かう。鎌倉街道は現在の川口の繁華街よりやや東寄りにあるらしい。
わかりやすく言えば東川口辺りまでは現在の岩槻街道(122号線)と並行していくようなルートを辿っている。
埼玉高速線も岩槻街道に沿うような形で通っていくようである。
感を頼りに適当に歩いていくと、テレビの「鎌倉街道夢紀行」で放映していた岩槻街道の十二月田(しわすだ)の交差点に辿りついた。
この交差点を斜めに北へ入っていく細い道が旧鎌倉街道だそうだ。
入るとすぐ左手に自動車教習所がある。
時を同じくして右手の民家の番犬2匹に吠えられる。
こうした住宅街の散策時においては、不審な人物と誤解される危険を常に孕んでいるのでモテナイ独身エトランゼなど殊に身を引き締めなければいけない。
たまにデジカメを抱えて歩いていると、民家を盗み撮りするストーカーにすら間違えられそうである。
せっかくこちらは割と高尚な目的で歩いているのに一歩間違えればストーカーなのである。ストーカーと旅人は紙一重で常に誤解の危険と隣り合わせの状態にある。
旧道に思いを馳せる流浪の旅人と、パンティー激写のストーカーでは雲泥の差がある。扱われ方も格段の違いである。身を引き締めなければいけない。
* * *
実際確かにこうした住宅地においては、ストーカーに間違われないよういろんな配慮はしている。
まず歩き方である。
歴史に思いを馳せる旅人は、毅然と、そしていかにも学究的、といった風に歩かねばいけない。
時に寺社仏閣に立ち寄り「これが頼朝ゆかりの碑かあ・・・」などと石版を慈しみ愛でつつ、そこはかとない歴史臭を辺りに漂わせていなくてはいけない。
決してヤケクソのイメージや、行き場が無く困って徘徊しているイメージや、肩が下がり裏ぶれたイメージを醸し出してはいけない。「どうせオレには女のパンティしかネエんだよ!」などという切羽詰まったような悲壮感など漂わせるのはもってのほかである。
基本はやはりとにかく「隠れない」ことであろう。
僕など普段はどちらかといえば人から隠れたい人種であるが、散策中に人目を避けるのはなるべく避けたい。人から道を尋ねられたら現地の人間でなくとも明るく答え、時にはこちらから道を聞くくらいの積極姿勢を見せていきたい。公衆便所を利用しないでコンビニで便所を借り、レジのアンチャンに「ドーモ、アリガトッス!!」などと明るく声をかけて顔を売るくらいのノリで行きたいもんである。
次に服装やバッグであるが、旅人はデイパックを持ち運動靴を履くが、この点はストーカーと共通してしまう。運動靴など、いつでも逃げられるように履くのか!などとお叱りを受けそうでもある。かといってデイパックも運動靴も徒歩の散策には非常に便利なので外せない。
そこでストーカーと最低一線を画する為に、顔はなるべく隠さないよう心がけている。
帽子・マスク・サングラスはしないよう心がけている。そして近所の人に呼び止められても、常に笑顔で接することができるよう、顔の筋肉を緩め、人間の歴史・人類愛などの壮大なヴィジョンに思いを馳せつつ歩くよう心がけている。
間違っても、我が家の経済事情や昨今の不況などのように近視的な事象に思いを馳せてはいけない。
僕の場合、電車の中などでは只でさへストーカー顔になってしまっているので、せめて散策時は明るく顔の筋肉を緩めるよう努めている。冬の寒さで顔がこわばり鼻水が無意識に垂れてこようとも、である。
それから所持品であるが、旅人は時にカメラを手にする。これも図らずもストーカーと共通してしまう。
従ってこれをカバーするものを、酒の肴では無いがもう一品くらい追加しなければいけない。
スポーツ紙・競馬紙・風俗雑誌の類いは言わずもがなであるが、地図なども場合によっては危険な時がある。
島崎藤村詩集などもいいかもしれぬが、やはり一番良いのは、歴史書・地方史書・ガイドブックの類いであろう。
僕の場合最近「旧鎌倉街道・探索の旅(上・中・下 芳賀善次郎 さきたま出版)」という格好の書を入手したので、これを片手に歩く。
鎌倉街道辺りであれば、結構同好の士が先陣を切って歩いてくれているだろうと思われるので、この書さへ持っていれば、行く道でネエチャンに気をとられてストーカー呼ばわりされても「ああ、鎌倉街道好きの人ね」と誤解を解いてもらえるかもしれないのである。いわば鎌倉街道の「通行手形」と言っても過言無いくらいなのである。
* * *
さて大分話はそれたが、街道はしばらく左手に流れる芝川の自然堤防らしき1mくらいの高台に沿って通っていた。岩槻街道の自動車の激しい往来とは打って変わって既に舗装され近代化してしまってはいるが静かな住宅街の道が続く。
途中薬林寺という寺があり「鎌倉街道夢紀行」によれば、その昔江戸時代に将軍がこの辺りの娘を見初めてしまったので、それを避ける為に帰りは別な道を通り、それが日光御成街道になっているという逸話があるそうである。
先程までストーカーを忌避したような物言いで文を書いたが、かように将軍ともあろうものが旅の道行きにおいて女性にウツツを抜かしてしまっていたのであるから、ストーカーばかりが責められるものでは無いのかもしれない。古より男の性は変わらないようである。かくいう僕だって道すがらのオネエチャンに目を奪われていない、とは決して言えない。
その後途中鳩ヶ谷市に入った緑町というところで江戸時代の庚申塔が残っていた。
「鎌倉街道夢紀行」ではここから西にルートを辿っていったのであるが、僕は真っ直ぐの道が行けそうで惹かれるものがあったので、鎌倉街道では無かったらしいが、そのまま真っ直ぐ行くことにした。
しばらくして汐入橋という橋で新芝川を渡る。
その先商店街らしきところで道が途切れてしまう。その商店街はどうやら鳩ヶ谷市街から続いていた道らしい。
構わず適当に歩くと、再び「鎌倉街道夢紀行」で放映していた用水路沿いの道に出ることができた。
この辺は川の流れで街道筋がしばし変わったので、道跡がいろいろできて複雑になったらしい。
岩槻街道と再び交わる所まで来た。
行く先に鳩ヶ谷台地が見える。この辺りは随分工事中の箇所を見かけたが、埼玉高速線がらみの工事であろうか?鳩ヶ谷には鉄道が無く、僕のように東京に居をおく者はアクセスが不便である。鉄道ができるとかなり便利になるが、同時に昔の景観がその分失われてしまうのは、やはりちょっぴり残念に思う。
台地の麓には見沼代用水が通っている。その先の坂を一気に登っていくと鳩ヶ谷の商店街に出た。
この通りは鎌倉街道というよりは日光御成街道として栄えた街であろう。僕の大好きな地方商店街の風情がある。
ところでこの辺は台地地形であるが、台地地形というのは結構多様な様相を見せるので面白い。
最初僕が上京して東京の地形で意外だったのが、この台地状地形が多いことである。
ここ鳩ヶ谷市街も台地で有り、今回僕は初めて訪れたが、こんな場所があったんだなあ、と感慨深いものがあった。
近くに法性寺や、街の北側に地蔵院などの寺が有り、この辺の風情に趣を与えている。
鉄道が無いことで、もしかしたら近代化のエアポケットになり残された街並みだったのかな?とも思えた。
旧鎌倉街道は商店街の裏通りのような感じで通っている。
見晴らしの良い場所もあり、西に街が見下ろせ、遠くには夕暮れの富士の影も見える。
こういう場所が結構近くにあったんだ、とつくづく思うのであった。
* * *
5時になり暗くなってきてしまったので帰ることにするが、帰りはせっかくなので、鎌倉街道に名残を残す意味で、この先街道が経由する東川口までバスで出ることにした。
鳩ヶ谷にはバスターミナルがある。
赤羽や川口行きはかなり便があるようであるが東川口行きのバスは本数が少ない。
バスの時刻を確認していると、一人の老婆がやってきて僕の前に入り、やはり時間を確認し始めた。
僕の方は向かないが、ハッキリと僕に聞こえる声で「今5時かー、もうないね、次は40分かーだいぶあるねー・・・」などと言っている。
我々が立って位置しているバス停はターミナルの真ん中にあり、少なくとも半径10m以内には誰も人はいない。
老婆は誰に話しかけているのだろうか?いや、この状況下まず間違いなく僕しかいないのだから、後ろに立っている僕なのであろう。しかし僕はどう答えたらいいのか、相槌を打てばいいのか?それとも単に変なオバサンなのか?
どうしたものかと考えあぐね次第に不安になってきてしまったが、程なく老婆が猫を見つけ、そちらに立ち去ったので、ドッと肩の荷が下りる。
僕もバスまでには時間があったので、食料でも買っておこうとコンビニ目指し商店街へ戻る。
10分前くらいにターミナルへ戻り、待合所で買ってきたパンを食べて待つことにした。
人間は僕しかいない。
パンを食べていると、先程老婆と戯れていた白黒の野良猫がニャーといいながら待合所に入ってきた。
僕はこういう場合、相手をしてやるのがあまり得意では無いが、たぶん腹を空かせているのだろうと思い、パンを少し分けてやった。全部食べ切ったので、僕の「空腹であった」という予想は大方当たっていたのだろう。
僕が食べ終わっても、まだミャーと言っていたので、バッグを開け「も、無いんだよね」と言ってあげる。
猫はしばらく待合所に居たが、程なく去って行った。
老婆といい猫といい、僕はどう対応したものか考えあぐねてしまったが、旅人たるもの、こんなことで怖じ気づいてるようじゃまだ旅人として未熟だな、などと思う。旅人たるもの人にも動物にももっと積極的に触れ合っていくべきかもな、とも思う。
やがて東川口行きのバスが来た。
僕の他には女性ばかり3人乗っている。まずまずの状況である。
もう辺りは夜になって、景色は確認できないようになっていた。
次は鳩ヶ谷からだな・・・。
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