Monologue44 (2000.11.11〜2000.11.20)

「2000.11.20(月)」・〜を知らない子供たち

 昔「戦争を知らない子供たち」という歌があり僕は、オレ達もまさにそうなんだな、などと思って聴いていた。
 あれから年月が過ぎた。

 今は戦争どころか僕らの頃でも当たり前だったようなものも知らない子供たちがドンドン生まれて来ている。
 「アポロを知らない子供たち〜」
 「万博を知らない子供たち〜」
 「白黒テレビを知らない子供たち〜」
 「ビートルズを知らない子供たち〜」
 「ON(王・長嶋)を知らない子供たち〜」
 「田中角栄を知らない子供たち〜」
 などなど・・・。

 でもこれらの「〜を知らない子供たち」が生まれてきたって驚くことは何も無いのである。
 これらは時間的な経過による必然的な動かし難い事実なのである。
 それに何と言ったって僕自身だって上記のことをそんなに良く知っているのか?と問われれば返答に窮してしまう、その程度なのである。

 もっと歴史を遡ぼっていけば
 「関東大震災を知らない子供たち〜」
 「黒船を知らない子供たち〜」
 「江戸幕府を知らない子供たち〜」
 「信長を知らない子供たち〜」
 「元寇を知らない子供たち〜」
 「大化の改新を知らない子供たち〜」
 1193年頃に生まれた子供たちは「平安時代を知らない子供たち〜」
 などなど・・・その時代時代の歴史的大事件を知らない子供たちが、今までどれだけ沢山生まれてきたことであろう。

 これからも「〜を知らない子供たち」はドンドン出て来ることだし、また歴史的な出来事も起きてゆくのだろう。
 諸行は無常なのである。

 だから僕としては、もし自分が歴史的な出来事に立ち会えたのなら、なぜその時代に生まれたかという意味をジックリ考えてみたい。
 そのことがひいては後の人達への遺産になるのだとすれば。

「2000.11.19(日)」・クラスに何人

 大人になってから、物事をちょっと妙な数学的割合的な把握してしまうクセがついてしまった。
 これは良いことか悪いことかはわからないが、僕にとっては諸諸の現象を把握しやすいことなのでそうしている。

 僕はこれを称して「クラスに何人法」と呼んでいる。

 例えば失業率が4%という数字がある。
 かつて僕が少年時代、学校のクラスは1クラス40人くらいであった。
 40人の4%だと、1.6人、まあ多めに見て2人になる。
 そうして、僕は昔のクラスメートの顔を勝手に思い出し、「えーと、2人だから、男女一人づつとしてこの人とこの人が失業かあ・・・、うん、まだ大丈夫。これがクラスの半分失業だと困る。」などと勝手に推測する。もちろん実際そう単純な問題では無いことはわかっているが。
 30代の結婚率が仮に60%だとすると、クラスで24人、男女あるから、男だと12〜14人くらい、まあ妥当かな・・・などと勝手に思う。
 視聴率20%だと、クラスで8人が見ているということになる。これは多いのか少ないのかは良くわからない。そんなもんかという気もしないでも無い。ドリフターズの往年のバラエティ「8時だよ全員集合」などは「クラスで何人法的視聴率」は80%くらいいっていたような気もしないでもない。

 いろいろゴチャゴチャ言っているが、要するに「クラスで何人がそうか、誰がそうか」などという風に考えるとイメージがしやすいということなのである。

 まあ、ただそれだけのことで、だからといって別にどうっていうわけでもないが。

「2000.11.18(土)」・ツボ

 見るとついつい笑ってしまうのが、同じ側の手と足を一緒に動かして歩いている人である。
 古くは小学校の運動会や朝礼の入場行進などで・・・、最近では公の場で緊張してしまっている人が思わずやってしまったり・・・。
 この動作は僕にとっては必ずハマル笑いのツボみたいもんで、永遠の笑いの原点みたいもんである(大げさな・・・)。
 それにしても、なんでオカンシイんだろう?
 何がオカシいんだろう?
 それがとっても不思議である。
 冷静に考えると、左手と左足を一緒に前に出して歩いたところで誰に迷惑がかかるわけでも無し、ましてやそれで世界が滅亡してしまうなどということも、よもや無かろうし(あったりしてね)、歩いている人はいたって真面目にやってるのだろうし、笑っていいものなのか?と考えてしまう。
 なのにやっぱりオカシイ。
 なんでオカシイかは結局さっぱりわからないが、今のところわかっているのは、世の中には笑えるものと笑えないものの二つの区分けができるということだけである。

 余談であるが僕には他にもツボがあって、例えば「欽ちゃん(萩本欽一)の真似」なんかもまさに笑えるツボである。
 小堺一機氏などの「欽ちゃんファミリー」と称する方達が良くやってる、欽ちゃんのしゃべり方の真似である。
 元ジャイアンツの方達がやる、長嶋監督のシャベリの真似みたいもんである。
 あの「欽ちゃんシャベリ」は、どういうわけか笑ってしまう。
 何かお笑いさんが失敗をしでかした時などにすかさず出る、まるで子供を冷たくあしらうかのような「そこ詰まっちゃダメー」「引かせちゃダメー」、などと「〜ダメー」の連射攻撃。
 これを聞くと、なぜかプッと吹き出してしまう。

「2000.11.17(金)」・今?が人気・・・

 何気なく新聞広告を眺めていたら「今ウンコが40代50代60代の女性に人気」という、絶句もののフレーズが僕の目に飛び込んできた。

 近年日本では女性の躍進が著しく女性が自らを解放し、性的なものに関しても割と自由に自分の意見を主張するような傾向が強くなってきた。
 そんな折りなんと!ついに女性が排泄物への興味を、これ程まであからさまに示すようになったのかあ!・・・女も人目を憚らず己をスカトロマニアだと標榜するような時代がついにやってきたのだなあ・・・などと僕は妙に感心していたのであるが、もう一度よーくその広告を見ると実際には、こう書かれていた。
「今ウコンが40代50代60代の女性に人気」。

 ふうー。
 確かに「40代50代60代」ってのが、なんかおかしいとは思ったんだよな・・・。
 やれやれ、独身生活が長いから僕は知らず知らずの内に欲求不満気味になってしまっていたんですかな・・・?。

「2000.11.13(月)」・ふらっと行ってみればそこは

 念願の埼玉新都心にある「ジョンレノンミュージアム」へ行く。
 詳細はまた別途REPORTコーナーの方に掲載予定。

 帰りは家とは逆方向の列車に乗り(高崎線)ふらっと上尾(埼玉県上尾市)まで行ってみる。
 なぜ上尾か?というと、学生時代に(正確に言うと留年時代に。)上尾で進学塾の講師のバイトなんぞをしていたことがあり、しばらく訪れていなかった、その想い出の地、上尾に行ってみようということになったわけである。
 少なくとも14年は行っていなかった。

 駅から程なく行った曲がり角を曲がった所にある、進学塾の前を通ってみた。
 ・・・なんとそこにはあったのは塾では無く、携帯電話の販売店だった。
 ・・・予想はしていたけど、そうだよな・・・、もうだいぶ経ってるもんね・・・。
 これでまた一つメモリアルアイテムは封印された。

「2000.11.11(土)」・プチCDレビュー2枚

 13日発売と思っていたビートルズのベストが今日もう店頭に出ていた。買おうかどうか迷うが、さすがに音源的には皆知っているものなので、結局購入は見送り。

 変わりというわけでは無いが、日本の男性兄弟デュオ、キリンジの3rdアルバム「KIRINJI・3」を入手。
 今回のは先行発売のシングル曲が沢山入っていて、そのせいもあるかかなりの充実度。
 キリンジはサウンド的には古き良き70年代風を再現していて、詩もヒネリがあって、今のどちらかというとティーンエイジ中心の市場に溢れる歌では満たされない僕らの好奇心を満たしてくれる。ちょうど僕ら微妙な大人の30代世代が聴いて、ちょうどいい具合にシッポリできて、ちょっぴり刺激的なミドルレインジポップという感じ。

 今までカセットにダビングしたテープしか無くCDで是非聴きたいと思っている名盤シリーズの内、大貫妙子の往年の名盤「Cliche」も今回ようやく入手。
 坂本龍一氏は今や日本では押しも押されぬアーチストであるが、この大貫作品のいくつかで見られるアレンジで成し得た業績についても、僕はかなり高く評価したい。
 特にこのアルバムの「色彩都市」や「ピーターラビットとわたし」を聴いて、大貫氏のサウンドクリエイトとメルヘンチックな詩の才能、そして当時1980年代前半において、今ではそうものめずらしくも聞こえ無くなったが、”日本人がこんなサウンドを創り出せるんだ”と僕に思わしめた坂本氏の日本人離れしたアレンジと大貫氏のポップ感覚の見事な融合に感嘆したものだった。

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