Monologue43 (2000.11.6〜2000.11.10)

「2000.11.10(金)」・ある意味確かに浴びた

 バラエティ番組などで、アイドルスターやお笑いの人気者などが登場すると、「キャー!」と女の子達の歓声があがるシーンを良く見かける。
 僕も見ていてつくづく羨ましいもんだと思っていた。
 オレも女性の悲鳴にも近い歓声を全身に浴びてみたいもんだ、とつくづく思っていた。
 でもそんな機会なんて、そう滅多にはネエだろうなとも思っていた。

 ところがなんと意外にも昨日、その切なる願いは、ある意味叶えられてしまった。

   *   *   *

 銀行で金を下ろした後、いつものように自転車で帰途についた。
 銀行の横には中学校が有り、その中学校沿いにはガードレールのついた細い歩道が通っており、帰途はそこをタラタラと通っていく。
 そして銀行と中学校の境には細い小路があり、歩道にT字の形で出て来るようになっていた。。

 僕がタラタラと、その小路の出口に差しかかった途端、右側、つまりその小路から突然5、6人の女性の集団がヌッと現れてきた。

 何しろ狭い歩道なので僕は避けきれず、その女性集団の先頭にいた婦人に衝突してしまった。
 僕が突っ込んだというよりは、正確には彼女達が突っ込んできた感じであった。

 「ギャーッ!!」
 その女性集団全員の悲鳴が辺りにこだました。
 たちまち僕は女性達の喚声に包まれることとなった。
 女性達の悲鳴にも近い歓声、いや、悲鳴そのものに包まれることとなった。

 こうして図らずも僕は、こんな家に近い場所で本懐を遂げることができてしまった・・・。

 欲を言うなら彼女達が40代位の中年婦人達(小路は銀行の通用門に通じていたらしく、どうやらそこの女子行員らしかった)だったので、もう少し若い女性であればもっと良かったかもしれない。まあ「熟女達の喚声を浴びた」と言えば、少し良く聞こえるかもしれない。

 念のため補足しておくが、衝突の際先頭の婦人が咄嗟に僕の自転車を手で押さえてくれていたおかげで、お互いに大事に至らずに済んだ。自転車の速度もほとんど歩行に近いものだったので、それも一助となった。

 僕ももちろん謝罪したが、婦人達も自分達が前を確認せず飛び出てきたから悪かった、大丈夫ですか?と僕をいたわるように謝罪してくれた。
 なぜか婦人達が急に美しい女神達に見えてきた。

 結果として形はアイドルや人気者と全然次元を異にするが、こういう喚声の浴び方も、時に有りかもな、と自らを納得させている今日この頃であった。

「2000.11.9(木)」・違う動機で

「お前の部屋、本当いつも汚ねえよな。あの昔いた誘拐犯の宮崎勤だっけ?あいつの部屋にそっくりだね。女も呼べねえだろ、これじゃあ。」
「いいんすよ。もうあきらめてますし。宮崎って同じ情けない昭和37年組だし・・・」
「さっびしいねえ!ま、女はいいとしてもさあ、掃除ぐらいしろよな、たまにはよ。やってんの?掃除?」
「う〜ん。あっ、そうそう、この間ちょっと本の整理したんすよ。」
「だけ?」
「だけ(笑)。でも結構、それだけでも気持ちがこう、なんか前向きになるっつうか・・・」
「女でもつくるか(笑)みたいな」
「AVもそろそろ捨てるか!みたいな(笑)。で、なんで僕が掃除に関しちゃあ小錦よりも思いかっつうくらいのラヴリーな腰を持ちあげて、ちょこっと、その整理したかってえとですね・・・」
「女か?!」
「女だったら、AV捨ててます(笑)。僕、また今度確定申告あるんすよ。」
「ああ、はいはい。」
「今回また全然何もしてないんすよね。で、ギリギリで慌てるのも恐いんで、この間ようやく、たまった伝票とかを広げて、さあ記帳でもするべかと、ま、こう思ったわけッス。」
「面倒くさそうだな。」
「確かに。それでそのままの状態で固まっちゃいまして。」
「やる気一気に喪失ってやつね。」
「伝票とにらめっこするだけの時間が、ゆっくりと過ぎ去っていくわけですよ。」
「まったりとした時間がな(笑)。」
「確かに。で、結局気がちっちゃって、テレビにモーニング娘が出ると見ちゃあ、優香が出ると見ちゃあしてるわけですよ。」
「全然進展がないな。まったく。」
「確かに。で、人間何かやらなくちゃいけないことがあると、そうゆう時に限って・・・」
「いつもは、微塵もやったこともないようなことをやりだしたくなる、と。」
「その通り。」
「それが本の整理、というわけね。」

「2000.11.8(水)」・怒り

 最近のマイブームは「怒り」である。
 なんじゃそりゃ?と思われる方も多かろう。

 「怒り」とは僕にとっては何とも不可思議なものに思える。
 時に自らを破滅に導くかと思えば、創造のエネルギーや物事の推進のエネルギーに変化する場合もある。
 ともすれば制御不能にもなる強大なパワー「怒り」。
 
 いつもは笑いに焦点を当てているが、今日はあえて「怒り」に焦点を当ててみたい。
 今日のところはとりあえず「問題を引き起こす力」としての「怒り」の方を考えてみる。
 なんか教育番組みたいになってきましたな。

  *   *   *

 僕は以前コンピューターシステムの開発をしていたが、そこで感じたことは、どんな複雑な問題も納得の行く原因があり、つきつめていくと単純な原因が発端になっている、ということである。
 複雑になるのは、問題が問題を呼び大きくなり悪循環を起こしているため、ということである。

 そこで問題の原因の一つと考えたのが「怒り」である。
 今いろんな少年犯罪などが話題になっているが、皆根底に何かに対する怒りがあるように思える。それは激しい怒りであったり、静かな怒りであったりする。
 それから原因不明の病気なども抑圧された怒りが引き起こしているケースがあるように思える。
 僕自身もいつも何かに、それも細かいこと、例えば虫や電車での対人接触などにイライラし、これはもしかしたら「怒り」を潜在的に持っているからなのではなかろうか、と感じてきた。

 怒りは怒りを呼び起こすので、表面的な怒りが事件や病気を引き起こしたりしている可能性はあると思うが、その発端となったもっと潜在的な根本的な怒りが存在しているのでは無いか?。
 それは昔誰かに虐待された怒り、置き去りにされた怒り、裏切られた怒り、無視され非人間的な扱いをされた怒り、何かを妨害された怒り・・・等など、心の奥深くにしまわれている怒りである。
 その一番下に潜んでいる根本的な怒りが何だったのか?
 それが明らかになって、その怒りから自分が解放されない限り、悪循環というのは停止せず、また怒りが怒りを呼び起こしていくのではなかろうか。
 怒りを断ち切るには、根本の怒りの原因を知ることが必要なのではなかろうか。

 根本的なミスを発見することをコンピューター的に言うと「バグ(虫の意)を発見する」という風に言う。
 バグは意外に単純なミスだったりする時がある。
 たった一文のセンテンスミスや、時には一字のスペルミスだったりする。
 それが巡り巡ってシステム全体の停止を引き起こす。
 バグが見つかれば、それに対応する適切な解決方法もすぐ見つかる。
 逆にバグが見つからないと、対応に多大な体力をかけるばかりとなる。
 
 但しバグは小さい。とても小さい。小さくてどこかにヒッソリと隠れている。
 だから大きなシステムでそれを見つけ出すのは至難の技である。

 人間の心も果てしなく広大で複雑である。
 機械のように単純なことでは片づかない。
 しかしバグ自体は、特定の誰かという存在であったり、あの日の誰かの一言だったり、あの日の事件だったり、そうした「具体的な形」をしたものである可能性はあるのである。

 根本の怒りが明らかにならず、それからの解放がなされないうちは、いくら命が大切だとか、生きることは大事だとか言って聞かせても、何も進展していかないように思えてきた。
 法律の改正や本人への道徳的説得は、コンピューター的に言うと事後のリカバリー処理のようなもんで、バグの発見では無い。リカバリーをいくら行っても、またリカバリーの必要が生じるだけで根本的な解決にはならない。

  *   *   *

 僕自身は怒りを抑圧してしまうようなタイプなので、そうなるとそれは問題に問題を上かぶせしていくだけであり、根本の怒りはドンドン無意識の底に沈んで行ってしまう。
 これは自分の身体を蝕むような方向に行き非常に良く無い。
 
 怒りが沸き上がるのは未熟な人間として仕方ないことだから、それをどうするかということだが、今まで僕はヒタスラそれを抑圧してきた。
 しかしジョンレノンの歌を聴いていて「怒りを表現」してもいいんだ、ということに思い当たった。
 ジョンは、幼い頃の両親への怒りを「ジョンの魂」というアルバムで表現した。
 そういえばピカソだって戦争への怒りを表現しているでは無いか。
 コンピューターでも、バグ発見の早道は「悪い結果を一旦吐き出(出力)してみる」ことである。そこから根本まで原因を辿っていく。

 怒りを表現するからといって、それを他人にブチマケて迷惑をかけるというのは、また新たな問題を引き起こすだけで、せっかくの流れを逆行させる恐れがあり避けたい。
 「怒りを表現」してみるというのは自分自身に、自分が何に怒っているか自分にわからせるために表現するということである。
 怒りが生まれたら、それを文章でも絵に描くなりしてみるのもよかろう。
 カラオケボックスなどで、思いっきり怒りを大声に出して叫んでみるというのでも良かろう。
 パソコンに怒りの記録を打ち込むのもよかろう。
 そして自分が何に怒っているのか、どんな時に怒るのかを、自分にハッキリ自覚させる。

 そしてそこから「深奥の怒り」を探って辿っていく。
 怒りは怒りを呼んでいるので、根本では無く代替の怒りに行き当たったとしても、まだ甘い。
 そこは自分に正直に、金の斧でも無い、銀の斧でも無い、てな感じで「本当にそれか?」と、怒りの糸を手繰り寄せていく。

   *   *   *

 そんなことをしていると、いろんな想像も浮かんで来る・・・。
 ・・・独身に甘んじて結婚を諦めている一人の男。
 彼は、前世で何があったか知らぬが誰かに無理やり二人の仲を邪魔され引き裂かれ、その時の怒りが、逆に「じゃあもうオレは一人で生きていくよ!、もう一人でいいんだよー!」などという強烈な諦観的後退的な想念を形作った。そしてそれが現世では二度と結婚などしない、などという思いにつながっている・・・のだろうか?・・・、なーーーんてなことを・・・。
 (ここの部分はあくまでも想像でフィクションですよー、筆者の私生活とオーバーラップさせないように)。

 ともかく自分のバグが何であるのか、その「心のバグの発見」が問題解決の鍵を握るのではないか。
 それで「怒りの表現」について興味が沸き、今「怒り」がマイブームということになっている、というわけである。
 日本人のルーツも知りたいが、「怒り」のルーツも知りたい。
 そんな「抑圧された怒り」のような自分のダークサイド的な部分に、しばらくスポットを当ててみようかなと思う今日この頃である。

「2000.11.6(月)」・事実だけ教えて

 藤村新一氏の石器発掘のねつ造事件では僕も正直ガッカリした。
 専門家のやることなので、こちらは信頼をおいているが、やはり人間で、完全ということはあり得ないのだなと思った。

 皆でよってたかって責め立てるのは、なんか可哀想な気もするが、とにかく結果として事実を僕らには知らせてほしいものである。
 例え鑑定の結果が我々を驚嘆させるまでに至らないようなものであっても、とにかく事実を教えてほしい。
 責任問題とかは僕らには関係ないことなので、とにかく真実を教えてほしい。
 怒らないから事実だけを伝えてほしいものである。ま、こんなところで言ってもどうにもならんが。

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