Monologue37 (2000.9.27〜2000.9.30)

「2000.9.30(土)」・かなり無理

 部外者というものは時に勝手に、あること無いこといい加減な下らないことを考えたりするもんである。
 モテナイ青年独身者(僕のこと)も、その例に洩れない。

 シドニーオリンピックの女子走り幅跳び金メダリストの方の名前は「ハイケ・ドイテ・ドレクスラー」さんだそうである。
 この方、苦難・逆境を乗り越え金メダルを手にしたそうで、それは思い入れは強かったようである。

 ところで日本人的に言わせてもらうと、この方の名前の「ハイケ・ドイテ」という部分、いかにも走り幅跳びに向いていそうな名前とも思える。
 この方が走り幅跳びを開始するや否や、回りの人がビックリして、みんなサササと水が引くように道を開けてくれる、そんな気がする。
 日本人的にもこの方は走り幅跳びをする為に生まれてきたと言っても過言無かろう。

 これを逆手に取り、日本人もまず名前から強そうに見せていく、というのも一つの手であろう。
 バスケだったら「振井須弄・花子」とか、シンクロだったら「美奈静目・花子」とか(なんでどれも花子なんだよ)、サッカーだったら「日池場地理・花子」とかね。
 かなり無理あるね。

「2000.9.29(金)」・10.0

 今シドニーオリンピックをやっているが、選手の方達はワールドレベルの基準の演技・競技を行っている。
 ワールドレベルで精一杯の健闘をなさっている。

 ところでモテ具合にもワールドレベルがあると思われる。
 おそらくワールドレベルにモテテいる方は、何千という側室をはべらせたり、全世界の人に愛されているアイドルの方達のように選り取り見取りにモテテいるというのがあるであろう。
 そういう方達はオリンピッククラスの世界で精一杯の健闘をなさっている。

 一方モテナイ独身男性(僕のこと)のモテ基準というのも一応ある。
 ワールドレベルには遥か及ばぬが、井の中の蛙レベル程度のものならばある。

 電車などで視線が合った、などという微細な現象も、モテタ範疇に入ってくる。モテナイ独身男性の井の中の蛙レベルは十分クリアできることとなる。

 ゆえに「女性に声をかけられた」なんてことになると、モテナイ独身男性の井の中の蛙レベルでは9.9すら叩き出すことになりかねない。もう大変な騒ぎである。

 とある美術館に行った際に観覧を終え、出口から出ようとした際に、一人の女性がいて視線が合った。
 この時点でモテナイ独身男性の井の中の蛙レベルでは既に9.5くらいはいっていた。
 
 その女性はアンケート用紙のようなものを持っていたので、ふと「勧誘」?との思いがよぎった。
 この時点でモテナイ独身男性の井の中の蛙レベルでは5.5くらいに得点が減点された。

 そして次の瞬間、期待通りに呼び止められた。

 ちょっと話を聞いてみると、今見た展示の感想を聞きたいとのことなので、特に怪しくはなさそうである。
 この時点で、モテナイ独身男性の井の中の蛙レベルではまた7.5くらいに得点が戻った。
 このように良くわからぬ条件で上がったり下がったり変動が激しく不安定なのも、モテナイ独身男性の井の中の蛙レベルの特徴でもある。

 その女性を良く見てみるとヘアースタイルがショートカットであった。
 しかも結構カワイクて割とタイプであった。
 この時点でモテナイ独身男性の井の中の蛙レベルでは一気に9.5くらいに得点が引き上げられた。
 
 更に少し話をしたら、結構感じが良い。
 この時点で、モテナイ独身男性の井の中の蛙レベルではついに10.0、10点満点になった。

 僕の発言をテープに録音しているようなので、10.0の勢いにまかせて僕もあること無いこと出まかせとも思えそうな位に饒舌にしゃべった。

 こうして僕とその女性との至福の時が流れていたが、程なく修学旅行風のガキどもが大挙して出てきたので、彼女も次の仕事に取り組まなければいけなくなり、至福の時はガキどもに押し流されるように消えていった。

 このようなほんの数分の女性との会話だけでもモテナイ独身男性の井の中の蛙レベルでは10.0、すなわち金メダルを獲得できるだろうことは、モテナイ独身男性諸君なら十分ご理解いただけることと思われる。
 ワールドレベルでは屁にもならぬような低レベルだが、モテナイ独身男性の井の中の蛙レベルでは栄光の金メダルと言っても過言なかろう。

 このように日記にでも書いておかなければ、モテナイ独身男性のモテ歴の履歴はドンドン風化して全くモテなかったことになってしまいかねない。

「2000.9.28(木)」・目をつぶれば簡単

 ビートルズの名曲「ストロベリーフィルズフォーエヴァー」という曲の一節に「Living is easy with eyes closed」という歌詞がある。
 中学時代は全くピンとこなかったこの一節が、最近はビンビンとくるようになった。

 昔は、はびこる誤解に目をつぶれば楽だというような単なる逃避的な意味でしか捕らえられなかったけど、今はもう少し突っ込んだ見方をするようになった。

 身近な例で言えば、今テレビではシドニーオリンピックが行われ盛り上がっているが、テレビを全く見ない人、テレビの無い人には全く関係ない出来事だし、それでもその人達の人生はそれはそれで動いていくのである。
 世の中には事件や問題もいろいろあるが、それを知らない人達にとっては別世界の出来事だし、それに関ろうとかかわるまいと、その人達の人生は動いていく。

 自分に関してだって、昔は興味を持っていた出来事・人・いろんなものに関心を向けなくなっても、それはそれで自分の人生は動いていくし、その出来事だって動いていく。
 知らなくちゃいけないようなことを知らなくたって、結局その人の人生は動いている。

 自分が目を開こうがつぶろうが、世界は止まらずに回って動いているのである。

 自分の目から入ってくる出来事に対して、反応するのは自分であり、その出来事自体に良いも悪いも無いのだろう。大事なのは自分の受け止め方である。
 きっと受け止め方には良い悪いがあって、それが人生の差になっていくのだろう。
 良く見える出来事だって受け止め方が悪ければ徒になるし、悪く見える出来事だって受け止め方が良ければ大切な経験になる。

 そして更に自分が目をつぶった時に、それでも聞こえてくる声、それでも肩を叩いてくる手、それから沸き上がる自分の想い、それだけに集中していれば、人生は随分とシンプルでわかりやすいものになるのでは無いかと、そんなことなんじゃないのかと最近思うようになった。

 今まで自分は随分と散漫に無防備に目を開いていただけだったという気がする。死んだような目をしていたかもしれない。
 それぞれの人生、自分が何に集中すればいいのか?、たまには目を閉じて考えてみようという気になった。

 もちろんこれは、一つの考え方に過ぎないし、拡大解釈かもしれない。
 でもジョンに歌われると、いずれにしろすごく心に響き納得してしまう。

「2000.9.27(水)」・カッコイイ老人

 これから老齢化社会の傾向が激しくなるにつれ、老人はどうあるべきか理想の老人像について、いささか早すぎるような感も無きにしも非ずだが、イメージを考えるようになった。

 以前今は亡きジャズヴァイオリニストのステファングラッペリが晩年近くにテレビ出演した時の演奏を見て大変魅了されたことがあった。
 姿格好はもう本当にヨボヨボのオジイチャンなのに、手の動きはもう年代云々を超越したような滑らかな動きで、そこから繰り出される音は、名人芸の名にふさわしい華麗で素敵な響きだった。こんなジイチャンのどこからこの音が出てくるのだろう、と思った。
 僕は、これが老練というものなのだと感心した。
 と同時に、この音はもうステファングラッペリという肉体を通じて神か何かが奏でているのだとさえ思った。
 老練ということは、神の仕業に人間が近づいていることなんだと。

 こんな老人なら僕もなりたいと思う。
 実際音楽家や芸術家には理想的な老人が多い。
 その他に僕が理想の老人としたいのは葛飾北斎やピカソ、リストなんかがいる。
 それからスターウォーズのヨーダ、オビワン・ケノービ、あ、こりゃ架空の人物か。
 ともあれできれば上記のようなカッコイイ老人になりたい。

back to ●Monologue Index

back to●others

back to the top