Monologue35 (2000.9.9〜2000.9.15)

「2000.9.15(金)」・何もしてない

 昆虫というのは僕にはどうも不可解なことをしている連中に映る。

 ある日便所に入って便器に腰かけ、ふと足元を見ると、黒い小〜さなムカデの幼虫か何か知らぬが黒い虫が、床にへばり付いていた。
 彼はジッとしたままで、ちっとも動こうとする気配は無かった。
 まあ危害は無さそうなので、虫だけに無視いたしました(お後がよろしいようで)。

 彼はどうやら一日中ずっとそこにへばりついていたようだった。

 翌日また便所に入って便器に腰かけ、ふと足元を見ると、なんと!昨日と全く同じ位置に、まだ彼がいたのである。
 死んじまったのかと、ちょっと手で煽って見たら動いたので生きてはいるようであった。
 「オッ、オイ!、同じ位置カヨ!」

 彼に限らず、よく蛾の類い等が天井にへばりついていて、次の日も全く同じ位置にいる、なんてのを見かける時がある。
 僕から言わせてもらえば、健康な状態において、ある一点から24時間以上動かず何もしないで制止したままでいるなんて作業は、完全な自己滅却、頑強な精神力・忍耐力等の、ほとんどヨガの達人や釈迦如来等の超人的境地を要する作業である(ま、虫だから超人でいいのか)。
 ぶっちゃけて言えば、ほとんど不可能であり、できたとしてもたぶん、そ〜と〜(相当。モー娘風に)疲れる。

 僕には彼らが何を考えているのか?何をしようとしているのか?何がしたいのか?、全く理解できない・・・。

 あっ!そうか!
 何もしてないんだ・・・(お後がよろしいようで)。

「2000.9.14(木)」・今なぜか北斎

 今年の連休に津和野に行った際、北斎美術館に行ったのであるが、以来葛飾北斎にちょっと興味が出てきた。

 興味が出てきた理由としては、まず江戸時代という時代においても、生き方がとても自由だったというイメージがあることと、老人になってからも精力的に活動を行っていたことである。

 人間たるもの、やはり老いても疲れてしまわず、カッコイイ生き方を示していければと思っているが、その一人の目標みたいな人物として北斎は魅力的に映る。

 あと個人的なことを言うと、小学生の時に切手収集に凝った時期があったが、その時初めて買ってもらった切手が、今思えば北斎の「神奈川沖波裏」の図案のものだったということにもよっている。

「2000.9.10(日)」・笑いの力

 またバスの中の話で恐縮であるが、昨日僕は例によって、とある路線バスの最後部座席に座っていた。
 割と混雑していて座席はほぼ満席、バスの前方部には何人か立っている人がいる。

 そんな中、途上突然バスの前方部で、ドッとドヨメキが起った。
 ナンダナンダ?と思ってそのドヨメキの方に視線を向けると、そこには3人ほどの立っているオバチャンが、ヒャッヒャッと何やら大声で談笑している姿があり、そのすぐ脇にはプラスティック製の物干し竿のように見える長いパイプ状の棒を、杖のように真っ直ぐ立てて持ち、さながら水戸黄門のように、しかしながら固まったように静かに座っている老人の姿があった。

 オバチャン連中は大声で何かしゃべっていたが、後ろにまで聞こえてくるので、その内容を聞いてみるとこんなようなことであった。

 オバチャン連中の中の一人が、先の老人のすぐ横に立って位置していた。
 そのオバチャンはバスの中の柱状の手すりにつかまったと自分で思っていたらしいが、突然それが異常な動きをしたのでビックリし良く見たら、どうやらそれは先の老人のパイプであった、というようなことらしい。
 確かに遠巻きに見るとパイプの色がグレーなので、目の悪い人だったら、もしかしたら間違えそうな感じでもある。

 老人はオバチャン達が、照れ隠しか何かで大声でしゃべくっているのとは、対照的にムッツリと固まって座っていた。ボケてしまっているのか、怒っているのか、どうリアクションしたら良いのかわからず固まっているのか、後部座席の僕からはハッキリした様子はわからない。只オバチャンを相手にしている様子は全く無い。

 思わぬオバチャンの天然ボケに車内にドッと笑いが起った、ということなのである。

 僕も苦笑しつつこれを眺めていたが、今日の話の核心は別なところにある。

 実はその時、僕の隣には例によって(?)オヤジが座っていて、東京の旅の同席者には美しい女性をと、常日頃乞い願っている僕の不快指数は、若干高い数値をはじき出していた。

 ところが先のオバチャンの一件で、苦笑しつつ僕がふと隣のオヤジに意識を向けた時、そのオヤジも心なしか身体が揺れたように見え、クスクスと笑っているかのように見えた。
 あれ?このオヤジも笑ってるぞ・・・
 そう思った瞬間、僕の中にもちょっとその笑いが伝染してきた。

 僕は、こりゃ顔に笑いが出てしまいそうでマズイマズイと思い、急いで車窓に視線を戻したのであるが、その時いつしか僕の不快指数が下がっているのに気づいた。僕の中でオヤジの波長と同調した波長が芽生えていた。
 簡単に言うと、オヤジとの間の緊張感が「ほぐれた」のである。

 不思議なもんで、オヤジに対しての敵対心・不快感が消えると、そのオヤジは程なくして停車した停留所でバスを下車していった。

 今考えると、そのオヤジは「笑い」の力を僕に印象づける為に、僕の隣に乗車してきた「神の使者」だったのかもしれない、などと思っている。
 

「2000.9.9(土)」・ソバツユに卑屈

 モテナイ独身青年(僕のこと)の食生活は極めてあっさりしている。
 僕が常用している食品に、コンビニのソバがある。

 いろいろなコンビニのソバを食しているが、ある日某コンビニのものを食していた時、ふとソバツユのパッケージに目が行った。
 そこには「こだわって このつゆ」と、その品名と思われるフレーズが袋に大きく銘打たれていた。

 通常このフレーズを聞けば「ああ、コンビニさんも、つゆにこだわりを見せてくれたんだ、ヨシヨシ、イイコイイコ」などと思うことであろう。
 確かにコンビニ側(細かくいうとソバ業者側だけど、堅いこと言わずに流してね)からすれば、つゆのダシに「九州何とか産のかつを」や、「北海道何とか産の昆布」等を使用して、「もう、ホントこだわっちゃってみました!」てなところを見せたかったのであろう。
 同梱の、きざみのりには「きざみのり」としか銘打たれていなかったので、きざみのり方面へのこだわりは、それほど無かったらしい。きざみのりまでには手が回らなかったのか、無視されたのか、嫌われていたのか、その辺は定かでは無い。
 と、まあ、かようにそれほど、このコンビニ側の「こだわって このつゆ」にかけられた、「こだわり」がヒシヒシと伝わってくるパッケージなのであった・・・。

 ところがモテナイ独身青年には、そうは伝わってはこなかった。

 どう伝わったかよりも、まず、なぜ違う意味に伝わったかまでの経緯を先にお話ししよう。

 ぶっちゃけて言えば、コンビニのソバよりもソバ屋のソバの方がオイシイに決まっている。
 コンビニのものを利用するのは、安い・いつでも入手できる、この2点の理由からのみによる。
 モテナイ独身青年の選択基準には「味・こだわり」などの文化的価値観は、諸事情により止むなく後ろへと押しやられている。

 コンビニのソバばかり食べていると、なんとなくソバ屋や世間に対して後ろめたくなってくる。
 別に後ろめたくなる必要など全然無いし、堂々と勝手にコンビニソバ食べてりゃいいのだが、なぜか後ろめたく思ってしまう。
 僕がコンビニソバを食べているところは誰にも見られたく無いと思う。さぞかし背中のラインに哀愁が漂いまくっていることと思う。食べおわった後の容器をゴミ箱に捨てるところなぞ、実に悲しげな雰囲気が漂っていることと思われる。
 「やーい金ねえのかよ」とか「これだから独身はヤダネ」とか「この兄ちゃんソバってもんを知らねえな」などと思われてやしないかビクビクしながらコンビニソバをズルズルと、すすることになる。

 そんなコンビニソバで卑屈になりがちなモテナイ独身青年であるが、その彼が「こだわって このつゆ」のフレーズを目にした時どう感じたか?。

 言葉というのは誤解を生み易く、一通りの表現がいろんな意味に解釈されてしまうものである。

 僕はこのフレーズを見てまず最初に「こだわって このつゆ」は、「(最高に)こだわって この(程度の)つゆ」もしくは「(一生懸命全力を尽くし)こだわって(きたが) (やっぱり)この(程度の)つゆ」という意味なのだろうか?と、とらえてしまった。

 もちろん実際の味に関しては、この値段でそこまでしてくれていて、という感じで全然問題は無かったのであるが、つい普段卑屈になりがちなモテナイ独身青年は、悪い方へ悪い方へと解釈を拡げていってしまうのであった。
 本当のところの意味は現段階ではわからない。
 この凝縮されたフレーズのみで判断するのは困難であるが、フレーズの下に小さな字で添書があり、それを見るとどうやら「(いろいろこだわりに)こだわって (ようやく完成した自信作が)このつゆ」てなとことが本当のところらしい。
 もしかしたら「(アナタ)こだわって(ネ) (自慢の)このつゆ(に!)」と、命令調なのかもしれない。定かでは無い。

 ところで言語学的観点から言うと、「こだわって このつゆ」の「って この」の部分が、僕の誤解を誘発させてしまったものと思われる。
 だからここは、他コンビニのソバツユパッケージのように、単純に「こだわりのつゆ」でも良かったのでは無いかとも思える。
 「って この」を使用することで、コンビニ側は消費者の情緒に訴えかけようと詩的表現技法を駆使してきたものと思われるが、下手に詩的な表現をすると僕のように、いらぬ解釈を施す輩が出てくる可能性も出てくる。

 しかしながら、誤解の最たる要因は、やはりこのモテナイ独身青年がコンビニソバの件に関する全てに対して「卑屈になっていた」から、ということが挙げられよう。

 でも意外に事実は僕のとらえ方が正解だったりしてね・・・。

back to ●Monologue Index

back to●others

back to the top