Monologue34 (2000.9.1〜2000.9.8)

「2000.9.8(金)」・西遊記

 今日のテレビ欄を見ていたら、TVK(横浜テレビ?神奈川テレビ?)で「西遊記」という記載があったのでチェックして見てみたら、期待通り昔日本テレビで放映していた西遊記の再放送でありました。
 残念ながら今日で最終回だったので、もう続きは見れないのですが、とにもかくにも大変懐かしかったであります。

 もう20年近く前の番組ですが、昔は必ず見ていたお気に入りの番組でありました。
 毎週これが楽しみで、茶の間にあったテレビを一人占拠し、部屋を暗くして、気分を出しながら見ていた記憶なんぞあります。

 この番組は配役がバッチリで、孫悟空は堺正章、三蔵法師に今は亡き夏目雅子、沙悟浄は岸部シロー、猪八戒は西田敏行と、絶妙のキャスティングでしたな。
 あと忘れてはいけないのが、ゴダイゴの音楽。
 全てがうまくはまって、何か夢・浪漫を感じさせてくれた番組でありました。

 少し前ナイナイの二人を配役にキャスティングして、一回ものの西遊記をやっていたけど、その配役で良いから、もっとお笑いの路線を強めてシリーズ化してくれないかなと思いました。
 三蔵法師は、今だと誰がいいかな?広末涼子か深キョン、もっと新人でもいいか。
 孫悟空は岡村君で決まり、沙悟浄は矢部君。
 猪八戒は、極楽の山本君か、松村邦広あたりか・・・。意外にぐるナイつながりでTOKIOの国分君なんかもいいかも・・・。
 馬は江頭2:50とかね。

 とにかく、そういう想像をしているだけでも楽しいような、西遊記は実に魅力的な題材だなと感じました。

「2000.9.7(木)」・ゴールは笑い

 笑いというのは、大切で偉大なことだと思う。
 笑いは健康にも良いし、妙な緊張もほぐしてくれる。

 それから、もしかしたら笑えることが人生の究極の目標では無いのかとさえも最近思えてきた。

 人間、自分自身のことが笑えるようになってくれば、だいぶ成長したもんだと思える。

 人間なかなか簡単には、自分自身を笑うことはできない。
 自分自身を笑えるまでには、とてつもない時間がかかる。

 でもどんな苦労も辛い経験も、それが笑い話になって話せるようになれば、その迷宮時代は卒業したと言っていいのでは無いか。
 だから、笑って話せるようになることが、その辛い体験のゴールなのでは無いかとさえ思える。
 ゴールは笑うことだと。

「2000.9.6(水)」・アンサンブル

 ベートーヴェンの後期の傑作に「弦楽四重奏曲第14番」という曲がある。
 弦楽四重奏というのはその名の通り、ヴァイオリン、チェロ等の、四本の弦楽器で演奏される。
 この曲では、2本のヴァイオリン・ヴィオラ・チェロが使用されている。

 僕はこの曲が大変好きなのであるが、そのキーワードとして「アンサンブル」という言葉を挙げたい。
 「アンサンブル」とはフランス語で、合奏というような意味合いがあるが、この言葉の語感が僕には大変心地よい。

 「弦楽四重奏曲第14番」では、たった4つの楽器が奏でているのに、その響きはどこか超絶的で、時に宇宙的な拡がりすら感じさせてくれるものがある。同じ後期の傑作「交響曲第9番」のような大編成の人間的なドラマのような世界とはまた違った、瞑想的・哲学的な深遠なる世界がそこにはある。
 4つの楽器はバラバラに語りかけてくるのでは無く、一つの魂を持った音楽として僕らに語りかけてくる。まさに「アンサンブル」の象徴的な成功例かもしれない。
 四重奏なので、その一つ一つの楽器の比重は重く、もちろん演奏にはミスは許されず、極度のテンションが要求される。
 そして一糸乱れぬ完璧なパフォーマンスができた時に、そこには宇宙すら感じさせてくれる世界が拡がってくるのである。

 僕らの日常の生活でも絶妙な「アンサンブル」ができたらイイと思う。
 一人一人はバラバラな個性でも、そしてそれが弦楽四重奏のような少ない人数でも、それぞれが個性を活かしつつうまく調和し、更にレベルの高いパフォーマンスができたら、それは時に宇宙的なものにまで発展できる可能性だってあるかもしれないのである。
 

「2000.9.5(火)」・♂

 テレビ番組を見る場合、ビデオで録画しておき後で見る場合が多いため、CMの時に早送りしてみるクセがついてしまった。
 それでオンタイムで番組を見ている場合にも、ついついそのクセが出てしまい、番組がCMに入った後、リモコンの再生・早送りボタンをいくら押しても画面が進まないので、 「あっれ?、オカシイな、なんでじゃ?・・・ウン、ウン、って、オンタイムじゃ!」などと一人ごとしている時が結構ある。

    *   *   *

 ところで話は全然変わるが、8月31日に、バスの中で耳をほじる女性について書いたが、なんと、今日も電車で耳をほじる女性に遭遇してしまった。
 女性はドアにもたれ掛る位置で立っており、僕は例によって、その真横の吊り革につかまっていた。
 女性は20〜30代と見られるショートカットのポッチャリとした健康的な女性で、僕がふと見た時は、まさに第一回の採掘作業を無事終え、内容物の確認をしているところだった。
 僕はチョット意地悪心を起こしてしまい、いかにも「あっ、掘ってる、掘ってる」と言いたげな光線を目からジトジト出しながら、引き続き作業を続行せんとする、その女性を暖かく(?)を見守っていた。
 すると、「ん?」と、女性は僕の視線に気づいた。
 しかし、女性は少しも慌てず、採掘中の指を抜指する作業をしつつ、おもむろにその手を、髪を掻き上げる作業へと静かに移行させていったのであった。こんな時女性は、慌てず堂々としたものである。何見てんの、とでも言いたげである。
 人前で耳をほじる女性を良く見かけるが、僕には女性を耳垢除去作業へと導く誘発フェロモンでも出す能力があるのか?と思いたくなる。

 しかしながら、こう書いてはいるが、僕は女性が人前で耳をほじってはいけないなどと、決して言ってはいない。
 むしろ、大いにほじり、時には放屁等も交えつつ、全部有りのままをさらけ出してほしいぐらいである。特にカワイイコはね。
 かくいう僕も、電車バスでは、やらないが、人前でつい耳をほじってしまったりすることはある。こういう動作は、もうクセのようになってしまっているので、つい人前でも無意識にやってしまうだろうことは、大いに有り得る。
 こういう日常的な仕草を、女性がつい出してしまうのは、僕に安心感を抱いてくれているからと、解釈していきたい。違うと言われても、解釈していきたい。
 女性は良いが、オヤジが電車の席などの真横の席で耳をほじり、掘った耳アカを、ふっ、などと吹き飛ばした日にゃあ、怒髪天を抜きたくなるという気持ちはご理解いただきたい。

    *   *   *

 ま、ちょっと前置き無駄話が長くなってしまったが、また話を変えてようやく本題に突入することにする。

 「〜フェチ」という言葉があるが、僕は女性に関しては「汗フェチ」らしいことに気づいた。
 女性のどこにエロティシズムを感ずるか?というようなことが良くいわれ、うなじ・足・胸等の意見があるが僕はそこに、汗も候補として是非いれてあげたい。
 テレビなどでも、女子スポーツ選手が、汗ダクダクになって競技を行っている様には、大変エロティシズムを感ずる。
 できれば着ているシャツなどが、びっとりと肌にくっついてしまっているくらいが良い。乳首がそれで透けてなどいれば尚更良い。
 あと女性アーチストが、汗ダクダクで熱唱している様も良い。できれば露出の多い衣装で、ヘソなど出してもらっていれば尚更良い(僕は女性のヘソも好きなのであるが、そこに言及していると時間が無くなってしまうので、先を急ぐことにする)。
 普段汗などかくようなイメージの無い人が、汗をかいている様も、実に良い。いとをかし(なんか枕草子じみてきましたな)。

 これらを考慮した場合、僕が究極の女体の美と考える状況として、青空のもと陽の光を浴びて汗をかいている女性の姿を挙げたい。
 それもヌードなら究極の女体美図が完成する。
 古代のオリンピックは全裸で行ったと聞いたことがあるが、その情景現代にも再現して見てみたい。
 さぞかし僕の興奮をマックスに持っていってくれるものと思われる。

 ま、そんな汗好きの僕であるが、このことが、あながち科学的根拠の無いわけでは無いことがわかった。

 先日テレビ朝日の「たけしの万物創世期」で、人間にもフェロモンがあるのか?、というテーマをやっていたが、そこで、この人間の「汗」に、どうやら動物のフェロモンに相当する物質が含まれているらしい、ということが研究途上でわかりつつあって、現在も調査中である、ということを放映していた。

 これが科学的に証明されると、僕は今まで単にフェロモンにおびきよせられていただけ、ということになる。
 結局自分がまぎれもなく「オス」なんだな、ということを実感する今日此の頃であった。

「2000.9.1(金)」・新しい快感

  先日、1960年代後半に活躍したアメリカのグループ、5th Dimensionのアルバムの再発ものを何枚か入手して今聞いています。
 5th Dimensionは「ビートでジャンプ」や「輝く星座(アクエリアス・レットザサンシャインイン)」でグラミー賞を受賞しており、「輝く星座」は、時々テレビでも流れていたりするので、耳にしたことがある方も多いかもしれません。
 1960年代のサウンドなので、多少アレンジに古さはあるかもしれませんが、音楽性ということでいうと、全然時代遅れということは無いと思います。

 こういう音楽を聴いていると、音楽における「新しさ」というのは、どういうことなのか、考えさせられます。
 今の音楽でも聴き古したような音もあれば、クラシックなのに新しく聞こえる音楽もある。
 古い音楽でも、今まで聴いていなかった音であれば、当然新鮮に聞こえる。
 結局「新しさ」というのは、ものすごく個人的な主観的な問題に落ち着くのでは無いかという気もします。

 一つ言えるのは音楽が「新しく」聞こえる時には、自分の感性が拡がっていく時であって、それは快感になっているということであります。それで、そんな音楽に没頭していると、また夜眠れなくなってしまうのであります。

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