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かもめのジョナサン |
リチャード・バック著
五木寛之 訳 新潮文庫 476円 |
・人類の次なるステップ「霊的な生き方」を示唆した書。
文学というものは、その受取方は読み手の自由で、作者の意図するところとは違う感じ方をしても一向に差し支えないし自由であるべきである。 ただこの作品に限って言うと、自由に読んでしまうと下手をすると単なるファンタジー、あるいは自由讃歌、あるいは管理社会に対する反体制的批判、あるいは師弟愛、動物愛を謳ったもの、そういったことに終始してしまうおそれがあるのではないかと感じた。
全くの私見であるが、上で述べた表象的印象はあくまで「手法」であり、作者の意図したところは、とにかく「霊的生き方」の エッセンスを述べることと、それを実現していくうえでの方法を述べたかったのではないかと勝手に思っている。 だからこの作品に限って言うと、まよわず「かもめ=人間」「ジョナサン=読む私達」として読んでしまって差し支えないと思う。
さて、そんなこの書の読後、熱狂的につきうごかされるものを感じてしまう方もいることだろう。
人間はそこでバランス感覚が欠如しがちであるが、そのような時下記に述べる下村湖人の「青年の思索のために」を一読することをお薦めする。
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青年の思索のために |
下村湖人著
新潮文庫 311円 |
・真に独立し、健全な精神とは何か。日本の良心が語る人生訓。
下村湖人は「次郎物語」の作者として有名であるが、これは下村湖人が青年に向けて書いた人生論的エッセイである。 文庫の解説の項で水谷啓二氏が下村湖人を称して「日本の良心」とおっしゃっておられて、私も全くもって同感だった。 著者においては、あの日本を追い詰め混乱に陥れた第二次大戦を通じても、その思想と態度は一貫し何ら変わったことが
なかったという。
日本は思想的に西洋に劣っているように思われがちであるが、この下村湖人の書を読む限りにおいては、そんなことは ないという思いが胸中にめぐっていくわけである。 そんな日本であるが、大戦においてあれだけ「愛国」を唱えていた国民が、終戦後西洋の民主主義合理主義の流入のもとにコロッとそちらに鞍替えしてしまったことは、もちろんそれ自体は悪いことでは全く無いが(もちろん私は国粋主義ではございません)、主義主張の是非は別として、外部からの圧力で手のひらを返したように価値観を簡単に変えてしまい、それまで固持していたものは一体何だったのさ、と思わせてしまう国民性はよく言えば、柔軟性があるといえるが、あまりにも貧弱で日和見的で他律的すぎるような気もする。
真に健全で偏っておらず独立した精神の持ち主というのはまさに下村湖人のような人物を指すのだと思う。
この書は「青年の・・・」と謳っているが、「青年以降も・・・」である。
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