Monologue2002-49 (2002.10.27〜2002.10.31)
 「2002.10.31(木)」晴後曇・道祖神のまねきあれ

 寒くなってきましたな。
 テイチクの山陰本線のDVDが届いてこれで全線揃った。ついでにテレ朝の「秘湯ロマン」のDVDも購入した。
 心は旅の空である。只、今は殺伐とした日常・・・。
 でも普段が殺伐としていればいる程、どこかへ行った時に感受性が研ぎ澄まされてくるのだ、そう納得することにしている。
 殺伐とした日常で力を溜めに溜めて、それから針の穴のような休日を使って出かけた場所で、自分の感性を最大に高めて集中し、いろんなものを感受する。僕の旅行は今はこんな感じだ。

 「2002.10.30(水)」晴・愚か者の転調の場合

 昨日の話の続きで、1970年代の洋楽の中で転調が実にハマっている曲を思い付いた。それはドゥービーブラザーズの「ある愚か者の場合(What a fool believes)」である。これは1979年のグラミーのレコード・オブ・ジ・イヤーに輝いた名曲である。
 メインヴォーカルはマイケルマクドナルド。そして全曲を通じて印象的なピアノのバックだけでもこの曲は十分カッコイイ。しかしこの曲の影の立役者は転調だ。

 曲の始まりはDbというコード(和音)だ。すなわち変ニ長調である。
 曲が進み”she had a place in his life〜”の箇所で最初の転調がある。まあこれは関係調のBbm7に移行するだけなので単純に長調から短調(変ロ短調)になった、という印象であり、次の展開への準備のようなものだ。本当の飛翔はこれから始まる。

 ”as she rises to her apology〜”の箇所で最初の変ニ長調に一旦戻り落ち着くが、”sureley know〜”ですぐに又変ロ短調に引き戻される。

 そして問題の”he's watching her go〜”になる。この”go”の部分で、ちょっと難しいコードだがGm7(b5)というコードが入る。
 このちょっと不安げなコードのお蔭で、聞く者は微かな変革の予感に襲われる。
 このGm7(b5)が、なかなか効いているのだ。

 そして聞く者の予感は次のサビに入る前の印象的なフレーズ”what a fool believe〜”の”believe〜”で現実のものとなる。
 この”believe”でのコード、F#m7は実に魅力的な使われ方をされている。
 まるで音楽もろとも異世界に突き抜けて行くようだ。このF#m7で僕等は通常認識する音楽の次元を越えていく。
 ちなみに、このキーの音から4度上がった音の短調のコードに飛ぶ、というこの手法はいろんな曲で良く用いられるコード展開で僕も大好きなコード進行だ(ハ長調だったら、キーのドから4度上、つまりファのキーの短調に飛ぶ、すなわちC--->Fmというコード展開。「what a fool believes」の場合キー音はDb、つまりレb。そこから4度、つまりファ#=F#、その短調なのでF#mになる。)。

 そしてこのF#m7の導きによって、次の”wise man has the power〜”の”power”のコードはEmaj7になり、調はめでたくE、すなわちホ長調に転調するのである。
 このカッコイイ転調に至るまでには、Gm7(b5)やF#m7達の見事なサポートがあるのである。

 こうして変ニ長調がホ長調に転じた、この曲は2番に行く為再び変ニ長調に帰らねばならない。
 行きはあれだけ周到に準備された転調が、帰りは実にアッサリとしているのである。
 最初のDbに再び戻る直前はA7というコードの3連打だけでサッと元に戻る。
 しかしこの素っ気なさが逆にA7というコードのファンキーな響きと合間ってカッコヨク聞こえてしまうのだから、素晴らしいとしか言いようが無い。

 「2002.10.29(火)」晴・僕のショーロは・・・

 自分の好きな音楽というのは、やはり非常なパワーがあって少し耳にしただけでも、瑣末な諍いに殺伐としてしまった心へ潤いをもたらしてくれるものだ。

 ブラジルのミュージシャン、イヴァン・リンスの作品も僕の大好きな音楽の一つだ。
 例えばイヴァンの「水のショーロ(Choro das Aguas)」(”今宵楽しく”収録)という歌がある。
 イントロはちょっと幻想的な鐘の音のようなピアノの音で始まる。和音はBメジャー(長調)系の音だろうか。
 だからキーは、ついB(ロ長調)だと思いながら聴いてしまう。

 ところが歌に入ると、ふいに短調に転ずる。実はキーはG#m(嬰ト短調)だった。
 イントロのピアノは微妙に色彩を変え、しかしリズムをそのまま保ちながら短調のコードに上手に溶け込むように乗って奏でられて行く。
 そしてその後も曲は、僕等の心を軽くかわすように、しかし繊細に転調を重ねて行く。

 ああ・・・なんて心地好い裏切り!。
 まるで一度しか会っていないのに忘れられない女の如き音に、僕は心を動かされ続けている。
 こんな音楽に、時間と空間を超え巡り合えた奇蹟に、胸は熱くなる。

 イヴァン・リンスの曲では、この転調が魅力的だ。
 転調は、まさに僕等の心の動きだ。
 イヴァン・リンスの曲は、妙に僕の心の動きにピッタリ合っているのである。

 「2002.10.28(月)」晴・大打撃?

 今日は休暇を取った。
 のんびり過ごしたいところであったが、社会保険事務所へ出頭。
 お恥ずかしい話で滞納していた国民年金を払って来た。とりあえず七ヶ月分。大打撃である。
 ちなみに昨日お話しした「パルシファル」のチケット代が税込みで38000円、これはまだ支払っていない。大打撃である。
 ま、今日が快晴で本当にヨカッタ。

 ところで天気というのは人の心に少なからず影響を与えるものである。
 灰色の雨雲がドンヨリと頭上を覆っていると、それがキッカケで鬱状態に陥ったりする。

 鬱になり、心は陰りを帯びていく。
 そして魂に陰影を描き、微妙なグラデュエーションを描いて行く。

 鬱になるということは、魂に微妙な陰った色合いが加わることだ。つまりそれは深みが出る、ということでは無かろうか。
 音楽でも単純な和音に、マイナーセブンス、ディミニッシュ・・・その他の精妙で陰影に満ちたな和音が加わることで音は一層深みを増す。
 鬱は僕等に深みをもたらす。雲は空に陰影をつけるように、僕等の心にも陰影をつけにやってくる。

 だから僕は、人には鬱の時期が当然あって良いと思う。
 そして、モーツアルトの音楽のように、その陰影に満ちた和音から、明るいメジャー(長調)の和音に再び戻って来た時、魂の浄化・進化があるかもしれない、と感じているのである。

 「2002.10.27(日)」晴・パルシファル

 東京地方は晴。ヨカッタですな晴れて。
 今日は生オペラ初体験、しかもワーグナーの晩年の傑作「パルシファル」。ま、ワーグナーは”オペラ”って言って欲しくないらしいからワーグナー的に言うと「舞台神聖祝典劇」となる。
 ともあれ、このリポートは後日別ページで必ずや・・・やれやれ、なんか、こんなのが沢山溜まっちゃった。一体アップはいつのことになるやら。

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