Monologue2002-25 (2002.5.26〜2002.5.30)
 「2002.5.30(木)」晴・べらぼう

 最近「べらぼう」という言葉が、どうも気にかかる。

 広辞苑での「べらぼう」は「べらぼう【便乱坊・可坊】寛文(1661〜1673)年間に見世物に出た、全身まっくろで頭がとがり目は赤く丸く、あごは猿のような姿の人間。この見世物から「ばか」「たわけ」の意になったという。:人をののしりあざける時に言う語。ばか。たわけ。あほう。:(「箆棒」の字を当てる) 異常なさま。はなはだしくて、信じがたいさま。」とのことである。
 インターネットで検索すると、やはり「べらぼう」の気になった同好の士が沢山いた。それらの情報によると、大阪で出た見世物が人気が出て各地に広まったらしい。

 どうやら「べらぼう」は元はと言えば関西芸人の一種のようなものだったらしい。
 今で言えば、指しづめ明石屋さんまが「パーでんねん」や「ブラックデビル」をやるみたいなもんだったのだろう。
 馬鹿な人間のことを「この、パーでんねん!」などと言うようなものなのであろう。

 ま、それもあくまでも想像してみただけなのであるが、一つ感慨深いのは、こうした流行物が300年以上経った時代にも言葉として残っていることである。
 今から300年後には、どんな言葉が残っているのだろう?。

 ところで「すっとこどっこい」って・・・?。

 「2002.5.29(水)」晴・シート洗剤

 洗濯はしばらく前からシートの洗剤を使っている。
 僕のようにモテナイ独身家事不精エトランゼにとって、こうした少しでも洗濯の手間が省けるものは有り難い。
 実際に革命的に手間が省けているわけでは無いのだが、シート洗剤のピシッと洗剤がシートに収まった「だんな!、余計な手は煩わせまんせんぜ」というような感じの、少しでも余計なトラブルの発生はさせん的な姿が大変良い。「旦那イイ子いますぜ」に匹敵するくらい大変精神的に良い(なんじゃそりゃ)。

 時折スーパーやコンビニなどで、このシート洗剤が置いていない店に出くわしたりすると、このモテナイ独身家事不精エトランゼ、途端に激昂する。
 今時置いて無いとこあんのかよっ!と思ったりする。この店は独身の敵だ!、とすら思ったりする。
 でもレジにカワイコちゃんがいたりすると、「う、・・、ま、許してあげなくも無い、かなっ・・・」などと、途端に鼻の下がデレレンと伸びてきたりする。

 「2002.5.26(日)」晴後雷雨・かさね

 芭蕉の「おくのほそ道」那須の項で、馬を貸りて行く芭蕉一行に、馬の跡をしばらく追って付いてくる少女の話が出てくる。
 少女の名は「かさね」という。
 その名のめずらしい語感と少女の愛くるしさが芭蕉にも大変印象深く感じられ、かの後世に残る紀行文に記されることとなったのであろう。

 僕も街道散策や旅の途中で、不意に前を行く愛くるしい少女に出くわす時がある。
 歩いている時に限らずバスに乗った時などにもある。
 とある路線バスに乗った時、僕のすぐ前に3人の少女達が座った。10歳前後くらいだろうか、子供達だけで隣町に行こうとしていたのか、始終時間を気にかけていたようだった。
 終点直前になって、前の少女達の意識が僕の方に向いて来た。顔見あわせ運賃用の小銭を勘定していた僕に何か尋ねようとしている。その内中の一人が意を決したように僕に声をかけた。「あのーすいません」。すると3人が声を合わせ恥ずかしそうに「今何時ですかー?」。
 僕は携帯電話に表示された時間を伝えてあげた。
 たったそれだけのことなのに、僕はこの少女達に何か大変良いことをしてあげたかのような思いになったものだ。これは僕のしたことが良かったというのでは無く、少女達の発散する愛くるしさが僕にそう感じさせたのであろう。

 旅で見かけるこうした少女達は、きっと天使なのだろう。これは虚言では無く、実際にその巡り合わせ、タイミング、何か不思議なものを感じさせるからなのである。
 そしてこれらの少女達は、彼女らの出現によって、僕にその道行きが正しいものであったことを告げてくれる。まさに僕的道祖神なのである。

 「かさね」もきっと芭蕉的道祖神だったに違いない。

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