Monologue2002-24 (2002.5.21〜2002.5.25)
 「2002.5.25(土)」晴・デキナイ男とモテナイ男

 銀座ママが書いた「できる男できない男の見分け方:ますいさくら著(PHP研究所)」という本が結構売れたようだ。
 この本のタイトルを見て私モテナイ独身エトランゼ、直感的に「こりゃヤバイことになるぞ!」と思った。ビビビ、と思った。
 我々モテナイ男子軍団、近いうちに成敗されるぞ!、そう感じた。
 「絶滅」という言葉が脳裡をかすめた。「トキ」などという鳥類の名前も浮かんだ。
 古の日本では蝦夷を征伐する為に東北に多賀城を置いたと聞くが、銀座のママはモテナイ種を征伐する為に、「できる男できない男の見分け方」を上梓なすったのである。

 「できる男:できない男」すなわち「モテル男:モテナイ男」と言って過言では無かろう。
 ん?、そうとは限らんだろうって?。
 ここではそーゆーことにしておくのっ!。そーしないと先に進まないのっ!(コジつけんのかよ)。

 今まで「できる男:できない男」の見分けは困難であった。
 ヒヨコの雌雄を判別するくらい難しかった(程度がわからんぞ)。
 それが「できる男できない男の見分け方」などと、そのものズバリな本が出てしまうと、世の女性は一発で「できる男:できない男」すなわち「モテル男:モテナイ男」を見極め、明確に判別し、我々モテナイ男子軍団を相手にしてくれなくなってしまう恐れが生じる。今まではレースに参加できたのに、これからは予選敗退、どころか参加拒否という事態すら発生し得る。
 これでは我々モテナイ独身エトランゼの存続すらも危うい。命すらもモタナイかもしれない。これじゃモタナイ独身エトランゼになっちゃうヨ(駄洒落こいとる場合かっ)。

 ともあれ銀座ママが、いかにして我々モテナイ男性軍団を成敗しようとしているのか、調査して置くに越したことは無かろうと、僕は恐々書店に赴いた。

 書店に行くとその書はすぐに目立つ場所に置かれていた。
 幸いその時は美女がその書を手に取っている光景は無いようだった。
 私モテナイ独身エトランゼ、モテナイ男子軍団を代表し、その我々モテナイ男子軍団にとっては禁断の書「できる男できない男の見分け方」を恐る恐る手に取ってみた。

 そして徐に開いてみる。
 するといきなり「高価な花・・・」という語句が目に入って来た。
 「うっ」、僕は息を詰まらせながら、慌てて本を閉じた。
 「高価な花」・・・いきなり我々モテナイ金欠男子軍団の、聞き慣れぬ普段縁の無い語句が登場し、先制パンチを食らってしまった。
 モテナイ男子軍団代表は、クラクラっと軽い眩暈を覚え、12.7cm程後ろにのけ反ってしまった(なんでミリ単位出すんだよっ!)。

 気を取り直し、もう一度そのページの内容を把握してみた。
 良く読むと、贈り物は品物に金をかけなくても花には思い切って金をかけよ、というような類いの内容であった。
 モテナイ男子軍団代表は水戸黄門に印篭を突きつけられたかの如く「ハハーッ」と有り難くそのお言葉を頂戴したのであった。

 せっかくなので、僕はその本をコソコソと懐に抱えそのままレジに行き、銀座ママ帝国のスパイが監視しているか否かを(んなのあるわけねえだろ)、ライオンやハイエナの恐怖に脅える小動物の如く辺りを確認した後に、チャッカリ購入してしまった。

 やはりモテナイ独身エトランゼの薄汚いモテタイ本能が働いたのであろう。モテナイ独身エトランゼは姑息なのである。こうして他のモテナイ男子軍団がモテずに喘ぐのを差し置いて自分は禁断の書を入手し、この期に及んで自分だけモテようと企んでいるのである。

 スッカリ”我が身我が身”の心地になったモテナイ独身エトランゼは帰宅し、早速その禁断の書を紐解いた。
 この書で銀座ママがベンツに乗れ、と仰せになられたら、乗る覚悟は出来ていた。金の準備は全く無いが気持ちの準備だけできていた。ベンツが無けりゃ便器でどうでしょ、という気持ちにすらなっていた(意味わかんねえんだけど)。

 少しづつ読み進めて行く内に、モテナイ独身エトランゼのベンツの覚悟は次第に拍子抜けして行った。
 銀座ママはベンツに乗れ、などとは言っていなかった。
 大体2ページに一項目程度のスペースで「できる男」とはかくなるものだということが書かれており、項の終わりに「できる男の法則」と称し一行でまとめられたフレーズが添えてある。その中には「他の人の為にボトルをキープする」などという今の僕でも実践できている項目もあった。僕も良くオネエチャンのいる店に行くと、なぜか前回来た時よりもボトルの中味が減っている場合が多々ある(自分だって人のを呑んでるじゃネエカよっ!)。

 一通り目を通してみると、銀座ママは、それ程無理難題を言っているわけでは無いことがわかった。
 私モテナイ独身エトランゼの独断的な印象だが、やはり「できる」というのは「思いやりのある」男性、であることが一つには大切なようだ。
 「思いやり=愛」である。ここでもやはり「愛」が大事なのである。

 そうなると「モテナイ=思いやりが無い=愛が無い」ことになる。”我が身我が身”は以ての外なのである。モテナイ独身エトランゼは基本姿勢から既に間違っているのであった。
 「そーかっ!、オレやっぱ愛が無いんだ。シマッタなあー。」などと今頃気づき、イカンイカンなどと反省しつつも、一緒に購入した岡元あつこ嬢の最新写真集「SAGA〜性〜」を眺めつつ涎をぬぐっているような有り様の今日この頃でした、とさ。

 「2002.5.23(木)」晴・宇宙はいつも・・・

 僕のようなモテナイ独身エトランゼが、大それて宇宙のことを語る資格は全く無かろうが、考えるのは自由だから述べさせてもらうと、宇宙にはもしかしたら「+(プラス)」と「−(マイナス)」の2種類の力しか無いのでは無いかと思う時がある。
 地球の言い方で言うと、創造と破壊。
 まあ、これも人間の言い方であって、宇宙からしたら創造が良くて破壊が悪い、なんてことは無いのだろう。

 この「+」と「−」の力が地球にダウンロードされてくると、いろいろに形を変えて、それを人間が善と悪と呼んだり、様々な名称を与えているのでは無いかな、と思ったりする。

 「+」だから良いとか、「−」だから悪い、ということも無い・・・、そうした次元を越えて、宇宙には「+」と「−」が存在する、ただそれだけ。
 ある時は「+」になったり、ある時は「−」になり、常に変化する。こういう世界で人と争って何かを奪い合うことは無意味なこと。いずれは又変わるのだから。
 こうしてこの両極の力を更に越え、それを司る宇宙の意識に至ること、それこそが人間の”進化”と言えるのでは無いか、と。

 久しぶりに夜空に月を見、ふとそんなことを考えてみる今日この頃なのでありました、とさ。

 「2002.5.22(水)」曇後晴・空色のくれよん

 日本の往年の名バンド、はっぴいえんどのトリビュートアルバム「HAPPY END PARADE」が今日発売になったようだ。
 ここに参加しているミュージシャンの名前を見ているだけでも聞きたくなってきてしまった。
 スピッツ、オリジナルラヴ、キリンジ・・・等など。

 はっぴいえんどの曲の中では大瀧詠一作「空色のくれよん」が僕個人的には好きな歌だ。
 以前東京のローカルテレビのMXTVを見ていたら、番組のインターバルで「空いろのくれよん」が、おそらくお台場と思われる場所の映像のバックに流れてきて、めちゃくちゃ合ってるなと感心した。実に東京に合うな、と思った。ディレクターさんか誰か知らぬが、良いセンスの人だと思ったもんだ。

 そう言えばもうすぐ椎名林檎のカヴァーアルバムも出るし、なんかミュージックシーン、カヴァーづいてますな。

 「2002.5.21(火)」曇後晴・一旦捨てよう

 静岡県藤枝市のスポーツ振興課長が自殺したというニュースが報道された。
 同じ静岡県人として大変痛ましい限りである。

 「疲れた」との言葉が遺書にはあったようだ。
 やはり皆疲れているのだ。
 不景気でいくら景気を良くしようと頑張ったって、肝心の国民が疲弊していたのでは、この国の未来も無いだろう。

 通常「死」のイメージというのは相も変わらず、恐く嫌なものだ。
 例え仮に「死」が本来は甘美で歓迎すべきものであったとしても、人間が生きている限り「死」の否定的なイメージは当分変わらないだろう。
 それは「死」に否定的な恐怖のイメージを与えているのは、他ならぬ神の策略では無いかと思うからである。

 もし「死」がセックスのように甘美で安楽なものだったら、どうなっていただろう。
 今のような世の中、喜んで自ら死んで行く人が、きっと後を立たなくなるのでは無いだろうか。

 愛する人を失った人、借金やリストラなど自分で背負い切れないトラブルを抱え人生の重圧に耐え切れなくなった人、社会から疎外され自分の存在意義を見失った人、戦乱や飢えや病気など生地獄のような状況に日常暮らす人、難病で長らく闘病生活を続けている人、・・・。
 きっと、生きていても仕方が無い、死んだ方がよほど楽になれる、そういった思いが、単なる夢想では無く切実な願望として常にある人が、僕は少なからずいると思う。

 そういう人にとって今だって「死」は、究極の選択では無く、もっと身近な選択肢の一つになっているはずだ。それがもし更に甘美で安楽で簡便な選択肢だったとしたら・・・。
 きっと「死」こそが「最善の選択」になってしまうだろう。

 人生を全うし自然に安楽に死ねる人は幸いだろう。きっとそれが神の願いなのだろうから。
 しかし相変わらず人生は複雑で、そう簡単にはいかない。
 「死」に否定的な恐怖のイメージを与えているのは、きっと神が、人間が「死」を「最善の選択肢」とするのを少しでも食い止めようと考えた、神の「苦肉の策」なのでは無いか。
 この課長はそれでも最悪のシナリオともいえる死を選んだのである。よっぽど辛かったのであろう。

 僕も普通に不可解なハードワークに囚われる時がある。
 土日出勤、残業・・・一体何がここまで僕等を駆り立てるのだろう?。
 利益の奪い合いか?。果たしてそれは、真に必要なことなのだろうか?。何かがおかしいと思うのだが、どこがおかしいのだろう?。
 とにかくもっと、ゆったりしようぜ、休もうぜ・・・。
 数字や期日や他人との競争や建前よりも、もっと一人一人の心を大事にする社会になって欲しいと願うばかりである。

back to ●Monologue Index
back to●others
back to the top