Monologue2002-03 (2002.1.20〜2002.1.24)

「2002.1.24(木)」晴・これなら携帯も

 最近はオジサンが携帯メールをやっている姿も珍しく無くなって来たようだ。
 今日の日本テレビのモー娘出演番組「モーたいへんでした。」では、大手町で携帯メールをやっているオジサンに矢口と飯田が突撃取材をするというものだったが、ある老人が孫娘と写メールを交換していて、老人が返信の方法がわからなかったので、最後に矢口と飯田がそのやり方を教えてあげてついでに老人と一緒に写ったのを孫娘さんに返信していた。
 孫娘さんからは、すぐ喜びの返信が来ていたようだ。
 何はともあれ、普段あまりコミュニケーションがとれない家族と、こうしてやりとりしているオジサン達の姿に、ちょっと目頭が熱くなってきてしまうのを禁じ得ないのであった。

 もしかして近頃携帯メールによって、結構家族間のつながりが今までとは違う形で、少しづつ深まってきているのでは無いか、という気もする。
 こういうことだったら携帯の普及は賛成である。

 話は変わるが、稲垣吾郎ちゃんの復帰した「SMAP・SMAP」が2週連続で高視聴率を稼いだそうだ。
 吾郎ちゃんの事件については、結構影では「ゴロちゃん、ナイスっ!」と親指立ててこぶし出し〜のガッツポーズし〜の人が、沢山いるんではねえベかと思うべな。

「2002.1.23(水)」晴・巣鴨でヒント

 若い力と言うのは、やはり絶対的なときがあって、オジサン・オバサンばかりの集団よりも、やはり若い人がいた方が活気があり、何か未来があるのでは無いかと思わせてくれる。
 そんな時はついオジサン・オバサンは、もう自分達に往年のパワーが無くなったことを痛感し、来るべき時代を担う若者に向かって寂しげにエールを送ることしかできない。
 こうしてオジサン・オバサンは、自らの今までの人生を後悔し、後は死へ向かって行くだけの老い先短い自分の人生を、どうして食って行くか、ということに主眼をおいてワビサビながら、ある者は達観しながら生きて行くのだろう。

 この間また巣鴨を歩いたのだが、ここは老人達の街として有名である。
 僕は、ここを歩くと、そんな「老いさらばえた老人達の街」という感じは全くしない。
 むしろ何か非常に良い具合に盛り上がっているという気がする。
 若者の街のような慌ただしく混乱したようなイメージは無く、巣鴨には、若者すら受け入れてくれる程良い具合に熟成された上品な街の香が漂っている。

 僕は巣鴨を見て、これからの老齢化社会の在り方のヒントがあるような気がした。
 年老いた人がいるからと言って枯れたような感じは無く、むしろいつも程良く活気づいてる。
 この「程良く」というのが良い。
 他の活気づいている街は、どうしても汚くなりやすい。
 しかし巣鴨は街も奇麗なのである。ごく一部ちょっと独身男性を惑わす区画もあることはあるが、これまたうまい具合に17号線が、そこを仕切ってくれている。

 活気と美観が程良くバランスがとれていて、つい又足を運びたくなってくるのである。何より大層居心地が良い。買い物の用事が無ければ余り足を踏みこみたくない慌ただしい街もある中、ここは用事が無くてもぶらついてみたくなる。
 これはひとえに、この街を作って来た地元の人と、それを支えている老人達の力であろう。
 老齢化社会も巣鴨のような成熟された仕上がりを見せれば、全然悪く無いし、むしろそういう方向に進むべきだという気もする。

「2002.1.22(火)」晴・神田でほぼ夢どおり

 今日は神田のガード下の居酒屋に行った。
 値段は激安でも無いのだが、一品辺りの量が多く、総じて安くあがるので経済的なのである。
 それから何よりも素晴らしいのは、オヤジさんは厨房に引っ込んでいて、店の中の切り盛りはオネエチャン達に全て任せている。実にオジサン心を掴んだ味な経営方針である。

 ま、そんなことはいいのであるが、つい先日こんな夢を見た。
 それは「キャイ−ンの天野君と実家の近所の自転車屋でおでんをつつきながら、新しい店を出す話をしている」というものであった。

 たぶん、この夢は、今日の神田の店に行ったことだと推測される。
 「キャイ−ンの天野君」は、たぶん今日一緒に行った職場の先輩で、眼鏡を掛け丸顔で少しポチャっとしているところが、天野君になってしまったと思われる。それと会話の主導権が先輩にあったことも、ウドちゃんと天野君の関係から暗示されていたとも言える。
 「実家の近所」というのは、場所が電車一本で行けて職場から比較的(心理的に)近かった、ということ。
 「おでん」は、まさに酒の肴だが、今日はおでんでは無く、寄せ鍋であった。鍋物と言う所までは当たっていたようだ。
 「新しい店」というのは、自分のとこの会社の今後の話だったかもしれないし、先輩が言っていた「新しいオネエチャンのいる安い店の開拓がしたい」という話だったかもしれない。どちらかはハッキリしない。
 残ったのは「自転車屋」なのであるが、これはちょっと謎である。なぜ「自転車屋」になったのだろう。
 強いてこじ付けると、今日の店が不景気で実の所「自転車操業」なのか?、まあこれは聞いてみないとわからぬし、たぶん違うだろう。

 ちなみに今日の飲み会は、予定していたものでは無く、帰ろうとした際先輩に誘われ、それで決行に至った。
 まあ、言わば突発的に発生した事象であるが、こうして夢に予言されていたのでは無いか?と考えると、これも運命のシナリオの一つとして、今後何か意味のあることでは無いかと思われてくる。

 しかし大事なのは、この夢を見た時に、実際僕が何をどのように感じ、どうすればいいのかということを考えていたか?ということなのであるが、それは残念ながら記録に留めておかなかった為、スッカリ忘れてしまった。ここが夢判断の一番のポイントで、注意すべき点なのだが・・・。

 それにしても今日は午前様に近く些かキツめ〜。しかも今日もまたこれから洗濯物干さなくちゃ・・・トホホ。

「2002.1.21(月)」雨・ワグネル&寅さん

 ドイツの作曲家、リヒャルト・ワーグナーの残した作品は、ほとんどがオペラ・楽劇と呼ばれるものである。
 特に楽劇と呼ばれている作品が重要で、どれも大作であるが、特に「ニーベルングの指輪」なぞ上演に四日かかるくらいで、これを最初から通して聴くことなんて、これから一生の間に一体どれくらいあるのか?考えてしまうくらいである。
 きっとワーグナーを本当に理解しようと思ったら、バイロイトまで赴いて音楽祭で、この「指輪」あたりをジックリ堪能しなければ、ワーグナーの真意を理解することはできないのかもしれない。

 それでも我が日本は恵まれていて、ちょっとお金を出せば、ワーグナーのCDやビデオ・DVDの類いも入手できるし、テレビで作品を放映する時もあるので、それらを見ることもできる。だからもしかしたらオーディオの未発達だった時代の人より、よっぽど回数だけはワーグナーを見たり聴いたりできているのかもしれない。

 そんな中今、ベルリン国立歌劇場が指揮のダニエルバレンボエイムと共に来日しているらしい。
 なんとワーグナーの「ニーベルングの指輪」を上演するのである。
 僕もこの機会だから是非とも行ってみたかったのであるが、チケットの値段を見て腰を抜かし、敢え無く断念した。
 「ニーベルングの指輪」はワーグナーの中でも随一の大作で、とっつきにくそうなイメージがあるが、現代の「スターウォーズ」や「インディージョーンズ」などを知っている我々には、むしろかなりとっつきやすい作品では無いかと思われる。同期のイタリアのやはりオペラの大家ヴェルディのオペラよりもとっつきやすいのでは無いかとも思われる。
 まあともあれ音楽はできれば生で聴きたいものである。バイロイトにはきっといつか行ってやる、と心に誓うのであった。

 ところでワーグナーも、ショパンと同様僕にとっては不思議な作曲家である。 
 作品を抜きにした時のワーグナーのイメージは、どちらかというと良く無い。
 女性関係もルーズだったと聞くし、自分の芸術の為に税金を湯水のように使いヒンシュクを買ったり、極めつけは、あのヒトラーがワーグナーを愛好した為に、まるでワーグナーが影の戦犯であるかのような酷いイメージまで植えつけられてしまったりしている。
 音楽的にもワーグナー派かブラームス派か、などと論争の中心にいたし、あのドビュッシーなぞ、可愛さ余って憎さ百倍ではなかろうが若い頃は熱愛していたのに後年、手のひらを返したように反ワーグナーの立場に身を転じて行くのである。
 確かにワーグナーによって音楽は俗っぽい方向にいかなかったか、といわれると、否とは言え無くなるかもしれない。

 しかし僕にはワーグナーの、あの音は絶対無くてはならない。
 しかもワーグナーは台本も自分で書いている。これはちょっと考えても大したことである。きっと現代なら映画を作っていただろうと思わせるものがある。
 それから自ら招いたとはいえ、ワーグナーは生涯借金に追われたり、いろんな人に追われたり、常に苦労していたようである。
 だからワーグナーは憎めないやつなのである。
 外野からの声は非難轟々でも、残したモノはかけがえのないものである。
 このギャップはあの「寅さん」にも通ずるものがあるのである。
 ん?無理矢理オチ付けようと、こじつけたなだって?。しまった・・・見破られたか・・・。

「2002.1.20(日)」晴・それでも幸せ

 マクドナルドや電車の中などで、時折すぐ横に女子高生くらいのグループと隣になる時がある。
 図らずも彼女達の会話が聞こえてくるが、その会話は途切れが無く延々と続く。
 大抵爆笑なども挿み、かなり盛り上がっている。
 話題は、卒業生に贈る景品のこと、部活の先輩のこと、テレビの話題など様々である。
 中には顔は幼そうなのに、確固たる方針をお持ちで、なかなか自説をお曲げにならないように見える御方もいらっしゃる。
 それぞれも、よくもまあシラフであれだけ雄弁に饒舌に己を主張できるものだと感心するのである。

 ところがたまに、これだけ盛り上がっている会話が、突然プツッと途切れることがある。
 先程の喧騒が嘘だったかのようにシーンと静まり返り、お互いあらぬ方向を向きだしたりなどし、中にはあろうことか僕の方をを向く者さえいる。
 こんな時当人達が気まずくなっているのは勿論だが、横にいる僕まで気まずくなって来てしまう。
 どうかすると僕が何か喋らなくちゃいけないかのような錯覚に陥ってしまう。
 僕もそれまで彼女達の会話に意識を集中していた為、突然沈黙が訪れた際に急に彼女達から意識を逸らすのも結構難しいというか、変な感じになる。心の中では「え?オレの番?」みたいな状況になっちゃってるのである。

 それまで彼女達の会話を聞いていたから、一応なぜか彼女達と同じ空間を共有してしまっていたらしいのである。
 従って突然の沈黙までも共有しなければならないハメになるのである。

 まあ、でも気まずいと言った所で、可愛い女の子達との空間共有での出来事なので、なんら問題は無い。
 これがオヤジの激悪な口臭の共有などとなったのであれば、事態は全く最悪の展開となるのである。

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