Monologue2001-35 (2001.6.8〜2001.6.11)

「2001.6.11(月)」晴後曇・幻想阿波踊り

 昨日ショパンの「幻想ポロネーズ」について言及した際冗談で、日本ならさしずめ「幻想阿波踊り」みたいなことだ、などということを述べた。
 その後、ふと「そう言えば”幻想阿波踊り”なら、あったあった!」と、あるロックバンドの曲を思い出した。

 それは英国の往年のスーパーハードロックバンド、レッド・ツエッペリンの曲で「フレンズ」という曲なのである。
 今手元に資料が無いので、この曲をツエッペリンが意識して阿波踊り風にしたのか、偶然そうなったのかというのが定かでは無いが、確かにサウンドは阿波踊りのリズムである。

 きっと阿波踊りを幻想風にしろ、といったらこうなるという良い見本であろう。
 当然ツエッペリンの音楽なので、他人が口を差し挟む余地の無い緊張感のあるカッコイイ仕上がりになっている。
 興味のある人は是非聴いてみてもらいたいもんである(サードアルバム「LED ZEPPELIN 。」A−2に収録)。

「2001.6.10(日)」曇一時雨・幻想的舞曲

 クラシック音楽と言われているジャンルの中で、ショパンが好きというと、何か今さらながら恥ずかしいような照れ臭いような気もするが、確かにやはり良いものは良いと認めざるを得ない。 

 そんなショパンの作品の中でも代表的なジャンルがポロネーズである。 
 その中でも僕が愛聴するのが「幻想ポロネーズ」である。

 ポロネーズとはポーランドの代表的な舞曲の形式であるが、それが「幻想」なところが僕としては良い。
 ちなみに「幻想」とは「幻想曲風の」ということであろう。
 「幻想曲」は広辞苑には「 楽想の自由な展開によって作曲した形式不定のロマン的器楽曲。古くは模倣対位法による楽曲の一種。ファンタジア。ファンタジー。」とある。

 和風で「幻想ポロネーズ」的なことをやるとすれば、差し詰め「幻想阿波踊り」みたいことになり、何か非常に不具合なことになりかねない気もする。
 幻想的な阿波踊りなど想像もつかぬが、只あったら見てみたく無くも無い。
 幻想だから、踊る阿呆だか見る阿呆だか何がなんだか訳がわからなくなり、とにかく阿呆、みたいなところだけはハッキリしている、のかなあ〜〜???、なんてことになるのであろうか。
 形式不定の阿波踊り、なんてことになると、さぞかしメチャクチャな阿波踊りになることも予想される。
 まあ阿波踊り自体最初からメチャクチャ要素を持っていないと言え無くもないが。

 ともあれ、かように「幻想+阿波踊り」では、どうもいろいろと心配になってきてしまうが、これが「幻想+ポロネーズ」になると、一気に芸術作品まで高まってしまうのだから大したもんである。

 ポロネーズとは元来「行列舞曲」なのだそうだが、このショパンの「幻想ポロネーズ」は、全く行列には向いていない
 有名な「英雄ポロネーズ」や「軍隊ポロネーズ」のような躍動感は無く、時には進み、時には休み、そして時には漂い、まさに幻想と現実の狭間に自由にたゆたいながら、ポロネズっているのである(なんじゃ?そりゃ)。敢えて言えば彼岸の行列と言えなくも無い。

 僕にはこの曲の自由で幻想的な間合いが非常に心地好い。
 ポロネーズ自体は壊れかけているかのように聞えるが、その、時としてたどたどしくもあるような壊れかけたリズムの中に、核心だけを残したポロネーズの背後に見え隠れする別世界のテンポが生まれて来ているかのようであり、更にはその上で自由に鳴り響く幻想的和音の流れが、ある種の陶酔的な情景を形作っていく。

 ここには既に現世的舞曲を越えて、何か異次元に誘われていくかのような芸術家の姿が垣間見える。
 この感覚を表現するのには、自分の愛する祖国の愛すべきスタンダードな舞曲が手段としては適切だったのであろう。
 それが現世的な、いわゆるポロネーズという舞曲にはならずとも、或る意味では充分舞曲であったのであろう。
 だから本来「幻想風」では困るような、むしろ「幻想」とは対極に有るような「ポロネーズ」が「幻想」になったところで何ら問題は無かったのだろう。
 ここでは「幻想」と「ポロネーズ」の見事な融合が有る。
 そしてそこで踊っているのは、既に生身の人間では無く、異次元の存在達なのかもしれない。
 すなわちこのポロネーズは、そうした存在達の為の舞曲なのかもしれない。

 ・・・などと独断で勝手に解釈してしまったが、そんなように僕の想像力を喚起するところが、この曲の魅力なのである。

「2001.6.9(土)」曇後晴・どうしたいわけ?

 モテナイ独身エトランゼ(僕のこと)などに対して、見えないバリアのあるお洒落な店などは是非ともバリアフリーにしてほしいなどと常日頃思っているのであるが、それとは逆にモテナイ独身エトランゼ的世界側から、是非カワイイ女性に対しバリアをフリーにしたいのだが、どうにも頑強なモテナイバリアのかかってしまっていてカワイイ女性が寄りついてくれないような場所が幾つかある。

 その代表的なスポットの一つが「駅の立ち食いそば屋」である。
 立ち食いそば屋でそばをススっているカワイイ女性をあんまり見たことが無いのであるが、僕の気のせいであろうか。
 おそらく女子大などの女性絶対数の多いスポットが最寄りにある駅などでは、もしかしたら見かけられるかもしれないが、僕の良く行く都内の駅では滅多に見ない。

 同類のスポットとしてかつて牛丼の「吉野家」があったが最近なぜか彼らは我々モテナイ界から縁を切ろうとしている気がある。
 確かに僕が上京してきた1980年代前半頃には吉牛に入る若い女性など滅多に見かけなかった。
 いてもギャグのネタにされるのがオチであった。
 しかしここ数年は「吉野家」「松家」などの牛丼筋の連中はモテナイ独身バリアの醸し出すイメージから脱却を図り、今やこれらの店に若い女性がいても全く違和感無い、というまでに成長した。
 かくして「吉野家」「松家」などの牛丼筋の連中は見事に若い女性に対してバリアをフリーにすることに成功したのである。
 もう過去の僕たちモテナイ独身青年のオアシスであった時代は汚点として切り捨て、今時の女性にドンドン媚を売っていこうという姿勢すら見える。そして過去不遇の時代を支えた僕たちに対して、君たちなど知らん、誰ですか貴方達は?的な雰囲気すら醸し出しつつある。んなこたー無いってか。

 ともあれ、最初からイメージの良い、カレーのスタンドショップなどは、そんなの当たり前じゃんという感じで最初から女性の誘致に成功している。
 なぜ蕎麦はいかんのか?

 僕としては僕もこよなく愛用している「駅の立ち食いそば屋」にも是非ともカワイイ女性を誘致したい。いやカワイクなくてもいい。ある程度適齢の女性なら積極的に誘致してみたい。

 現状「駅の立ち食いそば屋」ではかなり強烈な「バリア」が張られていることと思われる。
 それはオヤジバリア、貧乏バリア、忙し時間無しバリア、俗バリア、そしてモテナイバリアと、これだけ強烈なバリアが各種張られてしまうと強力な波動砲を有する宇宙戦艦ヤマトでも容易に突破するのは困難である。ましてやカヨワキ女性などとても入り込める余地は無い。

 女性が好むものは何か?
 いろいろと挙げられるが、代表的なものとして「美形の男性もの」「等身大もの」「癒し系のもの」などが挙げられる。
 上記を満たす条件を保持したものとしては、やはりジャニーズモノなどがその代表例として挙げられるであろう。
 今を時めくキムタクなどは視聴率男と呼ばれ、その出演するドラマ・バラエティなどは常に高視聴率をはじき出し、世の女性のハートを捉えている。
 ここでキムタクに「駅の立ち食いそば屋」のCMに出演してもらう、という案も考えられる。
 しかしこの案には「駅の立ち食いそば屋」業界がキムタクに出演交渉できるだけの力があるかどうか、というところから始めなければいけないというハンディがあるので、実現は困難と見た方が良い。

 そういえば最近京王線で女性専用車両が導入されたが、いっそのこと立ち食い蕎麦にも女性専用時間、女性専用席などを設けてみてはどうか?という、ちょっと本気と書いてマジな策も無いでも無い。

 ・・・こう書いて来て、僕は重大なことに気づいてしまった・・・。
 カレーなどは女性にも人気が有る。
 蕎麦と同じ麺類のラーメンやパスタ、更にはうどん等も人気絶大で、テレビで良く特集をしている。
 しかしそう言えばそれらに比べたら、蕎麦が女性に人気が有るということで取り上げられる、というのは極端に割合が少ないのでは無いか・・・。

 つまりである。
 元々、蕎麦は女性の嗜好とは、ちょっと違う、これは取りも直さず、僕の嗜好と女性の嗜好が最初から微妙にズレている、ということでは無いか・・・。
 これではいくら回りを固めて立ち食いそば屋に女性を誘致した所で、僕と女性がシンクロすることは無く本懐すなわち「モテタかった」という願望は遂げられることが無い。つまり意味が無いのである・・・(あれあれ、又結局そこへ行ったか)。

「2001.6.8(金)」曇時々晴・洗濯への苛立ち

 休日洗濯をしたが、その他の雑事などをする内に干すのを忘れ、そのまま就寝時間を迎える。
 布団に入った途端、洗濯物を干していなかったことに気づく。

 この時の衝撃・落胆・絶望・ストレスといったら無い。
 こんな時例えば明日も休みだったら「しょうがねえな、干すか」などと気楽に対処できる。
 しかし特に明日から仕事で嫌な1週間が始まる、なんて時は特に失望は大きい。
 夜も更け、睡眠時間がそんなに取れない状況の場合など更に失望は大きい。
 思わず布団の中で顔が精神的苦痛に歪んでくる。
 「ダメージ」という言葉が実に適している。

 かような際、下記のような2種類の選択肢が目前に提示される。
 1.干す。
 2.放っておく。

 2を選択した場合は、精神衛生上は比較的良いものがある。
 いわゆる衛生上多少問題が生ずる場合もあるが、モウイイッ!嫌なものは後回し!、ということで、多少気分は楽になる。

 1.を選択した場合は、精神衛生上非常に宜しく無い。
 1を選択するということは2を選べない程事態が差し迫っているのであるから、尚更ストレスは大きい。
 せっかく眠りにつきウトウトしていた折りに、このショックであるから、目が冴えて眠れなくなってしまう場合も多い。しかも干す作業は大抵20分くらいはかかる。深夜の、それも明日から仕事と言う日の深夜の20分は非常に大きい。

 なぜそんなに嫌なのか?
 それはこれらの作業が概して思い通りにスムーズにいかないことによる。
 まず洗濯機から衣類を出すのが辛い。
 衣類達は脱水後状態につき、お互い絡まり揉み合い混乱の極みを呈している。
 無理やり引き剥がそうとすると、時には破れ引き千切れ、時には洗濯機から飛び出て冷蔵庫との隙間に落ち、セットしてあったゴキブリホイホイの上にパサッ、などと落下したりする。ついでに埃も付着する。
 靴下の類いは、左右が揃って出てくることは無い。
 必ずてんでばらばらに出てくる。
 あるペアの片割れは極初期に現れ、もう片方は発掘の最晩期になってやっとのことで出現したりする。
 思わず「テメエラッ、ペアなら一緒に出てこいッ!!」などと、無機物の靴下には全くの無理難題を吹っかけたりする。

 こうしてともすれば苛立ちで爆発寸前になる己をなだめなだめ、ようやく他の衣類から引き抜き出したワイシャツなどを、半分涙目になりつつも干す作業に着手しようとする。
 しかしこんな時に限って、干そうとしたワイシャツの袖の左右どちらかだけが裏返っていたりするのである。
 この「左右どちらかだけ」というところが、無性に神経を逆なでるのである。
 全部裏返ってしまっていれば、そのまま干しちゃうのであるが、片方だけだと、どちらかに統一しなければならず、それがどう言うわけか、異常に面倒臭く腹立たしいのである。
 たぶんその作業をする際に、部屋が狭いので、どこかに衣類が当たったりして、何かが崩れ落ちたりするからだと思う。或いはそうならない為に気を使うこと自体ストレスが溜まり、既に腹立たしいのである。

 当然衣類は全て狭い室内の限られたスペースに干す。
 元より僕の部屋は室内に洗濯物を干す、などという事態に対して作られてはいない。
 元々洗濯物の入り込む余地が無いところに無理矢理干すのだから、当然他の家庭用品などと洗濯物が互いにスペースを争うことになり、必ず積み上げてあった書類・消耗品の類いの荷崩れ、電気製品の転倒などが必須の事態として発生してくるのである。
 更にこんな折りワイシャツのポケットから、皺クチャに丸まったハンカチやボロボロになったレシートなどが出て来たりすれば、もうパーフェクトである。

 そうこうしている内に、少しでも睡眠時間が欲しい折り、なんでこんな夜更けに家事に時間を費やさなければいけないのか?という無念・怒りがフツフツと込み上げてくる。
 その家事のスムースな遂行を妨害する感すらある洗濯物達の混乱した姿、更にはその家事のスムースな遂行を妨害する感すらある狭い部屋と雑多に置かれた沢山の物。
 こうした状態を目の当たりにするにつれ、沸き上がってきた怒り・ストレスは差し当たって手近な洗濯物にぶつけられる。
 手にしたワイシャツに向かって「テメエ、ワイシャツの分際で、オレの手を煩わすんじゃネエっ!!」などと罵りながら、床や壁、或いは洗濯物の山に向かってまだ湿ったワイシャツを叩きつける、などという経過も挿み、最終的には側にあった次回洗濯行きのバスタオルなどを洗濯カゴに叩きつけるように投げ込む、というとこまで来て、ようやく今回の洗濯干しも無事(?)終幕を迎えることとなる。
 ワイシャツなどには何の罪も無いが、普段小心者のモテナイ独身エトランゼ(僕のこと)は、ここぞとばかりにこの無抵抗の衣類に対して怒りをぶちまけたりすることで、そのストレスを発散しているようである。
 洗濯後の衣類は水分の為適度に質量感が有り、適度に力を吸収してくれるのでモテナイ独身エトランゼが怒りをぶちまけるのには意外にちょうど良かったりする。

 しかしながら自分で薄々気づいてはいるが、この怒りは実は「洗濯」自体への怒りでは無い。
 たぶん今の自分の仕事・住居・生活、つまりは人生が思う通りにいかない憤りを、しなければいけない雑事の代表格でもあるような「洗濯」などに代替としてぶつけているにすぎない。
 そんな訳で、申し訳ないがワイシャツには当分床に叩きつけられる役を負っていただくしかない。
 なにせワイシャツは思い通りに行かない「仕事」の象徴なのだから。

 ここで一句。
 丑三つに、洗濯物に八つ当たり、何の騒ぎと草木も飛び起き。

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