Monologue2001-32 (2001.5.23〜2001.5.27)

「2001.5.27(日)」曇・乾燥剤

 海苔を完食した。何の変哲も無い普通の家庭用の細切りタイプのものであった。
 食べ終わって外袋を捨てようとした時、なぜかふと僕の手が止まった。

 海苔のようなものだと大抵湿気予防の為に中に乾燥剤が入れてある。
 その海苔にも、もちろんそれが入っていたのであるが、なぜかその時はその乾燥剤が妙に自分の存在をアピールしていたような気がした。
 「こんなに働いた俺達を無視して、そのまま捨てちまうなんて、余りにもつれなくねえか?」などと言っているような気がして、僕はすぐに処分してしまおうとしていた手を止め、その乾燥剤を袋から取り出してみた。

 袋から取り出して真っ先に目に飛び込んできたのは注意書の「食べられません」という、やけに断固たる意志を持ったようなフレーズであった。「まず言っとくけど、食べられないからね、オレ達は。そんじょそこらの自分じゃあ湿気も取れねえような未熟者の食べ物と一緒にしてもらっちゃ困るんだからね、オレ達は。」などと言っているような気もした。

 それからそれと同じような断固たる枠組の中に「禁水」というちょっと見慣れぬ言葉が出てきた。
 どうも水分と一緒にしてはいけないということらしい。
 乾燥剤と水とは確かに犬猿の仲であることはわかるが、そのようなわかり切ったことを、なぜ敢えてここで注意書くのか?
 その下の注意書の中に、その解答が記述されていた。
 なんとあろうことか、水に触れると乾燥剤が発熱してしまうらしいのである。
 「直接水ぶっかけるなんて聞いてねえっ!!、卑怯だぜっ!!」などと言う風に怒り狂ったあまりに熱にうなされちゃうらしいのである。
 それほどまでにヒートするところをみると、よっぽど水が嫌いなのだろう。

 それからこの乾燥剤の意外な素性もわかった。
 彼はどうやら「生石灰」だったらしい。
 石灰にも「生」があるのか、などと意外な豆知識を得たが、生で無い石灰と生石灰が、どのように違うか、ということまでは、とても分かり得なかった。とりあえずビールに「生」があるように、石灰にも「生」があることは分かった。
 この生石灰、廃棄する時は可燃ゴミとして処理するよう書いてあるが、その他の処分方法として、なんと石灰肥料として使っても良い、とのことである。今までは頑固一徹・乾燥一筋に生きてきただけのヤツと思っていたら、他の用途もあるし、可燃ゴミとして処理しても良し、なあんだ、結構話の分かるやつじゃん、と少し見直したりするのであった。

 頑固一徹・乾燥一筋でも、少し話の分かる、言わば「良いオヤジ」的な乾燥剤であるが、そんな性格故、子供から良くからかわれるらしい。「子供のいたずらに注意して下さい」とある。
 近年オヤジ刈りなどと少年達のオヤジ攻撃が取沙汰されているが、生石灰もそうした危険に晒されているらしい。「注意して下さい」ということは、僕に呼びかけているらしいが、どうか子供の攻撃から生石灰を守ってやってほしい、とのことであろう。僕も思わず「御意」と頷く。一応回りに子供は居ないが、危険に合う前にゴミ袋に入れ、ちゃんと捨ててやる旨を誓った。

 注意書を読み進めて来た僕は、最終行で遂に、僕に注意を呼びかけ、生石灰を牛耳っていた黒幕の正体を発見した。
 その名も「有限会社 S石灰工業所」というものであった。
 遂に出てきたか・・・、という感じであった。
 海苔の外袋に記載されていた海苔屋とは明らかに違う、影の黒幕の登場であった。
 まさに「オレを忘れちゃ困るね」という感じであった。
 まさに、今まで僕を引き止めていたのはお前だったかっ!!的登場であった。
 火曜サスペンスなら犯人役の役所になりそうな感じであった。
 しかもこの黒幕、一人では無いらしい。
 なんと茨城・広島・熊本の3拠点にアジトを構えているらしい。
 無学な僕には茨城・広島・熊本の共通点はサッパリ分からない。どうも石灰の産地らしいことは想像がつくが、もしかしたら凡人の度肝を抜くような別の理由があるかもしれない。しかしながら当方エロビデオの処分に忙しく、それを確認する暇が無い為「黒幕3拠点の謎」は迷宮入りの気配を漂わせることとなった。

 その他、この注意書は日本語・英語・漢字(中国語)でも述べられ、日本語一ヶ国語しか駆使できない僕とは大違いの実に国際的な様相すら帯びていた乾燥剤だったことが判明した。
 僕は侮ってすぐ捨てようとしてしまった不明を恥じ、乾燥剤に丁重に詫びを入れた。
 そして注意書を読み終わった後、彼を優しくそっと送り出すようにしてゴミ袋に入れてやった(結局遅かれ早かれ捨てるわけね。ま、いいけど)。

「2001.5.26(土)」曇・非チェロ的環境

 できることならチェロなどを趣味として弾きたかった、などと良く思う。
 往年の名チェリスト、パブロ・カザルスが日課のようにバッハの無伴奏チェロソナタを弾いていた、などという逸話があるらしいが、僕も毎日チェロでバッハを奏でつつ、常無き人生に思いを馳せながら黄昏る、そんな暮らしがしてみてえ、などと痛切に思うのであった。

 ところが、ここでいつも水を指すのは「現実問題」というヤツである。
 まずチェロを弾きたい、というからにはチェロが必要である。
 チェロは無いけどエロはあるよ、なんてな訳にはいかない。
 チェロ入手には、やはり幾らかの金額が必要である。
 その金額も、ちょいと一回飲み代我慢して捻出しました、なんていうレベルの金額では到底足りない。
 下手すれば僕などの年収の何倍もの金額を用意しなければならないような目ん玉飛び出るような金額のものもあろう。

 まあ、まかり間違って運良くチェロが入手できたとしよう。
 今度は、そのチェロを弾く場所が無い。

 エロビデオの置き場に困っているような僕のような輩に、チェロの弾き場所など有る訳が無い。
 大体僕が住んでいるような独身住居者用の1K程度のアパートで、チェロなど弾くやつはいない。
 第一弾き出した途端近隣から苦情が出ることは確実である。

 「弾き場所に悩む前に、まず置く場所がねえだろ」問題もある。
 繰り返し言うが、エロビデオの置き場に困っているような僕のような輩に、チェロの置き場所など有る訳が無い。
 仮に無理強いして置いたとしよう。
 しかしチェロなどのように嵩張るものは室内移動の邪魔になるので、きっといつかは移動途中のコケにより醤油やカップラーメンなどをチェロの端につっかけてこぼし、チェロの真ん中に醤油ジミなどを作るだろうことは容易に想像できる。
 そしていつしかチェロの上は脱ぎ散らかした下着などで被われ、更にはチェロの回りに未読の書籍・エロビデオの類いが積まれ、いつしか「あれっ?チェロどこいったっけ?」状態になるだろうことは容易に想像できる。

 このようにチェロを黄昏ながら弾く為には、少なくとも「チェロ本体」「チェロ本体が格納できる充分なスペース」「チェロを弾いても隣近所に迷惑がかからない程度のスペース」の3点は必ず用意しなければいけないのである。
 要するに、金がかかる、いや、超金がかかるのである。
 「チェロを弾いても隣近所に迷惑がかからない程度のスペース」なんてのは、近隣の住居人が水洗便所を流す音が夜な夜な聞こえてくるようなアパートでは到底実現不可能である。
 少なくとも門から玄関まで幾らかの距離が有り、お隣さんは住所の番地が変わるくらいの広さのある邸宅でありたい。
 できれば「ちびまるこちゃん」の花輪君のように「爺」も付けたい。

 まあ冗談はさておき、まかり間違って運良く上記3点セット全てが入手できたとしよう。
 しかし、これだけの恵まれた条件を整えてもらったにも関らず、チェロで「”猫フンじゃった”しか弾けない」では困るのである。
 最低サン・サーンスの「白鳥」くらいは弾いてみたいもんである。
 そうなると、当然何らかのチェロ教育を、どこかで施さなければいけない。
 チェロくらいになると、どこかで個人教育ということになるだろうから、その指導料もいくらかかかるであろう。
 できるだけ安くあげたとして、まあそんなものがあるのかわからぬが、仮に通信教育チェロ講座でも運良くあったとしても、それでも多少なりとも費用はかかるであろう。
 要するに、どう転んでも金がかかるのである。
 じゃあ、結局金持ちしかチェロは弾けねえのかよ、などと腹立たしくもなってくるが、確かに金持ちかどうかは別にしても、僕の現在の生活状態や人となりを第三者が客観的に見て判断した時に「この人チェロの似合う人」と判定してもらえるかは甚だ疑問ではある。

 きっとチェロが心置きなく弾けるということは、自分も回りも全てがチェロに相応しい、それなりのチェロ的環境になっているということなのだろう。
 もちろん、このモテナイ独身エトランゼ(僕のこと)の現環境はチェロには全く相応しく無い。
 チェロには程遠い。「チェロ」と言うよりかは「エロ」に近い。

 長いチェロまでの道に至るまでには、様々な課題を解決していかなければならない。「エロ」を脱却し「チェロ」にまで至らなければいけない。
 差し当たっては、どう贔屓目に見てもチェロ的とは言い難い、どちらかと言えば非チェロ的な「エロビデオ」の処分、という優先課題あたりから着手していかねばならなそうである。

「2001.5.25(金)」晴・興味

 街道への興味というのは、ひょんなことから沸いて来る。
 例えば、とある街があり、その街では道が縦横に整然と通っており区画整理がなされた様を呈している。
 しかしその中に一本だけ不自然に斜めに貫通している道がある。
 なぜだ?なぜここだけ斜めなんだ?。
 何なんだ、この不自然な入りの仕方は?。

 これが街道への興味の第一歩となる。

 よくよく調べると縦横の道よりも、この斜めの道の方が先に存在していたものだということがわかる。
 縦横の道はずっと後になって区画整理でようやく造られたものであった。

 更に調べると、斜めの道は辿っていくと実は延々と別な街まで達していることがわかる。
 それにその道沿いには結構民家が立ち並んでいて古くから人が住み着いている形跡を示しているところもある。

 どうやらこの斜めの道は、この街と別な街を結んでいた古い街道の名残らしいということがここでわかる。
 よくよく調べると、こちらの斜めの道にちゃんと旧街道の旨を示す石碑などがあることがわかる。
 そこまでわかった時に、なぜか嬉しいようなワクワクするような胸の支えが取れたような、様々な思いになる。

 と、まあこんなことに興味を抱く自分は、まだ少年の頃のような好奇心を失ってはいなそうだ、などと一安心したりするのである。

「2001.5.24(木)」雨・意義

 少し前になるが、今年の1月31日の朝日新聞に朝日賞を授賞した作家井上ひさし氏のコメントが出ていた。
 全文の内容は端折るが、その中に非常に感銘を受けた記述があった。
 氏は若い頃出会ったアメリカの女性大衆詩人エラ・ウィーラー・ウィルコックス女史の「ソリチュード」という詩を引用し、その詩の意味を「悩み事や悲しみは最初からあるが、喜びはだれかが作らなければならないという詩」だとし、それを受け自分はその「喜びのパン種である笑い」を作りつづけて行く決心であり「笑いで涙を減らしたい」と語っていた。

 「この地球は涙の谷
  悩み事や悲しいことでいっぱいだ
  そこで喜びはどこからか借りてこなくてはならぬ
  その借り方は−あまり有効な方法ではないが、しかしこの方法しかないので、あえていうが−とにかく笑ってみること
  笑うことで喜びを借りてくることができる(訳:井上ひさし氏)」

 僕は成る程な、と思った。
 悲しみや悩みをを幾ら作り出した所で、もうそれは飽き飽きするほどこの世に溢れている。
 笑いが大切なのは、この世には悩み事や悲しみが最初から沢山あるからなのかもしれない。
 そして、ひいては「創造」に価値があるのは、悩み事や悲しみが最初から沢山あるからなのかもしれない。
 更にこの記事を読んで僕は、もしかしたら「生きていく意義、地球に生を享けた意義」とは「最初からある悩み事や悲しみの世界の中に、何かどんな形でも良いから喜びを創造していくこと」なのでは無いかとも思えた。

「2001.5.23(水)」雨・台地

 僕は学校時代の社会科教育で「平地には人が住み着き易いので平野部分に大都市が多い」などと習った気がした。
 しかしこれは実に大雑把でいい加減な記憶だということをつくづく思わざるを得ない。
 こういうことだから、僕はてっきり東京は関東平野の一部で真っ平らな場所だとばかり思っていた。

 これは大間違いである。
 東京にも確かに平野部もある。
 江東区や江戸川区などの東側の区域などがそうである。
 しかし有名な新宿や渋谷などは平野などでは無い。
 歴とした台地なのである。
 東京の主要部分は台地状地形なのである。

 僕の育った郷里は海沿いの街で純然たる平地だったので街の中に坂などは無かった。
 東京もそういう場所だとテッキリ勘違いしていた。
 しかし東京には至る所に坂が有り、地名には「谷」「台」「山」など台地地形を示す証拠が沢山有る。
 僕の郷里の単調な地形と違い、東京では台地が侵食された結構複雑な地形が各所で見受けられる。

 こうして純平野部で育った僕は、東京の台地地形が物珍しく感じている。
 そもそも台地地形上に街が出来るということに、意外感があり興味をそそられている。

 僕が街道や街を散策する時は、こうした地形にもかなり目がいく。

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