「2001.4.29(日)」雨・デルバンAで一筆
いつもはちょっとした切り傷やかすり傷程度であれば、「舐めりゃ直るら」(うわっ!・・・静岡弁です=「舐めて置けば直るでしょう」の意)などと、ほとんど何も手当てもしない状態だったが、事情が有った為全く久しぶりに親指の切り傷にバンドエイドを貼ってみた。
ところで帰宅しシャワーを浴びながら指に貼られたバンドエイドを見つつハタと困ってしまった。
しかし僕がバンドエイドに大分ご無沙汰している間に「バンドエイド事情」もきっと変わっているに違いない。
・・・などと書いてしまったが、実は今日バンドエイドを貼ったとは言っても「バンドエイドさん!。今まで貴方のお力を見くびっていました。すみませんでした!。今こそ貴方のそのお力をお借りする時が来ました。お願いですので私を助けて下さい!」などと言うような切羽詰まったようなものでは無く、「そういやオマケでバンドエイドみたいのあったっけな。とりあえず貼っとくか」程度のものであった。
今気がついたが、僕はウッカリずっと「バンドエイド」という呼称を使って来てしまったが、果たして良かったのであろうか?
余談であるが、昔僕はこの類いのものを「ハンザプラスト」と称していた気もしてきた。
慌てて、この僕が貼ったものの入っていた外袋を見ると、なんとこれは正式には「デルバンA」と称することが判明した。
僕はコッソリインターネットで「バンドエイド」を検索してみたところ、割と真っ当に沢山出てきたので何とか「バンドエイド」という呼称は今でも巷にキチンと流布されているようであった。これで一先ずホッとする。
そもそも僕が貼ったこの「デルバンA」はなかなか優秀で、今日一日で何度も手を洗浄する機会があったが、全くビクともせず貼り着いている。
しかしながら昨今はO157などの得体の知れない雑菌の悪影響などがいろいろと取沙汰されなどしている中、バンドエイド、いやデルバンAは最低一日単位で取り替えないと、PTAの恐いご婦人方に「不潔ざますっ!!すぐ取り替えざますっ!!」(一体いつのどこの人達なんだよ・・・)とお叱りを受けそうでもある。 キチンとした正式のバンドエイドなら外箱に注意書があるであろうから、僕の逡巡に歯止めをかけてもらえたかもしれぬが、この「デルバンA」にはそうした説明は一切無く「使い方くらい知っとけよ」的にアッサリとした体裁の袋のみがあるだけである。 結局僕は寝る前に気持ち悪かったのでデルバンAは剥がしてしまった(そうきたか)。
ところがもう一度指を良く見たら、肝心の傷口が、なんと変色した部分の境界線上にあるでは無いか!
やれやれ、また下らんことでページを割いてしまったか。寝ますので、おやすみなさい。 |
「2001.4.28(土)」晴・夜景で一筆
僕の居住地の近辺は割と小高い丘などが沢山有り、晴れた日には新宿西口の高層ビル街や池袋のサンシャインなどが見える。
まあ、それは良いとして、この辺り景色が良い為、夜も意外に夜景が美しかったりする。
ところで、なぜ夜景というのは美しいのだろうか?。
光は理想・希望の象徴である。
・・・などと今日は詩的に叙情的に(ハッキリキザと言え!)、どうでもいいことに理屈づけを致してみました。 |
「2001.4.27(金)」晴・聴きすぎに注意
毎日の生活に行き詰まると何か自分が干からびてしまったように感ずる。
人間喉が渇く。
水とは自然のものである。
かくいう私めは、ちょうどさっきモーツアルトの「ピアノ四重奏曲第一番K478」の第二楽章、「弦楽三重奏のためのディヴェルティメント変ホ長調K563」、「ピアノ協奏曲第十五番K450」の第二楽章、などを聴いて、ベクトルを正しい位置にまたリセットしたところである。 只難点はこれらを聴きすぎて夜更かしすると、せっかく戻したものも、それが原因で”う〜し〜ろーにーベ〜ク〜ト〜ル〜、向くのだビヨーン”になってしまう恐れがあるので、それだけはくれぐれも注意したい。 |
「2001.4.26(木)」曇・ある日突然
僕は小さい頃かなり好き嫌いがあったように記憶する。
ところがこれらは、全く好きになる努力もせずに、二十歳くらいから自然に食べられる様になっていた。
こう考えると野菜などは、もしかしたら子供に無理やり食べさせなくても、いつか自然に好きになるかもしれない、などとも思う。 ところで僕には実はまだ食べられないものがある。
最近もしかしたら、これらは野菜がかつて自然に食べられたように、もっと年をとると自然に食べられる様になるのでは無いか?と淡い期待を抱いている。
そんな訳で以下は和歌のように五七五七七でお願いします。
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「2001.4.24(火)」晴後曇・青空と人生と
先週「明日があるさ」という歌がヒットしていることを少し述べた。
歌に「どちらかと言えば明日肯定」と「どちらかと言えば明日否定」という区分けを、そんなものができるのかはわからんが、仮にしてみると「明日があるさ」は「どちらかと言えば明日肯定」系になる。
ところで「どちらかと言えば明日否定」系というのもある。
昔は良く助けられたそんな「どちらかと言えば明日否定」系の歌があるのであるが、オフコースの「青空と人生と」という歌がそれで、中にこんなフレーズが出てくる。 ”あなたが思うほど私は強く無い
それでも私はうたいつづけてゆけるだろう
明日という時間は時に恐怖と不安の時でしか無い時があるが、自分には歌がある。
元来音楽好きの僕が、このようなフレーズにマイッチャッたことは言うまでも無い。
ちょっと勝手な推測になってしまって申し訳無いが、この歌の作者小田さん(小田和正)は「明日があるさ」のオリジナルを作詞した青島幸男氏の世代の下の世代(団塊?)である。
なんか書いている内に次第に理屈っぽく難しくなってきてしまったが、そろそろ考えるのが面倒臭くなってきてしまった。眠くもなってきてしまった。この遅い時間、明日を考えると憂鬱になってくる・・・いやいや僕には歌がある・・・
と、まあ結論から言えば良い歌は良い、ということである、というところに落ち着きたいと、かように思う次第である。
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