Monologue2001-23 (2001.4.13〜2001.4.18)

「2001.4.18(水)」曇・都市的問題

 暖かくなったはいいが、またゴキブリなどの昆虫達に悩まされる季節になるので今から早くも憂鬱である。
 たぶん自分の家が広くてユッタリしたスペースだったら、あまりこの種の問題・悩みは起らないような気がする。

 そうなのである。
 家にいて動くと何かに引っかかって物が崩れ落ち、そこで激怒したり、未読の新聞が未読の本の上に重なっていたり、いろんな小物が奥に入ってしまって出てこなかったり、物が動かせなくて掃除をする気が消失したり、目の届かない箇所が有りすぎて昆虫の発生・不法侵入が未然に感知できなかったり・・・
 そうした家の中のあらゆるコマゴマと僕を苛立たせるトラブルを引き起こしている要因は全て「スペースの無さ」なのではないかと思える。

 「スペースの無さ」がトラブルの要因だなんて、まるで都市型社会の悩みそのもの抱えているようである。
 「スペースの無さ」がトラブルの要因だなんて、まるで都市型社会を象徴しているかのようである。
 するってえとお、オレってもしかして都市型人間?、英訳するとシティボーイ、オレってシティボーイ!?(シティ・オジサンだぞ!、の声有り)
 ・・・などと今ではすっかり死後になった昔のモテル男性の呼称を呟くともなく呟くのであった。

 ちなみにまあ、強いて言えば「ゴキブリにまみれた都市」のボーイ、すなわち「ゴキブリシティ・ボーイ」などとは言え無くは無いかもね(「ゴキブリシティ・オジサン」だぞ!、の声有り)。

「2001.4.17(火)」晴・高齢化社会

 来る高齢化社会に関して数々の懸念が取沙汰されている。
 まるで将来巷に老人がウヨウヨしたゾンビの墓場のような社会になっていくかのような言われ方をしている。
 しかし老人が多くなったなら多くなったで、それなりの社会というのができないのか?とも思う。

 老人になっても働きたい人は沢山いるのだから、それこそ死ぬまで老人が無理無く安心して働けるような社会のシステムにしていけばイイのに、と思う。
 老人が暮らし易いように、もっといろんな局面でペースを落としていけばイイのに、と思う。
 僕自身は、できれば死ぬ直前まで仕事(できれば天職)をしていたいと思う。

 なんで知らない老人の面倒まで下の世代に負担させなくてはいけないのだ?と思う。
 僕自身は見知らぬ若い人に迷惑をかけてまで生き延びようという気持ちは無い。
 ま、あれこれ気に病んでも、きっと成るようになっていくのかもしれんが、Let it beと。

 あっ、いかん。柄にもなく社会問題に対して意見してしまった。雨でも降らなければ良いが・・・。
 なにっ?!!、明日は雨だとっ?!・・・確かにな・・・。

「2001.4.16(月)」晴・春の風物詩

 この時期街を歩いていると、いかにも今春地方から上京したばかりだとか、いかにも新入社員ですと言わんばかりの初々しい姿の女性を随所で見かける。
 そういう女性達の何か不安げな面持ちで足元も覚束ないような立ち振舞いを見ていると、私モテナイ独身エトランゼは、なぜか胸がキュンとなるような切ないような、それでいて照れ臭いような気持ちにさせられたりするもんである。
 この胸キュン感は、僕にとっては何か甘酸っぱい滋養たっぷりのエキスみたいで結構いいもんではある。

 当たり前であるが女性というものは、毎年生まれてくるのだから毎年新しいこれらの初々しい女性が春になると出てくるわけである。
 要するに、これらの女性はモテナイ独身エトランゼにとっては桜などと並ぶ重要な春の風物詩である。
 
 人に季節感が出せるもんなんだ、などと変に感慨深いが、一方自分に季節感はあるのか?と問うと、ゴキブリの季節になるとイライラするくらいで、人をキュンとさせる季節感など全く無いことに気づき、季節感は無いが、満載の金欠感に水曜日の所得税の引落としを思うと胸がキュンとしないでも無い今日この頃であった。

「2001.4.15(日)」晴・時間

 職場に偶々同郷の方がいて、ある時自分達の田舎の話題をしていた。
 そんな中、僕が大学浪人時代地元の予備校に通っており、その予備校の場所の説明をしようとした時であった。
 「・・・駅の南側に新しく出来たトコなんですけどね・・・」

 僕は自分で喋っていて、何かオカシイな?と気がついた。
 その予備校は僕が浪人になってしまった年から開校したので、僕は言わば一期生であり、確かに僕の中ではその予備校の開校は「新しい」出来事なのであった。

 ところが、である。
 その開校年は1981年、実に20年前なのである。
 「新しく出来た」、などと言ってしまって良かったのだろうか?

 僕は実に様々な複雑な気持ちになった。
 例えば、人はこうして年を取っていくのか・・・
 とか、記憶の新旧というのは物理年代では無く、印象の強さに関係があるんだ・・・
 とか、これが若い人とのギャップを生む原因かもな・・・
 とか、僕はあれから成長して無いのだろうか・・・
 等等・・・

 実はこうは書いているが、僕の中では本当にその予備校での出来事が20年も前のことだなどという実感は全然無いというのが正直なところである。
 逆に「20年」という数字の方が信じられない。
 こうなるとアインシュタインの相対性理論では無いが、時間の感じ方は本当に相対的なものかもしれんな、とも思う。

 地球や太陽達は正確に回っていて、彼らの運行が時間を作っているようにるように思われているけれど、実は時間の概念は僕らが勝手に作っているだけで、地球や太陽に聞いても「え?オレ達が時間を?・・・、まさか、冗談じゃナイッスヨ、オレ達は単なる目安ッス」(何で体育会系なんだよ・・・)などとアッサリ言われるだけかもしれない。

「2001.4.14(土)」晴・文の楽しみ

 この欄を初めて、そろそろ3年が経とうとしているが、文を作ることに少なからず楽しみを見いだせたので、細々と続けていくことができたという気がする。
 ど素人のモテナイ独身エトランゼごときが、どうも偉そうに上から物を言っているように思われそうであるが、この辺でたまには3年間に感じた我が雑文についての私見如きものを述べてみたい。

 ネタや本文は、なるべく思いついた時に一辺に書きとめておくようにはしている。
 こうしていくつかネタをキープしておくと、後で全く思い浮かばずにスランプに陥った時に、持ち出してこれるので大変助かる。そうした文は日記の体裁になっていないのですぐ判別できてしまうが。
 その他にも行き詰まったら、モー娘や鎌倉街道や音楽の話などの得意分野を作って置き、とりあえずそれで間に合わせる、などという策も使うようになった。

 ちょっと長いものになると、そのままいきなり出すのは気が引けるので2〜3日寝かせたりする時がある。
 僕なりに熟成しているつもりなのである。
 2〜3日してから改めて読み返すと大抵気分が変わっているので手を加えたり直したりする。
 勢いで書くと勿論自分が書いたものなので当初は意味が通ずるが、数日後醒めた第三者の目で見ると、説明不足の箇所があったり、脈絡が無かったりで、結局何を言おうとしているのかサッパリわからないのもあったりするので、そういうのは出す前に極力チェックしないと、お恥ずかしいことになったりする。
 たまに1行センテンスを付け加えた位なだけなのに、全体の調子がガラッと変わったりするので、そんな時は自分でも感心なぞしたりしている。

 寝かせすぎて、そのままボツになってしまった文も結構ある。
 勢いでチョコチョコっと書いて出してしまうものもある中、せっかく沢山書いたのに今だ陽の目を見ないのも結構ある。
 そういうのはタイミングを逸したか、あるいは後から読み返しても全体がドンヨリしていて既に再生のしようが無いようなものである。
 たまにそういうのも、ちょっとしたセンテンスの追加がキッカケで改善案が浮かび、ガラッと大幅改訂し、晴れて公表されたものもあり、そうした劇的復活を遂げることができた文も、「最初は全然違うこんな文だったのにな」などと後で自分で変に感心なぞしたりして、悦に入ったりしている。

 こうなると文自体も生きている人間のように、浮き沈みのある人生ならぬ「文生」があるようで、そういうことを思うと一つ一つの文章それぞれに愛着が湧き、それぞれに名前なぞを付与してやりたくなったりする。
 そんなことなどが、結構楽しかったりするのである。

「2001.4.13(金)」晴・Let it be

「名曲」という言葉があるが、その称号が実に相応しい曲もあるもんである。
 ビートルズの「レットイットビー」などはまさにそんな曲の一つであろう。

 「レットイットビー」の素晴らしさとして挙げられるのは、曲の良さも勿論あるが、詩の内容も見逃してはいけない。
 これ程宗教的で深い含蓄のあるポップスなんてそうは無いであろう。

 今の日本の音楽シーンでは「レットイットビー」のような、哲学的な宗教的な荘厳な曲がヒットシーンに出てきたりするだろうか。
 こういう曲をヒットさせる力量のある才能があるのかどうか。

 こんな点で日本は外国とは遥かに遅れている気もする。
 「レットイットビー」は31年前だから、少なくとも日本は今のところ31年以上は遅れている。
 31年というとオーストリアの音楽家・シューベルトが生存していた期間に相当する。
 日本が哲学的・宗教的で無い間に、シューベルト一人出て来てしまうのである。
 これはかなり差がつく。
 少なく見積もっても「アヴェマリア」一曲分の損失はある。
 よって今後日本のミュージックシーンの遅れを数値化した単位として「1シューベルト=25アヴェマリア」を提案したい。
 ん?意味がわからんと?
 ま、そりゃそうでしょうな。僕にもわからんのですから。ははは、失敬失敬。
 ともあれ宇宙計画だってアメリカより何十年も遅れているし、日本はこの点ではもっと頑張ってほしいと考える次第である。

 そして更に重要なこの曲の素晴らしさは、キーがハ長調(C)であるということである。
 ハ長調(C)というのは、学校で習う曲でも最初に出て来るような、最も基本的で簡単な調である。
 要するに、親しみやすく受け入れやすいのである。
 レットイットビーは「C」で始まり「C」で終わる。
 ビートルズの白鳥の歌と言われた最後の公式シングルで、ビートルズは音楽の根源に還ったのである。それも最も美しい形をとって。

 あっ、そう言えば余談だけど、シューベルトにも「白鳥の歌」っていう歌曲集があるんだよね。
 これって偶然の一致かな・・・?

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