Monologue2001-11 (2001.2.19〜2001.2.23)

「2001.2.23(金)」晴・具体と抽象

 面白い話を人にする時は、長い前振りをして、最後にオチを言う。
 こうした方が興味を持って聞いてもらえる。

 ところが、こういう手法で話をすると疎まれる場合もある。
 ビジネスの世界においては、こうした話術は実に疎まれてしまう。
 まず結論から先に、それもなるべく簡潔に言ったほうが喜ばれる。

 例えば得意先との商談が不成立になった時、それを上司に報告する場合
  上司「どうだった?例の件」
  部下「えー、昔徳川家康がまだ幼かった頃、尾張の国のー・・・」
  上司「ど・う・だっ・た・ん・だ?!れ・い・の・け・ん!!」
  部下「・・・ダメデシタ
  上司「早く言え!!バカモンッ!!」
 と上司の怒りを買ってしまう。

 やはりここは
  上司「どうだった?例の件」
  部下「今回はNOという回答をいただきました」
  上司「そーかあ・・・、よし、じゃBさん当たってみよ」
 とこちらのほうがスムーズである。

 それから、まだある。
 ビジネス世界では人に物事を伝える場合は、なるべく具体的にしないとうまく伝達ができない。
 ところが、NOTビジネスの世界では、抽象的な表現をした方が芸術性があっていい、などと喜ばれる時がある。

 ビジネス社会では納期を延ばさざるを得ないなんて時には
  部下「B社から納期を3日延ばしたいとの連絡が有りました」
  上司「え?そんな金出んぞこっちは」
  部下「その分保守のほうで金額を調整してもいいとのことでした」
  上司「そんなこと言ってもなあ」
  部下「明日の3:00から、その件で再調整の打ち合わせがしたいとのことです」
  上司「そうか、わかった。おまえも明日午後開けとけ」
  部下「了解しました」
 となる。

 ところが抽象的にしてしまうと
  部下「今B社に納期を確認したら、いつ出来上がるかわからんとのことでした」
  上司「え?どういうことだ?月末までの約束だぞ?」
  部下「雰囲気的にダメっぽいそうです」
  上司「なんだそりゃ?」
  部下「敢えて言えば『間に合わんオーラ』が漂っているそうです」
  上司「ふう、・・・B社使えんな。今月で契約打ち切り」
  部下「了解しました」
 となる。

 具体的にするとおかしいのは詩の世界などがある。
 例えば
  「星が輝いている それはまるで君の瞳のよう」
 ・・・なんてフレーズも具体的にしてしまうと
  「星が輝いている それは北緯135°地点で周囲になんら外光が無い状態で35ワットの電球をつけ、それを100m先から10秒間眺めた時の感光度に相当する程度の明るさで云々・・・」となり、下手するとギャグになってしまう。

 かようにかくもビジネス社会と芸術は両極的な位置にいる。
 今は遊離してしまっている2者だが、これが両特性を兼ね備えた感じになってくれば何か新しいものが生まれるかもしれない。

 例えば納期を延ばさざるを得ないなんて時には
  部下「B社が納期を3日延ばしたいそうだぴょーん」
  上司「え?うそ!ぴょーん」
  部下「その分保守のほうで金額を調整してもいいのだぴょーん」
  上司「そんなこと言われてもぴよーん」
  部下「明日の3:00から、その件でミニモニじゃんけんするのだぴょーん」
  上司「そうか、わかった君もだぴよーん。勝ったらおいしい牛乳飲むのだぴよーん」
  部下「わかったぴよよよよよーん」

 ・・・有り得ないか・・・。

「2001.2.22(木)」晴・せぬはよきなり

 優柔不断の者にとってはまことに一助となる言葉が徒然草第98段にあった。
 徒然草の著者吉田兼好が「一言芳談」という浄土教に関連のある高僧の語録の中で見つけた言葉で、兼好自身「確かにそうだ」と思い、抜き出したという幾つかの言葉の中の一つである。
 是非は何とも言い難いが、古の人も考えていたことなのだと思うと、少しはとるべき所はあるかもしれない。それは次のような言葉であった。
 「しやせまし、せずやあらましと思ふ事は、おほやうは、せぬはよきなり(訳:しようかな?しないほうがいいかな?と思うようなことは、たいていは、しないほうが良い)」

「2001.2.21(水)」晴・Remember

 青い透き通った空を見ると、なぜ昔を思いだすんだろう?と思う時がある。
 地上の景色は度々変わるが、青い空というのはおそらく太古の昔から変わっていないだろうから、人間が記憶の底に常に背景として焼きつけている最も普遍的なイメージ、ということがあるからなのか?
 空の青さは、そのまま人間の過去の記憶の象徴的なイメージになっているのだろうか?
 もっと良く思い出せば何かわかるかもしれないが、今はあまり深く思い出せない。

「2001.2.20(火)」晴・海外からの便り

 昨日外国からのエアメール体裁を施した郵便が我が庵に配達されてきたのであるが、まあこれがいかにも怪しげな書状で、逆にこんなインチキメールを良くも出すことができるもんだと返って感服してしまった程であった。

 そもそもまず封筒に差出人が書いていないのから出会い頭一発目の怪しさを醸しだしてきた。
 見事な奇怪先制攻撃であった。

 次に宛て名であるが、これがまた、どうするとこうなるのでしょうか?というくらいにオカシナことになっていた。
 挙げてみると数字の111が「川」という漢字に変わってしまっていた。
 〜市の市の字が、どういうわけか「惨」という字に置き換わっていた。
 「惨」など「悲惨」とか「無惨」とか、ろくでもないことにしか使用されない字である。縁起でもない。
 明らかに日本語を知らない人が作成した書状なのだなと合点がいく。
 それから〜ハイツのハイツがどういうわけか「クイイ」になっている。
 何なのだろう?クイイって?
 僕は念の為広辞苑で「クイイ」を調べてみたが、どこをどう探しても残念ながら見つから無かった。辞書を逆さにしてみてが残念ながらそれでも無かった。非常に頭を悩ましてしまう奇っ怪な単語「クイイ」であった。

 それにしてもよくもまあこれだけデタラメな手紙が、我が家まで届いてきたもんだと、あきれ驚くばかりであった。古語風に言うと、いとあさまし、であった。
 それよりも何よりもこれだけ実に寛大で見事な仕事ぶりを見せてくれた日本の郵便配達システムの素晴らしさにただただ感服するばかりであった。

 この書状、内容はこうしたインチキメールにありがちな一攫千金ものの勧誘メールであった。

 曰く「理事会が貴方を選んだ云々・・・」
 曰く「最初で最後のお知らせ云々・・・」
 曰く「チャンスを見逃さないでいますぐお申し込みを云々・・・」

 そこにはどうとでもとれるようなインチキ美辞麗句の数々が謳われていた。
 そして驚くのが、あろうことか獲得金額の表示がなぜか小数点第二位まで表示され、一見すると2桁分金額が多いように惑わされる。
 表示には最高金額「2,000,000.00」となっているので「わっ2億かい!!」と驚愕するが、よーく見ると3桁めは「,(カンマ)」では無く、「.(ピリオド)」なので「なんや、200万かい!」と突っ込みたくなってしまうのである。
 この金額200万ドル(但しオーストラリアドル)でも高いといえば高いが「総額」としか書いて無いし、それに「$」と表記してあるかと思えば「ダラーズ」とカナ表記してあったりその点も非常に曖昧である。
 しかもこの金額の表示にはなぜか*(アスタリスク)のついた「注意書き」が多い。それも実に怪しい。
 おそらくこちらが突っ込むと「いや、それはですねー、かくかくしかじかで・・・」などとどうにでも逃げられるようにしてあるのであろう。そんな実に不明瞭な表記しかなされていないところが、これまた怪しいのである。
 大体1等がいくらで2等がいくらといった具体的記述も全く無い。
 全てにおいて曖昧なのである。いかにも「オイシイ話には裏がありますよー」と自分から言っているかのようである。

 この書状の出元、一応オーストラリアということらしい。
 そして手紙の中に添付されていたボーナスキャッシュと称されたカードがあったのだが、このカードのバックの写真が、なんとコアラとカンガルーなのであった。
 なんて人を小馬鹿に・・いや失礼、なんてそのままの今時率直でストレートな演出なのであろうか。オーストラリアだからコアラとカンガルーって・・・。
 この差出人の方々はおそらく日本だったら桜と富士山、もしくは侍と芸者でも載せるつもりなのであろう。
 それにしても一体これ本当は何国人が作ったんだろう?と、結構興味をそそられなくも無い。

 このように怪しい箇所を挙げていったらキリが無いのであるが、実に味わい深い留めをさしてくれたのが会長の言葉と称された一文で、それはこういう文章で締めくくられていた。
 「・・・チャンスを逃して失望することを避ける為にもすぐにお申し込み下さい」
 直訳だ・・・。
 それもプロでは無い、英語のテストの添削時に散見するような中学生回答レベル程度の直訳だ。

 そんな奇怪づくしのこの書状であったが、ここまで来ると僕の心情も、煩わされた怒りや軽蔑を通り越し、オモロイネタありがとう、という感謝に変貌していったのであった。

「2001.2.19(月)」晴・プチフィクション

 ここ数年このHPも含めて折りに触れ日記をつけるようになったのであるが、過去のを振り返って見てみると面白いことに気づく。

 例えば当時何かを避けていたとして、現在はその理由がとても単純な理由(単に恐かったとか嫌いだったとか)で避けていたのがハッキリわかるのに、当時の日記を見ると、そういう理由では無いかのように、アレコレと饒舌に記述している。
 ぶっちゃけていえば「言い訳」しているのである。日記と称していながら自分自身に言い訳し、嘘をついているのである。もしかしたら日記が他人に読まれてしまうのでは無いかというどうにもお目出度い危惧があった故、すでに言い訳モードに入ってしまっていたのかもしれない。その時点で自分の本当の気持ちの吐露では無い、プチフィクションができあがってくる。

 数年立つと、その言い訳も忘れてしまい、本当に心底あった思いだけが今でも自分の内に残っているので、大変正直な気持ちになって当時を振り返ることができる。
 そうすると当時の「言い訳」を読みながら「あれ?こんなこと考えてたんだ・・・」と結構妙な感慨もある。

 たぶん言い訳というのは脳の表面的なところで考えるようなその場しのぎの理屈なので、時間がくれば消えてしまうものなのだろう。
 本当の気持ちというのは、ずっと残っていく。
 だから自分に嘘は付けない、などというのだろう。

 僕自身なるべく自分に正直ではいたいが、後から「言い訳=プチフィクションの記録」を読むのも結構面白いな、と思っている自分もいる。そう、きっと記録しておかないと消えてしまうだろうからな。

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