Monologue2001-01 (2001.1.5〜2001.1.7)

「2001.1.7(日)」・鯖の糀漬け

 僕の郷里は静岡県焼津市であるが、魚の街としても有名である。
 魚製品で主な特産品として「黒はんぺん」があり、これは最近結構都会でも取沙汰されるようになってきた。

 焼津の特産品かどうかはわからぬが、僕が小さい頃焼津で良く見かけていたもので、東京ではあまり見かけないものに「鯖の糀(こうじ)漬け」がある。

 東京の人は鯖は塩焼きか味噌煮に、もしくは〆鯖にして食べるのが一般的なようだ。
 僕は上記の中では塩焼きが好きである。
 実は僕は焼津出身なのに〆鯖などはあまり得意では無い。いわゆる光り物というやつである。
 食べられないことはないが・・・という感じである。

 こんな微妙な好物「鯖」であるが、「糀漬け」にした途端、一転して無類の大好物に変身する。
 「鯖の糀漬け」は読んで字の如く麹(糀)に鯖を漬けてあるだけであるが、これが焼くと大変おいしい(だから厳密に言うと「鯖の糀漬けの焼いたの」となるが)。
 僕の少ないグルメ経験からで申し訳ないが、今までの魚料理の中でもトップ3には入る。
 僕個人的にはサンマの焼いたのよりオイシイのでは無いかと思われる。
 光り物がダメな人もこれは大丈夫だと思う。
 逆に光り物が好きな人や辛党の方には、「鯖の糀漬け」は甘みがあって物足りなく思えるかもしれぬが。

 ともあれ、これはあまり食にはウルサク無い僕でもお薦めの一品である。

「2001.1.6(土)」・人が物を食べる時

 昔からいつも思ってきたことなのであるが、僕は人が食べ物をおいしそうに食べているのを見ると無性に切なくなる。
 食べ物がおいしい上に更に熱かったりした時に、ハグハグしながら食べている姿なぞ殊に切ない。

 そのおいしそうに食べている姿から、後ろに回ってそのまま焦点をグルリとその人の背中に移して見る。
 すると丸まった背中のむこうで一生懸命食べている様子がわかる。
 時に静かに小刻みに背中が動いたりする。

 なんて!切ないんだ、と思う。
 人が物をおいしそうに食べている背中ほど哀愁に満ちたものは無い。
 見ていると切なくなり、いたたまれなくなり、「スマン、見てしまって申し訳なかった!」という自責の念で一杯になる。

 僕は人が本当にナリフリ構わず食べ物をオイシソウに食べている姿というのは、必ずしも美しいものでは無いと思っている。
 視線、注意、その他の有りと有らゆる神経は口先に集中し、一心不乱に食物を咀嚼している。
 口は咀嚼活動に全精力を注ぎこみ、口中においては食物が激しく口内を上下左右と移動する様がわかる。
 食物は時には唾液と入り交じった粘着態に変化した様子すら提示する。
 そして口自身は、通常の重要作業の一つである呼吸活動等が、食事時においては疎かになりがちになる。
 するとその作業は鼻の方に引き継がれ、鼻の呼吸作業の負担は増大する。
 その結果自然に鼻は、その吸引容量を増大せしめんと、己の鼻孔空間の膨張を図ったりする。簡単に言うと、鼻がオッピロがる。
 更に熱いものを食べた時などは、咀嚼に専念していた口も異常熱物体の侵入により、突如呼吸活動に回帰せざるを得なくなり、オッピロがった鼻と共に、呼吸・咀嚼の両方を課せられ、その活動スピードも倍加し「ホゲホゲホゲ・・・」みたいな事態になってしまうこともシバシバである。時にはその事態が問題処理能力の限界を越えてしまい、たまらず口中内のものを、ウゲッなどと吐き出してしまうことすらある。

 僕は、そこまで追い詰められていたのか・・・!、と胸がキュウと締めつけられるようになる。

 先程美しくは無いと述べたが、じゃあ見苦しいものか、というと、そういう訳でも無い。
 人がオイシソウに一心不乱に食べる様は、その人の飾らない真実の姿、延いては人間の純粋な在り方すら見えて来る。

 美しくは無く、泥臭いが、しかし愛すべき姿である。
 僕はいつもは抵抗がある、オジサンの姿さえも、その何かを食べている背中には、貴方も同じ人間なんですよね・・・などとしみじみ思わせる何かがある。

 辞書を見ていたら、日本の古い言葉で「あわれ」というのがあるが、その意味に「ものに感動して発する声。嘆賞・親愛・同情・悲哀などのしみじみとした感動を表す。」とあった。
 僕は、そうこれだ!と思った。
 人が物を食べている姿を見て沸き起こる感情は、ワンダフル!やビューティフル!でも無い。ユーモラスやプリティ!でも無い。無論オーマイゴッド!でも無い。

 まさに「あはれなり」がピッタリくる。

「2001.1.5(金)」・テーマ等

 何かのイベントか祭りなのか分からぬが、その会場のとある場所に座っていたら、僕のすぐ前に新山千春が白いトレーナーで体育座りで座っている。
 カワイイなと思いつつ思わず声をかけて喋り始める。話す内に、もしかしたら君も僕のことを好きなんじゃないか?と聴くと、ハッキリそうは言わないが、そういうニュアンスのことを彼女が言ったので、お互い両想いだということがわかり、喜ぶ。
 しばらくすると僕がその祭りの余興に参加しなければならなくなり、新山を置いて余興に行く。
 余興というのが、祭りの会場のあちこちにあるプールのようなところで小さいスケボーのようなものに乗って波乗りのようなものをやることのようである。
 僕自身その余興には自信が有り、時にはボードに乗りながら空も飛べるんだぜ、みたいな所を見せつけたいが、なぜか良いプールが無くて技を持て余し気味。

 その内祭りが終わる。
 僕は兎にも角にも新山の所へ戻りたくて、最初いたところまで戻ろうとするが、その祭りの会場というのが一つの町くらいの広さが有り、中々元いたところまで戻れない。
 僕は空を飛びながら必死に探す。「千春ーッ!」などと叫びながら。

 しかし幾ら探しても千春は居ない。
 街の商店街には夕日が差してきて、急に切なくなる。
 思わず、寂しすぎるぜ、と涙にむせぶ僕・・・

 この頃になると僕は、これは確かに夢の中だと思い始めた。
 でもこの夢が醒めてしまうまでに何としてでも千春にもう一度会わなければ(会う夢にしなければ、会うエンディングにしなければ)と、いう強い思いがなぜかあった。

 僕は尚も無駄だと思いつつも街中をやみくもに飛び回るが、ふと郷里の古い商店街の店の前に、知り合いの顔が見えた。彼は小学校時代の同級生だった。

 僕は彼の名を呼びつつ、千春の行方を知らないか尋ねようとしたら、彼は聞こえなかったのか、店のシャッターを閉めて中に入ってしまった(しかし少し開いたシャッターの中から猫のような目をしてこちらを見ていた)。

 やっぱり駄目か、とあきらめかけた僕の背後から「もう、帰ったよ」という声がした。
 そこには人の良さそうな中年の夫婦がいた。誰か特定はできなかったが、どこかで見たことのある顔だった。
 「何時ころ帰りましたか?」
 「6時50分頃じゃないかな」
 「もう30分も前か・・・」

 なんとか千春に連絡をつけたいな、誰か連絡先を知ってる人はいないだろうか、と思ったところへ、夫婦の横からかつての会社の大人しい性格の同僚が不意に現れ、なんと電話番号を知ってるという。
 更に彼は「病気のことも、水のこともね・・・」という謎めいた言葉を発した。

 病気!?、もしや千春に何かあったのか?
 しかし僕は、そのことには触れず、
 「とにかく千春について知っていることは全部教えてくれ!」と頼んだ。
 そして、彼から教えてもらおうと彼に向き直った時に・・・水道の蛇口をひねって水を止めるように、夢もそこで止まった。

 *   *   *

 ・・・と、これが僕の初夢・・・では無いが、正月に見た夢で印象に残った夢であった。
 相変わらずモテナイ独身エトランゼの儚い願望なのだろうか?

 まあ、今年もこんな調子で、ということで。

 *   *   *

 と、これじゃ何だから一応今年のテーマでも決めるか。

 まずその1。
「いつも飲んでる調子で」
 昔飲んでる時と、通常時があまりにも違うので、飲んで仕事したら?、と言われた。

 その2。
 「和な感じ追求」
 これから日本的なものと世界の文化の融合を考えていく上で、和な感じとはどんなものか?融合できる和なものとは何か?を追求していきたい。

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