雑学のすすめ


 研究機関にいると,いろんな個性の強い人に出会います。一般的なビジネスマンより,型にはめられにくい職場環境と言うのも影響していると思いますが,この職域以外では通用しないほどアクの強いキャラクターの持ち主も少なくありません。それをネタに,何冊も暴露本が書けちゃうほど……と言ったら言いすぎかな(苦笑)。何年もこう言うところで働いていると,大抵のことでは驚かなくなりますが,この仕事に就いて間もない頃,こんなことを研究者から言われて,「おや?」と思ったことがあります。それは……

 「いろんな分野のことを知っていて知識が豊富だと,研究者として大成しない
……と言う趣旨の意見を,複数の人から聞いたのです。
 言いたいことはなんとなく分かります。自分の専門分野の仕事に没頭しなさい。余計なことに脳力を割くのは良くない……そんな感じのことを主張したいのでしょう。

 ところが,私が尊敬している先生を何人か思い起こしてみると,もちろん専門分野においては世界の第一人者なのですが,一見,自分の専門分野ではないことにも造詣が深い。多芸多才で知識欲が旺盛。趣味も複数持っていて,それも実にしっかりとやっている。いろんなことに興味を持って得た知識が,自分の専門分野にもフィードバックされていたり,とにかく「世界が広いな!」と舌を巻くような人ばかり。広い知識,見識を持つことは,自分の取り組んでいる専門分野にマイナスになることは無いんです。

 …むしろ,そう言う人の方が,優れたアイデアが出せるんじゃないかな,と思います。結果を見る限りは……
 それに比べ,雑学的知識を否定してしまう研究者の,視野の狭いこと……。

 今は専門分野も細分化され,深く掘り下げられていますから,その道の最前線に出ちゃうと,ライバルが数人しかいないような分野もあるんです。論文を出しても,本気で読んでくれる人は関係者とその周辺の,ほんの一握り。そう言う狭い世界で研究者の評価が決まる場合が多い時代です。新説を出すのもそれを評価するのも,お互い名前も仕事内容も分かっているような関係の中。

 そんな世界で暮らしていると,博識否定論が出やすくなるのかも知れませんね。

 こうならざるを得ない事情もあります。専門分野が先鋭化しているのもその理由の1つですが,すぐに成果を出すことが要求されるような仕事環境も影響しています。じっくりとアイデアを広げる余裕など無く,毎年予算をもらい,それに対する成果を公表し,結果が悪ければ予算が減ったりカットされたり……いきおい,短期間で確実に結果の出せる研究課題しか選ばれなくなります。どんなものが確実に結果が出せるか?……それは,従来のデータの「接ぎ穂」をするのが,最も確実です。その結果,ポンと新しいアイデアを投入して実験してみる,と言うタイプの研究(本来,こう言うのが一番エキサイティングで面白い仕事ですが,当たり外れも激しい)は,予算を査定する段階で切り捨てられてしまうことがほとんど。いきおい,研究者は,自分の予算と成果を保証するために「守り」の姿勢に入ります。

 ……で,最初の発言のように,「あちこち興味を広げないで,自分の専門を掘り下げなさい」と言うことになる。
 広範な知識を背景に,のびのびとアイデアを広げる研究者は,この世界では生き残りにくいのです。
 さらに,学閥だの人間関係だの(往々にして,興味の狭い研究者は,こういう関係のことにうるさい),さまざまな要因も絡んできます。視野が狭いと人や学問に対する寛容度も下がることも,私は否定しません。

 博学であるべき「学者」が博学を否定しようすると言う不思議な言動の原因が,ここいらへんにありそうです。



 さて,あまりしょーもない話をしていても面白くありませんので,このサイトらしく,観察会の指導者の話に移ります。

 実は私が探鳥会の案内役を始めた頃,やはり「博学否定論」を論じられました。当時の探鳥会指導者の目標は,「いかに野鳥を識別して参加者に教えるか」と言う点が,今よりも重視されていました(いまでも識別力至上主義の探鳥会担当者はいますが…)。当時は「野鳥を200種識別しないとリーダーにはさせない」と言うような論議も盛んにありました。夏場の探鳥会で虫を眺めて案内していたら,虫の話はやめろ,鳥の話をしろ,と言うお叱りも受けました。しかも,担当者のみならず,参加者からも!
 この時代の探鳥会担当者は,言うなれば素人集団。かつて「探鳥会」の黎明期に,学者系の人が手弁当で案内してくれていたのに代わって,それまで鳥を見て楽しんでいた人達が,指導者サイドに大量に回ってきた時代です。結局のところ,彼らが探鳥会の場で,参加者より優位なものと言えば,観察キャリアとそれに基づく野鳥識別力ぐらいだったのです。その結果,1980年代の探鳥会では,鳥を探して名前を言い当てることが観察案内の主流となり,解説技術も識別力を中心に先鋭化して行ったわけです。個人的な実感ですが,この状況は今もあまり変わらず,こうした指導者の教えを受けた参加者も,こぞって識別力やライフリストへと先鋭化して行ったと想像しています。

 いかに迅速に野鳥を見分け,いかにたくさんの種類の野鳥を見るか……ここいら辺に興味の中心を置いているバードウォッチャーは,かなりの数に上ります。これの発展形が,「ライフリストの追求」だったり,「美しい野鳥写真の撮影」と言った方向にも繋がっているように感じます。
 いずれにしても,興味の範囲が狭く,尖鋭化しているのです。

 場合によっては,自分の興味の中心と違う行動,言動をするバードウォッチャーを否定したり,下手すると無意識のうちに自分の世界に引きずり込もうとしたり,気に食わなくなって攻撃に出たり……ハイ,私も,この手の尖鋭化した人からの誹謗中傷を受けたことは何度もあります。私のような,いい加減な鳥の見かたをする人間などは,特にターゲットになりやすいんですね……本人は自分なりの正義でそう言うことをやっているので,あまり人を攻撃していると言う意識は持っていませんけど,言われる側は,「あ〜,またか……」と言う感じ。……とにかく,興味が先鋭化した集団の中では,みんなピリピリとんがっていますから,小さなトラブルは常時ありますし,些細なことがトラブルの元となります。だから,いちいち真に受けていても仕方がありません。


 こういう人に出会うたびに,私は別の危機感を感じています。
 こうした,興味の尖鋭化した集団が探鳥会/観察会の一部を担っているとしたら,自然観察の目的や意義が,きちんと社会的支持を得ることが出来るだろうか?
 ……これは私の素朴な疑問でもあります。

 野鳥の会が会員数をどんどん減らしているのは,単に会費が高いだけが理由ではないのでは?
 「トリトリトリ……!!!」と興味の先鋭化している集団の中で居心地の良い人って,限られているんじゃないでしょうか?


 知識は,無いよりはあったほうがいい。少なくとも,その人の人生を,少しは豊かにしてくれます。しかし,いろいろなことを知っていても,その知識が使えなければ,宝の持ち腐れです。ときどき探鳥会でも,やたらと自分の知っていることを喋ってくださる人がいるのですが,それが人の心に伝わるだけの力を持つ人は多くありません。それでは単に,詰め込んだ知識を披露して自慢しているだけです。例えて言うなら,英単語や文法の知識が豊富なのに英会話の出来ない状況と似ています。野鳥の種類をたくさん知っているにもかかわらず,「自然のコトバ」が理解できない,伝えられない。
 ……私は,自然解説者は,「自然のコトバ」を,分かりやすい言葉で人に伝えるインタープリターだと考えます。しかし現状では,インタープリティング能力の高くない自然解説者は,いくらでも見つかります。…と言うよりは,「インタープリティングが自然解説の本質である」と認識していない人が少なくない,と言うべきでしょう。経験的に,あまり興味の方向が尖鋭化してしまうと,知識が生かされなくなる傾向が強くなるように思います。「知識があること」と「知識を使いこなすこと」は,全然違うのです。知識の量を競うより,知識同士の相互のつながりとか,知識の上手な使い方,伝え方を,もっと意識してもいいのかも知れません。

 私なりの結論と提言としては……

 興味の中心,すなわち「専門分野」を持つことは決して悪いことではないと思います。しかし,それだけにのめり込んで,周囲を見失うことの無いようにお願いしたいのです……知識においても人間関係においても。ですから,いろんなことに興味を持ち,知識と人間の幅を広げ,自分以外の人に対して,興味の対象以外の物に対して,もう少し優しくなってくだされば,自分も,そして周囲の人も,もっとハッピーになるんじゃないかな,と思います。これは研究者や自然解説者に限ったことではありません。せっかく得た知識を,より有効に利用するための基本だと思います。

 一見役に立たないように見える雑学でも,自分の専門外のことでも,上手く使えば,いろいろな方向に活かすことが出来るはずです。是非,楽しんで知識を増やし,上手に使いましょう。


(2003年2月05日記)

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