「科学」と「疑似科学」の境界
 〜「プロナチュラリスト」は自然科学の未来を拓けるか?〜


 「疑似科学」と言う言葉を御存知でしょうか?
 場合によっては「似非科学」などと同じ意味に使われることも多いようですが,要するに,「自然科学風」であって,「自然科学」とは似て非なるもののことです。

 ルネサンス期以前,特にキリスト教の支配が強かった地域の「科学」は,いまの基準からすれば,疑似科学的な色合いの濃いものでした。それはある意味,宗教や哲学の範疇で語られる科学,とでも言うべきものです。例えば天動説に見られるような,「天空上のものは神が創りたもうたモノであり,完全無欠の球体にて調和が取れている」と言った宇宙観に,その具体例を見ることが出来ると思います。
 この時代は自然科学における暗黒時代とも言えるわけで,遥か昔の古代ギリシアで花開いた「自然科学」のほうが,より客観的な観察や実験に基づいたもので,より現代の科学に近いものであったことが分かります。では,その暗黒時代の科学者は何をしていたのか? 結論から言えば,宗教支配に依存して生きるしかなかったと考えられます。例えばモノ作りや医療や農業などは,いまなら大いに科学を要求する分野ですが,職人芸や経験則が大勢を占める時代でしたから,問題にはならなかったでしょう。また,天文学と言う,モノも造らない(要するに,腹の足しにもならない),「自然科学」を手掛けていた科学者は,「占星術」と言う手段を得て,ときの領主をスポンサーにして,占星術によって領主に進言したりする一方,「天の調和」を乱す日食や月食の予報や,気ままに動く惑星の運行の予測,「球体」のルールに反する怪しい存在である彗星の観測などを手掛けていたわけです。言うなれば,占星術と言う,まったくの「疑似科学」を使いながら,自然科学という学問の火も絶やさずに維持していたと思われます。そして領主は占星術を領地支配の手段として利用したわけです。天文現象の「予言」が当たれば,支配下の人々は,大いに領主の先見性をたたえ,尊敬したことでしょう。「不思議なもの」「未知のもの」を理解するには,科学よりも疑似科学のほうが簡便で役に立っていたことが想像できます。

 ところが,大航海時代を迎え,状況は一変します。
 「自然科学」が国力を伸ばす手段として,重要になってゆきます。
 長距離の外洋航海は,地動説を大前提とした天文学に基づいた,最新の航海技術が必要でした。もちろん,外洋の長旅には気象や医学に関する知識も必要になります。「大航海」は,20世紀の宇宙開発に匹敵するほどの冒険であり,当時の最新の自然科学の粋を集めた,最先端技術だったわけです。

 これを境に,「疑似科学」は「自然科学」に劣位となってゆきます。

 さて,科学技術の進んだ現在,「自然科学」は再び,多くの人にとって,「暗黒化」しています。複雑化,多様化する自然科学は,その成果を詰め込んだモノを,ブラックボックス化してきたのです。パソコンや携帯電話の中味を知らなくたって,誰でも使えます。中身が分かるのは,一握りの技術者だけ。高度な医療も,自分が何をされているのか,理解しにくくなってきています。

 ……ラジオの箱を開けて壊れた真空管を自分で取り替えていた時代は,つい,40年前のこと。ルネサンス期以降,数百年にわたって積み上げた来た自然科学が見えなくなったのは,わずか数十年のことなのです。これはもちろん,工業製品に限ったことでなく,生命科学分野においても,「遺伝子」「脳」と言ったフロンティアに立ち入るのは,わずかな数の科学者です。私たちは,脳味噌がブラックボックスであっても,脳内のどの神経核が働いているのかを知らなくたって,頭を使い,言葉を操ったり,恋をしたり出来るわけですから,脳や遺伝子に触れなければ治療できないような病気にでもならない限り,何の不都合も感じません。

 面倒なことを知らなくたって,誰かが何とかしてくれる……このあたりに,「科学離れ」の本質があるようにも思えてきます。

 現代の自然科学は,「ネオ・暗黒時代」を迎えていると言えます。

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 ……さて,ここで,話は「自然観察」のことに辿り着きます。
 「自然観察」と言うのは,どう見ても「自然科学」からは切り離せないものだと,私は思っています。私たちがホビーとして楽しんでいる「自然観察」は,本来は生物学研究の1つの手法なのですから。
 自分が生物系の最新の情報を手に入れやすい立場にいると言う理由もあるかも知れませんが,ホビーとしての「自然観察」でも,そのバックボーンとなっている生物学,特に生態学や形態学,生理学などには,日々,新しい発見や研究成果があり,それらは「自然観察」と言うホビーにもフィードバックされ,「自然観察」を,より興味深く,奥深く,バージョンアップしてゆくように思います。
 しかしそれは一方で,「自然観察」を複雑化させます。
 「自然観察」の中にも,ブラックボックスが発生しているのです。

 ……そこで,「自然解説者」=インタープリターの登場です。

 自然観察におけるインタープリターは,研究者によって読み解かれた「自然のコトバ」を,誰にでもわかりやすい言葉にして伝える人。もちろん,研究者自身がインタープリティングすることも可能ですが,研究者の数は限られています。……そこに,「自然解説者」と言うセグメントが生まれます。自然解説者には,「自然科学の伝道師」的な役割が与えられているのです。

 自然解説には,ホビーとしての「自然観察」を楽しむ人の,知的好奇心を満たし,「自然観察」を,より楽しいものにすると言う目的のほかに,科学者サイドからの要求として,「自然科学の普及啓蒙」と言う目的もありますし,自然保護団体にとっては,自然科学を根拠としている「自然保護」の思想を広める,という目的も持っています。……立場によって,多少の目的の違いや,重点を置くポイントの違いはありますが,「自然」と言うブラックボックスを解消するために自然解説が行われる,と言う点は一致していると思います。

 需要があれば,利益の上がる商売としても成り立ってきます。
 以前は「自然解説」と言えば,研究者や学芸員,ビジターセンターなどの施設職員,さらにはボランティアで行われている多くのアマチュアの手による観察会などが中心で,「自然解説」そのものを商売にすることはほとんど無かったのですが,最近になって,「プロ」のナチュラリストと自称する,「自然解説業」を商売にする人が,日本にも現われてきました。例えば,こう言う人たちがたくさんの人に支持されれば,「自然観察」の世界も,変わるかもしれないな,と言う予感もします。

 しかし現実は,そんなに甘くはありません。
 私も,とある「プロ・ナチュラリスト」の話を聞いたことはあるのですが,観察会終了後,観察したものよりも,ナチュラリスト本人のキャラクターばかりが記憶に残り,一体,何のために自然観察会に行ったのか,分からなくなってしまいました。「自然解説」よりも「自分の売り込み」のほうが前に出てしまっていたのです。また,ある「プロ・ナチュラリスト」が解説した内容が,実は彼の作った話で事実無根だったのに,その話が「面白いから」と「科学ネタ」としてマスコミに出回っていたことがあります。公共放送であるNHKまでもが,その話題を取り上げて放映していました。このTV放映を見たとき,私は「プロ・ナチュラリスト」に対する不信感と,将来の自然観察会への不安を,一気に募らせてしまいました。

 自然解説をする際,「演出」は必要だと思います。「自然のコトバ」を面白く,分かりやすくするための演出は。しかし,上記の例は,「演出」とは言えません。「自然のコトバ」ではなく,「自分のコトバ」を押し付けているようなものです。「科学」を借りながら,「科学」ではないものを語るのは,「疑似科学」の範疇と言えます。……まぁ,「科学離れ」が進んでいる昨今,「自然のコトバ」をストレートに伝えるのが難しくなっているのも事実なのですが……。自然解説を商売として成り立たせるためには,「疑似科学」的な方向に走らざるを得ないのかも知れません。
 「プロ」である以上,アマチュアとは一線を画したい。しかし,その「差別化」は,現状の「プロ・ナチュラリスト」を見る限りは「知識レベル」よりも,「話術」や「パーソナリティ」にあるように思われます。知識や情報に関しては,研究者には太刀打ち出来ませんし,特定のフィールドに限って言えば,そのフィールドに精通した「アマチュア」の自然解説者にも負けてしまいます。そうなると,タレントのように,自分のキャラクターを切り売りする方向での「差別化」が,もっとも手っ取り早い。こうした「差別化」の方向によっては,「プロの自然解説者」は,「自然科学の伝道師」たり得ない可能性を持っているのではないでしょうか。
 こう言う人が一般市民の支持を集めた場合,「自然科学」のブラックボックスは,解消されるでしょうか? それとも,ますます手がつけられることなく,暗黒化してゆくのでしょうか? 少なくとも,科学者が伝えたいことがそのまま具現化する可能性は,あまり高そうではありません……そうなると,科学者にとっては,かなり悲観的な将来像さえ見えてきます。

 現在の生命科学に関する世の中の否定意見も,かなりの部分は自然科学に対する無理解から生まれる不安感に根ざしているように思います。人は誰でも,「わからないもの」は不安なのです。……とすると,現在の「自然保護理論」に対する無理解や,自然保護団体の会員ですら抱いている,「自然保護」への消極的な意見も,「自然保護」の根拠となっている「自然科学」への無理解に根っこがある,と考えられませんか? そして,その無理解や不安感を埋めるものとして,新たな「理解しやすさ」と「面白さ」を兼ね備えた「疑似科学」としての自然観や生命論を訴える,「プロの自然解説者」の市場が形成されたとしても,不思議ではありません。

 もちろん,自然科学をブラックボックス化しないための努力は,研究者,教育者,自然保護団体などの手によって,これまで以上に力を入れて継続してゆく必要があります。しかし,このブラックボックス解消の担い手に,「プロ」の自然解説者を含めて良いかどうかは,上記のような理由から,微妙に思えます。
 さらにそれに付随して,「自然科学」と「疑似科学」の棲み分け,「エンターテイメント」としての自然観察会の方向性など,今後検討すべき課題も,いろいろ見えてきます。

 しかし,「疑似科学」を自然解説の場から追い出すべき明確な理由は,ありません。そもそも,最近の観察会や探鳥会の参加者の中には,「自然」と言うブラックボックスを読み解くことに興味を示さない人も,少なくありません。鳥が見られれば,それでおしまい。花の名前が分かれば,それ以上の興味は無し。……「ブラックボックス」には,寄り付こうともしません。……これも,「科学離れ」の具体例ではないかと思います。「結果」だけ分かれば良い……そんな観察者も少なくありません。技術開発の「結果」である製品だけを見て利用して生活している習慣が身についてしまっているのだから,「自然観察のプロセスを楽しむ」と言う気持ちを失いがちなのは,分かるような気がします。
 このような人たちには,「疑似科学」のほうがむしろ,シンプルで愉快なので,心地良いのかも知れません。「真実を突き止めること」が,必ずしも「ベスト」な方法ではないんじゃないかな?と感じさせる場面は,自然観察会で解説をしていると,何回も出会います。

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 私は「自然解説者」としてはアマチュアです。
 年間10数回の観察会を切り盛りしています。
 企画会議,下見,資料作りなどの準備作業を考えると,これでほぼ手一杯です。
 半日の観察会を実現させるためには,その10倍以上の時間を費やすのです。
 「自然科学」をインタープリティングして,きちんと伝えるためには,このぐらいの手間暇がかかるのです。
 ところが,「プロ」のナチュラリストは,この10倍〜数十倍の観察会や講演をこなしています。いくら手慣れているとはいえ,これで「自然解説」の質が維持できるのでしょうか? プロのナチュラリストが,個人のキャラクターの切り売りみたいな観察案内をするのは,そうせざるを得ない,超多忙さ,と言う事情があるようにも思えます。それは決して,良いこととは思えないのですが……。

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 ところで,ルネサンス以降,「天文学」と別の道を歩み続けた「占星術」は,いま,きちんと社会的地位を得ています。しかし今さら,「占星術」と「天文学」をごちゃ混ぜにする人はいないでしょう。それは,「占星術」が「疑似科学」としての確固たる地位を得たからではないでしょうか?

 では,「プロ・ナチュラリスト」は果たして,「自然科学の伝道師」になれるのでしょうか?それとも,「擬似科学」の方向に,活路を見出すのでしょうか?

 ……これは私の個人的な感想ですが,「プロ・ナチュラリスト」が「タレント」として商売を成り立たせるなら,「疑似科学」の担い手として割り切ってしまってもいいのかも知れません。たとえ語る内容が「疑似科学」であっても,多くの人に面白おかしく訴える力を持ち,話を聞いた人に「自然の神秘」に触れた気分になってもらえることは,悪くはないことだと思います。占星術師が惑星の運行を語り,宇宙の神秘を伝えるのと同じことです。
 もし,そうであれば,「プロ・ナチュラリスト」は,変に「科学者気取り」しないことです。最終的には,「科学」と「疑似科学」は,その違いが分かるような形で棲み分ける必要があります。

 しかし,もっと大局的に見れば,自然観察会などで語られることが「科学」であれ「疑似科学」であれ,それが結果的に,「自然観察」の裾野を広げ,「自然科学」の窓口を広げてくれるのであれば,結果的には自然科学にはプラスになる面は大きいのではないかと期待します。占星術が,天文と無関係であっても,私達に星空のロマンを感じさせたり,天文学への興味を喚起するように……。

 観察会で「自然科学」を楽しむか,「疑似科学」を楽しむか。
 最終判断は,その利用者である観察会の参加者に委ねられています。


(2000年12月27日記)

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