季節は移ろい,季節感も移ろう


 日本人は,季節に対する感覚の鋭い民族だと思います。
 それは,季節のはっきりした風土に生まれ育ったからではないでしょうか。
 「旬」を大切にし,季節ごとの楽しみを見つけ,季節の移ろいを楽しむ。
 季語や時候の挨拶などには,そうした感性のエッセンスが詰まっています。
 そしてそれは,自然を感じる心そのものでもあるのです。

 ところが最近は,その季節感にも,いろいろと変化があるようです。
 まぁ,実際,これだけ店先の野菜や果物の季節感が無くなり,自然に目を向ける機会が減ってしまえば,当然の成り行きなのかも知れませんが。

 例えば,こんなことが気になります。
 立春の頃,「暦の上では春だと言うのに寒いですねぇ」と言う挨拶。立秋の頃,「暦の上では秋なのに,暑いですねぇ」と言う挨拶。これは明らかに間違いなのですが,よく聞かれる挨拶です
 立春とは,「もうこれ以上は寒くならない。これからは春の気配が感じられるようになる。」と言う意味。立秋は,「もうこれ以上暑くならない。これからは秋の気配が感じられるようになる。」と言う意味。……言い換えれば,本来,立春は寒さの絶頂期,立秋は暑さの絶頂期を意味します。

 「秋来ぬと 目にはさやかに見えねども 風の音にぞ驚かれぬる」

……夏景色の中,風の中に秋の気配を察知する感性。これが,立秋を少し過ぎた頃の季節感なのです。

 立春の場合,「早春賦」の解釈がネックになっているのかも知れません。

 天文学的には,「立春」「立夏」「立秋」「立冬」は,「春分」「夏至」「秋分」「冬至」の中間に位置し,太陽黄経(空の中での太陽の位置)を基準に決められています。これらは全て「二十四節気」の一部です。江戸時代まで,日本の暦は太陰太陽暦……つまり,月の運行をもとに暦を作り,太陽の運行に基づく修正を加えたものでした。これでは同じ1月1日でも,太陽暦と比べて1ヶ月くらい前後することがあります。ですから,農作業は太陽暦を基準にしないと,上手くゆきません。そこで「二十四節気」の登場です。農事暦は,これを基準にするわけです。

 「季節」に対する認識も,昔と違ってきているようです。
 私達は「夏」と言えば,暑い時期を指し,カレンダーで言えば6〜8月だと思っています。しかし,江戸時代までは,「夏の気が立つ」立夏より,「秋の気が立つ」立秋までが,「夏」と言う認識。現代の,気温やカレンダーに基づく認識と,ちょっと違うようですね。今の感覚と対応させれば,今で言う「夏」のピークが,昔の「夏」と「秋」の境い目になっているわけです。旧暦の元旦は,立春を過ぎた後の,最初の新月の日。中国では今でも,この日を「春節」として,盛大に祝います。1月1日を「初春」と呼ぶのも,旧暦の名残です。旧暦では,「春」は1〜3月(いまの立春〜立夏,つまり新暦の2〜4月ぐらいに相当)となります。

 「五月晴れ」と言うのは,本来,旧暦5月のことですから,新暦では梅雨真っ只中。この時期に見られる,気持ちのいい晴れ間が,本来の「五月晴れ」です。梅雨の合い間の,スカッと晴れた日は貴重ですし,雨に洗われた青空は,ひときわ眩しいことでしょう。

 私たちはアサガオを夏の花だと思っています。しかし,季語では「秋」。スイカも秋なんです。
 先人の,自然や季節に対する感性に,改めて敬服すると共に,現代人とのギャップも強く感じます。


 ……さて,そうやって考えてゆくと,現代人である私たちが,季節を感じる場面って,どのくらいあるのでしょうか?
 暑ければ夏,寒ければ冬,と言う程度なら,誰でも感じていることでしょう。でも,その他の場面って,……新入生が歩けば春だったり,6月1日から衣替えで,夏になるとか,カレンダーに季節を教えられながら季節を感じている部分,多くありませんか?
 本来,自然を見て,季節を感じて,それを整理したものが「暦」だったのに,いまは暦が「季節」の主導権を握っているような印象さえあります。

 それだけ,自然を見て,季節を感じることが無くなっているのではないのでしょうか。

 こんなことを言っていると,「うちは大都会に住んでいるから,自然なんか無いし…」とおっしゃる方もいるでしょう。でも,それは違うんじゃないかな,と思います。日暮れが早くなったり遅くなったりするのを感じるのも「自然を感じる心」ですし,街の中の舗道の隅っこにも,街路樹にも,確実に自然の営みがあり,季節の変化を見せてくれます。休日に公園に行けば,もっといろいろな「季節」も見えてきます。
 季節を感じることが少なくなったのは,身近なものから「自然」を感じ取る感性が,眠りかかっているのかも知れません。

 それに関連して,ちょっと驚いた話。
 自然観察案内をしていて,俳句をたしなむ人のために,季語に出てくる植物などを紹介したら,「初めて本物を見ました」と言う人が多くて,驚いたことがあります。現物を知らずに,季語を使って句作していたとは!……一体,その季語から,何を感じていたのでしょうか? 本来,俳句って,自然と親しみ,季節を感じながら詠むものだったと思うんだけど……。

 自然を見ること,自然に気づくことは,しなやかな感性を呼び起こすことの出来る「遊び」でもあり,もっと詳しく自然を観察すれば,いろいろな発見の楽しみがある,知的な「遊び」となります。

 季節感の喪失と,自然に対する感性の喪失。……けっこう密接な関係があると思いますよ。


(2000年8月17日記)

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