匂い


 人間は,外部から取り込む情報の多くを,視覚に頼っています。本や新聞,テレビや映画,そして,いま,この文章が表示されているディスプレイも,視覚情報です。多くの哺乳類では,視覚以外の感覚を,もっと利用していて,その代わり,人間ほど視力(=分解能)の良くない動物も,けっこう多いのです。人間は,視覚の次ぐらいに,聴覚情報もたくさん利用しますが,人間よりすぐれた聴覚を持つ哺乳類は,山のようにいます。
 人間と同じように,いや,それ以上に視覚に頼っている動物と言えば,鳥。「視覚」を情報源の中心にしているという意味では,鳥は人間に近いのです。鳥の視覚能力は,人間の比ではなく,猛禽の視力は,人間が双眼鏡を使って見たぐらいの分解能を誇り,フクロウの暗視能力は,人間をはるかに超えたものです。さらに,視覚情報だけでなく,内分泌のコントロールによる繁殖期の発現なども,目から得た光情報がもとになっています。
 ところが,鳥は嗅覚や味覚に関しては,哺乳類にまったく及ばないようです。このあたりが,「視覚的生き物」である,鳥の特徴なのでしょう。

 私たちは,おそらくは鳥よりすぐれた嗅覚と味覚を持っています。赤ちゃんが,ものを何でも口に入れて,確かめたりするのも,味覚と舌の優れた触覚や嗅覚を利用するためだと言いますし,私たちが美味しいものを食べて喜ぶのはもちろん,精油などを使ったアロマテラピーなどの,嗅覚を刺激する楽しみもあるわけです。

 ……この感覚を,もっと自然観察にも使えば,自然観察は,もっと楽しくなります。
 まぁ,何でも口に入れて味わうのも,ちょっと危険ですから(笑),野外では,匂いや触感を楽しむことにしましょう……。

 たとえば雨上がりの土の匂い。たとえば草むらの匂い。……歩いているだけで感じる,「自然の匂い」があります。一時期流行した「森林浴」も,フィトンチッドと呼ばれる,木が自分の身を守るために放つ芳香成分を吸い込み,その殺菌効果やら「癒し」効果などを求めるものでしたね。
 しかし,これらの匂いは,けっこう気づかないこともあります。まぁ,フィトンチッドのように,匂いが分からなくても,とりあえず効果がありそうな気のするものは,匂いに気づかなくても,なんとなく楽しめますが,いろいろな匂いに気づくようになると,自然観察の楽しみがぐ〜んと増えますから,最初のうちは,意識して鼻を使ってみてください。慣れてくると,生えている木によって,森の匂いが違うこともわかります。もちろん,季節によっても匂いは変わります。遠くの花の匂いを,ふと感じることがあります。……いろいろな「自然」に気づきやすくなるのです。
 くわしく観察するときにも,「自然の匂いは」,いろいろなことを教えてくれます。花の匂いはもちろんですが,匂いを手がかりに,いろいろな発見があります。ヨルガオやオシロイバナなど,夜咲く花には,匂いの強いものが多いのですが,その匂いはガを誘い,ガに花粉を運んでもらうわけです。月下美人の花も,素晴らしい匂いがありますね。テントウムシやカメムシの「最終兵器」が「匂い」であることは,有名ですよね。モンシロチョウやスジグロシロチョウは,オスにだけ,ちょっと酸っぱいような匂いがあるのを知っていますか?クロアゲハやジャコウアゲハにも,匂いがありますね。

 ところが,キャリアの長い観察者でも,意外と匂いに無頓着な人もいます。特に,「視覚」と「聴覚」が観察の中心になるバードウォッチャーの場合,鳥だけ追いかけているだけなら,他の感覚は必要ないですからね。
 自然観察中に同行者が匂いの強いガムをかんだり,煙草をふかすと,「匂い」の情報がわからなくなって,すごく残念な思いをすることがあります。まあ,自然の中での煙草は,火事のもとですから奨められませんけどね。それに,煙草は匂いだけでなく,大気汚染物質も出ていますから(8畳間ほどの空間で煙草を1本吸うだけで,環境基準を越える大気汚染物質濃度になる),本当に自然を楽しむなら,思い切って禁煙してしまったほうが良いと思います。それから,匂いの強い化粧品を使うのも,自然観察には向きませんね。

 「自然観察」と言うと,つい,「見ること」に集中しがちですが,ほかの4つの感覚も上手に使って,もっともっと,自然を楽しんでください。最初のうちは,なかなか「自然の音」「自然の匂い」などに気づくのは難しいかも知れませんが,だんだん,気づくようになってきますよ。そうすると,「あ,身近なところにも,こんな自然があったんだ!」と言うような,ちょっとした発見があるかも知れません。

 自然観察は,感覚を磨く遊びでもあるのです。


(2000年1月28日記)

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