「いのち」を考える場面を,もっと大切にしたい


 解剖とか動物実験と言うと,良い印象を持たない人も多いのではないでしょうか。
 動物実験に否定的な意見を持つ人も増えていますし,学校の授業での解剖実習も,最近では少なくなっているようです。
 解剖や動物実験に否定的な意見として,代表的なものは「残酷」「命を粗末にしている」と言ったものです。たかだか子供の授業のために,フナやカエルを犠牲にしてもいいのか?残酷なことを子供に教えるのが良いことなのか?研究者は試験管のように実験動物を使っていいのか?……さまざまな疑問,問題があると思います。

 しかし,こんな時代だからこそ,あえて,子供達に解剖実習を経験することを奨めます。
 それは,上記のような問題に対して,子供達なりに考え,回答を持って欲しいからです。

 たとえば新薬の開発には莫大な費用がかかりますが,そこでは,実験動物の使用は,必要不可欠なものとなっています。薬の,人間に対する,ほんとうの効き目を知りたかったら,人間を使って実験すればいいのですが,そう言うわけにもゆきません。薬が,人間にとって安全で有効なことを確かめるために,薬を人間に使う前に,どうしても動物の力を借りなければいけません。もちろん,培養細胞などで代替出来る部分は,積極的に代替法を使うわけですが(このほうがコストも時間も節約できるし),どうしても,動物に頼らなければいけない部分は残っています。動物実験を最小限に抑え,動物に苦痛を与えることを避けなければならないのは当然のことですが,もし,動物実験を完全に否定するのであれば,動物実験によって作られたすべての薬,医療なども否定しなければなりません。感情的な動物愛護論には矛盾が多すぎます

 私たちの食卓に上る肉や魚。これはもちろん,加工品も含め,すべて動物の犠牲の上に成り立っています。では,その家畜や家禽が飼育され,屠殺され,加工されてゆく過程を,見たことがありますか?パックに入った精肉や,魚の切り身だけしか見ていないと,そこにたどり着くまでの過程が,見えなくなってしまいます。日本では,豚だけでも年間,約2000万頭が屠殺され,さらに外国で屠殺した豚の肉も輸入して,私たちの食卓に届けているのです。闇雲に「命の尊厳」を主張するだけでは,何の解決にもなりません。

 よく,「子供は残酷だ」,などと言われます。確かに,小さい頃,バッタの脚をもぎ取ったり,カエルでいたずらした経験のある人も多いでしょう。でも,そんな遊びの中から,「これ以上やったらまずいぞ」と言う感覚を身につけていったのではないでしょうか。私も子供の頃,「カエルの催眠術」などと言って,カエルを仰向けにしてお腹を押さえているうちに,カエルの口元から血が滲んできて,すごくショックだった記憶が,はっきりあります。
 逆に今の子供は,どこまでやったら「まずいこと」になるのか,経験して知っているわけではありません。知らないまま大きくなって,誰かと喧嘩して,相手が死ぬまで殴り続けてしまったり,罪悪感もなく人を刺せるようになっていたとしたら……。
 まあ,それだけが原因とは思えませんが,しかし現実には,人が死ぬまで暴力を振るい,ムカつけばナイフを突きつける子供は,昔よりも明らかに増えています。昔のほうが解剖実習を経験した子供が多かったわけですし,生き物に残酷なことをした経験のある子供も多かったわけですから,「解剖は残酷だから,それを経験した子供は残酷になる」,と言う論議は,当てはまらないことになります。もっとも,解剖を残酷なものにするか,効果的な教育にするかどうかは,指導者のやり方次第,と言う面もありますが……。

 そして,もっと重要な点として,自分が食べているものについて,知らないことが多すぎること。牛を見たことのない子が牛乳を飲み,ハンバーグを食べているわけですから。
 人は生き物です。基本的に生き物は,他の生き物の「いのち」を消費しなければ命をつなぐことが出来ません。その「基本」が,忘れ去られようとしています。もちろん,プランターや家庭菜園で野菜を作るのを「いきものを食べる」教育として使ってもいいでしょう。しかし,肉や刺身のほうが,もっとブラックボックス化しています。ほんとうなら,畜産農家を見学し,家畜の飼育を体験し,さらに,屠畜場の見学をして,自分の食べているものが,どこからやって来るのか,しっかり見届けるようにして欲しいのですが,そこまで手間暇をかけるのは容易なことではありませんし,恐らく,大人が見ても,かなりインパクトのある経験になると思います。

 フナの解剖がダメと言う一方で,魚を釣って食べるのを楽しみにしている人も少なくありません。釣りの好きな子も少なくないはずです。私には,「命を教える」と言う点では,この両者は矛盾しているようにも見えます。
 昔は,魚を食べるときには,魚を自分でおろしていたのです。つまり,解剖とほぼ同じ作業を身につけなければ,私たちは魚を調理して食卓に上げることが出来なかったのです。自分で魚を釣ったら,それを食べるためには,魚を自分で絞めて,お腹を開く必要に迫られます。その作業の中から,いのちを「いただく」と言う気持ちを育てていったのではないでしょうか?

 ひとつ,提案です。
 フナの解剖をやめて,まるごとのイワシやアジを仕入れて,開きましょう。もちろん,最後には調理して食べるのです。調理しながら,魚の体の構造について学び,動物の命を「いただく」感覚も養うのです。

 魚に限ったことではありません。日本では精肉が流通する,衛生的な環境がありますが,一歩,外国に出れば,自分でニワトリやアヒルをさばいて内蔵をかき出さないと,食事にありつけない国だってあるのです。そんなとき,「できない」だけでは済まされませんよね。

 つまり,解剖は,生命を扱う基本的な感覚(=生命観)を養う面と,生活のための基本的な知識と技術を学ぶ面があるわけです。また,もう少し観念的なことを言えば,自分も「生き物」である点を,強く認識させられる場面でもあるのです。それは,プラスチック製の臓器モデルなどからは,決して学び取れることの出来ないものを含んでいます。

 獣医という商売をしていると,自分の手で動物を殺さなければならない場面,自分の判断で動物の殺処分を決める場面などは,日常的にやってきます。特に産業用の家畜を扱う獣医では…。
 ところが,獣医を目指す高校生の中にも,解剖実習に否定的な子がいます。私の職場では,年に1回,「サイエンスキャンプ」で獣医を目指す高校生を受け入れていますが,この実習カリキュラムの中に,マウスの解剖を入れています。中には,解剖実習は,命を無意味に殺しているのではないか,といった感想文を書いてくる高校生もいます。それも1つの考え方だとは思いますが,獣医学の現場で,その考えは通用しません。獣医は動物の予後を診断し,必要なら殺処分もするような商売です。しかも,解剖学的な知識は,動物を扱うすべての技術の基礎になります。獣医が「いのち」を無駄にすることは許されません。もし,解剖実習をして,それが無駄なことだ,無意味なことだと感じたとしたら,それは,ひとつの「いのち」を犠牲にし,解剖したことによって得られる,解剖学的な知識のみならず,そこから学ぶべき,さまざまな大切なことを,最初から拒否して受け入れず,無駄にしてしまったのかも知れません。命は尊い。尊いからこそ,それを無駄無く使い,学ぶべきではなかったのでしょうか?もし,いい加減な解剖実習をして,学び損ねたことがあったとしたら,それをきちんと学ぶためには,もう1匹,解剖して確かめなければいけなくなります。そんな甘えは,獣医の世界では認められません。まして,1頭が何十万,何百万もする肉牛飼育なども扱う,産業動物相手の獣医の世界で,そんな安易なセンチメンタリズムで「いのち」を扱うことが出来るでしょうか?
 だからこそ,「サイエンスキャンプ」では,多少厳しいようですが,自らの手で解剖実習をし,「いのち」について,真剣に考えてもらうのです。獣医を目指す高校生であるなら,学校の解剖実習よりも厳しい目で,「いのち」を見つめることを経験して欲しいのです。「解剖は無意味だ」と言う,センチメンタルな気持ちのまま獣医学科に入ったら,その本人がいちばん不幸な目に遭いますから。
 獣医師は動物の命を預かる商売です。ですから,普通の人以上に,命に関する明確なビジョンを持ち,感情に流されないで,「命の尊厳」を重視する心を持つ必要があります。ふつうの子供たちや,一般の人に,そこまで要求するのは難しいですが,感情的な動物愛護論などに流されない,確かな生命倫理観を学んでもらえたら,もう少し「いのち」に対する考え方も,変わってくるのではないかと思います。

 さて,学校の授業での解剖に関しての,私なりの結論ですが,[無理強いはしませんが],日常生活の中で「いのち」について学ぶ機会が少なくなり,「いのち」に関する感覚が希薄になっている昨今,解剖実習などを有効に活用して,生き物の「いのち」をきちんと学び,自分たちも同じ「いのち」を持った生き物であることをしっかりと認識するような経験は,しておいたほうがいいでしょうし,経験して,絶対に損になることはないと思います。

 ……もっとも,こうした学習効果を期待せず,無機的に解剖実習だけさせるような教育現場だったら,私は真っ向から反対しますけどね。


(2000年1月28日記)

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