これだけは言い残しておきたい

贖 罪 の 事 実

 

 

人生に行き詰まり、罪を知った人、

ことに、罪の故に世間や親兄弟からも捨てられた人にこれを記す。

 

 

コリント人への第一の手紙 9:16[塚本訳]

たとい福音を伝えたところで、わたしの誇りにはならない。なぜなら、(神に)強要されているのだから。なぜなら、もし福音を伝えないならわたしは禍だからである。"

 

 

高橋照男

200212.8

 

 

 

赦しの背後に贖罪あり

 

神は罪を赦すがただでは赦さない。贖罪で罪を始末してから愛する。だからキリスト教の愛は慈悲とは言わず博愛とは言わず「贖罪愛」という。神の義の貫徹と救いが同時に実行される。それが十字架の愛である。罪をウヤムヤにしない。贖罪なくして真の愛はない。真の愛は贖罪を要求する。慈悲は罪の見逃しに通じる。博愛は罪を被うのみ。贖罪愛は神が汚いものに手を突っ込んできれいにしてくださる。本当にそんなことがありうるのかというのが人間の正直な疑問である。豹の斑点が消えることがないように人間の罪は本能としてあり、また失敗の過去は厳然として残っていくのではないか。・・・・人間誰しもこう思ってしまう。ところがそれがありうるのだ。といって私はキリスト教でメシを食っているわけではない。宗教に勧誘しているのではない。キリスト教で儲けるているのではない。返って持ち出しだ。支配欲を満たしているのではない。ただ愛する人の心が重いだろうから、また不自由だろうからその重荷が取り除かれる道があることを言っているのだ。信ずれば超自然的な不思議なことがおこって人間は誰もどんな過去の過ちでも神はそれを消してくださる。すると心が平安になり楽になる。罪の恐怖戦慄に追いかけられない。重圧から解放される。これが贖罪愛の結果である。と同時に人間を生まれ変わらせて罪の奴隷の子供ではなく神の子にして下さる。違った性質の者につくりかえられる。といって全く俗の欲がなくなって聖人君子になるというわけではないが、勤務先を変わるように、今までは「罪」という社長の社員であったものが「神」という社長の社員に変わったようなものである。残骸として前の会社の汚い服を着ているが体は新しい会社に帰属している。会社の方針が違う。喜びの内容が違う。キリスト教の本質は「永遠の生命」である。そしてその実感としての喜びである。この喜びは他のどんな喜びとも比べ物にならないくらい心を満足させるものである。それは頭だけの観念ではない。喜びは実感である。永遠の生命は実感としての喜びである。

 

 

2001.12.8        高橋照男

 

 

 

神は人の姿になって人間に近づく

 

口語訳 ピリ 2:7

2:7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、

新改訳 ピリ 2:7

2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

新共同 ピリ 2:7

2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、

TEV ピリ 2:7

2:7 Instead of this, of his own free will he gave up all he had, /and took the nature of a servant. /He became like a human being /and appeared in human likeness.

 

キリストは「人の姿で世に現われた」とは実に深い意味が込められている。それは「仕える者」「僕の身分」とあるが、具体的には「お手伝いさん」や「部下」や「主婦」や「子供」や「病人」や「ぼけ老人」や「旅人」(ルカ23:23−35のエマオの物語ではキリストがまさに旅人の姿で近づいた)になって近づくのだ。われわれはそれに気がつかず彼らを「めった打ち」にしてしまう。正義のためといって。しかしそれは「主を打っている」のである。

 

新共同 ルカ 10:30-37

10:30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。

10:31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。

10:32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。

10:33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、

10:34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。

10:35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』

10:36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」

10:37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

 

この「良きサマリヤ人」の物語について神学者のバルトは興味ある解説をしているという(出典不明伝聞)。ここで強盗にあって痛めつけられた人はキリストであり、そこで譬えの最後にユダヤの律法学者にむかって「あなたも救い主に対してこのサマリヤ人のようにしなさい」と言ったのが譬えの主旨であると言う。つまりこの譬えは「愛とは何か」という隣人愛の一般ヒューマニズムの道徳を教えたのでなく、「救い主(私)は強盗にあって瀕死の重傷を負った人生の旅人」としてあなた達の目の前にあらわれている。だからあなた達(ユダヤ人)は(私に対して)「このサマリヤ人ように(私に親切に)しなさい」というのである。異論があろうが、実に深い読み。さすがバルト。

私達の目の前にも「この人が」と思われる人が実は「主が姿を変えて」いましたもうのだ。

救い主は馬小屋で生まれた(神の子が!)。皇太子雅子さんの子供の「愛子さん」の生まれ方とは違った!!。そして死ぬときは見送る人が少なく逝った。

神にとっては独り子を捨てた(別れた)悲しみの日のクリスマスが近づく。

 

2001.12.8        高橋照男

 

 

不倫による家庭崩壊と贖罪による救い

 

ここ数年のうちに不倫による(それは夫が原因の場合が3件、妻が原因の場合が1件)家庭崩壊を目の当たりにした。なんとも心が重く「イヤーな」気持ちになる。いずれも熱烈な恋愛関係でしかも同棲からスタートしたカップルということが共通点であることがなぜであるか考えさせられる。またキリスト者の家もその例外ではないからショックである。しかし家庭崩壊という危険は誰にでもどの家庭にもあるので「人のことは言っていられない」。いずれの場合も子供が犠牲になっている。子供はものを言えないが、心の苦しみにあえいでいる。気の毒である。大人の罪の代償を子供が負っている。罪は代償を要求する。人生はそうなっている。不倫の代償は家庭崩壊という社会的マイナスとなって現われる。崩壊家庭の人物はまず社会的に不潔なイメージがあるため浮かばれない。こんな場合わが国の既存の宗教もいかなる教え、またいかなる人間的慰め(たとえばこれが最近の風潮だなどという比較)も救いに役立たない。だから重苦しい「イヤーな」気持ちになるのだ。やりきれないのである。しかし人生は奥が深い。救われる道があるのだ。不倫は人類の太古の昔からの悩みであった。旧約聖書の人間愛憎劇は不倫である。新約聖書のテーマも男女間のどろどろからの救いが書かれている。つまり不倫は人間、生きとし生けるものの宿命的な深い悩みなのだ。男は女に惹かれ、女は男に惹かれるのだ。そこに不倫の原因がある。しかしそれはいけない「まずい」道なのだ。なぜかそれは答えられない「世界と人生はそうなっている」としか言いようがない。それを気に食わないとして不倫の道を歩むものは歩いてみるが良い。人生は何事も実験だ。一回きりない貴重な人生だ。試してみるのもよい。しかし私の場合はその道を行って喜んで帰ってきたものがないと観察しているので行かない。人生は観察が大切。先の4家庭も現在はどろどろ、不倫相手との関係もドロドロ。決して幸福そうではない。子供がかわいそうである。だからわたしはその道を行かない。不倫の楽しみよりその後の苦しみのほうが大きそうなのである。その前に日曜日ごとに会う「主の民」の面々に「イヤーな」顔をされるのが怖い。妻に激怒されるのが怖い。だから歯止めとして日曜集会を通じての「主の交わり」が必要なのだ。その「主の民」の集まりでは「贖罪」の感謝を毎回称えるのである。

 

2001.12.5 高橋照男

 

 

罪の代償

 

聖書は罪の代償の必要を告げる。旧約聖書は罪の代償に子羊の血を流した。新約の福音はその子羊はキリスト・イエスであり、イエスの流した血が我々の罪を贖うと告げる。問題は2000年後の今の時代の我々にそれがどのように作用し、効果を及ぼすのかということである。その答えは「今も働く神の実在の力で分からされる。その意味を知らされる。」ことにある。この関係を理解しないと問題は永久に解けない。つまり神の実在が先で聖書は後である。神の作用が先で信仰は後である。神は我々の罪を赦そうと霊の力で我々に臨むのである。そのとき過去の出来事としての十字架(それは人間の伝承を通じて鼓膜か肉眼で頭脳に知らされるもの)を心に啓示して「サインとして贖罪情報を示す」。つまり「赦しの告知」を十字架というサインで各自の心に示されるのである。それは神にとって各人に対する赦しの宣言の言葉である。情報である。心に教えてくれる。人は十字架の意味の情報を受け取るとき、耳か目でキャッチする。しかしその内容が理解できなければその情報の価値はない。効果はない。ただ聞いただけで心に響かなければはそれは馬の耳に念仏である。神による罪の許しは、目と耳で情報が流れてきて頭脳に記憶されていても心に響かなければその人のものにならない。「馬耳東風」である。神がその人に向かって「汝の罪は赦された」というときにはその人の心を開いて十字架の意味を示す。教える。これがまた人間にとっては神の実在を知らされる唯一の道である。罪の赦しなくして神の実在はわからない。そのとき「キリストの死は私のためでした」という時間が同時になるような(つまり過去の出来事が今の私のためであったという)変な「告白」が行われるとき、そこに霊なる神がその人に罪の許しとして今(イマ)臨んだ証拠である。そのサインとしての情報づくりのためにイエスは十字架にかかられた。イエスの受難は見える形での神の心である。神の強要、神の御用のためにイエスは死なれた。血を長された。

罪の代償は死である。血である。それなくして罪は清められない。そしてこれは万国、全人類に共通の言語(意味)である。だから福音は世界に伝わるのである。血は罪を清める。死は罪を清める。これは人類に普遍的な共通真理である。だからキリスト信者が1%のわが国においても罪の代償として「死刑」がある。それで日本人も一応は納得する。心休まる。我々の知ると知らざるとの深い罪は神の子羊イエスの血によってサイン情報が創られた。神の心の見える形の情報となられた。その本当の意味が実在の神によって各人の心のうちに示されることによって現代の我々は罪の悩み苦しみから解放される。救われる。心の重荷が取り去られる。ヘブル書の大祭司イエス論はこのことである。復活されたイエスが大祭司として今も罪の代償をして下さって我々に現われて臨んでくださるのである。

我々の心にとめる愛する同胞の上にこの霊なる大祭司イエスが臨んで下さり、罪の赦しの経験を通して彼らが真の平安と幸福と歓喜に至れるように切に祈る。私はこの真理を愛する者に分かってもらわなければ死んでも死にきれないのだ。

 

2001.11.28 高橋照男

 

 

 

自分の罪を棚に上げる

 

11月23日に今井館で行われた「無教会研修所シンポジウム」では、米国は自分の罪を棚に上げて人に「謝罪」を要求している。という鋭い指摘があった。そのとおりである。そんな米国にイスラム原理主義は屈しないであろう。米国が中東で犯した罪はニューヨークで起きた多発テロの何十倍にもなっている。真実は神が知る。人間レベルの「謝罪」なんかで済む問題ではない。神の前での問題である。また「貧困の差がこの事件を生んだ」との指摘もあった。わたしは今回の事件で「市場経済の行き詰まり」を見た。市場経済は最終の形態ではない事を知った。市場経済は強者と敗者を産みその差を大きくする。といって共産主義、全体主義がいいというわけではない。では何が最終の形態か。名君の統治である、神の子キリストによる統治である。つまるところ終末への期待である。

 

2001.11.27  高橋照男

 

 

「幸福」の源泉

 

 私が高校生の時のこと。当時HiBAという高校生対象の聖書研究会があった。そこに集ってきた一年か二年後輩の一人の青年(ふっくらとした顔の紅顔の青年であった)が持っていた聖書には、自分で「幸福」と手書きした紙のカバーがしてあった。彼は「幸福」を聖書に求めていたのだ。あれから40年。わたしは不思議に時々彼の顔とその手書きで「幸福」と書かれた聖書カバーが目に浮かぶのである。彼はその後どのような人生を辿ったのだろう。「幸福」を聖書に見出しただろうか。彼は「いまいずこ」。私は彼の名前を知らない。彼の上に神の恩恵が豊かに下り、今からでも(遅くはないから・・・・といっても生きているのだろうか・・・・)神のもとにある真の幸福に出会えることを深く祈る。さて私はというと、16歳のときに洗礼を受け、その後塚本虎二先生というすぐれた聖書学者に出会い、無教会主義になった。25歳のときに紹介されて「信仰の伴侶」を賜った。これが信仰の道を硬くした。4人の子供に恵まれ幸いな人生を歩むことができた。これはというのも青年のときに神のもとに「幸福」を求めて、そこに真の幸福を見出せたからに他ならない。幸福は神との交わりにある。金との、地位との、学歴との、人間との、仕事との、妻子との交わりではない。ただただ神との交わりにのみ真の幸福があるのだ。聖書もまたそのことを指し示している。

 

ヨハネ福音書20章31節塚本訳(本来のヨハネ福音書はここで終わっていた)

 

しかし(ほんの一部分であるが、いま)これらのことを書いたのは、あなた達に、イエスは救世主で、神の子であることを信じさせるため、また、それを信じて、イエスの名によって(永遠の)命を持たせるためである。"

 

 

ヨハネの第一の手紙1章3−4節塚本訳(ここに手紙を書く目的が書いてある。筆者はよもやこの手紙が聖書になるとは思っていなかったはずだ。それだけ真実味がある。)

 

3節 わたし達が見たもの、また聞いたものを、あなた達にも告げる。あなた達もわたし達と(霊の)交わりを持つためである。しかしわたし達のこの交わりは、(他方においては)父(なる神)とその子イエス・キリストとの交わりである。"

4節 わたし達が(この手紙を)書くのは、(あなた達がわたし達との交わりに入り、)わたし達(が父と子と)の(交わりにおいてもっている)喜びが、完全なものとなるためである。"

 

2001.11.27        高橋照男

 

 

 

人生の失敗は神の恩恵

 

 私の中学校(浦和市立原山中学校)の恩師であられた古戸泰先生(故人)は卒業アルバムの寄せ書きに「不利亦利用」と書かれた。中国の古事か諺か分からないが、この言葉は私がその後の人生で「不利」に遭遇したときに思い出され、励ましとなった。真理の言葉は短いほうが良い。後年、私が塚本虎二先生の影響でキリスト教徒になったことを古戸先生に伝えると「自分はかってキリスト教のことに関して塚本先生に質問したが、その塚本先生からの御返事の手紙を持っている」とおっしゃられて、私にその手紙を下さった。人生の出会いとは不思議である。古戸先生は10年程前にお亡くなりになられたがいつか「お線香」をあげに伺いたいと思いつつもまだ果たせないでいるので心残りである。

 その塚本先生の言葉に次のものがある。これを私は墨で大きく書いて机の前に張ってある。

「一見、不条理な不可解なところに神の大なる恵みの知恵が隠されていると私は信じる。神はこれを以(も)って私達に神の愛の何であるかを教えられるのである。塚本虎二」(小泉康雄遺稿集「神は愛である」あとがき)

私はこの言葉を通勤途中の車中で読んだとき、両眼から涙がはふり落ちて止めることができなかった。

人生の不利はこれを利用せよというのは「苦難にめげずにがんばれ」という応援の言葉であるが、キリスト教では、その不利は実は神の恩恵から出ているのだという積極的な捉え方をする。そしてまたこれは真理であると思う。わたしの人生の不利は恩恵に変わった。恩恵であった。神の愛は一見不条理で不可解であるが真の愛だ。

 

2001.11.29        高橋照男

 

 

キリストの血はなぜ罪を清めるか

 

キリストの十字架を信じて受け入れると「不思議に」罪が清められる。心の重荷が取り去られて自由になる。過去が精算される。今生まれた嬰児のようにさせられる。それはなぜか。これは人類千古の謎である。これは解明しても解明しきれないものであるが「事実」である。しかも厳然たる事実である。今日キリスト教徒は7億とも15億とも言われている。信仰は分かって信じるのではなく、信じて初めて分かるものである。もし分かって信じるものであれば「理解できない」頭の弱い人には救いは遠い。そこで神は救いの道として「理解する道」でなく「信じて受け入れる」という単純な方法を「開発!」した。これなら誰でもが救いの恩恵にあずかれるのだ。

 

口語訳 Tコリ1:21

1:21 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。

 

問題はこの信ずるということはどういうことなのかである。信仰は異常なる体験ではない。啓示の受容ではない。単純に心で信ずればよいのである。むずかしく考えることはない。では人間ははたして信ずることはできるか。我々は日常多くのものを信じて生きている。東京へ行こうと思ったら「東京行き」の列車に乗る。それはその列車に乗れば確実に東京に行くことを「信じて」いるからである。これと同じである。「救い」「平安・喜び」というところを目指せばそこへ行く列車に乗ればよい。「救われたい」と思えば信ずればよい。それを裏を考えたり、疑ったり、乗ることに「メンツ」を感じて恥ずかしがったりしていて乗らないと「行くところに行けない」。乗らないというそのこだわりはどこからくるかというと、やはり悪魔のささやきとしか言いようのないものである。あるいはあまりに堕落していると信じる気にさえならない。現状の惰眠生活に浸っているとそこから抜け出そうとする気が起きない。その闇の力を打ち破るほど信じようとする内的動機、つまり乗りたい、乗らなければならない、もう信じて乗るしかないと切羽詰った追い詰められる状態が訪れれば、人間はがむしゃらに列車に飛び乗るのだ。「なりふりかまわず」、いちかばちかで飛び込むのだ。信仰にはこの何もわからずとも聖書と福音伝達の声を信じて思い切って飛び込むという「決心」が必要である。それを救いは神の選びだと感想ばかり言っているから「キリスト教は分かりにくい」ということになる。

 

口語訳 ヨハ 15:16

15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。

(ヨハネ15:16)。

これは神の舞台裏の真理であるが、死に物狂いの人にそれを言っても効果はない。そういう人には「飛び込め、支えるから信じてすぐ飛び込め」と叫ぶしか方法がない。救いは神の側の全くの恩恵である、神の選びである、というのは、救われた人があとで振り返って言う「感想」「感慨」なのであって、それを困っている人に、罪に悩んで苦労している人にそのような「感想」「感慨」を言ってもしょうがない。今日までキリスト教が分かりにくいとされる点はそこにあったのではないだろうか。「キリスト教は分かりにくい」とよく言われる。しかし救いは頭で「分かる」ものではないことも真理である。だから分かってもらおうとする努力もまた究極的には不毛である。信仰は分かってから、理解してから、納得してから信じるものではない。だから罪に悩んで苦しんで「ヤケクソ」(三谷隆正)で信じる道が唯一の道である。伝えられたことを信ずる。伝える人を信ずる。すでに信じて「喜びと平安の生涯」を送っている多くの証人たちのことを信ずる。信ずるとはこのことである。必死に求めるのである。「溺れる者は藁をも掴む」は、こと信仰に関しては決して恥なことではない。それが本道なのである。このことは宗教的真理なので、親鸞に聞いても「そうだ」と言われるだろう。信仰は理性の放棄ではない。恥ではない。宗教上の真理である。「頭のいいヤツ!!は考えずに信じて飛び込む」のだ。信ずることに誇りがあるのではない。自分で自分の性質がイヤになって切羽詰ってなりふりかまわず飛び込むのだ。それが「頭のイイ人のする方法」なのだ。信仰は恥ではない。今日の青少年が早く「自分で自分がイヤになる」場面、「自分の過去を見て戦慄する」場面に直面することを祈る。それは絶体絶命の時。しかし天国への門が開かれる時。

 

20010.11.18 高橋照男

 

 

人は赦せるか

 

 キリスト教は「罪の赦し」の宗教である。しかしそれが人間にとって実行不可能であればイエスの贖罪死は無駄であった。果たして人は赦せるか。実行可能か。結論を先にいえば人間の努力では無理。神の霊に満たされるときに「赦しとやわらぎ」(賛美歌501)の心が与えられる。これは不思議な現象で実在。パウロのロマ書は12章以下でそのことを言うのである。12章の冒頭は「だから」ではじまる。11章までで救いの原理を説いたパウロは、救いは現実だ。「だから」人を赦せ。というのである。

あなた達はすでに人を赦せるようになっているのだ、という。神の霊を頂かなければ人間はどんなに「努力」しても人を赦せない。赦したと思っていてもそれは高々「無関心」でいるだけ。相手が不幸にでもなれば「天罰」とひそかに喜ぶ。これは人を心から赦していない証拠。赦さない、赦せないときの屁理屈というのは「相手を反省させる。義を貫徹させる。何が正しいことかを目覚めさせてやる、相手のためにはそれがよい」などである。人生問題のゴタゴタは大抵この一点に尽きる。今アメリカは頭では赦さなければならないと思っていても「体がいうことをきかない」のでさかんに「報復、復讐、裁きの場に引き出す」と叫んでいる。

人はまず自分が十字架の血で罪を赦していただき初めて人を赦せる。神は人間の罪を「タダ」では赦さなかった。我が子を十字架で殺してその血で我々の罪を洗った。我々はそれを素直に受け入れて信ずれば罪の鎖、不自由な心の重荷から解放される。

 

2001.11.17 高橋照男

 

 

 

 

男の転機

 

息子の一人から「お父さんが職場を変わったときのいきさつを教えてくれ」という質問があったので、そのときのことを思い出して所感をまとめる。

わたしは35歳のときに建設会社から建築設計事務所に転身、55歳のときにはその建築設計事務所から建設省(現在は国土交通省)の外郭団体(現在の職場)に転身した。しかし職場は変わったが、職業(建築士)は変えなかった。

いずれも前段階の経験が生かされるところに招かれた。転身には二つの大切なことがある。第一はそれまでの経験が生かせるとことがよい。第二は招かれることである。この二つが満たされない限り「今の職場」にとどまるほうが得策である。現状がいやになって飛び出したら良いことはない。

しかし男には必ず「転機」というものが現われる。その時は何もかも打ち捨てて神の招きに応じなければならない。わたしの35歳の転機も55歳の転機も「神の招き」と感じたのでそれをむんずと掴んだのである。その結果いずれも結果的に良かった。妻子を抱える身での転身は悩むが、いずれの場合も妻が「あなたの好きなようにしてください」と言ってくれたのは感謝であった。

これは山本七平の本に出ていたのであるが、山本七平は次のように言う。・・・・・男は30歳台の前半(30〜35歳)に大転機が来る。その実例としては次の人物。まずイエス。30歳頃母と家を捨てて33−35歳頃に処刑される。パスカルが数学者科学者の名声を捨ててキリスト教に没入したのが30歳直後。シュバイツァーがこの世の名声を捨ててアフリカへ医療伝道に向かったのも30台前半。そして男は必ずといっていいほど30歳を過ぎる頃になると「転機」が自然に訪れて、その神の招きに応ずると一切を振り捨てて与えられた使命に邁進するようになるという。そしてその転機が訪れるまでは自分が頭の中でどんなに新たなる人生設計をしてもうまくいかず、逆に天命としての転機が訪れれば万難を排してでもそれに飛び込むようにさせられるという。そして男はその天命に飛び込めば、生きてきた甲斐があるという気分になる。その道はこの世的にはみじめな道かもしれないが(貧困かつ理解されないが)本人にとっては生きがいと喜びに満たされる道である。・・・・・と。

 その他私なりにに思いつくまま、人生に転機が訪れて一切をかなぐり捨てて天命に邁進した人の例を挙げてみよう。ルターは雷に打たれて死に目にあい、「聖アンナ様ごめんなさい」と叫んで修道院に入ることを決心。アウグスチヌスは「取りて読め、取りて読め」という子供たちの歌に俄然と堕落「人生の惰眠から覚め」(ヒルティの好きな言葉)、回心してその後カトリック教会の祖となる大きな働きをした。バンヤンの「天路歴程」の冒頭は主人公が両耳に指を突っ込んで「永遠の生命!永遠の生命!」と叫びながら、妻子の止めるのを振り切って家を飛び出す場面からはじまる。その第二部はあまり知られていないが残された妻と子供が父のあとを追って同じ旅に出る。ダンテの「新曲」では人生の道の半ば(35歳とされる)にダンテが暗い森に迷い込んでいるのを自覚したときに、ヴァージルという師に出会い、それから三界を旅して天国へ向かう。ダンテの転機も人生の半ば(30歳台)であった。

男にはこのように神の招きとも言うべき「転機」が自然に訪れるものである。その神秘的な大切な転機が訪れたときには金とか名声とかに目もくれずにその天命に邁進すべきである。そのとき「金や名声や妻子」などを打ち捨てるだけの真の「教養」を磨くのが30歳頃までの勉強である。このとき「家庭の幸福」などの甘い人生の目標を立てていると神にバシッとやられる。

かく言う愚鈍なる私は、「平穏な晩年」などと夢見つつ馬齢を重ねた58歳の昨年に、家と財産を焼かれ、脳出血で意識を失わされ、一たんは命を取られた。その他に苦境に追い込まれることにもなった。「人生の惰眠」であった。バシッと打たれた。ザックリ傷つけられた。重い鉄槌が下った。しかしこれで心構えを整理させられた。顔を固く前向きに固定された。転機であった。キリストへ、キリストへ。今後また脳出血で痛い思いをしてどうせ死ぬのなら「ありがたい贖罪と復活」の告知邁進中に死んだほうがよいと思うようになった。人生「惚けても長生きがよい」などということを人生目標にすることはできない。若くして死んだ初代キリスト教の殉教者達のことに思いが馳せる。この私は何をこれ以上馬齢を重ねるつもりなのか。

 

2001.11.10  高橋照男

 

 

結婚は忍耐か

 

2001年11月3日は私達の32回目の結婚記念日である。息子の一人から手紙で祝辞をもらったがその中で「結婚は忍耐ですか」という質問があった。そこで私が先輩達から受けた無教会のよい結婚観をここに「伝承」しておこう。「無教会の」と言ったがそれは聖書の示す結婚観である。こういうよい習慣や風習も文化継承の一つである。結婚は忍耐ではない。調和である。創造の秩序のハーモニーである。喜びと平安である。だからそこに流れる音楽はヘンデルの水上の音楽の中の第5曲「Air」(エアー)がふさわしい。この曲は英国のロイヤルウェディングのときに流されていたのを聴いたと記憶している。さすが英国、本質をつかんでいる。結婚は神の備えた創造の秩序の一環である。厳粛なる儀式である。恐れをもって参加する神の業である。

ではその内容は?。男にとって伴侶は「オッつけられる」ものである。私の尊敬する無教会のA先輩は「わたしは女房を○○先生からオッつけられ(ママ)た」と語っておられた。私の場合も高橋は集会の元老達に結婚を強要されたと評した人がいた。(その人はすでに召天。淋しい。)

しかし考えてみればアダムも神にイブをオッつけられたのである(創世記2章8節)。イサクもリベカを「オッつけられた」のである(創世記24章)。しかしこの場合「オッつける」人の存在と考えは、男に(女ではないことに注目)伴侶をオッつけて「その男を一人前にしよう」という愛の思いなのである。神は男を一人前にするために伴侶なる「女」をオッつけるのだ。それで男ははじめて一人前になるのだ。だから男は一人前になるために「彼に合う助け手」をオッつけられるのだ(創世記24章18節)。かくて男は神の創造の秩序に従い、協力して神と人とに仕えるべく生かされるのだ。

私の場合は、自分の意志に反して思わざる伴侶をオッつけられて人生が調和した。神は神の思いで良かれと思う人を、私に「合う」人を、私にふさわしい人を、与えてくださった。妻は私の不足を補完してくれて来た。強めてくれた。神の前での調和である。人間レベルでのいさかいや喧嘩は絶えないがそれはキリストへの旅の途中のこと、お互いがよそ見をしないようにとの喧嘩である。一般に男には「キツーイ女」がふさわしいのでそういう人を「オッつけられる」のだ。神のご計画である。いまもなお継続する創造の一環である。

男は意に反する人をおつけられて初めてその人が「私を補完してくれる」人であったということがわかる。忍耐ではない調和の感謝である。喜びである。女は補助者、伴侶である。間違ってはいけないことは、女はあくまでも伴侶であり補助者であることである。それが創造の定めである(創世記3章。エペソ書5章)。その秩序を逆転して女が主導権を握る家庭も国家もうまくいかないとは中国の諺(失念)である。助け手があって初めて男は一人前になる。二人は一体である(創世記2章24節)。わが国の言葉の「身を固める」とはよく言ったものだ。

しかしだからといって見合い結婚や親や先輩の紹介による結婚だけが神に喜ばれる創造の秩序かというとそうではない。この場合「オッつけ」ようと画策する人も所詮人間である。これに反して恋愛結婚は自分の好みに合った人、「好きなタイプ」の人という考えで結ばれるが、これが問題。それは自分の名誉が上がるだけで神の名誉があがらないのだ。だから時に神はその恋愛で知り合った二人の関係を「ぶち壊して」リコネクション(再構築)する。無教会のS先生のところに持ち込まれた結婚式のうち、恋愛関係で知り合った人達の仲が「ぶち壊された」例を二組知っている。そのうちの一組はそのS先生に恋愛関係を壊された後にリコネクション(再構築)され、改めて神の手から相手を頂いてその後幸いな信仰生活を送られた。最近そのご主人は召天された。私が葬儀を任された。夫人はその苦難の結婚のスタートのいきさつを話され、泣かれた。幸いな夫婦関係であった。結婚の際のこの神に対する厳しい姿勢がその後のお二人の人生の総てを律した。人生は短い。スタートが大切。結婚は神に対する厳粛な姿勢である。それがあって初めて祝福された家庭が与えられる。ヒルティは夫人に先立たれたとき、「自分はもう半人前で不完全である。もし天国というものが本当にあるならそこでは妻にだけ会いたい。」と言った。キリスト教の結婚観の極地をヒルティは歩いた。ヒルティは夫人(ヨハンナ)を神から賜ったのである(箴言19:14)

神は男が神に仕える人生にふさわしく歩めるように、その目的遂行にふさわしい人を人生の旅路の途中で良い時にきっと与えてくださる。「オッつけ」て下さる。出会わせてくださる。なぜならそれが神ご自身の創造の業の継続なのだから。それは神ご自身の名誉のため。私達はそれに参加するのだ。結婚は忍耐ではない。創造の秩序の神の業に参加する喜びなのだ。最後に箴言の「妻」という言葉を列挙してみよう。ユダヤ人はすごい。さすがは神の特愛の民。結婚観が違う。

 

新共同 箴5:18   あなたの水の源は祝福されよ。若いときからの妻に喜びを抱け。

 

新改訳 箴  6:28-29

6:28 また人が、熱い火を踏んで、その足が焼けないだろうか。

6:29 隣の人の妻と姦通する者は、これと同じこと、その女に触れた者はだれでも罰を免れない。

新改訳 箴  12:4

12:4 しっかりした妻は夫の冠。恥をもたらす妻は、夫の骨の中の腐れのようだ。

 

新改訳 箴  18:22

18:22 良い妻を見つける者はしあわせを見つけ、主からの恵みをいただく。

 

新改訳 箴  19:13

19:13 愚かな息子は父のわざわい。妻のいさかいは、したたり続ける雨漏り。

 

口語訳 箴  19:14

19:14 家と富とは先祖からうけつぐもの、賢い妻は主から賜わるものである。

 

口語訳 箴  31:10-11

31:10 だれが賢い妻を見つけることができるか、彼女は宝石よりもすぐれて尊い。

31:11 その夫の心は彼女を信頼して、収益に欠けることはない。

 

新改訳 箴  31:10-11

31:10 しっかりした妻をだれが見つけることができよう。彼女の値うちは真珠よりもはるかに尊い。

31:11 夫の心は彼女を信頼し、彼は「収益」に欠けることがない。

 

 

2001.11.7  高橋照男

 

 

 

神がその人に姿を顕すとき

 

キリスト教の救いは真理に対する覚醒ではない。主の霊がその人に臨むときである。神がその人に姿を顕すこと、その時のことである。ローマ書7章はパウロが自分の罪の姿を見てしまって絶望したときに、理屈抜きに神の霊がパウロに臨んでその苦より解放されたいきさつが書かれている。そして8章になると「霊」という言葉が圧倒的に多く出てくる。つまり救いとは真理に対する人間の努力による覚醒ではなくて、・・・・それは仏教をはじめとする多くの宗教。・・・・・神の絶対恩恵による神の側の意向による救いである。では救いは神の掌中に握られていてどうしようもなく変更できないことかというと、人間の側での「熱心」によって神の心が変わることも事実である。だから熱心に祈れとイエスは言う。(ルカ18:1−8)

 

口語訳 ルカ 18:1

18:1 また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。

 

パウロの救いは神がパウロに姿を顕したことによる(使徒9、22章)。これはモーセに神が姿を顕したことと似ている(出エジプト記3章)。そして神はモーセに自分は「ありてあるもの」(エゴーエイミ)だという。すなわち圧倒的実在者である。つまりその時は神は人間に対しウムを言わせずその実在を認めさせる。人間の側から見ればウムを言わされずに神の実在と救いを認めさせられる。承認させられる。神がその人に臨むそのときに人間は罪の苦から解放されて真の自由が与えられる。主の霊のあるところに自由あり。

 

第二コリント3:17「主は霊である。そして、の霊のあるところには、自由がある。」

 

では主の救いがその人に発動されるのはいつのことか。姿を顕して下さるのはいつのことか。それは神の胸先三寸のことでわれわれ人間には分からないことだ。イエスさえも父の計画の終末がいつなのかその時は分からないといった。(勤務先でも人事のことには周囲が容易に口出しできない。それは決定者自身にとっても非常に神秘的なことなのである。)

 

口語訳 マタ 24:36

24:36 その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。

 

口語訳 使  1:6-7

1:6 さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。

1:7 彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。

 

神が人をお救いになるその時はいつか。それは私達にはわからないが、いつの日か必ずお救いくださる。救いは「真理への覚醒」ではないから、その時が来るまでは人間がまわりでやきもきしても救いはその人に臨まない。この認識がいわゆる「伝道」の姿勢の教会と無教会の行動の差になる。大挙伝道(ビリーグラハムなどの例)による一時的感動で「決心」してもしばらくすると潮がひくようにいなくなる。かっこよさにあこがれてのキリスト教式による結婚式も(現在キリスト教式による結婚式の率はなんと50%)、式が終わると判でついたようにぴたっとキリスト教とは縁がなくなる。教会の(音楽的)心地よさでも人は救われない。罪の自覚に目覚めさせようとしても無理。社会悪に果敢に挑戦するかっこよさに感動しても救われない。神が人に直接臨まない限り人に救いは訪れない。罪の自覚が起こらない。キリスト教を信ずるとこの世的に偉くなれたり、よい働きをすることができるという見せびらかしでも救いは訪れない。いくら名説教、名講演、名研究、名雑誌、名教会、名学校、名家庭、名人物、名伝道者、名書籍、に出会っても救われない時は人は救われない。これらはきっかけ。時が来なければ救われない。しかし人が救われる時は、これら名人物がいなくても神が直接的にその実力で不思議な方法で、思いもよらない方法でご自分を顕される。「エゴーエイミ、ありてあるもの」と言って。それは不思議な方法。不思議な時。思わざる時。かくして人ではなく神の名誉があがる。それは神の時。神の業がなされる時。時というものがもつ神秘。

パウロが同胞ユダヤ人の救いの心配で解決として得た到達点はこれであった。つまり同胞ユダヤ人はきっといつの日にか神によって救われると。パウロはそこに「希望」をおいた。ローマ書11章はその聖書的理屈である。しかしパウロは同胞の救いの日を見ずに首をはねられて(伝説による)殉教の死を遂げた。救いを宣べ伝える者がその救いの日(実)を見ずに死ぬことは宿命である。モーセ然り。イエス然り。仕方がない。だからパウロは大切な要素として「希望」という言葉を掲げる(第一コリント13:13)。そしてこれが終末の到来を早く臨む精神につながる。「主よ来たりませ!」と。

 

ローマ書8章18節[文語訳] 

われ思うに、今の時の苦難(くるしみ)は、われらの上に顯(あらわ)れんとする榮光にくらぶるに足らず。"

 

 

2001.11.7 高橋照男

 

神に喜ばれる「ひたすらなる心」

 

最近、ある方から次のような手紙を頂いた「今私達は一歩一歩前に向かって、イエス様に向かって懸命に歩いております。」これを読んだわたしはこの「懸命なる心」に深く感動した。

信仰にはこの「ひたすらなる懸命な心」「一途の心」が必要である。イエスに駆け寄った人は皆この姿勢であった。そして「あなたなら私の病気は直せないはずはありません」と叫んだとたんにイエスは振り返って瞬時に病気を直した。このなりふりかまわずの心が大切なのである。体を傾け全身全霊ひたむきにすがるのである。なりふりかまわずイエスに向かうのである。

数年前に埼玉県のある集会で「ナルドの香油」の話をした。その時は今井樟太郎(内村鑑三の弟子)の末裔の日本橋の香料店から実際にナルドの香油を入手して皆に嗅いでもらった。よい香りがした。(もっとも当時のものと完全にそっくりのものではなかったが)。集会終了後の懇談会の席で、ある若い婦人から「私、死んだらどうなるのでしょうか」と体当たりの真剣な顔で質問を受けた。すると主催者の方が私の耳元で「あの方はいまガンに冒されていて、死は間もなくなのです」と告げた。あのときのあの婦人の真剣なるひたすらなるまなざしが今も忘れられない。

 

イエスの足に高価なナルドの香油を注ぎかけたマリヤも「ひたすらなる心」であった。真剣であった。懸命であった。イエスが最も愛した女性であった。復活後にイエスがはじめて声をかけたのは彼女であった。(そのマリヤかどうか学問的には確定しないが)イエスの復活を弟子達に告知したのは彼女であった。実に人類への復活の告知は12使徒ではなく彼女がはじめてであった。その重大な告知の任務を神は彼女に負わせた。!。人の目にあらず、神の前において彼女は聖人であった。

 もうひとつの感想。「間もなくです」という言葉について。・・・・・私達は誰でも「間もなくです」との宿命を負っているのだ。人生70年、長くても80年。文字通り誰でも「間もなく」飛び去るのだ。だから人生は苦しみや悲しみの連続でも(それは瞬時)、それによってひたすらなる心が与えられ続けて永遠の命に入るほうがよいのだ。だからこの世の幸福をひたすら願っているのは間違いだ。いたずらに「不幸」を願うわけではないが、この世的に満足な人生はこのイエス様に向かっての「ひたすらなる心」が失われやすいと言えるようだ。

2001.11.2  高橋照男

 

 

霊魂の苦しみからの解放の喜び

 

人生の旅路で、極度の苦しみ悲しみに遭遇させられることがある。しかしその「深き淵」から不思議な力で心が解放されることがある。そのときの解放の喜びはたとえようがない。全身に力が湧きあがる。神の霊が下って解放されたとしか言いようがない体験である。これは体験して見なければ分からないことである。このとき長い苦しみから自由にされ、解放され喜びが湧く。罪の悩みからの解放。自由。歓喜。その体験は人によって様々なようであるが、共通のことは不思議な力を得て喜びのうちに人生を「歩き出す」事である。主の霊のあるところに自由がある。喜びがある。解放の喜び。自由の喜び。それは贖罪の霊。神・キリスト・聖霊。救いの霊の実在。

 

第二コリント3:17 

ここでいう主とは、“霊”のことですが、主ののおられるところに自由があります。

 

初代の使徒たちの活動の原点も主の霊が下ったことによる。使徒たちの活動の「実が結び」はじめたのはそのときからである。

 

口語訳 使  1:8

1:8 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。

 

塚本虎二先生は震災で夫人を亡くされるという極度の悲しみのときに「神は愛なり」という天からの声が響き、つまり聖霊が下り、立ち上がられた。塚本先生に「実が結び始めた」のはそのときからであった。多くの方が先生のこの不幸なご体験に言い知れぬ感動を覚えて惹かれ神が先生を通して語る言葉に耳を傾けた。

先生の悲しみ不幸は多くの人が「実を結ぶ」ための神のご計画であった。

 

2001.10.28 第28回塚本虎二先生記念会の日  高橋照男

 

 

自殺は殺人の罪

 

2001年10月23日、NHKTVの「クローズアップ現代」は、自殺した父親をもつ青少年の悩みを特集した。青少年達は一様に「貧しくても父に生きていて欲しかった」という。友人に対し父親の死が自殺だったとはどうしても言えずに何十年も過ごしてきた苦しみ。暗いイメージの人生になったという。彼ら青少年の心の重荷は深刻。日本は長寿世界一であるが自殺は年間3万人で交通事故死の3倍。人口比による自殺率は欧州の2倍。番組を見ていて、自分の体を自分で殺すその態度にどす黒い罪を感じてやりきれなかった。わたしは昨年の脳出血の際、一時意識不明であったが、再び命を与えられたことにより、この命は全く自分の意志ではどうしようもできないもので、100%完全に神に握られているものだということを強く自覚した。そのとき自殺は自分の意志で自分の体を殺す殺人の罪であることを知った。自殺は罪。それも殺人罪。そのところまで深く掘り下げていないNHKは突っ込みが浅い。日本人の宗教観の甘さ。宗教的センスの欠如。昔から自殺を美化する風潮も問題。絶対者の認識がないからこうなる。「心中」「駆け落ち」「失踪」「蒸発」「無断逃避」なども自殺の一種で同じ根。重大な罪。それは自己満足。周囲や家族に多大の精神的迷惑をかける。人間死んだら終わりではない。死んでも神の前に立たされる。そのとき自殺者は神の前に悔い改めなければならない。なぜなら神から預かった体を自ら「無断で」「断りなく」壊したからである。日本の自殺率が高いのは宗教観が希薄であるから。自殺を美化する文学者よ「滅びよ!」。「いのちの電話」03-3264-4343,03-3263-5794,03-5802-2088)というよい組織があり、自殺願望者は最後の最後に一報そこに電話すればよい。

 

2001.10.24 高橋照男

 

 

「四重苦」の子供。神の愛は残酷な手法で現れる

 

私が人間的にとても尊敬する建築家Yさんのお孫さん(Mちゃん)は赤ん坊のときの怪我がもとで「四重苦」になられた。つまり見えず、聞こえず、話せず(ここまでは「三重苦」のヘレンケラーと同じだがそれに加えて)歩けず、になった。そのYさんの夫人Kさん(つまり「四重苦」の子供の祖母)は非常に嘆き悲しまれたが、たまたまその家に働きに来ておられたクリスチャンのお手伝いさんの「奥様、悩み事は総て神様がご存知ですからすっかり神様におまかせすればよいのです」の一言に惹かれ、そのお手伝いさんが通われている教会に通うようになり信仰に導かれ、受洗された。「教会よ、よくやってくれた」。次に、その「四重苦」の子供(こういう言い方は適切かどうか分からないが、この際赦してもらいたい)の父親は勤務先の大学の留学要請で一時その子供を連れて一家で米国で生活された。そこで触れたものは障害児に対して障害者扱いしない米国人の明るさであった。その背後にあるキリスト教精神に触れた両親は信仰に導かれ、帰国されて揃って受洗された。そのとき同時にその四重苦の子供(Mちゃん)も洗礼を受けた。こういう場合その子供は耳が聞こえず話せないので信仰告白などできるのか?、などというつまらない血の通わない頭だけの神学論争は無駄。その後そのお手伝いさんと祖母が通われるその教会の建て替え工事の話が持ち上がり、設計は建築家のYさんに依頼され、細部の具体的なキリスト教様式についてはYさんが私に相談をかけられた。その教会は信徒の数が増えて午前は大人の部、午後は若者の部と一日に2回の礼拝をする。Yさんはその建築中に教会の方々と接するようになり、現在は奥さんと共にその教会に通われている。教会は最近無事竣工。立派にできた。プロテスタント教会の中でも模範となるべきものと考える。この一連の出来事を知った私は思う。その四重苦の子供(Mちゃん)は祖父母、両親をキリストに導いたのだ、と。見えず、聞こえず、話せないMちゃんが!!。キリストは四重苦の子供に姿を変え、お手伝いさんに姿を変え、Yさんの家を訪れたのだ。そして四人をキリストに導いた。Mちゃんの人生はそのために犠牲にされられたのかもしれない。かわいそうなMチャン。ゴメンネ。若い母親のMさんの日々のご苦労も筆舌に尽くしがたい。それに比べて、見えて、聞こえて、話せて、歩けるこの私は何をしているのかと最近つくずく思うのである。少しばかりの自分の不幸艱難をなぜ嘆くか。馬鹿な私よ。わが身の小なる悩みや不幸艱難のことはとっくに神はご存知なのだ。神のなさることは残酷であるがそこに深い恵みの知恵があると教えられたではないか。そこに神の深い知恵が隠されていると学んだではないか。それが悟れない鈍い私。愚かな私。かくなる上はまたまた重い鉄槌が下されるかもしれない。

去る某日午後、その教会の初代牧師(68歳で召天)の夫人(Aさん90歳)を訪問、お元気であられたがそこでまたまた神の不可解な恵みを伺った。実はAさんは結婚後病気をされて子を産めぬ身となった。それを嘆き悲しんだ主人なる夫(大の子供好き)は「私に子供が生まれたら情にもろい自分はキリストより子供を愛してしまうだろう」と言って夫人(Aさん)を慰めたという。そのとき以来牧師なる夫はさらにひたすら主に使えるようになり、その後身寄りのない気の毒な子供4人を自分の家に引き取って育て、今はその4人とも主の道に励んでいるという。

神の愛は残酷な手法で現われる。パウロは言う「ああ神の富と知恵と知識との深さよ!」と。(ローマ書11:33)

2001.10.19  高橋照男

 

 

 

 

 

罪の本質は父なる神の存在を無視すること

 

罪の本質は創世記3章の「楽園追放」に出ているが、その本質はとなるとなかなかむずかしい。しかし日常生活にあてはめて考えると簡単である。それは父なる神の存在を無視したことなのである。人間だれしもリンゴを食べたいという気持ちは否定できない。それは「おいしそうで目をひきつけた」(6節)とある。そう感じるように神が創造されたのだから人間に備えられたその欲望そのものは否定できない。だから人間の欲望なるもろもろの煩悩は罪ではない。人間の煩悩を罪としてあらゆる欲望を滅却しようと修行するのが普通の宗教である。しかし聖書のいう罪は煩悩ではない。そうではない。リンゴを食べたいという欲望よりも神の存在を低く考えたところに罪の根があった。無視したところに決定的な過ちがあった。神の命令、つまり神の存在よりも女の言うことに重きをおいたのがいけなかったのだ。女の命令にひかれ神の存在を無視したこと、これが罪の本質。神の存在よりも女の声を重視したところに過ちがあった。このとき困ったアダムはリンゴを食べることが「なぜいけないのか」を考え、かくなるうえは自分が神よりも賢くなって善悪を判断しようとした(4節)。リンゴを食べたいと思ったのが良くなかったのではない。父なる神の「存在」を無視したのがいけなかったのである。これが罪の本質である。リンゴは神から頂けばよかったのだ。食前の感謝の祈りはこれに通じる。普通、罪とは神に対する反抗と説かれるが(ギリシャ語で罪はハマルティアといいこれは的外れの意味)、日本的考えに直せば神の存在を無視する、ないしは軽く扱うことである。その人にとっては神の存在の影が薄いのである。今日学校では先生のことを「センコー」と呼ぶ風潮もあるやに聞く。こんな雰囲気では「恐れる」という言葉が死語となり、最も大切な神を恐れる「恐れ」が身につかないのである。何もかも対等、平等と教えた戦後日本の間違った民主主義の鬼子が沢山誕生している。家庭でも社会でもこの「恐れ」が欠如しているから真の神礼拝ができない。「恐れる」という精神的訓練ができていない。家の中でも父親の影が薄いと家庭が成り立っていかない。子供の成長に支障をもたらす。なんでも自分が理性で納得してからでなければ目上に従わないという論理は「善悪を知る」というあのアダムの「歯向かい」の精神につながるものであってこれが罪の根である。一見自主性の確立とも考えられるが、その美名のもとに恐るべき罪の根がある。批判するのが悪いというのではない。自分の頭で納得するのがわるいのではない。疑問を抱くのが悪いのではない。ただただ父なる神の存在を人格的なその存在を軽く考え無視することが罪の源流なのだ。創世記から幾千年、人類はアダムの黒い血が遺伝して神との関係が修復できず、いくら律法を守っても、つまり取り繕っても神は心安らかにならず、ついに第二のアダムたるキリストを誕生させて罪(神への反逆心)を一たん十字架で滅ぼし、断罪し、砕き、(これがイエスの死・・・それは神の怒りの現れ)そして復活させることにより「罪の赦し」を人類に宣言した。復活はイエスの死に意味があったことの証明である。イエスの墓が空になっていたことは史実。その報道を受けて胸が熱くなるとき福音の伝承が始まる。罪が分からずして十字架はわからない。キリスト教はわからない。キリスト教は教養集団ではない、ヒューマニズムではない。有名な先生の同窓会ではない。まず罪とは何かが日本人にはわかりにくい。それは「恐れ」の雰囲気がないからである。旧約聖書は一貫して神に対する「恐れ」の雰囲気がある。その下地があってのイエスの出現である。十字架である。日本はその下地がないので、キリスト教の土着は無理ではないだろうか。罪を罪と思わないのである。

2001.10.17 高橋照男

 

復讐を神に任せるとはどういうことか

聖書には復讐するなと書いてある。(マタイ5:38-46)しかし一方、「義の貫徹」を祈るという精神もある。(詩篇82:8など)。今日の米国の立場は後者である。人間、正直言ってやられたら報復せずにはいられないのが人情である。義の貫徹である。「生かしちゃおけない」というのが人間の本心である。しかしその激情を矯(た)めたく思ってもおさまらない。これが人間の本心である。そこで裁判制度がある。今回の米国多発テロはキリスト教の「裁き、許し、報復」に対する考えを深めるためによい機会となった。聖書はなんと言うか。復讐心を矯(た)めろとは言わない。復讐は神に任せよという。

ローマ12:19[塚本訳]

愛する者たちよ、自分で仕返しをするな、(裁きの日の神の)怒りにまかせよ。こう書いてあるではないか、「主は言われる、“仕返しはわたしのもの、”わたしが“報いをする”と。」"

 

口語訳 ロマ 12:19

12:19 愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。

 

なんという安らぎ。やはり義は貫徹しなければならないのだ。正義は滅んではならないのだ。内村鑑三は、「日本に入ってきたキリスト教は愛、愛とばかり説くからいけない。まず神の義だ。義があっての救いの愛だ」と言ったという。(出典明示する時間なし)

では復讐を神に任せるとは具体的にどういうことなのだろうか。自分で報復したい気持ちを神が変わってやってくださるので脇で見ていて「そらみたことか。ザマー見ろ」と思えばよいのか。普通はそうである。日本の普通道徳はそれを天罰だと思って喜ぶ。

聖書の報復は相手を神の手に渡して神に裁いていただくという精神。神に悔い改めさせていただくという精神。真の愛は怒り掻き裂く(申命記32:11、詩篇50:22、60:2)。怒らないのは愛のない証拠。それは第3者。平静でいられる。2001.10.15高橋照男

 

 

 

人生の重荷とハンディを負った友へ

 

人が宗教を求める動機は「貧、病、争」といわれる。これ人生の永久に癒しがたき苦しみである。しかし今日、現代青少年の悩み苦しみはこれとはまた少し違ったものである。それは「生きがい(特に男子の職業選択・進路)、恋愛(特に女性)、学歴(就職問題)、性の欲望の悩み」などである。その上今日はまた老人の苦しみというものにも注目しなければならない。それは「健康の不安(寝たきりになったらどうしよう)、嫁との確執、どこに住むか。経済問題、生きがい」などである。私の仕事である建築に関して言えば住まいの悩みなどは悩みのうちに入らない。現時、わが国の住宅戸数は世帯数を上回っている。日本人は住む所に困ってはいない。人間、贅沢を言わなければ何とかどこかに住めるものだ。

人生にはもっと深刻な苦悩がある。それは精神的な苦悩である。希望や理想に反して思わざる心の重荷や精神的苦悩に出会うことである。その時は淋しく人生の悲哀というものを感じる。私の父は若き時の結核が50歳の頃になって再発し(神田駅で喀血)、子供達が育ち盛りで学費の入用のときに家が経済的に傾き、兄弟の全員が思う通りの進学ができず、兄弟3人と母が悩み悲しんだ。しかし一番残念がったのは父自身ではなかったのかとこの年齢になって思う。父は陰で何度か泣いたであろう。自分が苦しむのは耐えられても、身内まで不幸になるとは・・・・・。これ人生の悩みのうちで非常に深い悩みである。その頃父は狂ったように「健康第一、健康第一」と言っていた。その後健康が回復して87歳まで生きたが、晩年になって口癖のように「自分は子供達全員に学問の希望をかなえてやれなかったのが悔やまれる」と言っていた。しかし私自身を省みれば、わたしはそのときの家の貧しさ故の寂しさで福音に導かれたようなものである。「幸いなるかな貧しきもの」とは私の実感である。人生が淋しかったその頃、内村鑑三の「基督信徒の慰め」のなかの「貧に迫りしとき」を読んで涙した。内村鑑三は言う。「基督を見よ。彼は早くに父を亡くし、長男として母や弟妹の面倒を見たではないか。若きときから大工の仕事に従事したではないか。汝何ぞ今の境遇を嘆くや」と。今にして思えば父の結核が再発したのは私に福音が与えられるための犠牲だったのかもしれない。神のなさることは計り知れない深い計画である。父の結核の再発がなければ私は信仰に導かれなかったかもしれない。あるいは「貧しきものは幸い」という深い真理が実感として体得できなかったかもしれない。それを思うと個人の不幸はあるいは他の人の真の幸福に結びつくのかも知れない。父の結核再発は「犠牲」の病だったのか。神は残酷。しかしそれで身内が全員救いに導かれたかというとそうではない。不幸や寂しさのうちにあらぬ人生を選択する人物も出現する。不幸はますます人を堕落させる場合もある。苦難必ずしも人を信仰に導かない。だから「貧しきものは幸いか?」である。神によって貧しくさせられた人は幸いである。それは神のご計画である。神に「人生の重荷とハンディ」を負わされた人は幸いである。アーメン、その「重荷とハンディ」は必ずその人を天国に導くのだ。「幸いなるかな神に人生の重荷を負わされた人。その人は神に祝福される」

2001.10.9       高橋照男

 

 

「お前はどうなのだ」。報復の終焉

米国同時多発テロに対する報復問題で世論が分かれている。10月2日の国会論戦を見て感じたこと。土井たか子氏(キリスト者)が「国連憲章であだ討ちが禁止されている。日本国憲法では武力による国際紛争の解決はできない」と発言したが、この論法は効果がない。つまり「ここにこう書いてあるではないか」というのは都合によっていつでもその憲章や憲法が変えられてしまうのである。ではクリスチャンの立場はなにか。クリスチャンの立場は霊に生きる者としての実存である。議論ではない。「お前はどうなのだ」と神に問われることにより魂が砕かれ、その結果「人を裁けなくなる」「復讐できなくなる」というのが報復終焉のクリスチャンのメカニズムである。地上平和の根拠である。ヒューマニズムだけでは真の平和はこない。それは「がまん」の人間的努力であり、限界がある。文字は人を殺し霊は人を生かす(二コリ3:6)。

口語訳 Uサム12:7-9

12:7 ナタンはダビデに言った、「あなたがその人です

口語訳 ヨハ 8:7

8:7 彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。

口語訳 テト 3:3-7

3:3 わたしたちも以前には、無分別で、不従順な、迷っていた者であって、さまざまの情欲と快楽との奴隷になり、悪意とねたみとで日を過ごし、人に憎まれ、互に憎み合っていた。

神に自分の罪を示され、魂が砕かれるときに初めて人を赦すことができ、心がすがすがしくなる。これが報復終焉の道。体験しなければ分からない道。                   2001.10.3高橋照男

 

 

愛する人に去られた友へ、両親が離婚した友へ

 

M君へ、

3年前に君と出会ったときには「自分には交際している女性がいます。」と言って目を輝かせていたことを思い出します。それが今度会ったら、妙に沈んでいるのを見て不思議に感じました。君の報告では最近その愛する女性が自分のもとを去って行ったと言います。私はそのとき君の肩を抱いて、これは天命かもしれない、このことは君に益となるが悪くは働かないと励ましましたが、時間が不足であったので、ここに追加補足いたします。

男が失恋したときの苦痛は女性が子を産むときの陣痛より打撃であると言われます。ゲーテの「若きウェルテルの悩み」はゲーテがロッテという女性に失恋し、その痛みを癒そうとして執筆したものです。つまりゲーテはその小説の中でウェルテル(ゲーテ自身のこと)を自殺させます。それで新しい人生の出発に自分自身を立たせたのです。そうです。失恋は一度古い自分が殺されることです。自分に死ぬことです。そしてその痛みの涙を流して新しい人生に向かうことなのです。君にそのとき語った「賢き妻は主より賜る」という言葉を君は手帳に控えていましたが、それは旧約聖書の「箴言19章14節」です。

人生、「自分で選ぶものは大した事ではなく、与えられたものに出会うことこそ自分を高める」ものなのです。それは自分を「鞭打ってくれる人」なのです。といって尻を叩く女性ではないのです。真に自分を高めてくれる人なのです。君の元を去っていった女性は君の意思で君の好みで選び取った女性でした。実はその道には「君の真の幸福の道」はなかったのかも知れません。それは君の名誉は上がったかもしれませんが、神の名誉は上がらなかったかも知れないのです。M君。君にはそのとき厳しいことを言いました。「君は去っていった女性を赦さなければならない。彼女の幸福を祈らなければならない。それが君にとって新しい道が開かれる条件だ」と。今度の悲しみは君に「人生の深さと真の人生の道」が与えられる天命の道であったと信じています。君の人生の歩みの上に神の豊かな祝福がありますように。

 

Sさんへ

 

あなたのクリスチャンのご両親が離婚されたとことはあなたにとって痛手でした。クリスチャンは離婚をしないということを信じていただけに、あなたにはショックだったでしょう。お父さんはあなたがまだ小学生の時に、10歳も年上の女性と結婚して家を捨てて去ったという。その後お母さんはあなた達二人の子供を育てるために経済的にご苦労されました。

本当の父母、本当の家とは地上にないことを思います。クリスチャンホームといえども堅固ではありません。しかしあなたにとってはまずお父さんを赦してそして自分の罪も神から赦してもらうことが大切です。幸いお兄さんもお母さんもおばあさんも信仰の道を歩んでおられるとのこと。あなたも悲しみを通じて真の父なる神に出会うことが大切です。地上の家庭の破壊は真の家族、真の幸福に出会うために必要なことだったのです。あなたの涙は決して無駄には終わりません。人生は涙の谷ですが真の喜びが待っています。そのとき私が語った詩篇は84編です。あなたの流した涙は決して無駄には終わらないと信じます。あなたの将来に神の豊かな祝福がありますように。

2001.9.30 高橋照男

 

 

渡れない川

9月の末に仕事を兼ねて徳島を訪れ、初めて鳴門海峡を見た。潮の干満で海水が瀬戸内海に流れ込んだり逆に流れ出たりするときに潮の勢いが激しいので海峡が急流のようになり渦ができる。瀬戸内海の島は大小多くあり、総て泳いで渡れそうな距離にあるため水泳が好きな私は泳ぎたくなる衝動に駆られたが、この鳴門海峡だけは無理そうであった。渦が激しく、実際にここで溺れると浮かんでこないそうである。

昔は観光船で渦を見学したが、今は本州四国連絡橋の大鳴門橋(鳴門と淡路島間)の上から真下に渦潮を見ることができる。その激しい潮流を橋の上から見ていたら、一人が乗った小さな漁船が舵をうまく操って渦の巻く潮流を乗り切っていった。

私はそのとき次の賛美歌を思い出した。これは集会の松島省三先生や長谷川新吉さんの告別式のときに歌ったものである。

 賛美歌482 4節  死の波路(なみじ)の やみのかなた

父なる岸べの     かがやくみゆ

      5節  父のかみよ      その波路(なみじ)を

            救いの舟にて     乗りこえゆかん

我々は生きているときも死ぬときにも、渡れない川を前にして途方にくれることがある。この罪と穢れの身は向こう岸に渡れないのだ。しかしそのときキリストの舟が向こうから近づいて来てくれて無条件に乗せてくれる。それは「救いの舟」、「助け舟」。

キリストは贖罪の血を流してその舟に乗せてくれる。渡れない川を渡して下さる。みじめな罪の人生の過去を問われることなく、「絶対恩恵の救い」で無条件で渡してくれるのだ。パウロはロマ書でそのことだけを言っているのだ。福音はその必要を感じさえすればそうむずかしいことではない。          2001.9.25 高橋照男

表  題 ・ 要  約

イスラエルと福音(9:30−10:4)・・・新共同訳

 

第10章 教会の罪責・・・バルト

認識の危機(9:30−10:3)

 

神の義とイスラエルの問題 9章1節―11章36節・・・ケーゼマン

    (3)イスラエルの罪責と転落(9:30−10:21)

     1 テーマ(9:30−33)

 

第2部 神の義とイスラエルの運命(9:1−11:36)・・・アルトハウスNTD

(3)   その不信仰のゆえに躓き倒れたイスラエル(9:30−10:21)

a  信仰の義を拒否して、律法の義を追い求めるイスラエル(9:30−10:3)

 

全人類の救ひ 9章1−11章36・・・黒崎註解新約聖書

(2)   イスラエルの不信と義(9:27−11:12)

()イスラエルの救はれざるは信仰によらぬ故なり(9:27−33)

 

ユダヤ民族の罪責(9:30−10:21)・・・高橋三郎   

 

第3部イスラエル不信の問題  ・・・フランシスコ会訳

       イスラエルと福音(9:30−10:4)

 

神の主権(9:19−33)・・・青野(岩波)

 

異邦人優先(9:25−33)・・・前田訳

 

イスラエルの救い(9:1−11:36)(「信仰によって義とされるなら、イスラエルに対する神の約束はどうなるのか」という問いに対して)・・・八木(講談社)

イスラエルの躓き(9:30−10:4)

 

全人類の救済   9章―11章・・・塚本註解

躓きの石  (9:30−33)

 

イスラエル人の躓きと異教人の救いとは聖書に預言がある(9:25−33)・・塚本訳

  

3 選びの逆説的現実(9:1−11:36)・・・ヴィルケンスEKK

  3 神の義に対するイスラエルの反抗(9:30−10:21)

    a イスラエルは信仰の義に達しなかった(9:30−33)

 

躓きの石(9:30−10:3)・・・白井きく

   

ユダヤ人の不信と人類の救い(2)(9−10章の大意)・・・内村鑑三

 

ローマ人への手紙9章30節

 Tiv ou\n ejrou'men_ o{ti e[qnh ta; mh; diwvkonta dikaiosuvnhn katevlaben

dikaiosuvnhn, dikaiosuvnhn de; th;n ejk pivstew",

Tiv

ou\n

ejrou'men_

o{ti

e[qnh

ta;

mh;

diwvkonta

形)疑対中単

接)完等

動)直未来能1

接)完

名)主中複

冠)主中

不変)否定

分)現能主中

aptan-s

ch

vifa--1p

ch

n-nn-p

dnnp

qn

vppann-p

tiv"

ou\n

ei\pon

o{ti

e[qno"

oJ

mhv

diwvkw

誰、何、どんな、なぜ、どちら

それで

言った、言う、〜と呼ぶ

〜と、なぜなら

国民、異邦人

冠詞(この、その)

〜ない

迫害、追う

 

dikaiosuvnhn

katevlaben

dikaiosuvnhn,

dikaiosuvnhn

de;

th;n

ejk

pivstew",

名)対女単

動)直アオ能3単

名)対女単

名)対女単

接)等位/完等

冠)対女複

前)属

名)属女単

n-af-s

viaa--3s

n-af-s

n-af-s

cc/ch

dafs

pg

n-gf-s

dikaiosuvnh

katalambavnw

dikaiosuvnh

dikaiosuvnh

dev

oJ

ejk

pivsti"

正しさ、義

捕える、襲う、理解する、わかる

正しさ、義

正しさ、義

さて、そして、次に、しかし

冠詞(この、その)

から、によって、で

信仰

 

 [口語訳] では、わたしたちはなんと言おうか。義を追い求めなかった異邦人は、義、すなわち、信仰による義を得た。

 

[新改訳] では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。

 

[新共同訳] では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。

 

[TEV] So we say that the Gentiles, who were not trying to put themselves right with God, were put right with him through faith;

 

[文語訳]然らば何をか言はん、義を追ひ求めざりし異邦人は義を得たり、即ち信仰による義なり。"

 

[塚本訳]すると、どういうことになるのだろうか。義を追い求めなかった異教人が(かえって)義を勝ち取った。すなわち(行いによらない)信仰による義である。

 

[前田訳]それなら何といいましょう。義を求めなかった異邦人が義、すなわち信仰による義を得ました。

 

 [引照 NESTRE=ALAND NOVUM TESTAMENTUM GRAECE 27版、SCOFIELD BIBLE参照]

ロマ 10:20

 [口語訳] イザヤも大胆に言っている、/「わたしは、わたしを求めない者たちに見いだされ、/わたしを尋ねない者に、自分を現した」。

 

[新改訳] またイザヤは大胆にこう言っています。「わたしは、わたしを求めない者に見いだされ、わたしをたずねない者に自分を現わした。」

 

[新共同訳] イザヤも大胆に、/「わたしは、/わたしを探さなかった者たちに見いだされ、/わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」と言っています。

 

     解釈と感想 

求めないもの(尋ねないもの)にも神は姿を顕す。神の絶対恩恵の救いの極地。身内のあの人この人も救われる。罪人のあの人こそ救われる。キリスト教に反抗的なアイツも救われる。全員救われる。なぜか、それは本人の反省が大きいからではない。神の親心からか。最高の導き手である神(医者、教育者)の方から近づいてくださるのだから安心である。

 

口語訳 ロマ 1:17

1:17 神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。

 

口語訳 ロマ 3:21  しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。

 

口語訳 ガラ 2:16

2:16 人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。

 

前田訳 ガラ 2:16

人が義とされるのは律法の行ないによるのでなく、ただキリスト・イエスのまことによると知って、われらもキリスト・イエスを信じました。それは律法の行ないによらずに、キリストのまことによって義とされるためです。律法の行ないによっては何びとも義とされないからです。"

 

     解釈と感想 

この前田訳の「まこと」(ピスチス)は魅力的な訳だが、それは救われた者が「反省」として振りかえってする感慨感想である。人間、救われたいときには死に物狂いで、なりふりかまわず、ヤケクソ(三谷隆正)で信じ込むのである。キリストに病気を直されたものの姿は皆これであった。「汝の信仰汝を救えり」「からし粒ほどの信仰」である。

 

口語訳 ガラ 3:24-25

3:24 このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。

3:25 しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。

 

口語訳 ピリ 3:9  律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。

ローマ人への手紙9章31節

 !Israh;l de; diwvkwn novmon dikaiosuvnh" eij" novmon oujk e[fqasen.

!Israh;l

de;

diwvkwn

novmon

dikaiosuvnh"

eij"

novmon

oujk

名)主男単

接)等位

分)現能主男

名)対男単

名)属女単

前)対

名)対男単

不変)否定

n-nm-s

cc

vppanm-s

n-am-s

n-gf-s

pa

n-am-s

qn

!Israhvl

dev

diwvkw

novmo"

dikaiosuvnh

eij"

novmo"

ouj

イスラエル

さて、そして、次に、しかし

迫害、追う

律法

正しさ、義

〜へ、まで、のために、に対して

律法

〜ない

 

e[fqasen.

動)直アオ能3単

viaa--3s

fqavnw

達する

 

 [口語訳] しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった。

 

[新改訳] しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。

 

[新共同訳] しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。

 

[TEV] while God's people, who were seeking a law that would put them right with God, did not find it.

 

[文語訳]イスラエルは義の律法を追求めたれど、その律法に到らざりき。

 

[塚本訳]反対に、イスラエル人は義を約束する律法を(熱心に)追い求めたが、(ついに)律法に(よって義に)達することができなかったのであるが。"

 

[前田訳]反対に、イスラエルは義の律法を求めつつも律法に達しませんでした。

 

[引照 NESTRE=ALAND NOVUM TESTAMENTUM GRAECE 27版、SCOFIELD BIBLE参照]

新共同 ロマ 10:2-3

10:2 わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。

10:3 なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。

 

●解釈と感想  神の差し出す「絶対恩恵の救い」を素直にありがたく頂く熱心が「正しい認識」である。それを嫌ってあくまで自分の力で救われようとするのは神から見て「カワユクナイ」食事に誘ったのに出口で私の分は支払わせてくださいという人は「カワユクナイ」

     誘った人間の顔が立たない。「ご馳走様でした」と言う人は誘った人の顔を立てることになり、信仰的である。裏を考えずに素直に感謝していただくことが信仰の本質。

ローマ人への手紙9章32節

 dia; tiv_ o{ti oujk ejk pivstew" ajll! wJ" ejx e[rgwn: prosevkoyan tw'/ livqw/

tou' proskovmmato",

dia;

tiv_

o{ti

oujk

ejk

pivstew"

ajll!

wJ"

前)対

形)疑対中単

接)従

不変)否定

前)属

名)属女単

接)完

接)従位

pa

aptan-s

cs

qn

pg

n-gf-s

ch

cs

diav

tiv"

o{ti

ouj

ejk

pivsti"

ajllav

wJ"

〜を通って、〜の故に、〜のために

誰、何、どんな、なぜ、どちら

〜と、なぜなら

〜ない

から、によって、で

信仰

けれども、しかし、かえって、むしろ、以外に

〜のように、〜なので、の時

 

ejx

e[rgwn:

prosevkoyan

tw'/

livqw/

tou'

proskovmmato",

前)属

名)属中複

動)直アオ能3複

冠)与男

名)与男単

冠)属中

名)属中単

pg

n-gn-p

viaa--3p

ddms

n-dm-s

dgns

n-gn-s

ejk

e[rgon

proskovptw

oJ

livqo"

oJ

provskomma

から、によって、で

行い、仕事、労働

打ち当たる

冠詞(この、その)

石ころ

冠詞(この、その)

つまずき

 

 [口語訳] なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。彼らは、つまずきの石につまずいたのである。

 

[新改訳] なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。

 

[新共同訳] なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。

 

[TEV] And why not? Because they did not depend on faith but on what they did. And so they stumbled over the "stumbling stone"

 

[文語訳]何の故か、かれらは信仰によらず、行爲によりて追ひ求めたる故なり。彼らは躓く石に躓きたり。"

 

[塚本訳]なぜか。イスラエル人は信仰によってでなく行いによって(義とされ得るか)のように考え(て、追い求め)たからである。彼らは”躓きの石に“躓いた。

 

[前田訳]なぜですか。信仰によらず、行ないによって得られるごとくにしたからです。つまずきの石につまずいたのです。

 

 [引照 NESTRE=ALAND NOVUM TESTAMENTUM GRAECE 27版、SCOFIELD BIBLE参照]

 

新共同 ロマ 11:7

11:7 では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです。

 

新改訳 申  16:20

16:20 正義を、ただ正義を追い求めなければならない。そうすれば、あなたは生き、あなたの神、主が与えようとしておられる地を、自分の所有とすることができる。

 

新共同 ロマ 10:20-21

10:20 イザヤも大胆に、/「わたしは、/わたしを探さなかった者たちに見いだされ、/わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」と言っています。

10:21 しかし、イスラエルについては、「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」と言っています。

 

新共同 ガラ 5:4

5:4 律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。

 

口語訳 イザ 8:14

8:14 主はイスラエルの二つの家には聖所となり、またさまたげの石、つまずきの岩となり、エルサレムの住民には網となり、わなとなる。

 

新共同 Tペテ2:6-8

2:6 聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、/シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」

2:7 従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、/「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった」のであり、

2:8 また、/「つまずきの石、/妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです

 

     解釈と感想 

躓く人は初めから定められているとは何ともまたむごいことである。イエスもユダをさ     

して「生まれてこないほうがよっぽどよかった」とまで言った(マタイ26:24)ヒューマニストは激怒するかもしれないがこれが神の国の掟なのかも知れない。主権は神にある。だから絶対恩恵の救いが実行されるのだ。躓くというのは神よりも自分の意志を上に立てているからそうなるまでのことだ。神を絶対として恐れかしこむところに躓きなるものはないはずである、先生を「センコー」と呼ぶ風潮の蔓延している現代の若者には上の者を「恐れかしこむ」という雰囲気がないのでこの世は躓きのものだらけである。

 

 

 

 

 

 

 

ローマ人への手紙9章33節

 kaqw;" gevgraptai, !Idou; tivqhmi ejn Siw;n livqon proskovmmato" kai;

pevtran skandavlou, kai; oJ pisteuvwn ejp! aujtw'/ ouj kataiscunqhvsetai.

kaqw;"

gevgraptai,

!Idou;

tivqhmi

ejn

Siw;n

livqon

proskovmmato"

接)従位

動)直完了受3単

不変)

動)直現能1単

前)与

名)与女単

名)対男単

名)属中単

cs

virp--3s

qs

vipa--1s

pd

n-df-s

n-am-s

n-gn-s

kaqwv"

gravfw

ijdouv

tivqhmi

ejn

Siwvn

livqo"

provskomma

ちょうど〜のように、〜のゆえに

書く、書きおくる

ほら、さあ

置く、定める、任命する、設ける

中に、間に、で、よって、に、

シオン

石ころ

つまずき

 

kai;

pevtran

skandavlou,

kai;

oJ

pisteuvwn

ejp!

aujtw'/

接)等

名)対女単

名)属中単

接)完

冠)主男

分)現能主男単

前)与

代)与男3

cc

n-af-s

n-gn-s

ch

dnms+

vppanm-s

pd

npdm3s

kaiv

pevtra

skavndalon

kaiv

oJ

pisteuvw

ejpiv

aujtov"

そして、〜さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

つまずき、人に罪を犯させる者

そして、〜さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

冠詞(この、その)

信じる

の上に、よって、に向かって、に、を

彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

 

ouj

kataiscunqhvsetai.

不変)否定

動)直未来受3単

qn

vifp--3s

ouj

kataiscuvnw

〜ない

はずかしめる、失望させる

 

 [口語訳] 「見よ、わたしはシオンに、/つまずきの石、さまたげの岩を置く。それにより頼む者は、失望に終ることがない」/と書いてあるとおりである。

 

[新改訳] それは、こう書かれているとおりです。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

 

[新共同訳] 「見よ、わたしはシオンに、/つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。

 

[TEV] that the scripture speaks of: /"Look, I place in Zion a stone /that will make people stumble, /a rock that will make them fall. /But whoever believes in him will not be disappointed."

 

[文語訳]録して、『視よ、我つまづく石さまたぐる岩をシオンに置く、之に依頼む者は辱しめられじ』、とあるが如し。

 

 [塚本訳](聖書に)書いてあるとおりである。“見よ、”“躓きの石と邪魔の岩とを”“シオンに”置く、“これを信ずる者は恥をかかないであろう。”"

 

 [前田訳]聖書にあるとおりです、「見よ、シオンにつまずきの石とさまたげの岩を置く。これを信ずものははずかしめられまい」と。"

 

[引照 NESTRE=ALAND NOVUM TESTAMENTUM GRAECE 27版、SCOFIELD BIBLE参照]

 

口語訳 イザ 28:16

28:16 それゆえ、主なる神はこう言われる、「見よ、わたしはシオンに/一つの石をすえて基とした。これは試みを経た石、堅くすえた尊い隅の石である。『信ずる者はあわてることはない』。

 

口語訳 イザ 8:14

8:14 主はイスラエルの二つの家には聖所となり、またさまたげの石、つまずきの岩となり、エルサレムの住民には網となり、わなとなる。

 

口語訳 マタ 21:42

21:42 イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、聖書でまだ読んだことがないのか、『家造りらの捨てた石が/隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』。

 

口語訳 ロマ 10:11

10:11 聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。

 

口語訳 Tペテ2:6

2:6 聖書にこう書いてある、/「見よ、わたしはシオンに、/選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、/決して、失望に終ることがない」。

 

     解釈と感想 

躓きも神の業。躓くほうも躓かれるほうも神の主権の中にあるようだ。お互いに神の手の中にあり、神の救いの御経綸の一環かもしれない。そうでなかったらユダはかわいそうであった。総ては終末にわかる。神は愛。無駄なことはなさらない。イエスはユダ(自分で選んだ愛する弟子)に対し最後の最後までその計画を中止するように説得した。しかしイエスの思いに反して神はユダを捉えてイエスの殺害を実行した。イエスは苦い杯を飲まされたのだ。この苦しみがあって人類は救われた。クリスチャンはハスの花の上で「大往生」する人生を望んではならないのだ。

 

 

 

 

 

 

家(この世)がつまらなくても異性(享楽)に走るな

 

青少年の「性の非行」の原因の多くは「家がつまらないので異性に走る」ということにある(2001.9.9朝日新聞)。この原因は夫婦仲が悪い(これを機能不全家庭という)ために家が冷たく暗く、それで家がつまらないということもあるが、もっと根本的には「この世」がつまらないのである。生きていくことがつまらないのである。生きる喜びが見出せないのである。そこで現代の青少年は安易に短絡的に「異性に走る」のである。淋しさを癒そうとして「女に」「男に」走るのである。その心理的構図は単純である。朝日はもう一歩考察が足りない。そのような動機で求められた当の女や男は「実に迷惑」というものである。それは恋愛などというものではない。「単なる慰みモノ」としての「癒着」なのである。青少年よそんな動機で近づいてくる「男や女」があったら鋭く見抜いて蹴飛ばせ。それを見抜くのは簡単である。態度や様子で分かる。匂いや雰囲気でわかる。相手は必ずしもあなたでなければならないということはない。青少年の非行の原因たる暗く冷たい家庭というのも問題だが、人間はいつまでも生まれた家にいるわけではない。それよりも根本治療として「暗く冷たいこの世」というものから脱出して「喜びの生涯」に入る道を求めなければならない。それは神のもとにある。しかし現代の青少年にはその道が見出せずにすぐ「女や男に走る」から困る。その原因は青少年が「命の道」を求めないからなのである。また現代の教育者も「命の道・生きる喜びの道」を教えない。キリスト教会も「命の水」を飲ませていない。

だから青少年の心は餓え乾いている。咽がからからである。心がカサカサである。誰がこれを癒せようか。神の水である。神の霊という真の水を飲まずして人間誰でもこの渇きは癒せない。胃袋は安いハンバーグ、咽は缶ジュース。ハウスは家賃並みのローン返済でマンションを購入できるので生理的肉体的には一時は癒せる。しかし心の安らぎは得られないので今度は「女や男に走る」。そして行き着くところは「結婚」であるがみじめである。短絡的である。それで心は満たされない。満足だと思ったらそうとうオメデタイ。低級である。悲劇である。動機が不純だから結婚生活も夫婦関係もうまく行くはずはない。表面的には生理的に肉体的にべたべたしていても心の安らぎはない。常に不安である。人間はそれで満足するほど低級には創られていない。そこに生まれる子供達も親の心が不安定だからまたぞろ「非行」に走るのは目に見えている。教師も青少年も「命の道」を求めない。神のパン。神の水。神の家を教えない。学歴社会の学校はもちろんその道を教えない。受験競争の勝利のみに意を用いている。キリスト教会も青少年に真の水を与えていない。教会員の増加のみに意を用いている。牧師の職が職業的になっている。神学論争(聖書学論争)で勝利を得ようとしている。学者の世界だけの学問論争(職業上の勝利)のことである。

 

青少年よ「家(この世)がつまらなくても異性(享楽)に走るな」。求めよ神の道を。命の道を。

 

 

2001.9.10  高橋照男

 

 

 

 

 

 

「ウンコ座り」をしている若者へ

 

よく町の中でウンコ(和式)をするスタイルでうずくまっている若者を見かける。あれを「ウンコ座り」のスタイルという。彼らは人生において「エンスト」(エンジンストップ)をしているのだ。つまりガソリン切れである。それは神からの霊が切れているのだ。神からの霊というガソリンエネルギーが切れているのだ。人間は霊の動物である。肉体や精神や思想や金だけで動く存在ではない。霊というガソリンがなければ生きていけないのだ。つまり動かないのだ。彼らにとってウンコ座りは当然の姿である。正直な姿である。わが国の教育や親の人生観の結果が今日の若者をして「ウンコ座り」をさせているのだ。彼らはよく知っている。人間は思想や金や精神だけでは動かない存在なのだ。羊飼いのいない羊のようにうずくまっているのだ。

今日、不登校閉じこもりは13万人とも言われる。彼らも人生のウンコ座りなのだ。神の霊なるガソリン切れである。なまじの燃料では動かない。叱咤激励や常識では動かない。彼らは神の霊なる愛の息吹で初めて動くようになる。創世記によれば神はアダムを土で造って鼻の穴から息を吹き入れると生きたものになったという。そうだ人間は神の霊が吹き込まれるまではいつまでも土のままの人間なのだ。ウンコ座りのままなのだ。

 

創世記 2:7

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。 (JNICV)

 

人生のウンコ座りは生涯のうちいつかはやってくる。学校時代の不登校と閉じこもり。職業生活においては30歳前後の転職願望。結婚生活の問題。離婚問題。嫁姑の確執の問題。病気の悩み。子育ての悩み。リストラ。老年の淋しさ。などなどこれ皆人生のウンコ座りである。

もしイエスが日本にきたらまずはじめにあのウンコ座りをしている若者達に声をかけるのではないだろうか。税金取りマタイは座っているところをイエスに声をかけられた。(税金取りのスタイルだからだが)ベテスダの池の体の悪い人も健常者に置いてけぼりにされて悲しんでいるところをイエスに声をかけられたのだ。またイエスは羊飼いのいない羊の姿を気の毒に思った。

 

マタイによる福音書 9:9

さてイエスはそこから進んで行かれ、マタイという人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。 (JCV)

 

ヨハネによる福音書 5:6[塚本訳]

イエスはその人が横になっているのを見、すでに長い間わずらっていることを知ると、「直りたいか」とたずねられた。"

 

マタイによる福音書 9:36[塚本訳]

そして“羊飼いのいない羊が”疲れきって、(地に)倒れている“ような”群衆を見られて、かわいそうに思われた。"

 

「さいわいなるかなウンコ座りをしている人たち」である。彼らは必ずいつかは神の霊を頂いて元気になるであろう。

 

 

2001.9.8 高橋照男

 

 

 

失敗の人生

イエスが声をかけた人々

 

新約聖書には荒波に難破して人生航路を失敗した人々にイエスが近づいて声をかける場面がある。「我を見し者は父を見しなり」と言われたイエスのその行動を見れば、神の私達に対する心も見えてくる。ここにパウロ書簡とは違う福音書の不朽の価値がある。時間の都合でいちいち聖書の個所を示さない。思いつくままに書く。イエスやパウロが話すときも聖書の何章何節とはいちいち言わなかった。

 

職業の失敗、税金取り

まず目に付くのはこの税金取りである。12弟子の一人マタイはじめこの職業の人物が多く出てくる。有名な「パリサイ人と税金取りの話し」などはその筆頭である。ザアカイも税金取りであった。なぜイエスはこのように税金取りばかりに目がいったのか。それは税金取りの職業は当時のユダヤ社会において占領国ローマの手先の商売で「蛇蠍」のごとく嫌われていて、その職につく者も自分で自分を卑下していた。何の故か「食うために」はそのような落ちぶれた仕事をしなければ生きていけなくなった人である。失敗の人生である。恥ずかしい職業である。仕事に誇りをもてない、かっこ悪い仕事であった。そんな彼らにイエスは目を留めて声をかけた。そのうちの一人税金取りマタイはイエスに声をかけられ弟子の一人となりあの「マタイ伝」を執筆し(異説あり)人類に不朽の貢献をなした。

 

結婚の失敗

ヨハネ伝の「サマリヤの女」のところでイエスは過去に何度も離婚歴のある女に近づいた。またヨハネ伝8章では「姦淫の現場」を押さえたれた女がイエスのもとに連れてこられた。マグダラのマリヤは「罪の女」といわれ、いかがわしい「娼婦」(売春婦)であったといわれる。いずれも結婚や性の倫理に破れた人たちである。取り返しのつかない汚点を持ってしまった人間である。だれが初めからそのような人生を望もうか。人生の何らかのいきさつで致し方なくそうなってしまったのだ。イエスの死の最後までついていった女達は彼女達ではなかったか。特に復活のイエスがはじめて姿をあらわしたのは12弟子の男達にではなくこの汚い女の「マリヤ」にであった。マリヤはイエスの復活を告知したはじめの人物となった。

 

犯罪を犯しての失敗

イエスと共に十字架につけられた人は「強盗」であった。その強盗はその人生の最後の最後にイエスに声をかけられ、「汝、今日我とともにパラダイスにあらん」と言われた。人類で最初に天国に入ったのは何とこの強盗だったことになる。強盗の内容は何であったか、魔が差して犯罪を犯してしまったのか。聖書は語らない。ビクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」の主人公ジャンバルジャンは神父の「赦し」で立ち直る。

 

病気による人生の失敗

病気の人間は、イエスを見て、「お心なら直してください」とすがりつく。これは「からし粒ほどの信仰」とみなされてイエスを喜ばせた。その結果奇跡が起こされて病が治された。「汝の信仰汝を救えり」とはこのことである。ところが中にはイエスのほうから気の毒がって声をかける場合もある。ヨハネ伝の「ベテスダ池の軌蹟」(56)の場合がそうである。イエスは我々が求めない先に「気の毒に思って」救いの手を差し出してくださる。信仰も何もない人にも救いの光が差し込む。若き日にライ病で隔離された井深八重さんはその後「誤診」とみなされ解放されたが、後の生涯をライ病の村に身を投じてライ患者の友となった。目が悪くても目明き以上に人類に貢献した人物もいる。ジェロームやミルトン。パウロは自分の体にトゲ(癲癇ともいわれる)があったので3度(何度もの意味)も神に祈ったがついに生涯癒されなかったらしい。しかしそのために信仰が深くなった。新約聖書はパウロの信仰が土台になっている。

 

子育ての失敗

イエスに病気を治して欲しいと近寄る人々には意外に身内の病気のことが多い。特にその子供のことである。子供が病気になると「出来ることなら代わってやりたい。私が代わりに罰してもらいたい」と思うのが親心である。現代医学ではいかんともしがたい病がある。そんな時これは「悪い霊」ではないかと思う。イエスは悪霊をも神の権威で追い出した。子育ての途中では医者に見離されて「万策尽きた」という思いがする場面がある。イエスの当時もそうであった。イエスの回りには「子供のこと」の悩みで近づいた人がいた。イエスはその深刻な親の悩みを見て取って「息子さんは治った」と言って帰した。アウグスチヌスの母モニカは「涙の子は滅びない」と司教に言われて祈りつづけ、ついに32歳でアウグスチヌスは回心、キリスト教の発展(カトリック教会の祖)に貢献した。

 

忘恩の失敗

ペテロは保身のためにイエスのことを「あんなヤツ知らない」とウソを言った。そんなペテロを赦したイエスは復活後しきりにペテロに姿を顕した。それはペテロの心が「砕けた魂」になっていたからである。

イエスは砕けた魂の人間に近づく。失敗意識のある人間に近づく。泣いている人間に近づく。逆に砕けてない魂の持ち主の所には現れない。ルカ15章の放蕩息子は「食えなくなって」初めて目が覚め、魂が砕けた。このとき神の福音が魂の砕けの割れ目から入った。頑固な岩のような魂の割れ目から福音の清水が流れ込んだ。岩が割れるにまでには時間がかかる。5年10年。しかしきっといつか割れる。砕ける。この世でダメなら来世で砕ける。終末の審判のときに砕ける。かって盛岡に行ったとき岩割桜というものをみた。巨岩の割れ目に桜の種が落ちて何年もの後にその岩を真っ二つに割るまでに桜が成長したのである。きれいな見事な桜であった。時間がかかった。

 

収監される失敗

人は一回は収監されなければ一人前ではないと考えられる。取り押さえられた人物の列伝。

洗礼者ヨハネ。イエス。ペテロ。パウロ。バンヤン。ルター。内村。みなツッパリの人生、世の人たちに「つまずかれた」人生であった。しかし人類に大なる貢献をした。その時代に迎合される人間は真に世の中のためになっていない。

 

淋しい人生という失敗

淋しい人生であったというのは失敗の人生である。それは命の源なる神との出会いがなかった人生である。これ失敗の人生である。人間はその淋しさを癒すために「異性に走る」。しかし満たされない。それは相手が人間だからである。人の世の悲劇の大部分はここにある。その結果、その人物の人生は社会的にもゴタゴタになりドロドロになる。「鼻から息の出入りする者」に頼るなとある。(イザヤ222)イエスは淋しい人生だと自覚している人間に近づいた。ヨハネ伝9章の「シロアム池の盲人」の話しもそれである。彼は生まれつき盲人であった。淋しかった。だれがこのような人生を望もうか。イエスは彼に目をとめた。(91)そして目が開けられた。彼にとっては生まれつき盲人であったことが幸いした。肉眼とともに霊眼も明けられ真のものが見えるようになったからである。彼にとっては「不幸が幸福のもと」であった。

 

 

詩篇 34:18-19

主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。

19 正しい者には災が多い。しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。 (JCV)

 

詩篇 51:17-18

 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。

18 あなたのみこころにしたがってシオンに恵みを施し、エルサレムの城壁を築きなおしてください。

(JCV)

 

詩篇 147:3

 主は心の打ち砕かれた者をいやし、その傷を包まれる。 (JCV)

 

詩篇 69:20

そしりがわたしの心を砕いたので、わたしは望みを失いました。わたしは同情する者を求めたけれども、ひとりもなく、慰める者を求めたけれども、ひとりも見ませんでした (JCV)

 

 

マタイによる福音書 21:

イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる (JCV)

 

これ神の言葉でなくして何であろう。この一言があって我々の人生にも希望があるのだ。

 

 

2001.9.6 高橋照男

 

 

 

 

回復の奇跡と喜び

 

昨年、脳出血で聖路加国際病院に一ヶ月入院して退院するときの話。お世話になった看護婦さんたちに何かお礼をと思って一人に相談したら。「何もいりません。私達は瀕死で運ばれてきた人が元気になって帰っていくその顔を見るのが嬉しいのです。」と言われた。「えらい!」これが仕事の本質だ。労働の報酬は金やモノではない。マルキストや経済学者達よよく聞け。人間の行動の本質は金ではないのだ。「瀕死の人間が奇跡的に助かり、喜んで帰っていくその姿」。その後姿を見る喜び。その元気になった顔を見る喜び。有難うと一言言われるその喜び。回復の手伝いに参加させていただく喜び。これに勝る労働の報酬はないのだ。これが生きがい、仕事の喜びなのだ。これを「天に宝を積む」というのだ。

  聖書全巻の本質もここにある。瀕死の人間が修復される筋道が書いてある。我々は瀕死の人間であった。廃物であった。それを神は「もったいない」と考えて修復回復したのだ。天地創造は神の創造の喜び。「神はこれを見てよしとされた」とあるがこの「よし」という言葉は創造の喜びの表れ。(わたしの口癖も「よし」であるとは家人が言う)。しかし心を込めて創造した人間がその後転落して壊れ、汚くなった。廃物になった。しかしこれを神は「惜しい、もったいない」と思って修復、回復しようとされた。ソドムの話。ノアの話。これらはみな神の努力。しかしうまくいかない。そこで第二のアダムたるイエスを殺してその血で堕落者を贖い、奇跡をもって修復・回復した。神の喜びはここにある。回復・修復の喜びは創造の喜びとはまた一味違う喜びなのだ。修復・回復の喜びの背景には「悩みと苦しみ」があるので修復の喜びもまたひとしおなのである。これは創造の喜びとは違う再創造の喜びである。

 キリストによる十字架の贖いは神にしてみれば再創造の喜びである。人間はどんなに汚くても清くさせられる。汚い過去が奇跡的に消える。再出発できる。アウグスチヌスを見よ。内村鑑三を見よ。生まれ変わることが出来る。人間社会の間では汚い記憶や記録が残るが、神の目には今生まれた赤ん坊のようにさせられる。新しい創造である。その奇跡が新約聖書の本質である。ああありがたき十字架の福音。これなくして人生は息がつけない。

 

コリント人への第二の手紙 5:17

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。

(JCV)

 

2001.9.3高橋照男

 

 

思わざる十字架

 

人生には時に(いや必ず)「理想や希望に反して」思わざる十字架を負わされることがある。十字架とは他人の罪や苦悩を共にこの身に負わされることである。災害などの不幸(火災や病気など)は十字架ではない。それは単なる物理的喪失である。自分の苦しみである。自業自得である。十字架とは人の罪をわが身に負わされることである。精神的なことである。それは非常に心に重い。いやな「負わされたくない」「恥ずかしい」「世間体が悪い」「みっともない」「みじめな」「言いたくない」「隠しておきたい」「敷居の外に出せない」「とんでもない」「人様に話せない」「とてもひどい」「驚くべき」「はしたない」「異常な」「断罪さるべき」「笑われる」「高見の見物をされる」ことである。それは身内のことである。イエスが「自分の十字架を負え」とあるのはこのことである。十字架を負えとは国家的のまた世界的のことではない。そんなかっこいい高邁なことではない。自分の夫の、妻の、子供の、兄弟の、親戚のことである。身近なことである。だから「自分の十字架」なのである。

 

マタイによる福音書 10:38-40 また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。

39 自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。

40 あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。

(JCV)

 

人道を外れて歩いているために嫌いになってしまった夫や妻や身内は「自分の十字架」である。それは重い。その内容は親しき友にもとても「恥ずかしくて」言えない。普通はこの場合身内を糾弾する。そこに最もな理由があるからである。しかしここでイエスは「十字架を負え」とある。これに対し本能はトンデモナイと思うのである。当の本人が「罪を罪と思わない」で涼しい顔で平気でいるからである。「本人のためによくない」と思うからである。義憤が爆発する。そんなとき上記マタイ10:39は慰めである。「自分の命」を得ているもの、つまり自分の「幸福」を得ようとするものは本当の幸福たる命を失うというのである。「自分のメンツを捨てよ」というのである。なんという深い言葉だろう。人間的のいわゆる人並みの幸福は幸福ではない。無理に十字架を負わされ身内の十字架を負う、身内の恥をかぶるということが真の幸福であるというのである。これがクリスチャンの道というのである。この部分、塚本訳は次のようになっている。

 

マタイによる福音書 10:39[塚本訳](十字架を避けてこの世の)命を得る者は(永遠の)命を失い、わたしのために(この世の)命を失う者は、(永遠の)命を得るであろう。"

 

この( )内の敷衍は貴重である。われわれの本能は十字架を避けていわゆる人並みの幸福の道を歩みたいと思う。この世的幸福を得たいと思う。しかしクリスチャンはそれではいけない。イエスの道を歩む者としてふさわしくない(塚本訳40節)。クリスチャンとして思わざる十字架を負わされてこの世のいわゆる幸福を失ったものは永遠の命を得るのである。喜び喜べというのである。人生はあるとき一回泣かなければならない。総てを失って号泣しなければならない。男泣きに泣かなければならない。真のクリスチャンにはこの十字架が多い。あの人に、あの家庭にと思われるところに言うに言われぬ不可解な十字架がある。「良い家庭に悩み多し」とは現実である。私はその不可解な例を数件も見た。しかしその十字架にはきっと意味がある。

 

マタイによる福音書 5:12 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。 (JCV)

 

ルカによる福音書 6:21 あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。飽き足りるようになるからである。あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである。

(JCV)

 

アコヤ貝は無理に入れられた異物(砂粒)に痛い痛いと涙を流しているとそれがいつの間にか美しい真珠になる。我々の人生も痛い痛いといって涙を流せば流すほど大きな奇麗な真珠がきっと天国で待っているのだ。きっと。これがパウロの言う「希望」だ。(コリント人への第一の手紙13:13)

 

ローマ人への手紙 8:18 現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。 (JNICV)

 

 

2001.8.31        高橋照男

 

 

 

 

 

人間の罪と汚れを清める神の愛

 

レビ記 11:45 わたしはあなたがたの神となるため、あなたがたをエジプトの国から導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない』」。

(JCV)

 

旧約聖書の本質はこの一句に尽きる。そしてその実行としてキリストの十字架があった。神は人間を罪穢れから清くせねばやまず、清めんがために十字架の策を講じた。神の愛は罪汚れを清めることになって表れた。新約聖書の本質はこの旧約聖書の目的が実現されたと見るべきである。旧約は義、新約は愛に見えるが、実は旧約も新約も神が人間を罪穢れから清めようとする努力の歴史である。ではイエス以後のその神の業は何か。それは聖霊の働きである。聖霊という実在によって現代の我々は罪穢れから清められる。聖霊という火によって罪が焼かれる。そこに神の愛の具体化が見られる。聖霊によって現代の我々は、過去に起こった十字架と復活の意味が示され、教えられる。神の愛は我々の罪汚れを清める。神の愛の本質はそこにある。人間の最奥の悩み悲しみは「罪汚れ」の悩みである。これだけは人間のいかなる方法(医学、哲学思想)でも癒せない。その「罪汚れ」の苦悩懊悩を救うのが神の愛である。十字架の啓示である。その実在である。最も深い「愛」それは罪穢れからの清めである。従って巷で「好き」とか「ラブ」という言葉で表現される「愛」とは全然内容が違うものである。この本当の愛を知るためには自らが「罪穢れ」の苦におちいってそこから「清められたい」という願いが本人自身に生まれなければ神の救いが実行されない。「自分にはそんな罪穢れはない。関係ない」と思っている人には救いの光が差し込まない。神とてもありがたがられない人、受け入れない人のところへは行かない。用はない。建築設計も要請されてはじめて行うものである。医者もそうである。だからイエスも次のように言う。

 

マルコによる福音書 2:17 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

(JCV)

 

しかし清められたいと思う心も神から与えられるものである。その時に到らないときには人間は「罪とは何か?」と涼しい顔をしているばかりなのだ。これに対しては回りでとやかく言っても何の効果もない。しかし気が付くときがくれば昔のこと(過去の歴史としての十字架と復活や、その昔親や教師に言われていたこと)を思い出すのである。思い出すこと、贖罪の救いが分かること、それは聖霊の働きである。神の主権による働きが実行されるときである。その神の実行の日が速やかに来ますように。その日には「すべてのことが分かるであろう」。必ず。その時は必ず来るものと信ずる。終末を祈る。

 

ヨハネによる福音書 14:26[塚本訳]

(わたしが去ったあとで、)父上がわたしの名で遣わされる弁護者、すなわち聖霊が、あなた達にすべてのことを教え、またわたしが言ったことをすべて思い出させるであろう"

 

祈 り

神よこの私を「罪穢れ」から清めてください。家族一同を、親類縁者一同を清めてください。わが国同胞を清めてください。全人類を清めてください。悪を滅ぼしてください。悪魔の業を実現させないでください。聖霊を下して我々同胞に清めの実行をしてください。速やかに行ってください。さもなくば全員が滅びます。聖霊により同胞に「十字架と復活の贖罪の秘儀」を啓示して、分からせてください。思い出させてください。終末が速やかに来ますように。世を終わらせてください。

 

 

2001.8.30 高橋照男

 

 

 

 

耐えがたき悩みからの解放としての代償苦の実在

 

人生の悩みのうち最も耐え難いものは同族身内とエクレシアの一員の罪である。その一人が身近な者であればあるほど悩みと苦しみが大きい。特に罪を犯している本人がその罪に気がついていない時の周囲の者たちの悩み苦しみは大きい。それはあたかも身体が発熱するがごとくである。うめく。家族一同、エクレシア一同が発熱の苦しみを味わう。それは無言のうめきとなって現れる。心が病む。その耐え難い苦悩から救われる道は、「神は代償苦をもって罪を帳消しにしてくださる」ということを知ることである。罪はだれか他の人の代償苦で帳消しになる。つまり家族とかエクレシア全体の悩み(うめき)ということ自体が代償苦なのだ。一人の人が罪を犯すと一族郎党が悩み始める。エクレシアが悩む。これは人生の不思議な現象である。一人の犯した、また犯しつつある罪は周囲の身内のまたはエクレシアの発熱に似たうめき悩みの苦で、その苦の実在という代償でバランスがとられる。神は一人の罪の責任を一族におよぼす。旧約聖書創世記18章のソドムとゴモラの話は少数の罪人のために町全体が滅びるということが前提になっている。このように一人の人の犯した罪また犯しつつある罪またこれから犯すであろうという罪の不安のために家族の全員が悩み苦しむという厳然たる事実がこの人生にはある。これは理論や理屈を通り越しての厳粛な事実である。パウロはこのことを次のように言う。

 

コリント人への第一の手紙 12:26 もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。 (JCV)

 

ローマ人への手紙 8:26[塚本訳] しかし(創造物やわたし達神の子が苦しんでいると)同じように、御霊も、弱いわたし達を助けてくださる。すなわち、(神のみ心にかなうには)どう何を祈るべきかわからないので、御霊自身が、無言の呻きをもって(わたし達の祈りを神に)執り成してくださるのである。"

 

人生にはこの代償苦というものがあって息がつける。バランスが取れる。胸の波(悩み)がおさまる。苦悩と懊悩の嘆きがやむ。罪は罰があってはじめてバランスが取れ、代償苦があって帳消しになる。これが人生の現実である。神は罪に対しては代罰を要求する。家族の苦とエクレシアの苦はその代罰のあらわれである。本人にその罪の自覚がないときは特にその家族やエクレシアの悩みが大きくなるという事実は、そこに代償苦の実在が強く求められている証拠である。その時は悩みという発熱の度合いが特に大きくなる。罪の本人は「知らず顔」ですごしていてもである。

 

 賛美歌331番

 主にのみ十字架を 負わせまつり われ知らず顔に あるべきかは

 

家族とエクレシアに悩みが生じるということは神がその一員の人間の罪の代償を家族とかエクレシヤに負わせている証拠である。体の発熱は体の中になにか悪い菌が入り込んだ証拠である。悪い罪の思想が入りこんだからそうなる。このとき身体としての家族やエクレシアは発熱して悩み懊悩する。これが代罰の苦である。身体の発熱によって悪い菌は死ぬ。それは身体の防衛本能である。エクレシヤも犠牲の苦で悪い菌は逃げ出す。エクレシアというのは罪の代罰を身に負う存在としての働きがその本質である。教会の本質はこれである。友の罪を共に悩む存在、この世での実在集団、これがエクレシヤである。信者の友愛の本質は友の罪を代罰としてこの身に負うところにある。負わされるところにある。本当の愛というのは友のために悩み苦しみ代罰をこの身に負うことである。しかし十字架は自分では負えない。負おうとして負えない。本能に反して無理に負わされるものである。恥を負わされるのである。十字架は恥じを負うことである。

罪は愛の代罰で滅ぼされる。罪が帳消しになる。これがイエスの十字架の真理。この真理があって人生は息がつける。ここから次の言葉が理解できる。

 

ヨハネによる福音書 15:13-14 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。 14 あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。

(JCV)

 

マタイによる福音書 10:38[塚本訳]また自分の十字架を取ってわたしのあとに従わない者は、わたし(の弟子たる)

に適しない。"

 

マタイによる福音書 16:24[塚本訳] あとでイエスは弟子たちに言われた、「だれでも、わたしについて来ようと思う者は、(まず)己れをすてて、自分の十字架を負い、それからわたしに従え。

 

自らの意思(人生の希望)に反して重い十字架を負わされるとき、イエスのあとを歩まされることになるのである。

 

2001.8.21 高橋照男

 

「人生って淋しいものですね」

 

人生とは淋しいものである。それは昔からのことである。

 

「幾山河 越えさり行かば 淋しさの はてなん国ぞ 今日も旅行く」(若山牧水)

 

 伝道の書 12:1 あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、

(JCV)

伝道の書 12:1 青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。

(JNICV)

 

「人間とは何だろう? どこから来て、どこへ行くのか、あの金色に光る空の星のかなたには誰が住んでいるのか?」(ハイネ)

 

  これはヒルティ幸福論第1巻の第8論文である。わたしは夜空を仰ぐたびにこの言葉を思い出して寂寥の感を禁じえない。人生は星の寿命、宇宙の寿命に比べてあまりにも短い。

 

詩篇 90:4-6 あなたの目の前には千年も過ぎ去ればきのうのごとく、夜の間のひと時のようです。

5 あなたは人を大水のように流れ去らせられます。彼らはひと夜の夢のごとく、あしたにもえでる青草のようです。

6 あしたにもえでて、栄えるが、夕べには、しおれて枯れるのです。

(JCV)

 

これは旧約の詩人の言葉。我々の人生はひと夜の夢のごとくでる。私は昨年25年間住み慣れた家を焼失して焼け跡に立った時その25年がまことにひと夜の夢のごとくに感じられた。

 

詩篇 90:10 われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。

(JCV)

詩篇 90:10 人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても、得るところは災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。

(JNICV)

 

「人生って淋しいものですね」

 

    これは小椋佳の作詞作曲になる「愛燦燦」という曲の一節。この歌詞はかなり良い。おすすめである。(はじめは美空ひばり、最近では天童よしみが歌っている。)

 

このように人生は昔も今も人間にとっては淋しいものである。4大文明もこの淋しさの解決に努力しているあとが見られる。現代の青少年はこの淋しさを癒そうとして異性の愛を求めるがなぜか満たされない。

 

ではどうすればよいのか。その究極の「癒し」は多言を要しない。「愛」に出会うことである。それも人間の愛ではなく、我々の本当の親なる造り主「神の愛」に出会うことである。その愛のまなざしに出会うことである。

人生はこの出会いに向けられて旅をするように造られているようだが、その出会いに到らないで死ぬ人が多くいる。これはどのように解したらよいのだろうか。ああ、人生はやはり淋しいものである。

 

2001.8.18  高橋照男

 

 

 

 

 

与えられないことのハンディ

 

人生を平安に喜びを持って生きていく上で大切なことは「信仰と健康とよき伴侶」であると思う。

このうち、健康は自分で注意すればあるいは人並みに長生きできるかもしれない。またよき伴侶というのも真面目に生活をしていれば「良縁」が舞い込むかもしれない。しかし信仰だけはこれ人間の努力では勝ち取れないものである。このことをパウロはローマ書9章で力説する。これは意外なことである。普通信仰はこれに導き、喚起すれば本人がある時に目覚めて「求める」ようになって、それが神に喜ばれてついにキリスト信徒になると考えられる。だから「伝道」なるものがはやるのである。しかしローマ書9章によれば救いや信仰はこれ全く神の自由なる主権によって人に与えられるものであるとパウロは言う。このように言わざるを得なくなったパウロの背景は実に深刻なものであったのであろう。そしてパウロは言う。信仰が与えられないのも神の御心、そのことも神の御計画。神はそのことをよくご存知である。と。パウロの家族のことは新約聖書からは詳しいことは分からない。伝説によれば最後はどうやら首をはねられて死んだとも言われる。わたしはかってイタリヤに旅をして、一日ローマのコロッセオ円形劇場の中断に座ったとき、(パウロはこのコロッセオで死んだのではないであろうが、)何処からともなく「我思うに今のときの苦しみはやがて我らの上に現れる栄光に比ぶるに足らず」(ローマ書8章18節文語訳)という言葉が聞こえて来た。

 パウロは肉体にトゲがあったと言う。つまり健康でなかった。パウロは生涯に何度かこのトゲを抜いて欲しいと祈ったが癒されなかった。また結婚にも到らなかったらしい。殉教が近いと思ってわざと結婚をしなかったのかもしれない。

 

コリント人への第二の手紙 12:7-9 そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。

8 このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。

9 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。 (JCV)

 

コリント人への第一の手紙 9:5-6 わたしたちには、ほかの使徒たちや主の兄弟たちやケパのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのか

6 それとも、わたしとバルナバとだけには、労働をせずにいる権利がないのか。

(JCV)

 

健康が与えられないことも「よき伴侶」が与えられないことも、あるいは若くして伴侶と死別したとしても、これまた神の御心だと言わざるをえない。「信仰と健康とよき伴侶」このいくつかが、あるいはすべてが(!)与えられずにハンディの人生を送ろうとも神はすべてをご存知で、人生を底の底で支えてくださるのだ。いざ行かん。前向きで。

  (早朝の散歩で昇る朝日を見ながらこのことを思う)

 

2001.8.17 高橋照男

 

 

キリストの道は肉親の情を断つ道

 

イエスの言葉でなかなか分からないものは「私の弟子になるには家族を捨て、自分を捨てて来い」という部分である。特に前半は儒教的習慣のある日本においてはこれは非常に理解しがたい言葉である。これを信者でもない家族にまともに言うと「むっと」される。ではこの言葉の本質は何か。それは真の人間関係は一度肉の情の関係を断ち切って神による真の交わりになれというのである。それが真の親子、真の夫婦であるというのである。本当の関係は一たん捨ててから神によって再び与えられる。捨てなければ与えられない。これは自分の命についても同じである。自分の肉の命は自分で監理しているのであるが、それを一たん完全に神に預けて、返して、その後に神の手によって与えられるとき本物になる。私はこの認識を昨年の脳出血のときに認識させられた。今生かされているこの肉の身は私のものではない。同じように生まれつき自然のなりいきでできている「この世的関係(友人)の情」「肉親の情」「恋愛感情」などの自然の情は一たんこれを完全に神に捧げてかからなければならない。その後に神の手から受け取るものが本当に祝福された関係なのだ。だからキリストの道を歩もうとすれば一たん家族を捨て、友人を捨て、自分を捨てなければならない。否、強引に暴力を持ってでも捨てさせられる。するとどうなるのか。不思議に全人類に目が行く。それまでは自分の身内だけがよければいいと思っていたのが、世界の人に目が行く。イエスも母を捨てた。「女よ」と冷たい言葉を吐いた。これを敷衍すれば「母よ、あなたの思いはこの世的で罪人の思いです」というのである。イエスは肉の母を断罪した。産みの母に刃を向けた。これを言ったあとイエスは陰でひそかに泣いたのかもしれない。しかしイエスと母マリヤは最後は神による幸いの関係の親子になった。私たちキリスト者も、親に対し、子供に対し、友人に対し、妻に対し、主人に対し、「ノー。あなたの考えはこの世的で罪人の考え!」と言って涙をふるって肉の関係を断たなければならない宿命のときが来るものだ。しかしここを通らないと神による真の幸いな関係になれない。ああむずかしくつらいのはキリストの道。

 

ルカによる福音書 2:34-35[塚本訳] シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った、「驚きなさるなよ、この幼児はイスラエルの多くの人を、(この方に対する態度によって)倒されたり立たせたりする、また、一つの目印となって(この世の烈しい)反対をうける、使命を負わされているのです。・・"35(母人よ、)あなたも劔で胸を刺しつらぬかれ(る苦しみをせ)ねばなりますまい。・・これは多くの人の心の(隠れた)考えを外に出させるためなのです。」"

 

ヨハネによる福音書 2:2-4 イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれた。

3 ぶどう酒がなくなったので、母はイエスに言った、「ぶどう酒がなくなってしまいました」。

4 イエスは母に言われた、「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」。 (JCV)

 

母に向かって婦人(グナイ)よという言い方をされたとき母マリヤは劔で胸を刺しつらぬかれる苦しみをしたのである。シメオンの預言は的中した。しかしそれは人類のために必要な苦しみであった。

 

マタイによる福音書 10:36-39 そして家の者が、その人の敵となるであろう。

37 わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない

38 また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。

39 自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう (JCV)

 

マタイによる福音書 12:46-50 イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちとが、イエスに話そうと思って外に立っていた。

47 それで、ある人がイエスに言った、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、外に立っておられます」。

48 イエスは知らせてくれた者に答えて言われた、「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか」。

49 そして、弟子たちの方に手をさし伸べて言われた、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。

50 天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。 (JCV)

 

私の母とはだれのことかとは実にひどい言葉である。儒教の素養のある日本の教科書には載せられない。これを直接に母マリヤが聞いたらどんなであろう。息子の変わりように嘆いたであろう。わたしの兄弟とはだれのことかということを直接に兄弟が聞いたらどうであろうか。変わり果てた兄の姿に弟妹も心を痛めたであろう。いや母マリヤも兄弟たちもイエスのこの言葉を間接的に聞いたかもしれない。そして事実イエスは気が違ったと思ったのである。

 

マルコによる福音書 3:21[塚本訳] 身内の者たちが(イエスの様子を)聞いて(ナザレからカペナウムへ)取りおさえに出てきた。「気が狂っている」と思ったのである。"

 

かって高校生のとき、私は母に泣かれたことがある「照男は小さいときには素直なよい子であったが、キリスト教になってからは私にトゲトゲするようになった」と。(その後母はまだ救いを頂いていない。)

私は結局これは終末が来なければ解決しない悲しみであると思う。そのときすべてが分かるであろう。

 

ヨハネによる福音書 19:26-27 イエスは、その母と愛弟子とがそばに立っているのをごらんになって、母にいわれた、「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」。

27 それからこの弟子に言われた、「ごらんなさい。これはあなたの母です」。そのとき以来、この弟子はイエスの母を自分の家に引きとった (JCV)

 

ヨハネの黙示録 14:13 またわたしは、天からの声がこう言うのを聞いた、「書きしるせ、『今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである』」。御霊も言う、「しかり、彼らはその労苦を解かれて休み、そのわざは彼らについていく」。 (JCV)

 

我々キリスト者の労苦が解かれ休める日は来る。必ず来る。それは終末、再臨のとき。それは間近だ。

 

2001.8.16 高橋照男

 

 

重荷を負ってしまった友へ

 

人生の長き旅の途中で思わざることで「魔が差して」過ちを犯し、重荷を負ってしまうことがある。それを「重荷ではない」と強がりを言う人は福音に聞かない。人生の重荷は耐えがたいものである。それは「淋しさ」になって現れる。「悩み」になって現れる。「苦悩」になって現れる。「ニヒリズム」になる。「喜びが失せる」ことになって表れる。「生きる喜び」がなくなる。「ペシミズム(圧世的)」になる。「光」がなくなる。神の裁きは絶対であって逃れようがないからである。神は何処までも執拗に徹底的に追いかけて苦しみと重荷を与える。ごまかせない。逃げられない。人は見ていなくても神は見ている。人には知られなくても神には知られている。神の追求の手は緩まない。徹底的に断罪される。神の義は貫徹する。人間の断罪よりも具体的な罰や拷問でそれが来る。亡くなられたT裁判長がわたしに言われた。「私の裁きが間違っていても最後には神が真の裁きをするから安心だ。人間の判断には誤りがあっても背後には神が厳然と存在していて、正しく裁く。間違いなく神御自身が裁く。だから私は安心して裁判をやっていられる。」と。つまり人間の有罪との判決が誤りであったとしても神は赦す。また人間の無罪の判決が間違っていたとしても神はあとで真に裁く。この世には神が存在していて、人が信じようが信じまいが罪を最後の最後まで間違いなく追求する。人間が「なぜだ」と抗辯してもそれが神の前に正しくなければ厳重に断罪される。そしてその罪の価は「死」である。死は罪を清める。人生はこのことを徹底的に教えられる「道場」なのだ。もし神など存在しないと言って罪と罰の現実を否定しても人間には「良心」というものがあってこれが邪魔をして自分を苦しめる。「良心」のない人はいるかいないか分からないがそういう人には話は通じない。いま「良心」の故になぜか心に重荷を負ってしまった人に言うのである。

神の厳しい裁きから逃れる道はある。神の厳しい裁きは「不当」であると考える人は、まだ罪の恐ろしさを味わっていない。本当に自己の罪が神の光に照射されると「俺を殺してくれ」と絶叫するようになるのだ。だから人に向かって「罪を自覚」させようとするほど無駄で徒労なことはない。人が人に罪を自覚させようとしても不徹底である。不完全である。効き目がない。神が人に罪の自覚をさせるときは徹底的で激しい。それに会うと苦しく窒息の拷問の責め苦にあう。しかしどんなに敏感な人でも机上で自己の罪を自覚はしない。たいていは人生のゴタゴタでドロドロのうちにどうしようもなく身動きできなくなったとき「光と安らぎ」を」求めるところから自己の罪が自覚されるのである。わたしが言うのは自己の罪でがたがたと震えている人に言うのである。そのとき人は初めて神の声を受け入れる準備ができる。

 

凡て勞する者・重荷を負ふ者、われに來れ、われ汝らを休ません。[文語訳]"

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。[口語訳]        マタイによる福音書 11:28

 

 

2001.8.9 高橋照男

 

 

 

復活の家

 

人間はみな家を求める。物理的な家屋(ハウス)や、中味としての結婚による家庭(ホーム)も、その目的は心が落ち着くところ、安らぐところを求めているのである。しかし家屋(ハウス)を得ても結婚して家庭(ホーム)を得ても真の満足は得られない。聖書で家の概念には、物理的家屋の他に、神の胸に安らい憩うという思想がある。イエスは自分のことを神殿と言った。人間は神の胸に憩う時に真の家に住むことになる。

 

ヨハネによる福音書 2:19 -22 イエスは彼らに答えて言われた「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。

20そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか。

21 イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。

22 それで、イエスが死人の中からよみがえったとき、弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出して、聖書とイエスのこの言葉とを信じた。(JCV)

 

マタイによる福音書 26:60-61 そこで多くの偽証者が出てきたが、証拠があがらなかった。しかし、最後にふたりの者が出てきて、

61 言った、「この人は、わたしは神の宮を打ちこわし、三日の後に建てることができる、と言いました」。 (JCV)

 

マタイによる福音書 27:40 言った、「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」。 (JCV)

 

マルコによる福音書 14:58 「わたしたちはこの人が『わたしは手で造ったこの神殿を打ちこわし、三日の後に手で造られない別の神殿を建てるのだ』と言うのを聞きました。 (JCV)

 

マルコによる福音書 8:31 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、 (JCV)

 

使徒行伝 2:32[塚本訳] 神は(救世主である)このイエスを(預言どおりに)復活させられました。わたし達は皆このことの証人です。(イエスの復活を目の当り見たのだから。)"

 

ローマ人への手紙 8:11[塚本訳]しかしイエスを死人の中から復活させたお方の御霊があなた達の中に住んでおられるなら、キリスト・イエスを死人の中から復活させたそのお方は、あなた達の中に住んでおられるその御霊によって、あなた達の死ぬべき体をも生かしてくださるであろう。"

 

コリント人への第一の手紙 15:3-4 わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、

4 そして葬られたこと、聖書に書いておるとおり、三日目によみがえったこと、 (JCV)

 

ペテロの第一の手紙 3:18 キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。 (JNICV)

                        

2001.8.5 高橋照男

 

 

福罪の伝播は罪の赦しの実在による

 

戦後すぐの話。戦時中に軍に接収されていた教会堂の神父が、戦争が終わったので教会堂を返して欲しいと憲兵に申し出た。するとその憲兵は「生意気な」と言ってその神父を射殺した。教会は警察に訴えて犯人を逮捕するようにも考えたが、それで死んだ神父が戻ってくるわけでもなし、聖書に「七度を七十倍赦せ」とあるから、この際一切を赦して犯人の救いを祈り続けようと決議。それから何十年もしてそのカトリック吉祥寺教会に佐々木某という男が訪ねてきて「私があのときの犯人です。どうしたらよいでしょうか」と言ってきたと言う。万歳。神は実在する。教会の罪の赦しと忍耐の勝利。神父は一粒の麦となって一人の人物を救った。

 福音は罪の赦しという歴史的に感知できる実在の行為で伝わる。このような「赦し」の場面は各自が身の回りに日々起こり得る可能性を秘めている。職場で家庭で。福音は罪の赦しの実在の行為で伝わる。ハルナックの「最初三世紀のキリスト教の伝播」という名著は読んでいないが、多分福音伝播の主たる内因はこのような実在の事件を通じての「罪の赦し」の実話ではないだろうか。福音の伝播は教義の確立でも説教でも教会組織による支配でもない。罪人を義に屈服させることでもない。日本を義に目覚めさせることではない。ましてや大所高所からの天下国家の批判でもない。

 「地の果てまで福音を宣べ伝えよ」という場合の地の果てとはアフリカや東南アジアの未開発国でなく、今各人がそこに立っているその場所が地の果てなのだ。そこにおいて、この生涯において、この身において罪の赦しの行為が実現するときに福音の香りが放たれるのである。しかしその罪の赦しは人間の努力では実行できず、神の不思議なる導きでいやおうなしに無理やりに実現させられる。生きている間に起こる悲しいことはすべて神の御計画である。

 

ヨハネによる福音書 12:24 よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。 (JCV)

 

2001.8.2 高橋照男

 

 

 

行き悩む人生の「やみ路を照らす」復活伝承の光

 

人生が行き詰まり、行き悩み、八方ふさがりになることは良いことである。それは「天罰」ではなく「神の招き」である。神がわざと両側に垣根をこしらえて人生を曲がらないようにしてくださっているのである(ヒルティ)。とくに何処に行ってもどちらを向いても道がふさがれるとき、それは恩恵である。いかなる人間的保証、人間的応援、人間的慰めも得られなくなるときそれはさらに恩恵である。この世に逃げ込むところがなくなるときは「神の招き」が備えられている証拠だからである。人間でなく神のみが受け入れてくださる。傷を癒してくださる。人生の傷は神が自ら傷を負ってくださることによって癒してくださる。傷なきものにしてくださる。きれいな者にしてくださる。失敗を贖ってくださる。

 

イザヤ書 53:3-5 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。

4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。

5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。 (JCV)

 

心の重荷やハンディや淋しさは何か正しくないことの証拠なのだ。神の招きの「手」なのだ。それを強がりを言ってツッパッテはならない。ギブアップ、降参、神には降参しなければならない。人間や教会にではなく神に直接赦していただけるのだ。人間は罪を裁くが、神は罪を赦してくださるのだ。

 

 私の父は若き日に結核を病み、人生が行き詰まったそのときに出会ったキリスト教の賛美歌は次のものである。

 賛美歌87B

 めぐみのひかりは わがゆきなやむ やみ路を照らせり 神は愛なり われらも愛せん あいなる神を 

 

人生には何度か「行き悩む」ことがある。卑近な例で、私の場合は火災による家の焼失、脳出血による意識不明(救急車の中で「助けてくれ、俺にはまだ子供がいるのだ」と叫んでいたという)での入院、その他にももっとつらいことが襲ってきた。そのたびに地上の幸福の形が奪われたがかえって本当のものに目を向けさせられた。火災では「天国の家は焼けない」という認識。脳出血ではこの肉体の命は完全に神の手に握られているのだという認識。その他のつらいことでは「神の絶対恩恵による罪の赦し」の認識。そのたびに本当の幸福というものに目が向けられた。

 

本当の幸福とは罪が贖われ赦されて心が平安になり、心がすすがれてすがすがしくなり、来世に生きる希望をもちながら貧しくとも前向きに生きることである。「生きる喜び」に満ちることである。

 

この幸福を知らせ伝承する人生のオアシスはイエスの復活伝承を担う人々の集団である。そこには裁きや批判や断罪がなく、あるのはただ罪の赦しの感謝の喜びでありその結果としての愛の交わりである。その集団の基盤は歴史的事実の復活伝承である。禅宗のような個人の悟りではない。個人の宗教体験の集団ではない。信仰の思想集団ではない。ただただ復活の伝承である。復活は神がこの世に発した「言葉」「捺印」である。罪の赦しの証拠、来世実在の希望の根拠である。

 

この集団は神によって建てられる。思想によっては立たない。宗教的偉人の思想でも立たない。復活伝承を担う無名の人々によって立つ。胸が熱くさせられた人々によってこの世に自然発生的に誕生する。

 

私は、小学校に上がる前に行っていた日曜学校の先生によって胸の中に福音の種が蒔かれた。キリスト教に対してよい印象を持った。40年後のある日、その教会を訪ねて当時のその先生の消息を伺ったが、行方不明であった。私を愛してくれたあの良い先生は「今いずこ!」。私にとって無名の人であったが、私の胸に神の福音を蒔いてくださった。

 

高校生のとき同期のある女子が「照男さん。私にはまだ神様がいるかどうか分からないのです。」と私に告げた。30年後、彼女が聖路加病院で亡くなったということを人づてに聞いた。なんでもクリスチャンになって死んだという。わたしは大急ぎでその病院の井原司祭に事の次第を伺ったところ、彼女はガンになり妻の座を辞して離婚、最後にガンは頭にまで来たという。しかし固く信仰を持って召されたという。わたしはそれを聞き、神は人を信仰に導くためには何と残酷なことをするのかと思って泣いた。それを聞いた晩彼女が夢に現れ「照男さん。私の生涯は短かったけれども、私の分までがんばってください」と話しかけた。昨年脳出血で聖路加に入院したとき病室にその井原司祭が見えられ彼女のことを話してくれた。窓の外に見えた夏の入道雲はあくまでも白かった。そうだ永遠の命、永遠の命。来世の実在。復活の希望。

 

2001.7.29        高橋照男

 

 

一人の人間に没入することの危険

青少年の進路選択は難しい。男子にとっては職業の選択、女子にとっては結婚が人生を決定すると言われる。パスカルは男子にとって職業の選択は最高に大切なことであるがそれは多くの場合偶然によって決まるという。こんなとき魂をすり減らす思考から解放してくれるのは「神の導き」である。神に導かれる道は「安らか」である。この道を説くのがヒルティの著作である。神に導かれる道に共通なことは「一人の人間に没入する」ことはないということである。

 

イザヤ書 2:22 人間に頼るのをやめよ鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか。

(JNICV)

 

詩篇 146:3-5 君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。

4 霊が人間を去れば、人間は自分の属する土に帰り、その日、彼の思いも滅びる。

5 いかに幸いなことか、ヤコブの神を助けと頼み、主なるその神を待ち望む人

(JNICV)

 

未完

 

 

ヒューマニズムの愛は神に嫌われる

 

詩篇 19:9 主を恐れる道は清らかで、とこしえに絶えることがなく、主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。 (JCV)

 

人生において、何が正しく何がいけない道であるかの判断に迷うことがある。人のために良いことをしていると思っていることや愛を行っていると思っていることは意外に「自分の義を立てる」ことで慢心であり、神から嫌われることが多い。それは神の業、神の顔が立たないからである。「主よわたしはこんなに良いことをしているではありませんか、聖書の教える愛の実行ではないですか、人助けではありませんか。気の毒な人を助けているではありませんか。愛ではありませんか。」と自分の行為に自信を持つのは「悪魔」の術策に陥っている証拠である。荒野の誘惑でサタンはこの手を使った。悪魔は聖書の言葉を利用する!(マタイ4章1−11節塚本訳で明快)イエスに対してサタンは言う。「ここにある石ころに命じればパンになるからそれで餓える民を救える。塔から飛び降りても死ななければ皆がその奇跡に驚いてイエスを王に祭り上げる。すると立派な王になって世界をよく支配できる。あなたの教養と清純な知識学問でこの世の矛盾を解決できる。」サタンは昔も今もクリスチャンを「人助けの愛の道」に誘惑して心をくすぐり「自分の義」で世界を良くさせ、また自分も「己が義」で救われると思わさせる。間違いである。サタンは巧妙である。「悲しそうな、淋しそうな、哀れみを請う顔」でクリスチャンに近づき、神の力でなく「人間の力や善行」を発揮させようとする。その術策に乗ってはならない。(プロレスにその手がある。弱そうな姿をして相手に慢心を起こさせおびき寄せる。賢いレスラーはその手に乗らない。相手に近づかない。近づくと逆にやられる。)クリスチャンはそのような悲しそうな淋しそうな人間の顔をして近づくサタンを見抜かなければならない。「サタンよひっこめ」と。

 

マタイによる福音書 4:10[塚本訳]そこでイエスは言われる、「引っ込んでいろ、悪魔!(聖書に)“あなたの神なる主をおがめ、”“主に”のみ“奉仕せよ”と書いてあるのだ。」"

 

イエスはその生涯において人間の顔をしたサタンの誘惑に何度か出会った。十字架の死を目前にしてペテロが「先生、死んではいけません」と止めに入ったとき、イエスはペテロの淋しそうな顔に一瞬気持ちがひるんだに違いない。「生き延びて弟子達とこのまま長くいよう。そうすればさらに弟子が増えて集団が大きくなり世の改革(構造改革!、政治改革!)ができるだろう。」しかしイエスは気を取り直して言った。「サタンよしりぞけ」。そして「主にのみ仕える」主の「御用」の贖罪死の道に進んだのだ。その道の意味は人間の誰にも分からなかった。ヒューマニズムの思想では全く分からない「贖罪死」の道であった。それは人間には到底わからない道であったのだ。(その死の意味が贖罪であるとは当のイエスにも分からなかったのではないかという注目すべき研究もある。あるいはそうかもしれない。イエスは意味もわからず神に引き回されたのかも知れない。かわいそうなイエス。)弱い弟子達を捨てる道であったのだ。人間としての愛の道に反する行為だったのだ。

 

マタイによる福音書 16:23[塚本訳] イエスは振り返って、ペテロに言われた、「引っ込んでろ、悪魔、この邪魔者!お前は神様のことを考えずに、人間のことを考えている!」"

 

その後、またまたサタンは今度はイエスの側近たる弟子のユダの心に入ってイエスの「贖罪の道」を、ヒューマニズムや人間の愛(人情)でひるませようとした。マリヤが高価な香油をイエスにかけるとユダは「もったいない、それを貧乏な人に施せばよいのに(社会主義の心!)」と言ったところイエスに咎められた。これに腹を立てたのがユダをしてイエスを売る決意をさせた動機である。主の道はヒューマニズムや社会主義の道とは異なる。人間の考える神のために良いことをするという人道や福祉の道とは大体において異なる。もちろん天下国家を相手に社会悪を糾弾する道とは異なる。彼らはそれが主の道だと誤解している。人間の力や努力で平和が来ると慢心している。

「主の道」はヒューマニズムを捨てる。気の毒な人を捨てる。孝養の道たる儒教の精神を捨てる。なぜか、それは神の示す道に邁進する心を妨害するからである。人間の善行なる心を立て、神の心を立てないからである。それは「贖罪の道」をひるませるからである。イエスは愛する親(母)に対してきびしい言葉を発した。自分の母に対して「女よ」と言った。日本語に訳すとさしずめ「てめぇ、俺と関係ねえだろ」と言う言葉になるのかも知れない。激しい言葉である。そうでなければ親(母)を愛する人情に負けてしまうからである。息も荒々しく言ったに違いない。イエスと母の心を思うと泣けてくる。信仰の道にはこれがあるのでつらい。肉親との別れである。

 

ヨハネによる福音書 2:4[塚本訳] イエスが言われる、「女の方、〃放っておいてください。〃わたしの栄光(を示す)時はまだ来ておりません。」"

 

「主の道」は弱い人かわいそうな人や気の毒な人を見捨てる。人間の思いでそれらの人を助け、味方になって「主よわたしはこんなに良いことをしました。聖書の愛の教えを実行しました。それは苦労しました。貧乏しました。回りから迫害されました。でも忍耐してやり遂げました。気の毒な人の味方になって友達になってあげました。誉めてください。天国に入れてください」と言うとき、神はそれを唾棄する。

 

マタイによる福音書 25:41[塚本訳] それから王は左側の者に言う、『わたしを離れよ、この罰当りども、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ。"

 

マタイによる福音書 25:44[塚本訳] その時、彼らも答える、『主よ、いつわたし達は、あなたが空腹であったり、渇いたり、お宿がなかったり、裸でおられ、御病気であり、牢に入っておられたりするのを見て、お世話をしてあげませんでしたか。』"

 

ではその人にとって何が正しい道であるのか、それを見極めるのはむずかしいことであるが、「主ご自身が」正しく判断し、導いてくださる。「悪いことは神様ご自身が注意してくださる。」これは無教会の姿勢である。悪い思想、間違った考え(ヒューマニズムも!!)は主が自ら正してくださる。裁いて導いてくださる。我々としては、必ずそのようにしてくださる神の働きを「必死に祈って信じる」ほかはない。神の注意のほうが人間の注意よりも効き目があるのだ。それは人間よりも正しく厳しく激しいからである。かわいそうだが仕方がない。ヒューマニズムは「神の道」ではない。それは「人間の義」を立てる道である。そこには神の働く余地がない。「神の道」とは何か。それはサタンが姿をくらまして近づくかわいそうな人を「捨て」、人情を捨てて一心に「真理に奉仕」する道なのだ。一見冷酷でクリスチャンらしからずと思われるが、実はそのほうがかえってそのかわいそうな気の毒な人をも真に救う救いの道を開くことになるのだ。神の道に歩むので神の意志を実行することになるからである。イエスの十字架の道がそうであった。イエスは人間の世界の人情を捨てて「贖罪の死」の道に邁進したので、神の御心がこの世に成ったのである。社会的に人間的に助けたところで真に人を救うことにはならないのだ。イエスがあのとき人情(母や弟子を思う愛)やヒューマニズムに負けてサタンの術策に乗って「生き延びて」いたら救いは成就しなかった。日本のキリスト教はヒューマニズムとどこが違うかと思われるほどピントがずれているので力がない。キリスト教の本質は復活と十字架による罪の贖いである。

 

2001.7.24       2001.7.24 高橋照男

 

 

 

人間の愛よりも心を満たすもの

 

かって世界的な物理学者のI氏が人生の晩年に色恋に狂って妻子を捨てて短歌仲間の女性(離婚2回)と一緒になった事件があった。わたしは若い頃(高校生)その話を聞いて、なぜかがっくりした。なぜがっくりしたかというと、世界的な物理学者が一介の女に狂わされたその人間としての道徳的な脆弱さ,だらしなさとこの世の学問は色恋の前に弱いのかということを感じたからである。色恋が人生で最高に心を満たすものだという低級な人生観。そのためには人倫を踏みにじり、妻子を捨て、学問を捨てるというそのはしたなさ。そんなに色恋が楽しいか。最高のものと思うか。そう思っていた物理学者Iの人生観の情けなさにがっくり来たのである。この話しを若き日に聞いたわたしはそこになぜか汚ならしいものを感じ、「男女の色恋は最高に心を満たすものかなー。」と思わされた。その後キリスト教の「愛」というものに触れ、そこにさわやかな「神聖」さを感じ、同時に色恋よりも「義の愛」をしきりに説く内村鑑三とその門下の無教会の道に導かれた。日本の「短歌(歌)」は人を救わない。音楽も人を救わない。人を抒情や官能の世界に引き込んで真の救いに導かない。そして今でもそのような男女の道に「同情」を寄せる日本文化の腰抜けの低級さにもがっくり来ている。今でも心中ものや人情ものがはやる。「カレシとかカノジョ」などと言ってそれを最高のようにもてはやす出版業界、週刊誌、芸能界の低級さよ。内村鑑三は「源氏物語は日本人を女々しくした」と言った。低級という言葉を使うとそれは差別であると反論するのはヒューマニズムであり、そこに人間を良くするスピリットはない。あるのはただ平等平等である。平等は人生の目的ではない。その点、民主主義は最終の形態ではない。

そうだ人生で大切なこと、最高に心を満たすものは男女の色恋ではない。人間の心を本当に満たすものは神の「神聖な愛」である。それは清潔、自由、喜び、光、明るさ、感謝、である。これが人間をして心から本当に心を満たすものである。また高貴なことに奮い立たせるものである。これに比べ日本文化が今もって最高、至福と思っている男女の色恋の道にあるものは、悩み、苦しみ、不自由、不倫意識、うしろめたさ、心の重荷、闇、暗さ、汚れ、将来の不安、悲しさ、寂しさ、心中意識などなど暗いトーンばかりである。そのIという物理学者が色恋に狂った女は過去に2回の離婚歴があり、子供もいた。その子供のその後の人生をNHKで放映していたが、親戚づきあいは途絶え、暗く、それはみじめなものであった。色恋に狂うと子孫にも悪い影響を与える。彼女に同情した物理学者Iの「同情」は真の愛ではなかった。果たして二人は離婚、物理学者のIには別の新しい女性ができていたともいう。さもあらん。馬鹿な男よ。日本文化よ、この話を聞いてもその道を選択するのか。まだ恋愛や心中ものを賛美するのか。結婚がハッピーエンドで「女の救い」だと思っているのか。それは軽率、軽薄、低級な結婚観である。結婚を最高の幸福と考える女性の低級さ。そのような考えの持ち主の「女」から子孫が生まれ出てはならない。いつまでも恋愛に浸りつづける輩は馬鹿な人間である。それは自分も相手も子孫も日本も誰もダメにする。「少年よ大志を抱け」。目覚めよ。高貴なる愛を求めよ、神の神聖な愛を求めよ。美しく本当の愛は人間ではなく神から来る。人間の愛は褪せる。有限である。永遠の神の愛から見て神なき男女の愛は唾棄すべきものである。

 女に堕落したIという物理学者の名前は石原純、その男と一緒に堕落した女の名前は原阿佐緒である。彼らは日本に汚点を残した。原の顔は美しかったかも知れないが神の前には腐れ果てていた。そんな単純なことを見抜けなかった石原もボンクラの節穴の目の持ち主であった。物理学には力がなかった。わたしは人生の若き日に無教会キリスト教に出会えてよかった。

 

詩篇 45:2 あなたは人の子らにまさって麗しく、気品がそのくちびるに注がれている。このゆえに神はとこしえにあなたを祝福された。 (JCV)

 

詩篇 45:3 あなたは人の子らのだれよりも美しく、あなたの唇は優雅に語る。あなたはとこしえに神の祝福を受ける方。 (JNICV)

 

賛美歌166

 イェス君は いとうるわし あめつちの主なる かみの御子、人の子を なににかはたとえん

 

「あなたは私たちをあなたの方に向けておつくりになりました。そして、私たちの心はあなたのうちに憩いを見出す日まで不安なのです」(アウグスチヌス・告白)

 

2001.7.21                 高橋照男

 

 

 

 

凡て勞する者・重荷を負ふ者、われに來れ、われ汝らを休ません。[文語訳]"

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。[口語訳]        マタイによる福音書 11:28

 

日本人の場合、この言葉に引かれて救いの道を求める人が多いという。教会の看板にはこの言葉が書かれている場合が多い。人間の労苦のうち、身体的、肉体的、経済的、人間関係の労苦は大抵は学問や文明で解決できる。解決されつつある。しかし心の重荷はいかんともしがたい。それは真の重荷である。その重荷は身体の不調にまで及ぶ。清瀬のある病院長が、ある患者のことを「この人は心に何か深い悩みを持っている。これは医学では直せない」と言ったという。またわたしの脳外科の主治医も心の病は私の範囲ではないという。それは別な人に聞いてくれという。このような有様のとき、「われに来たれ」という人格存在があることは嬉しいことではないか。そしてその約束は必ずどんな人にも果たされる。神による絶対恩恵の罪の赦しの奇跡でそれが可能である。しかしそのためにはなにもかもを捨てて「彼のところに行く」という意思をもたなければならない。救われたい、彼に重荷を取り去ってもらいたいという一心の「求める」気持ちがなければならない。建築設計を頼んでくる人も「どうかなにとぞよろしくお願いします。」と一心に求めてくる人にでなければ良い設計はできない。ことらも力を発揮できない。ではどのようにしたら「救いを求める」気を起こすようになるのだろうか。「地上の幸福の形」を失ったとき、本当の幸福を求めるようになるか。否、どうもそうではなさそうである。人は不幸になっても神を求めない。まずい生活、ぬるま湯につかっていても反省をせずに、ますます汚れに染まる。特に一たんキリスト教に接した人が堕落すると、その穢れぶりははなはだしいと言われる。

 

ペテロの第二の手紙 2:20-22 わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。

21 義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。

22 ことわざに、「犬は、自分の吐いた物のところへ戻って来る」また、「豚は、体を洗って、また、泥の中を転げ回る」と言われているとおりのことが彼らの身に起こっているのです。 (JNICV)

 

マタイによる福音書 12:43-45 「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。

44 それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。

45 そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」 (JNICV)

 

それは実に恐ろしいことである。見苦しいことである。見るに耐えないことである。救いは人間が救いを求める心が起こることから始まる。「求める」心が沸き起こるようになること、すでにそこから神の業が始まるのだ。神の絶対恩恵による救いの業は神の発心で、人間が「救いを求める」気を起こすように働きかけるところから始まる。救いは神の発心による主権の発動で、人間の心のうちに「救いを求める」気持ちが起こることに始まり、そして神の救いの労苦の業でついに十字架に直面させられて罪の赦しの絶対恩恵にあずからせられる。神にのみ栄光あれ。

 

2001.7.20 高橋照男

 

 

 

神の絶対恩恵による「贖罪」の救い

 

神の絶対的な恩恵による罪からの救いは、人間の犯したどんなに深い醜い罪をも清めて赦してくれる。

躾や教育では罪を犯さないような人間になることはできない。人間的ないかなる手段方法でも罪を犯さないようにはならない。つまり人間的な手段努力では人間は良くなれない。律法(日本の場合に即して言えば道徳)を守ることで人間が良くなることはない。クリスチャンの人生といえども「魔がさして」いつか罪の深みに陥る。そのような場合、ただ神の側からの絶対的な救いの光でのみ人間は清められ、救いにあずかれる。だから教会組織や制度も人を救わない。制度教会に属していたからとて救われるわけではない。洗礼というセレモニーを行ったからとて救われるわけではない。教育や躾は人を救わない。神の光が差し込むときにのみ人間は救われる。その不思議な生まれ変わりの経験で人間は良くなる。人間の側の努力では救われない。人間的な努力の総ては救いに無力である。ただ神の光、神からの絶対的な救いの手のみが人を井戸の底から救い出すことができる。

 

ルカによる福音書 14:5 そして、言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」 (JNICV)

 

パウロはこの救いの原理を宣教したのだ。救いに対する人間の側のどんな努力も役立たない。パウロはそれを「律法を守ることによっては救われない」と言った。神ご自身が井戸の底から人間を引き上げてくださるのだ。これがわかればどんな人にも救いが行き渡る可能性の地平の広がりが見えてくる。世界が明るくなる。パウロの宣教のバネはここにあった。曙の光が東から西にサッと走るように、どんな人にも、どんなに堕落してしまった人にでも、どんなに深い罪を犯してしまった人にでも、どんなに醜い恥ずかしいことをしてしまった人にでも、十字架の贖罪の救いの光は及ぶのだ。失敗の人生が贖われる。否、失敗の人生の方が来世への準備として有効になる。自分の犯した罪に気が付き頭を抱えて懊悩するとき、己が身の汚れを知って身体を掻きむしるとき、大自然も父母も救いに役立たないと知って泣く時、天から一条の救いの光が差し込んでくる。十字架の光である。実在である。不思議である。これなくして人生は淋しい、苦しい、空しい。

 

2001.7.16 高橋照男

 

 

 

O君さようなら「また会う日まで」

 

浦和に在住の中学生のときからの大親友O君が召された。

彼の死顔は苦痛の様相を示していた。今まで何度も葬儀をしてそのたびに棺の中の死顔に接したとき、大抵は安らかな顔に接することが多かったが、O君のように苦しんだ顔をしているのを見るのははじめてであった。一瞬暗然となった。

彼とは浦和において中学生のときに音楽を通じて友人となり、下校時間を過ぎても音楽室の電気を消して真っ暗な中でレコードを聴いた。コンサートに行った。高校生になり彼も私もキリスト教信仰の道に進んだ。彼は共助会に私は無教会に。お互いの結婚式に友人として出席。しかし彼は人生の真昼時に「魔がさして」過ちを犯し、それからは不遇の後半生であった。世の中から追われ、疎まれた。晩年に浦和の彼の家が古くなったので、設計して数年前に完成。CD4000枚と大きなオーディオ装置を収納する音楽室に力を入れた。故郷に建築を設計するのは非常な喜びであった。彼はその音楽室で急性心不全で倒れた。56歳。早かった。私と順序が逆であった。

 彼の遺骸の前に座ると、わたしはしばし彼との思い出が走馬灯のように浮かんだ。そして思った。晩年にもう少し「神の絶対恩恵」について語り合っておけばよかった、と。たしかに私は彼に対して満足の家を設計した。しかしそれで彼は本当に霊魂が安らいだかというとそうではなかった。彼の苦しそうな死顔がそれを証明していた。人は幸福というものを求めてあらゆるものを追求する。知識・学問、学歴、職場、天職、生きがい、喜び、地位、富、経済的安定、異性の愛、恋愛、性、結婚、家庭、子供の成長、家庭団欒、住まい、健康、長寿、などなど。しかしこれら「地上の幸福の形」(これはイエスに言わせれば「異邦人の切にもとめるもの」・・・マタイ6:32・・・である。)では真の安らぎは得られない。身体と心の安らぎは得られるが、霊魂の平安は得られない。罪の赦しの平安は得られない。結婚というものも身体と心の平安はあっても霊魂の救いには役立たない。これら「地上の幸福の形」は人間をついに罪の苦しみから救ってくれない。わたしは彼のために地上の「快適な住まい」を設計した。しかしそれでは彼には霊魂の平安はこなかった。棺のなかの彼の苦しそうな顔を見てそれが分かった。O君は人生の真昼時に「魔がさして」過ちを犯し、その事件のために不遇になった。 その亡骸(なきがら)を前にして私はしまったと思った。「そうだ、神の絶対恩恵――――どんな深い罪を犯したとしても神の絶対的な恩恵で救われ、神に受け入れられること――――。これこそ彼が真に安らげる場所だったのだ。」それなのに私は彼の過ちによる苦しみを知りながら、贖罪による安らぎの実在を音楽のことを熱心に語り合ったほどには語り合わなかった。十字架の贖罪に平安の場所があることを確認し合わなかった。それを切り出せなかった。O君にとってはそれが本当に「快適な住まい」だったのだが。・・・・・亡骸の前にへたと座りそのことを悔いた。ゴメンO君、私は本当に大切な「住まい」のことを君と話し合わなかった。気まずくて切り出せなかった。怠慢だった。終末のとき、神はわたしのこの怠慢を赦してくださるだろうか。O君は赦してくれるだろうか。人は「地上の幸福の形」を失うときに初めて本当の安らぎはどこにあるのかということを探し求める。それを語り合うチャンスがあったのにわたしはそれを逃した。

 夫人に依頼されて司った葬儀の式辞では音楽が好きだった彼のために賛美歌の解説をした。

 

312番

 世の友我らを捨て去るときも、祈りに答えていたわりたまわん。

 

39番

 日くれて四方(よも)はくらくわがたま(魂)はいとさびし、よるべなき身のたよる、主よともに宿りませ。

 みさかえにさむるまで、主よともに宿りませ。

 

320番

 うつし世をはなれて 天がける日きたらばいよよ近くみもとにゆき主のみかおを仰ぎ見ん。

 

 彼に可愛がられた末娘(高校3年)のピアノ発表会が今年の9月に予定されていたが、彼はそれを聴くことなく逝った。そこで献花の時にはその時に演奏するショパンの幻想即興曲を彼女が弾いた。皆が泣いた。O君聞こえたか?。棺の蓋を閉じるとき、その末娘は人目をはばかって影で泣いていた。私は思わず肩を抱いた。

 O君さようなら。「また会う日まで」。わたしも間もなく行きます。もうすぐです。そこは神の絶対恩恵で罪が贖われ、罪の悩みや苦しみがなく永遠の命の喜びです。わたしの怠慢も赦してもらいます。イエスの復活は歴史的事実でした。それは来世実在の希望です。人間はイエスの十字架の贖罪の故に地上の生涯のどんな過ちや罪でも赦され清められるのです。復活がその証拠です。わたしは残る生涯の一日一日を大切にしてこの絶対恩恵の真理を証していきます。これがO君に対する私の供養です。

 

神はどんなに深い罪を犯したとしても絶対恩恵でそれをことごとく赦して受け入れてくださる。イエスの十字架の代償で罪を赦してくださる。この事実なくして人生は絶望。

 

2001.7.9      高橋照男

 

 

 

 

 

「贖罪」はある日胸のうちに啓示される

 

神による贖罪の真理は人生のある日に神の側からの働きかけで「スッと」胸に示される。それまで耳で(鼓膜の振動を通じて)聞いていたことがその日自分にとってのことになる。そのとき人間は罪の何たるか、贖罪の救いの何たるかがわかりそれで神の実在がわかる。この体験はパウロの体験でもあった。

 

コリント人への第一の手紙 15:3-4まえにわたしが(福音の)一番大切な事としてあなた達に伝えたのは、わたし自身(エルサレム集会から)受けついだのであるが、キリストが聖書(の預言)どおりにわたし達の罪のために死なれたこと、"04葬られたこと、聖書どおりに三日目に復活しておられること、

 

ガラテヤ人への手紙 1:15-16 ところが、母の胎内にある時からわたしを聖別し、み恵みをもってわたしをお召しになったかたが、

16 異邦人の間に宣べ伝えさせるために、御子をわたしの内に啓示して下さった時、わたしは直ちに、血肉に相談もせず、 (JCV)

 

その後2000年、キリスト教が分かるというのはこのような形で分かるのであった。救いは神の啓示によって各人の胸に示される。この場合、まず「耳で聞いていたこと」というのが大切で、福音の真理は歴史伝承の上に立っている。

 

ローマ人への手紙 10:14-15 しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。

15 つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。 (JCV)

 

神の救いは十字架と復活という歴史的事実で保証されている。それはあたかも歴史という紙に印鑑を押されているようなものである。「目に見えた」ものである。その点仏教の悟りとは違う。昨年妻と京都大原三千院に行った時のこと「阿弥陀如来像」の前で案内の僧侶に「阿弥陀様は実在か」と尋ねたら「このお方は実在ではない。歴史上に現れなかった。手で触ることはできない」という返事であった。そのとき私は急に淋しくなった。と同時にイエスは歴史的に実在であり手で触れたお方であることを思い起こして安心した。

 

ヨハネの第一の手紙 1:1[塚本訳](世の)始めから(すでに)おられたもの、それはわたし達が(この耳)で聞いたもの、自分の目で見たもの、直観しまた自分の手でさわったもの、(すなわち)命の言葉について、・・

 

神による救いは歴史的に確かであり、保証されている。その情報は信仰告白と共に2000年間連鎖してきた。「墓は空であった」「イエスは有体的に復活した」。「その意味は贖罪であった(これが信仰告白)」その信仰告白伝承は連鎖してこの私にまで到達した。贖罪の認識、開眼、その認識の伝承が2000年間「信仰告白」の形で連鎖してきた。これが教会の本質。音楽では「クレドー」である。

 

2001.6.26 高橋照男

 

 

 

 

人生は出会いで決まる。神の贖罪との出会い。

 

人生は出会いで決まる。人が生まれて初めて出会うのは母である。次に父と出会う。次が先生である。その次は友人、次が伴侶、そして最後に神と出会う。「人生は神に帰ることによって始まり、そして終わる」

だから自分の顔が神に向くように仕向けてくれる人との出会いが大切である。ダンテの「神曲」もゲーテの「ファウスト」も神の贖罪愛への出会いの旅の物語である。ところが最近の教師は神を指差さない。何を指し示すかというと「地上の物質的繁栄と健康の発展」である。これでは若者に真の生きがいを与えない。若者が生きがいを見出せずに悩んでいる。人間は物質的(健康)の繁栄では真に満足がいかない事の証明である。今の青少年は何事にも一生懸命になれないのである。生きがいを模索している。こんなとき強烈なカリスマ人物が出現すると空白の心をもった青少年はそれに没入する。そこに生きがいを見出すからである。オウム真理教や新興宗教のたぐいに流れ込むのはみなこのパターンである。ヒトラーにあのドイツ人がひきつけられたのも同じである。日本の現状も似ている。若者は高貴な確たる人生観を持てないでいる。また最近の若者の異性の友達というのも相手に神を指し示さない。自分達二人だけの愛や楽しみや幸福の追求を求める。しかしそれで満足するほど人間は低級にはできていない。その愛はしばらくすると冷えるようになっている。当然である。満足がいかないのは人生においてそれは最高のものではないことの証明である。人間同士の愛やその結果としての結婚は幸福ではない。現代の若者達にあたかもそれが最高の喜びで幸福であると煽動している人物達は禍である。彼らは地獄に落ちなければならない。

 

ルカによる福音書 17:1-4 イエスは弟子たちに言われた、「罪の誘惑が来ることは避けられない。しかし、それをきたらせる者は、わざわいである。

2 これらの小さい者のひとりを罪に誘惑するよりは、むしろ、ひきうすを首にかけられて海に投げ入れられた方が、ましである。

3 あなたがたは、自分で注意していなさい。もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい。

4 もしあなたに対して一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい」。 (JCV)

 

2001.6.25 高橋照男

 

 

神は「贖罪」で私を受け入れてくださる

 

人はみな自分を受け入れてくれる人のところに行く。わたしは勤務先を2度変わったが、いずれも私を認めて受け入れて招いてくれたので変わったのである。居心地のよいところに移ったのである。無条件に自分をこのままま認めてくれる人がいるところに行ったのである。自分を愛してくれる人のところに行ったのである。人間はどこに棲むのが幸福かというと自分をそっくりこのまま認めてくれる人のところにいるのが居心地が良いわけである。神は我々を愛して受け入れてくれる。私の存在を底抜けに愛してくれる。99匹の健康な羊を残してでも一匹の迷った羊の私を探しだして連れ戻してくれる。(西洋絵画にイエスが危険をおかして深い危険な谷を降りて羊を引き上げようとする姿を描いたものがある)そして肩に乗せて戻ってくる。私がローマのカタコンベに言ったときこの「良い羊飼い」の絵が壁に描かれていたのを見た。神は私を創造したが故に滅びることを惜しみ最後の最後まで諦めないで救出を試みる。

 

ルカによる福音書 15:4-7 「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。そのー匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなったー匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。

5 そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、

6 家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。

7 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。  (JCV)

 

さて帰ってきた羊を神は洗う。(ここでは悔い改めという言葉で表現されている)。泥のままでは家に入れられない。ルカ福音書の放蕩息子の譬話では帰ってきた息子に父親は一番上等な着物を着せたという。これが十字架の贖罪の意味であることはわかるが、イエスはそれを贖罪とか血で罪を洗うなどという「神学用語」を使わずに、最上の着物を着せたというまことに万国(どんな民族)に共通のわかる言葉で説いた。さすが神の子イエス。パウロとは格が違う。

 

ルカによる福音書 15:22 しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。 (JCV)

 

ところで、なぜイエスは神は人間を泥だらけのままで受け入れるといわなかったのか。むずかしい「悔い改め」(7節。10節も同じ!)という言葉を使ったのか。

人間は罪のままでは神のもとに戻れないのである。だから神が自ら最上の着物を着せて罪の醜い汚い体が見えないようにしてくださるのだ。これを嫌っていや罪のままで受け入れて欲しいと思ったら罪の何であるかが分かっていない証拠である。仏教やゲーテや慈悲は罪の赦しを説かずに無条件に人間を受け入れるが、それでは当の人間自身は「気持ちが悪くて」しょうがないのだ。神の真の愛は人間の罪を洗い清めて今生まれた赤ん坊のように愛してくれるのだ。難解なローマ書3章25節の「宥めの供え物」は神自らが我々のために宥めの供え物としてイエスを殺したという。イエスが進んで宥めの供え物になったのではなく、神が、神自身が宥めの供え物を用意したというところに深い意味がある。

 

ローマ人への手紙 3:25[塚本訳]すなわち神は御自分の義を示すために、宥めの供え物としてキリストを提供された。これはキリストの血でなされたものであり、(人は)信仰によ(ってこの恩恵にあずか)るのである。このことは・・神が(長いあいだ)忍耐をもって過ぎし日に犯した罪を罰せずにおられたので・・"

 

最上の着物も父が用意したのである。人間のほうが着飾ってこなかった!!.。神が着せた。罪を論じないで受け入れてくれる人は罪の何であるかが分からず、結果的に人を真に愛さないことになる。泥を泥のままにしておく。それは単なる妥協である。それは結果的に人を真に「生かさない」。人間を罪のままにほおリ込んだままにしておく。それは目の見えない案内人である。

 

マタイによる福音書 15:14[塚本訳]あの人たちを放っておけ。盲人の手引をする盲人だ。盲人が盲人の手引をすれば、二人とも穴に落ちよう。」"

 

真に人を愛するときは「NO!」と言う言葉が出る。「NO!」と言わないのは相手が自分に関係のないどうなってもよい「他人」のときである。それはその人を真に心から愛していない証拠である。「まあそれも、結構なことではないか」と言ってことを荒たげない。しかしそれで人はよくならない。「Good Teachers Cut」という。良い教師は切り裂く。それを先生らしからずと文句を言う人は神は人を罪の故に殺すことを考えなければならない。私は「慈悲」の救いではないキリスト教の「贖罪」の救いの道に入れられた。わたしは仏教のことを良く知らない。しかし考えて見ればこれは「狭き門」であった。人間は本当は「悔い改め」なしに「贖罪」なしにこのまま救われたいものだと思うのである。それは痛いこと、恥なことだからである。しかしイエスの父なる神は自ら備えた「宥めの供え物」(これが実は大きな慈悲なのだが)の故に努力なしに、つまり備えられた最上の着物の故に努力なしに生まれ変わらせて下さるのだ。

某死刑囚(獄中で回心)が死刑台に上るとき、短く祈りを捧げ、看守や周囲の人に深くお礼を述べて「これから父の御許(みもと)にまいります」と言って階段を上っていったという。こういうとき一般に家族の見送りはない。国法は彼を断罪し、彼を受け入れなかったが、父なる神はイエスの血で彼を赦して受け入れた。彼の人生は短かったが、神の救いを知ったが故に幸いな人生であった。彼は真に居心地の良いところへ行ったのだ。人間健康で長生き(たかが80年!)しても贖罪の愛の真理をつかまなかったら意味はない。これを「単に馬齢を重ねる」という。

 

2001.6.23        高橋照男

 

 

同棲と不倫はなぜいけないのか逃れの岩なる十字架

 

同棲とか不倫はなぜいけないのか。これ今日最重要の課題と質問である。

これに対しキリスト教会もはっきりした見解を示せないでいるという話を聞く。

日本の(世界の)キリスト教はこの点で背骨を抜かれているのかもしれない。

このことに関して聖書は文字そのもので禁じているところはない。聖書に「自殺」はいけないと禁じている文字がないのと似ている。これらに限らず現代の諸悪は、それがいちいち聖書に文字で書かれているかどうかということで判断はできない。聖書を深く読みその精神で読むと聖書の文字に現れていなくても「同棲、不倫、自殺」は神の前によくないことがわかる。

ではその「同棲と不倫」はなぜいけないのか、他人に迷惑をかける姦淫(出エジプト2012,17)とは違うから良いのではないか、(本人同士のことだから)というまことに真摯な問いが昔も今も青少年からあがる。これに対してわれわれはその質問をいなさずに正面から応答しなければならない。

同棲と不倫(離婚はその結果)はなぜいけないのかの理由は単純である。それは神を忘れさせるからである。神よりも異性(女、男)のほうが面白いと思うからである。異性に惹かれ(仕え)て神を忘れ、その結果として神を憎み、神に反抗するようになるからである。これがいけない理由である。その本質である。それは不思議と両立できないようになっている。つまり同棲や不倫を行いつつ神の前には出られないのがその現実の姿である。この場合、神を捨てれば悩みはなくなる。しかし神なきこの世にも神の国の影があるので(これがバルト、ブルンナーの神学論争といわれていると聞くが、神学論争ではなく現実として)「うしろめたさ」や「良心の咎め」(ローマ2:15)で苦しみが襲いかかり「平安」「安らぎ」がなくなるのが事実である。

同棲と不倫はなぜいけないかの理由を聖書の文字に求めず聖書の精神にその根拠を求めればそれは「神と富とに仕えることはできない」(マタイ624)というイエスの言葉になる。つまり人間は同時に二人の主人に使えることはできないというのである。聖書がここでいう富とはマモンという別の神のことである。富そのものは悪くないのだが、人間は富(マモン)という神に仕えて金儲けに一生懸命になるとそっちの方が面白くなって真の神を忘れるのである。その果ては真の神の存在が邪魔になり憎むようになる。イエスはそれを言うのだ。

 

マタイによる福音書 6:24 [塚本訳] (わたし達の心は天か地かに引かれる。)だれも(同時に)二人の主人に仕えることは出来ない。こちらを憎んであちらを愛するか、こちらに親しんであちらを疎んじるか、どちらかである。あなた達は神と富とに仕えることは出来ない。"

「不倫や同棲」がなぜいけないのはこのイエスの言葉から推し量ることができるのである。なぜならここに言われている「こちらを憎んであちらを愛するか、こちらに親しんであちらを疎んじるか、どちらかである。」という部分が似ているのである。

つまり「同棲や不倫」を行っていると不思議に神やその戒めを「憎む」ようになるのである。それは神やその戒めの存在が心に邪魔になり良心の咎めに苛(さいな)まれるから真の神を「憎む」のである。その結果どのような行動に出るかというと「顔を隠し」「離脱」「拒否」、神を離れるという歩みになる。人前に堂々と出られなくなる。これが我々生きとし生けるものの深い悩みである。パウロはロマ書でそれを言うのである。「噫(ああ)われ悩める人なるかな、この死の体より我を救わん者は誰ぞ。」と。(ローマ7:24文語訳)

 

創世記 3:8-10彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。 9 主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」

10 彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。 (JCV)

 

さて人間は誰もこの神の執拗な罪の追求から逃れることはできない。しかし逃れ場所がある。その逃れの岩はイエスの十字架である。そこで我々はイエスにかくまわれて安らうことができる。イエスは十字架という岩の裂け目に我々をかくまって神の怒りの目から逃れさせてくれるのだ。人間は人間(鼻から息の出入りするもの・・イザヤ2:22)のもとに逃れても安らえない。時代風潮や同類者の思想に逃れても無理。真の平安は得られない。父母も大自然もましてや世間の風潮も彼を救うことはできない。ただイエスの流された血の贖罪でのみ「良心の咎め」から救われて我々は平安になれる。

 

出エジプト記 33:22 わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。 (JNICV)

 

イザヤ書 2:21主が立って地を揺り動かされるとき、岩の洞窟、崖の裂け目に入るがよい、主の恐るべき御顔と、威光の輝きとを避けて。(JNICV)

 

賛美歌262番

 十字架のもとぞ いとやすけき   神の義と愛の  あえるところ

 あらしふく時の いわおのかげ   荒れ野のなかなる わが隠れ家

2001.6.18 高橋照男

 

 

「良心」の咎めと「うしろめたさ」は罪の証拠、逃れの岩は十字架

時代の風潮によって「同棲や不倫」が罪でなくなるということはない。あると思ったら大間違いである。

そのことが罪であるかないかの判断は時代の風潮に照らし合わせてみて判断することはできない。では何が罪の判断基準かというとそれは「良心」である。聖書にはなんと「良心」という不思議な、日本人になじみのある言葉がある。この「良心」があるので罪が咎められ、うしろめたさを引き起こすのである。それがあるから罪を犯しているといつまでも心に「平安」がもてないのである。日夜良心に攻められるのである。「赤信号みんなで渡れば怖くない」はこと倫理的問題、「良心の問題」に関してはあてはまらない。神は人間の罪を一般論でなく個人的に示して教えてくれるのだ。「うしろめたさ」と「良心の咎め」いう警告を通して。「不倫や同棲」がいけないことであることの聖書的根拠はそれが神を忘れさせるからである。

 

ローマ人への手紙 2:14-16

すなわち、律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。

15 彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである。

16 そして、これらのことは、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日に、明らかにされるであろう。 (JCV)

 

人間にはこの「良心」が備わっているのでキリスト教徒でなくてもこの良心によって「悪いことの基準」が世界的に一致したものとして存在する。これを倫理的世界秩序という。ところでこの倫理の基準は時代と風潮によって変わってくるかというとどうもそうではなさそうである。神は良心という小さなささやきの声を通して個人に働きかけ、それが何が悪いことであるかを示すのである。それを拒否するとき人間は「隠れる」と言う行動をする。それは「うしろめたさ」があるからである。

アダムは罪を犯したとき(神との約束を破ったとき)隠れたのである。顔を隠したのである。神の前に出られなくなったのである。そのとき神はアダムに「あなたはどこにいるのか」と声をかける。

 

創世記 3:3-11 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。

4 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。

5 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。

6 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。

7 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。

8 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した

9 主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」

10 彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。

11 神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。 (JCV)

 

出エジプト記 3:6 神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆っ(JNICV)

 

人間に「良心」がある限り、神はそれを通して人間を最後まで追っかけてその人間を攻め,咎め、苦しめ続ける。人間が一致して共闘して(知識人もともに!)その良心の声を聞くまいとして反抗し、逃げても無駄である。それは個人的に深い悔い改めをしない限り一生「平安」が与えられない。神に罪を指摘されるとき、「こんなことまでいけないことだったのか」と我々は思う。神は兎の毛ほどの罪をも嫌う。「こんなことぐらい」よいではないか、誰にも迷惑をかけていないと思っていても、問題はそれを神が認め、赦すかどうかなのだ。もし神が赦さないことであったら、良心にさいなまれ、咎められ、攻められ続けるのである。それは「この世地獄」である。どこに逃れても隠れても苦しむのである。酒も享楽もこれを癒すことはできない。

 

詩篇 139:1-10 指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。主よ、あなたはわたしを極め、私を知っておられる。

2 座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる

3 歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。

4 わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる。

5 前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上に置いてくださる。

6 その驚くべき知識はわたしを越え、あまりにも高くて到達できない。

7 どこに行けばあなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば御顔を避けることができよう

8 天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも見よ、あなたはそこにいます。

9 曙の翼を駆って海の中に行き着こうとも

10 あなたはそこにもいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる。 (JNICV)

 

さて人間は誰もこの神の執拗な罪の追求から逃れることはできない。しかし逃れ場所がある。その逃れの岩はイエスの十字架である。そこで我々はイエスにかくまわれて安らうことができる。イエスは十字架という岩の裂け目にかくまって神の怒りの目から逃れさせてくれるのだ.人間は人間(鼻から息の出入りするもの)のもとに逃れても安らえない。時代風潮や同類者の思想に逃れても無理。真の平安は得られない。

 

出エジプト記 33:22 わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。 (JNICV)

 

イザヤ書 2:21-22 主が立って地を揺り動かされるとき、岩の洞窟、崖の裂け目に入るがよい、主の恐るべき御顔と、威光の輝きとを避けて

22 人間に頼るのをやめよ鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか

(JNICV)

 

賛美歌262番

 十字架のもとぞ いとやすけき

 神の義と愛の  あえるところ

 あらしふく時の いわおのかげ

 荒れ野のなかなる わが隠れ家

 

 

 

2001.6.17高橋照男

 

神の怒り

神は怒るか。「怒ってはいけない」「裁いてはいけない」「殺してはいけない」というイエスの父なる神は、実は今でも「怒り」「裁き」「殺す」お方である。その怒りから逃れる道として贖罪の救いの道を開きたもうた。だから贖罪とはその前提として神の「怒り、裁き、殺人」が厳然としてあるのだ。その前提の恐ろしさなくして贖罪はない。またわからない。「怒り、裁き、殺人」は神らしくないといって神を批判するヒューマニストや、慈悲論者には罪の何たるかがわかっておらず、ついに贖罪がわからない。それは自分の義を立てる人間主義、ヒューマニズムなのである。キリスト教はヒューマニズムではない。神は罪を罰するために人を殺すのだ。その怒りから逃れるために救いの道を設けられたが、それも神の業である。かくして全人類が子羊の血によって贖われて救われる。それなくして「全人類救済」の教理だけでは人間は救われない。  2001.6.13

 

 

終末を望む

この世の苦難に会い、どうしようもなくなると終末への望みが湧いてくる。いや無理にそこに追い込まれるのだ。初代キリスト教信者達の祈りはそこにあった。この世の罪の力に嘆き、万策尽きるとき、ついに終末再臨の期待に追い込まれたのだ。マラナサ(主よ来たりませ)。その終末の審判のとき不義の者達が「歯軋り」するのを見るのはまた忍びないものである。といって贖罪も救いもなくただ「万人が救済される」ということでもなさそうである。終末は人類全体が子羊イエスの血で罪が洗い清められる日であると信ずる。

 

ヨハネの黙示録 1:3[塚本訳]幸福なる哉、この預言の言を朗読する人、及び(それを)聞いて、その中に書かれてある(一切の)ことを守る人々!(この言の成就する)時が(はや既に)近いからである。"

 

ヨハネの黙示録 1:18 また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。 (JCV)

 

ヨハネの黙示録 2:9 わたしは、あなたの苦難や、貧しさを知っている(しかし実際は、あなたは富んでいるのだ)。また、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくてサタンの会堂に属する者たちにそしられていることも、わたしは知っている。 (JCV)

 

ヨハネの黙示録 2:21-23 わたしは、この女に悔い改めるおりを与えたが、悔い改めてその不品行をやめようとはしない。

22 見よ、わたしはこの女を病の床に投げ入れる。この女と姦淫する者をも、悔い改めて彼女のわざから離れなければ、大きな患難の中に投げ入れる。

23 また、この女の子供たちをも打ち殺そう。こうしてすべての教会は、わたしが人の心の奥底までも探り知る者であることを悟るであろう。そしてわたしは、あなたがたひとりびとりのわざに応じて報いよう。

(JCV)

 

ヨハネの黙示録 3:20 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。

(JCV)

 

ヨハネの黙示録 5:4-5 巻物を開いてそれを見るのにふさわしい者が見当らないので、わたしは激しく泣いていた。

5 すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。 (JCV)

 

ヨハネの黙示録 5:11-13 さらに見ていると、御座と生き物と長老たちとのまわりに、多くの御使たちの声が上がるのを聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍もあって、

12 大声で叫んでいた、「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」。

13 またわたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」。 (JCV)

 

ヨハネの黙示録 6:10 彼らは大声で叫んで言った、「聖なる、まことなる主よ。いつまであなたは、さばくことをなさらず、また地に住む者に対して、わたしたちの血の報復をなさらないのですか」。 (JCV)

 

ヨハネの黙示録 7:10-14 大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」。

11 御使たちはみな、御座と長老たちと四つの生き物とのまわりに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を拝して言った、

12 「アァメン、さんび、栄光、知恵、感謝、ほまれ、力、勢いが、世々限りなく、われらの神にあるように、アァメン」。

13 長老たちのひとりが、わたしにむかって言った、「この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。また、どこからきたのか」。

14 わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。すると、彼はわたしに言った、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。

(JCV)

 

ヨハネの黙示録 7:15-17 それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。

16 彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。

17 御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。 (JCV)

 

ヨハネの黙示録 14:13 またわたしは、天からの声がこう言うのを聞いた、「書きしるせ、『今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである』」。御霊も言う、「しかり、彼らはその労苦を解かれて休み、そのわざは彼らについていく」。 (JCV)

 

ヨハネの黙示録 17:1-2 それから、七つの鉢を持つ七人の御使のひとりがきて、わたしに語って言った、「さあ、きなさい。多くの水の上にすわっている大淫婦に対するさばきを、見せよう。

2 地の王たちはこの女と姦淫を行い、地に住む人々はこの女の姦淫のぶどう酒に酔いしれている」。 (JCV)

 

ヨハネの黙示録 17:5-6 その額には、一つの名がしるされていた。それは奥義であって、「大いなるバビロン、淫婦どもと地の憎むべきものらとの母」というのであった。

6 わたしは、この女が聖徒の血とイエスの証人の血に酔いしれているのを見た。この女を見た時、わたしは非常に驚きあやしんだ。 (JCV)

 

ヨハネの黙示録 18:8-10 それゆえ、さまざまの災害が、死と悲しみとききんとが、一日のうちに彼女を襲い、そして、彼女は火で焼かれてしまう。彼女をさばく主なる神は、力強いかたなのである。

9 彼女と姦淫を行い、ぜいたくをほしいままにしていた地の王たちは、彼女が焼かれる火の煙を見て、彼女のために胸を打って泣き悲しみ、

10 彼女の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえに対するさばきは、一瞬にしてきた』。 (JCV)

 

ヨハネの黙示録 21:3-6 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、

4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。

5 すると、御座にいますかたが言われた、「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。また言われた、「書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである」。

6 そして、わたしに仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。 (JCV)

 

ヨハネの黙示録 21:22-24 わたしは、この都の中には聖所を見なかった。全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。

23 都は、日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。

24 諸国民は都の光の中を歩き、地の王たちは、自分たちの光栄をそこに携えて来る。 (JCV)

 

ヨハネの黙示録 22:1-5 御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、

2 都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。

3 のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、

4 御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。

5 夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。 (JCV)

 

ヨハネの黙示録 22:7 「見よ、わたしは、すぐに来る。この書の預言の言葉を守る者は、さいわいである」。

(JCV)

 

ヨハネの黙示録 22:11-13 不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」。

12 「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。

13 わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。

(JCV)

 

ヨハネの黙示録 22:14-17 いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。

15 犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。

16 わたしイエスは、使をつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である」。

17 御霊も花嫁も共に言った、「きたりませ」。また、聞く者も「きたりませ」と言いなさい。かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい。 (JCV)

 

ヨハネの黙示録 22:20-21 これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。

21 主イエスの恵みが、一同の者と共にあるように。 (JCV)

 

2001.6.13 高橋照男

 

 

 

恋愛と神の愛と贖罪愛

 

恋愛と神の愛とは同じ愛であっても内容が違う。恋愛を「汝の隣人を愛せ」という神の愛の実践と混同するのは誤りである。恋愛は相手の愛を求めようとするのがその本質である。相手に「愛されたい」と願うのである。であるから第三者が入り込むと排他的(それはしばしば動物的攻撃的反撃的に)になる。それは動物的,本能的、エゴイズムの世界の出来事である。求める愛である。奪う愛である。同情からの愛は自分の愛の感情を(聖書的に)意義づける。自分はひとかどの尊いことをしているのだと。同情てき感情からの行為は自分を上に置いているのであって決して真の愛ではないことは福祉行政の姿勢のあり方でよく言われることである。

それに比べて新約聖書に説かれている神の愛は「赦す愛」「与える愛」である。この両者を混同したり、あるいは区別がつかないからエクレシアの中でも「ゴタゴタ」する。恋の感情や同情的福祉行為は聖書が説く「隣人を愛す」る愛とは全く違う。恋愛の果ての心中は相手のために死ぬのではなくて「自分達の欲望が社会的に満たされないための甘えとしての抗議」がその動機である。そしてその死の意義を自分達に反対する人間に何かを訴えようとするのがその特徴である。何かを訴えたい、抗議したいという甘えの気持ちがそこに見られる。しかしそんなことで世に警告はできない。これは「その友のために死ぬ。これより大いなる愛はなし」という新約聖書の愛とは異なるエゴイズムの世界の感情である。恋愛と神の愛への信仰とを取り違えている者ははやくそれに目覚めなければならない。冷めなければならない。恋愛は人を陶酔させ、自己美化させ、気を狂わせる。何を言っても耳を貸さず、恐れを知らない。盲目である。注意を冷笑する。「フン」という。自己主張の欲の貫徹のために屁理屈を並べる。

新約聖書に現れた愛は一人の異性に惹かれて愛する愛(それはそもそも愛ではなく好き嫌いという生理的感情なのだ)とは異なるのである。神はわれわれがまだ罪人(敵)であったときに愛してくださった。これが贖罪愛の本質である。恋愛感情は相手を「好き」と思うときに湧き上がる感情であって、それは心の癒着である。「好き」という感情に捕らわれの奴隷なのだ。「あなたを愛しています」という告白は実は「あなたが好きです」ということで、あなたに捕らわれていてどうしようもなくなっていますという感情の吐露なのだ。その感情は相手が敵のときには生じない。人間の「好き」ということと神の「愛」とは違うのだ。「好き」というのはあなたに惹かれていますということなのだ。それは「神の愛」とは違う。

青少年は「愛」を求めるのが常であるが「人間の愛」を超えた本当の愛「神の愛」「永遠の愛」に出会うことを祈る者である。

間違っても「好き」にもとずく恋愛(それが人を救う同情だと混同して)を神の愛の実行だと思ってはならない。

 

ヨハネによる福音書 15:13[塚本訳]

(わたしはあなた達のために命を捨てる。)友人のために命を捨てる以上の愛はないのだ。"

 

ローマ人への手紙 5:6-10

わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。

7 正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるだろう。

8 しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。

9 わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。

10 もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。 (JCV)

 

 

ルカによる福音書 15:4-6

「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。そのー匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなったー匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。

5 そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、

6 家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。 (JCV)

2001.6.12  高橋照男

 

 

青少年に告ぐ

動物的快楽は決して人間を満足させない

 

青少年に告ぐ。動物的快楽は決して人間を満足させない。

世の中にはこれぞ人間の究極の幸福とみなされるものの宣伝が氾濫している。その中でも性欲を満足させる商品や行動が蔓延している。本や映像もそれを種にして大商売をしている。それは脳の一部の神経を麻痺させて満足させているのである。人間の動物的本能はそれに引かれて、蛾が誘蛾灯に引かれて飛び込んで死ぬように落ちていく。

ところが、ところがである。たといそれを満足し得たとしても、それで人間はなぜか心からの満足は得られない。動物的快楽の道は、かえってとりもちに足をとられた虫のように心がべたべたになり、心を不自由にする。ゴキブリがべたべたの紙に足をとられてついに死ぬように、人間も心の暗さにからまれて不自由になる。現実的には「後ろめたさ」や「良心の痛み」にさいなまれる。生活も心も暗くなる。目つきがとがって人相が悪くなる。心の痛みを癒そうとするために「酒」が欲しくなる。酒は倫理的感覚を麻痺させるからである。倫理的苦しみを一瞬(一晩)忘れさせるからである。そしてアルコール中毒。アルコール中毒の原因は「心の病」である。お決まりのコースである。

人間は動物的快楽だけで満足するようにはできていない。「霊魂」を持っているのだ。だから霊の平安と喜びの満たされるまでは休息できない。聖霊の実は「愛、喜び、平安」である。この境地を頂いて人間ははじめて人間になる。それまでは動物的満足だけの半人前である。

人間に備えられた動物的快楽を否定するのではない。それは霊魂の満足の下に位置するものである。快楽の喜びも神の手から頂く(賜る)ものなのである。それを神に離反して神より上のもの(面白いもの)と心得て追求行動している現代日本の風潮が誤りであると言いたいのである。私が言うことに不満の青少年は人生を実験してみるがよい。「動物的性欲の快楽の追求を第一とし、その倫理的苦しみを癒すための酒に溺れる生涯」を。もしそれで心が平安であると言うのなら戻ってきて教えて欲しい。「この道こそ真の幸福の道である」と。しかしながら古今東西、その道を行って「幸福でした」と言って戻ってきた人物がいない。寡聞にして知らない。姦通文学の結末は人生の滅びとなっている。あれがハッピーエンドであると逆に「売れない」のであろう。なぜであるか。人間は快楽追求の人生においてもなお倫理的感覚が残っていて「この道はまずい道」なのだと思う倫理的満足をその姦通文学に求めていて、溜飲を下げているからである。それで心のバランスをとろうとするのだ。人間にはいかなる場合も尊厳の片鱗が残っている。

 では現代の青少年はいかにしてこの「快楽追及人生」から目覚めることができるのか。また陥らずにすむことができるのか。ヒルティはそれをストア主義に求めている。それはストイックな精神主義である。これもひとつの道であろう。わたしに言わせれば「よい集団への帰属」である。私の場合は「こんなことをしていたらあの人たち(集会)の前に顔出しができない」という感情が卑猥な生活を「思いとどませる」ものである。この淫らな生活は隠せない。いつか白日のもとにさらされるという恐れである。それから良い意味での英雄主義、貴族主義である。それは「この私はそんな堕落したことをする身分ではないのだ」と言う誇りである。このわたしはあのような汚い人間どもとは一緒にいられないのだというプライドである。これは一見パリサイ主義のように見えるが、この世の「人間ども」の誘惑を退けるためには有効である。俺はあいつらとは身分と人種が違うのだ。俺に声をかけるな、近づくなという誇りである。それからわが国に即して言えば「健全常識」である。「みっともない」という感情は歯止めとして有効である。ところが性の快楽という誘蛾灯に飛び込む愚かな「蛾」はそれがみっともないと思わないから困るのだ。その蛾はあとでみっともない姿になるのも知らないで。・・・・・しかし人間は総て神の前でみっともない状態であるのだ。神はそのみっともない人生をイエスの血で贖って清い人物にしてくれるのだ。ありがたいのは贖罪の福音である。どんな罪でもきれいに洗ってくださり、過去を清算して下さる。

 

2001.6.5  高橋照男

 

 

負わされる十字架には潰されよ。「贖罪」死の精神

 

マタイによる福音書 16:24-25[塚本訳]

24あとでイエスは弟子たちに言われた、「だれでも、わたしについて来ようと思う者は、(まず)己れをすてて、自分の十字架を負い、それからわたしに従え。

25(十字架を避けてこの世の)命を救おうと思う者は(永遠の)命を失い、わたしのために(この世の)命を失う者は、(永遠の)命を得るのだから。"

 

十字架は負うものではなく負わされるものである。本能や理想の人生に反して恥の人生、涙の人生、思わざる事件、みじめな目に合わされて負わされるものである。「自分の十字架を負い、それからわたしに従え」というその十字架は負おうとして負えるものではない。十字架は無理に負わされるのである。いやいやながらそれを負わされる。はねつけてもはねつけても無理に負わされる。追い込まれて負わされる。そして神に負わされる自分の(その人独特の、神からの個人的な、神がねらいをつけた人のための)十字架は重く重く、負いきれるものではない。潰される。そしてその人生は攻撃や心労や病気などによって滅びる。そうだ、イエスさえ十字架を負いきれずに力尽きてクレネ人シモンに負ってもらったのだ。しかしその十字架が神に負わされるものならばそれに潰されても恥ではないのだ。否、潰されるとき神の義が貫徹するのだ。神の目的の業が発揮されるのだ。しかし最後には、終末にはきっと勝利するのだ。神が復讐報復するのだ。一粒の麦は死ななければそのままであるのだが、この人生潰されて死ねば神によってきっと多くの実を結ぶのだ。イエスは自分の人生が罪の世に潰されることを予感していた。それが「一粒の麦死なずば」の言葉になり、殺されて三日目に復活するという受難予告になった。

 

ヨハネによる福音書 12:24[塚本訳]

アーメン、アーメン、わたしは言う、一粒の麦は、地に落ちて死なねば、いつまでもただの一粒である。しかし死ねば、多くの実を結ぶ。(だからわたしは命をすてる。)"

ヨハネによる福音書 15:12-14

12わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。

13 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。

14 あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 (JCV)

 

マルコによる福音書 10:33-34

33「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に引きわたされる。そして彼らは死刑を宣告した上、彼を異邦人に引きわたすであろう。

34 また彼をあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺してしまう。そして彼は三日の後によみがえるであろう」。 (JCV)

 

マルコのこのイエスの受難予告は事後預言(一部の学者はそう言うが)などとは思えない。イエスは死を予感してそれが神よってなされることを思って自らを慰めたのだ。この世の重荷の心労に潰されることが十字架を負うことなのだ。しかしその重みに潰されることによって神の業が完遂する。十字架を負うとはその重みに耐えかねて潰される事なのだ。勇猛果敢な信仰によって十字架を我慢忍耐することではないのだ。「頑張って」負う事ではないのだ。右の頬を打たれたら左の頬をも出せ、敵を愛せ、一マイル行けといわれれば二マイル行け、下着を奪うものには上着をも与えてやれ(以上山上の説教、マタイ5−6章)などはそれを実行すればみな相手に征服支配されて潰される事なのだ。相手を愛して相手の救いを祈るからそのような行動になるのだ。それは命を奪われることなのだ。それがいやだと言う者は聖書は読まない方がよい。

 

マタイによる福音書 5:39-47

39しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。

40 あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。

41 もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。

42 求める者には与え、借りようとする者を断るな。

43 『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。

44 しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。

45 こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。

46 あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。

47 兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。 (JCV)

 

また、国家の命ずるところには従えとか、とか、敵に食わせよ、などと言うことはみな十字架の精神の展開である。十字架の意味を知らずして「国家の命ずるところに従え」というローマ書13章1-2節の言葉は理解できない。当然である。それは生まれつきの本能(生命保存)に反することだからである。地上王国を追求している活動家や地上の快楽を追求している姦淫者にはこの個所は矛盾であり、永久に分からない個所である。否聖書全体が分からなくなるのである。この個所は前の12章から続けて読まなければならない12章は山上の説教と同じ「愛敵」の精神が説かれている。

 

ローマ人への手紙 12:14-20

14あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。

15 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。

16 互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない。

17 だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。

18 あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。

19 愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。

20 むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。 (JCV)

 

ローマ人への手紙 13:1-2[塚本訳]

01人は皆上に立つ(国家の)官憲に服従せねばならない。神からではない官憲はなく、現存の官憲は(ことごとく)神から任命されたものであるから。

02従って官憲に反抗する者は、神の命令に違反する者である。違反する者は、自分で自分に(神の)裁きを招くであろう。(この世で罰を受けるばかりでなく、最後の日にも。)"

 

つまり12章で「愛敵」の精神を説いたパウロは「だから」と論を進めて13章に入るのである。12章と13章の間には「だから」という見えない一句が入っているのだ。それを読まないで13章の1―2節だけを切り離して読むと、「もし国家が悪いことを命じてもそれに服従すべきか」というお決まりの質問が出てくる。それに対して私は答える。山上の説教とローマ書12章の「愛敵」の教えがわかれば13章1−2節は納得できる。しかし納得できても実行ができるかどうかは別。実行ができないからと言って真理ではないと拒否するのは聖書の読み方ではない。ボンヘッファーがヒトラー暗殺計画に加わったのはよかったのか悪かったのか、国家を批判する態度の聖書的根拠をどこに求めるべきかなどと予断をもって聖書を研究する人たちにはローマ書13章1−2節の真の意味は理解できない。なぜなら12章最後の部分を読まずに13章1−2節だけを切り離して読めば、そのところは「人間はいついかなる場合も国家権力に屈服せよということなのか」という疑問が湧く。そして「ローマ書13章1−2節を文字通り実行すれば国家権力の横暴に生命や国家や土地(農地)を奪われてしまう。それでは困る」とすぐに本能と理性が猛然と反発する。しかし聖書は人間生まれつきの本能と理性が納得するように読んでは分からないものなのだ。復活も同じ。

また妻は夫に服従せよ(口語訳は「仕えなさい」)という言葉もこの愛敵の精神の観点から読まないと分からない。

 

エペソ人への手紙 5:22[塚本訳]  妻達よ、主に対するように自分の夫に服従せよ。

 

夫が自分に気に入ったことを言った時(人であるとき)にだけ服従するという姿勢を聖書は教えていない。夫(妻)は敵なのだ!。だから「敵を愛せ」なのだ。それを夫婦は動物的情愛や性格の一致が基礎であると教えている現代の風潮は誤りである。米国の離婚率は高く、まもなく日本もそうなるであると言われている。結婚の聖書的本質が真剣に教えられていない報いとしてこうなった。

 

十字架の意味を知らされていないものにローマ書13章1−2節やエペソ書5章22節のことを言うと決まって、歯向かってくる人物に出会うから悲しい。否。肉の本能(地所王国を追求する活動家や快楽を追及している姦淫者の心の目的)からはそれは当然のことなのだ。それを知らずして真面目に説こうとする方が間違っている。それは犬や豚に向かって空を飛べというほど無駄なことである。馬鹿である。イエスは言う。「聖なるものを犬にやるな。きっと歯向かって噛み付くだけである」と。

 

マタイによる福音書 7:6

 聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。 (JCV)

 

自分の命を救おうとする者(地上の国家、生命、土地の追及者や快楽追求の姦淫者)は永遠の命を失い、イエスのために地上の命を捨てる者は永遠の命を得る。という言葉も十字架の意味の延長である。

マタイによる福音書 10:34-39[塚本訳]

34地上に平和をもたらすためにわたしが来た、などと考えてはならない。平和ではない、剣を、(戦いを)もたらすために来たのである。"

35わたしは子を“その父と、娘を母と、嫁を姑と”仲違いさせるために来たのだから。

36“家族が自分の敵となろう。

37わたしよりも父や母を愛する者は、わたし(の弟子たる)に適しない。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたし(の弟子たる)に適しない。"

38また自分の十字架を取ってわたしのあとに従わない者は、わたし(の弟子たる)

に適しない。"

39(十字架を避けてこの世の)命を得る者は(永遠の)命を失い、わたしのために(この世の)命を失う者は、(永遠の)命を得るであろう。"

 

われわれクリスチャンの人生は十字架で潰されるためにある。健康で長生きで(少なくとも人並みの平均寿命ぐらいまで生きて)ボケずに生きることを目標としてはならない。負わされた十字架の下で十字架の重みに耐えかねて悩みのうちに死ぬのでよいのだ。失敗の物笑いの人生でよいのだ。イエスさえ十字架に架けられて物笑いとなったのだ。神による最後の勝利を見ずして死ぬのでよいのだ。あとは神の業だ。報復復讐は神が行う(ローマ12:19)。イエスは死んで、神によって復活させられた。勝利した。勝利の栄誉は神に帰せられるべきで、われわれに帰せられなくてもよいのだ。神は勝利する。最後の日に。そのとき神に反抗し、福音をあざ笑った者は歯軋りするのだ。しかし最後の日には地上で流した涙は神によって計画されたことが分かり、それが全員の救いに役立ったことが分かるのだ。われわれはそれを「希望」して生きるのだ。労苦は無駄に終わらない。!

 

コリント人への第一の手紙 15:58

だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。 (JCV)

 

  2001.6.3 高橋照男

 

 

 

「信ずることによって救われる」とは

「信じ込むことによって救われる」ということである

 

人は律法の行いによって救われるのではなく、「信仰によって救われる」というのがロマ書の基調であり、プロテスタントの立場である。しかしその「信仰とは何か」「信ずるとは何か」がむずかしい。「信仰によって」とか「信ずることによって」が頭だけの観念の遊戯になってしまうと空論になる。ここでその「信仰」とは何かを探求しようとして、ルター,カルビンや人間の書物を探求するところに分派分裂が起こる。このことは直接聖書に、つまりパウロやイエスに直接聴かねばならない。パウロはローマ書4章で、アブラハムが行いなくして義とされたということを説明するためにアブラハムが年老いてもまだ子供が与えられると「信じ込む」場面を持ち出す。この「信じ込む」ことが信仰によって「義とされる」ことの具体的な内容であると説明する。イエスは自分を追っかけてくる病人が「あなたならきっと治せます」という叫びか態度(心の傾向)を見た瞬間に「よろしい清まれ、(治れ)」と言って病気を治す場面が福音書の各所にある。ここにも「信じ込む」という姿勢が見られる。「からし種一粒ほどの信仰があれば」とイエスが言う。

 

マタイによる福音書 17:20

するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。 (JCV)

 

からし種一粒ほどの信仰とは「かすかな望み」と言うことである。人間の勇猛果敢な立派な熱心な長い祈りがよいのではない。人生が「めちゃくちゃ」「ずたずた」「みじめ」「恥の人生」になったとき、「望みが失せたとき」「万策尽きたとき」「嫌気がさしたとき」「放り出したくなるとき」まだ残る最後の手段としてあるいはと思って「かすかな望み」を神にかける。そうだ、祈りは本当に聞かれるのか、神の働きは実際にあるのかどうかなどわからなくても、信じられなくても無理にでも「信じ込む」「願掛け」することが信仰の内容、信ずるということの内容である。事実この僅かな望みを神にかける時「よろしい」という響きが聞こえてくるような気がして一安心するのである。ヨハネ4:43−54にある「王の役人」は死にそうな息子の回復をイエスに頼み込んだところ「かえりなさい、息子さんはなおった」という言葉を信じてかえって行った。とある。この「王の役人」の姿勢が「信じ込む」ということである。果たして家に帰ってみると息子はなおっていた。

わたしは建築が専門であるが「あなたならきっとうまく建ててくださいます」と頼み込んでくる人には力を発揮できるのである。しかし半信半疑の人にはやる気がおきない。

 

2001.5.31 高橋照男

 

 

苦難の意義、悲しみの意義、終末の期待。

 

この世には言うに言われぬ苦しみや悲しみがある。神は残酷である。愛ではない。人の心を思ってくれない。気にっているものを壊したり取り上げる。一番大切と思っているものを見苦しい形で滅ぼされる。永年の努力を泡と消してしまう。酷いやり方で。恥ずかしいみっともないやり方で、衆人に物笑いになる形で。そのとき皆は「あはー」と笑う。「高みの見物」だと言って。神よなぜいつまでも私をいじめるのですか。私の恥をすすいでください。苦難や悲しみが神の手の中にあったことを総ての人に示してください。

しかしそのときドッと神の慰めの霊が下る。イエスが肩を抱いてくださる。知っていてくださる。神様は総ての総てをご存知だ。意味がある。意味がある。救いに役立つ。そうか今までわたしは地上のもの、人間の努力というものにたおっていたのだ。主の働き、神の働き、終末の完成のみに望みと期待をかけるべきなのだ。苦難や悲しみはそのことを教えるために私に下されたのだ。この世の事業、教育、文明、運動、躾、道徳などはことごとく救いいの役に立たないのだ。ただ主の働き、神の働きのみに祈りと期待と望みをおくべきなのだ。それは一番確実で効果のあることなのだ。それが主の家であり、主の教育、主の躾、主の訓練なのだ。その認識がなく「人間の努力」にばかり頼っていた私を目覚めさせようと苦難と悲しみが襲ってきたのだ。早く終末がきて下さい。

2001.5.23 高橋照男

 

圧倒的な罪の赦しの力

 

神による罪の赦しというのは圧倒的に個人に迫ってくる実在の出来事である。個人の信仰の結果によって褒美としてくるものではなく、信仰の有無、大小にかかわらず神が一方的に許しを賜るのである。神は私達がまだ敵であったときに赦しの決断をされた。イエスの言葉と行動はすべてこのことを強調する。

 

ルカによる福音書 15:4-6

「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。そのー匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなったー匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか

5 そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、

6 家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。 (JCV)

 

ルカによる福音書 15:20-22 そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。

21 むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。

22 しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。 (JCV)

 

ローマ人への手紙 5:6-8 わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。

7 正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるだろう。

8 しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。

9 わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。

10 もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。

11 そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。 (JCV)

 

苦しみ悲しみの極限のときにまさにその苦しみがやわらげられるかのごとくに赦しの霊が振り注ぐ。人間の脳は苦しみの極限のときにアドレナリンという分泌液が出て苦しみが和らぐという。マラソンランナーがある段階でこの苦しみに遭遇するとこの脳の中にこの分泌液が出て、それが麻薬のように効いてランナーの肉体的苦痛を和らがせるという。わたしは9年前の輸尿管結石の激痛(それは人類の最大の痛みといわれる)のときモルヒネを打たれて楽になった経験がある。それは不思議な注射であった。人生において、罪の苦しみ懊悩で耐えられないときに、神による罪の赦しの霊が迫ってきて慰められる。聖霊は慰め主である。それは喜びに変わる。それは圧倒的な力である。新約聖書には慰めという言葉が30回も出てくる。これは神の霊の振り注ぎによる実在の慰めである。

 

使徒行伝 9:31さて、集会は(サウロの回心と共に)ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤ全体を通じて平和を得、基礎が固まり、主を恐れて日を過ごし、(迫害の後に)聖霊の慰めをうけて信者の数がふえていった。

2001.5.22        高橋照男

 

 

人生を救うロマ書8章の言葉

 

人生にはどうしても耐えられないことがあるものです。そんなときロマ書8章は救いになります。きっとパウロも苦しみの極限にまで落とさたのでこれが書けたのだと思います。だから今も苦しみの中にいる人の心に響くのです。私はローマのコロッセオを訪れたとき、ライオンの餌食になって死んでいった初代信者の声が聞こえてくるような気がしました。パウロの最後の様子は不明ですが、伝説によれば首をはねられたとも言われます。そのことを考えて次の言葉を読むと胸が詰まります。

 

ローマ人への手紙 8:18

 

[文語訳]われ思うに、今の時の苦難は、われらの上に顯れんとする榮光にくらぶるに足らず。

 

[塚本訳](しかもこの苦しみは恐れることはない。)なぜなら、わたしはこう考える。今の世の苦しみは、わたし達に現われようとしている栄光(・・キリストと一しょに神の国の相続人になる最後の日の大いなる光栄・・)にくらべれば、言うに足りない。"

 

[口語訳] わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。

 

[新改訳] 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

 

[新共同訳] 現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。

 

 人生というものは、この世が最後ではなく来世に行く準備であると考えると、どんな苦しみにもめげずに生きられるものです。なぜならこの世での不幸、失敗、恥、遅れ、貧困、不足、ハンデ、などのことがことごとく来世に入るために逆に有利となって働くからです。

「幸いなるかな悲しむ者」(マタイ5:4)

2001.5.22 高橋照男

 

キリストによる家庭崩壊

 

キリスト教は平和の宗教であるが、実はそうではない。自己分裂(霊肉の戦い分裂、ロマ書7章)、その延長としての家庭内の分裂(親対子、夫対妻マタイ1035-36)、を引き起こす。

 

マタイによる福音書 10:34-36

34地上に平和をもたらすためにわたしが来た、などと考えてはならない。平和ではない、剣を、(戦いを)もたらすために来たのである。35"わたしは子を“その父と、娘を母と、嫁を姑と”仲違いさせるために来たのだから。36家族が自分の敵となろう。”"

 

ここのところはルカでは次のように詳しくなっている。初代信者の家庭内での分裂を目の当たり見るようで涙なくして読めない。

 

ルカによる福音書 12:51-53 あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である。

52 というのは、今から後は、一家の内で五人が相分れて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、

53 また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう」。 (JCV)

 

ルカによる福音書 21:16-17 しかし、あなたがたは両親、兄弟、親族、友人にさえ裏切られるであろう。また、あなたがたの中で殺されるものもあろう。

17 また、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。 (JCV)

 

そしてこのことはシメオンによって預言されている。

 

ルカによる福音書 2:34シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った、「驚きなさるなよ、この幼児はイスラエルの多くの人を、(この方に対する態度によって)倒されたり立たせたりする、また、一つの目印となって(この世の烈しい)反対をうける、使命を負わされているのです。

 

これらの分裂の涙の十字架なくして真の平和の交わりには至らない。肉の関係(親子、夫婦)のこの世的平和は一たんキリストによって引き裂かれなければならない。生まれつきの親子の情愛、夫婦の情愛は一たんキリストの十字架につけられなければならない。神による真の平和はそれによってくるのだ。これによって信仰の内容がふるいにかけられるのだ。特に男女間の性の問題に関する認識においては激しい反対を受けるのは我々にとって生みの苦しみの徴候である。このようなときに苦しみうめきのうちに口をついて出る祈りは「マラナタ・主よ来たりませ」(1コリ16:22)である。再臨が来なければ我々にとって「今の世の悩み」(ローマ8.18)は解決しない。

 

2001.5.14  高橋照男

 

婚前交渉や不倫はなぜいけないのか

 

結婚前の男女の性交渉がなぜいけないのかは、親たちがその意味をはっきり理解できずにいて、またその親たちも青少年達に厳しく言えるだけの清い生活をしていないから、どうしようもない混迷の中にある。 結婚前の男女の性交渉や不倫がなぜいけないのかは、実際問題として人間の感情に「汚れ」を感じさせるが故に世の中に好ましくない印象を与えるのがその第一である。なぜかその理由はわからないが、人間社会の感情はそのようになっているのだ。

 

社会生活の実際面から

1・私の以前の勤務先での事。結婚していない男が恋人とオーストラリア旅行に行ってきたといってその旅行写真を臆面もなく会社で見せて回った。バカな男よ。会社での印象が悪くなり、会社にいられなくなってやめざるを得なかった。あたりまえだ。先日、彼と駅で偶然であったが、何か汚いものを見るようであった。彼には客に接する仕事(営業などの第一線の仕事)は任せられない。彼のようなだらしない性質は匂いでわかり、目つきで分かり、客に好印象をもたれないのだ。彼が会社から追放されたのは当然。本人のためにもなった。社会全体は堕落していない、健全常識がある。

2・一人暮らしで大学に通っている女性を優良企業の人事担当者は採用しない。どこでどのように暮らしていたかを採用時にかなり厳しく聞く。なぜなら彼女達は判でついたように私生活が乱れていて、性に不純な生活をしているからである。もちろん全員ではないのだろうが、統計的に経験的にそうであるらしい。優良企業の人事担当者の経験と勘は鋭い。これは会社の存亡にもかかわる重大なことである。そんな女を入社させると男を引っ掛けるので男が堕落して会社の仕事にも影響するのだ。あと始末が面倒。企業の人事担当者に私は言う。一人暮らしの女性の採用は止めたほうが良い。堕落している率が多いのだ。これは採用行為の能率からくる「生活の知恵」だ。もちろん皆とは言わない、その率が多いというのだ。ヒューマニズムの観点からその判断は赦せないといっても、事は会社の存亡、自己の存亡にかかわる必死の問題なのだ。

3・婚前の交渉がなぜいけないかの実際面として、不潔感の印象を周囲に与える。ある結婚式で、すでに女性は妊娠していることが披露宴で司会者によってばらされた。バカな結婚式だった。 その場に瞬間にいやな空気が流れた。案の定、その結婚生活は5年と続かず離婚、現在はドロドロの状態。子供が二人もいる。愛の性愛のといっている二人の生活に清潔感がなかったのが原因。 結婚には清潔感が必要。内村鑑三は、文明の程度は空気の清浄度にあると言って、賛美歌の時に聴衆に窓を開けさせた。

4・不倫は離婚の原因になる。不倫は感情的にどうしようもなく結婚生活を続けさせない。離婚は一族が苦しむ。子供が路頭に迷う。それに離婚はコストがかかるのだ。! 

5・会社での仕事がうまくいかない。私は建築が仕事であるが、不倫者にはなんとなく仕事が任せられないのだ。見えないところをしっかりやるのが建築だが、不倫者は見えないところでまずいことをやっているのだ。!不倫者には建築の仕事を任せにくいのだ。それは婚前交渉者にもいえるのだ。見えないところでまずいことをやっている人間に建築をやらせれば「手抜き工事」の可能性があり、不安である。私生活がしっかり出来ていない人間に基礎工事などをやらせられない。手抜き工事をやられては家が傾く!!。

そんな彼らの経済生活には繁栄がない。なぜなら仕事を頼んでくる人が少ないからである。私としても「女ぐせ」の悪い大工には家の建築を任せられないのだ。金を預けるとそれを女に貢がれても困るのだ。

 

医学面から

 1・婚前交渉を経ての結婚は、なぜか長続きしないという実際面からの現実がある。私の周囲にもそれがある。「愛欲」の原理ががこの世で最高のものとの認識に立つのは、医学的に見ても真の人間性認識に反している。人間は性欲などの動物的原理が第一ではない。バカな青少年よ。人間は犬猫とは違うのだ。愛や性欲を行動原理にしているそんな彼らの発言には「不倫美化」のいやなトークが頻繁に出る。心の痛みの故である。

 2・離婚家庭は、「機能不全家庭」(医学用語)という状況から、子供の精神的発育に支障をきたし、統計的にも「よくない」子供が育つ可能性が多いのだ。実際そうなのだからいかんとも仕方がないのだ。離婚は次の世代の子供にも影響する罪悪なのだ。ヒューマニズムのなんのといっても仕方がない。事は自己の存亡の問題だ。ヒューマニズムや同情からこれに反対しても自分のためにも相手のためにもならないのだ。

 3・トラウマ(心的傷害)に陥る。婚前の交渉がもたらす医学面からの実際は、婚前の交渉(別の男との関係)記憶がフラッシュバックして現実の結婚生活をうまくいかせない。心の清純さに欠ける。ああかわいそうな複数異性と交渉している現代の青少年たちよ。お前の顔は泥だらけなのだ。気持ち悪くないのか。笑うものは笑え。しかしきっとあとで泣くようになる。その汚れは石鹸でもベンジンでも落ちないのだ。

 4・婚前交渉がなぜいけないかは、実際に「子供が出来てしまう」からだ!!。婚前交渉を注意すると古い大人の世間体を気にしている発言だと言ってあざ笑う青年に限って、いざ彼女に子供が出来てしまうと青い顔をしてその世間体なるものを気にして「堕胎するにはいくらかかるか」とシャーシャーと聞いてくるという。彼らに世間体を気にする感情がまだ少し残っているのがせめてもの幸いだ。前の発言と矛盾しているではないか。バカな青少年よ。

聖書的根拠

 1・婚前の交渉や不倫は、神を第一にしないことから来る。神に対する恐れが欠如しているからである。

 2・それは「不浄」だからである。旧約聖書のレビ記がそれを言う。

 3・実際、神に罰が下されるのだ。聖書で言う堕落はそのほとんどが性の堕落である。

結論

 婚前交渉や不倫は、実際の社会生活からも聖書的に見てもまた実利的にも「まずい道」なのだ。一見面白そうに見えるが、一時は面白くてもやがて実際には面白くなくなり、面倒なことばかりが多くなるのだ。そして次の世代の子供にも悪影響を及ぼすのだ。それでも敢えてその道を行く気をおこすほど今の青少年はバカではないと信ずる。それは実利面からも決してよい道ではないのだ。教師や親は、道徳論では効き目がないならその道が経済的にも不利であることを教えたらよい。「婚前交渉や不倫はコストがかかりすぎるのだ」!。コスト対効果(満足度)の率が悪いのだ。コストパフォーマンスが悪いのだ。実際問題として彼らは遊んでばかりいるので金が貯まらないのだ。!彼らは家を持てないかもしれない。否、持ててはいけないのだ。家など与えられないのだ。それでも愛の性のといってふらふらと迷い歩いたらその現代青少年の先はない。同類の人間に逃げ場を作っても無駄。真の平安はこない。第一世の中にそれに積極的に同意する人間は幸い少ないのだ。いるようでいないのだ。  またそんな青少年にものをいえないわが国の親や教育者の生活にも問題があるのだ。その原因は真の神に対する恐れがないからなのだ。しかし「贖罪」はこれら人間の過ちの悩みを一掃する。血で清めてくれる。神は真の逃げ場を作ってくれている。だからその救いを拒否して自殺するのは罪なのだ。それは自己美化なのだ。自分で自分の思想に酔っているのだ。   2001.5.10  高橋照男

 

 

 

有体的復活はイエスの死に何か意味があったことの証明

 

イエスの有体的復活はイエスの死に何か意味があったことの証明である。有体的復活によりイエスの死が死で終わらなかったことは我々をしてその死に注目させ惹き付ける何かを持っている。イエスの死は敗北で終わらなかったのだ。有体的復活で逆転勝利した。それを知ったわれわれは、ではその死の意味は何であったのかと考えざるを得ない。そう考えさせられるための前提として復活は有体的であった。理念でも、霊魂不滅の哲学でもなく、信じがたい、まさかの有体的復活という出来事であった。史実であった。有無を言わせない歴史的事実であった。まさか、まさかのことが起こった。そのまさかが信じられないからといって信じやすいようにしてしまった非神話化(ブルトマンに代表されるもの)は親切のようであって実は親切でなかった。良薬口に苦しという。非神話化は福音を苦くないように、現代人に分りやすいようにしてしまったので薬の効き目がなくなってしまったのだ。イエスの復活は霊体ではあるが有体的であった。福音書はこれを渾身の力を込めて伝えているのだ。

 私は昨年脳出血で意識を失い、聖路加国際病院の手厚い看護のおかげで一命を取りとめてもらったたが、そのとき脳外科の窓から夏雲を見ながら、「もし、ふたたび命を回復してくれたら、贖罪と復活の真理を告知します」と神に祈った。その昔大切な人の病気を治すために神仏に願掛けをした人は「もしあの人を救ってくれたら、私は生涯決して薬や卵を口にしません」と「薬断ちや卵断ち」を約束して祈った。その気概が尊い。わたしは「もしこの病を回復してくれたら贖罪と復活の真理を告知します」と神に約束の祈りを捧げた。2ヶ月入院して無事退院できたが、神との約束が残った。それ以来「贖罪と復活」の告知が人生の目標となり、お父さんは「気が違った。変なことばかり書くようになった」と言われ、心療内科の専門の医師からも「おかしい」と言われるようになった。しかし私は「贖罪と復活」の真理を告知するのあまり気が違いまた脳出血を起こしてもよいと思うようになった。人生ボケ老人で長く生きていても意味はない。

2001.5.2 高橋照男

 

 

男の欲望(性欲)と「贖罪」はどのような関係なのか

 

[口語訳] それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。

 

[新改訳] この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

 

[新共同訳] この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

 

[塚本訳]この人たちは、人間の血や、肉の欲望や、男の欲望によらず、神(の力)によって生まれたのである。"

 

 oi} oujk ejx aiJmavtwn oujde; ejk qelhvmato" sarko;" oujde; ejk qelhvmato"

ajndro;" ajll! ejk qeou' ejgennhvqhsan.

 

 

「贖罪」による新しい誕生は男の欲望(性欲)によらない。それは神の意志によるのだ。だから人間的希望にもよらない。全く持って神の意志によって新しい生命が誕生するのだ。この場合、男の欲望(性欲)は悪なのか、肉は悪か。イエスは肉体を取ってこの世にこられた。

 

ピリピ人への手紙 2:6-7 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられたその有様は人と異ならず (JCV)

 

肉の欲、性欲も神の備えたもうものであるが、それは神から頂くときに正しい姿になる。正しい道には祝福と喜びが備わる。「賢き妻は主より賜る」と箴言にある。

 

箴言 19:14 家と富とは先祖からうけつぐもの、賢い妻は主から賜わるものである。 (JCV)

箴言 19:14 家と財産は先祖からの嗣業。賢い妻は主からいただくもの (JNICV)

箴言 19:14 Houses and wealth are inherited from parents, but a wise wife is a gift from the LORD.

(NCV)

 

この個所はこの世の諸物、欲望(性欲)は総て神から頂くものであることを教える。妻は賜るということ、頂くということ、神からのギフトであるという認識。これがユダヤ人の結婚観であった。偉大なるかなユダヤ民族。それに比べてわが国の男女は、男の(女の)欲望(性欲)だけで結びつくから(清い恋愛だと思っても実は性欲の現れ)そのなれの果てはドロドロになるのだ。目も当てられない。結婚相手はそれが恋愛であっても見合いによる出会いであっても(親や先輩や牧師から紹介された人だけが賜った相手というのではない。)神から頂いたものとの「神への恐れ敬い」がない限りうまくいくはずはない。否うまくいくということが証明されてはならないのだ。それは人間の業であって神の業になっていないからである。しかし、もし過ちの出会い、結びつきであっても、reconnectionリコネクション(やり直し)ができる。一たんその関係を解消して神の前にて結びつくものならそれで結びつくのが神の前に正しい軌道に乗ることになる。恋愛による出会いと結びつきはその関係を一たんは神に返さなければならない。しかし多分そのとき相手の女性は(男性は)多分色あせて見えてくるであろう。しかししょうがない。熱烈な恋愛結婚で結婚しても途中から相手が色あせて見えてくるものだ。そのとき「賜ったもの、頂いたもの、神からのギフト」であるという認識が離婚をふみとどませるのである。その認識がないところ「愛がさめたから別れます」ということになる。かわいそうなのはそんな低級な結婚観の犠牲になった子供達である。路頭に迷っている。   

2001.4.9  高橋照男

 

 

「贖罪」が「宥めの供え物」とはどういう意味だろう

ロマ書の宥めの供え物

神の怒りを宥めたイエス

「ぶつのなら私をぶってください」

「子の過ちは私のせい、私を代わりに打って下さい」

「十字架を負って我に従え」

イエスの死で神は心が安んじたのか

和らぎのため神がご自分でご自分を打ったのだ人間を愛するのあまり

2001.4.8  高橋照男

 

 

親の躾や教育は律法、「贖罪」はその律法からの解放

 

ガラテヤ人への手紙 4:4-5 しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。

5 それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。 (JNICV)

 

ガラテヤ人への手紙 3:22しかし[塚本訳](律法は命を与えるものでなく、人を罪に閉じこめる力をもつだけである。)聖書はすべての人を(律法によって)罪の下に閉じこめ、イエス・キリストを信ずる信仰によって、信ずる者に約束が与えられるのである。(律法は約束に矛盾しない。むしろこれに導く家庭教師である。)

 

ガラテヤ人への手紙 3:24[塚本訳] だから(モーセ)律法は(わたし達を)キリストへつれて行く家庭教師となった。信仰によってわたし達を義とするためである。

 

ガラテヤ人への手紙 3:25[塚本訳]しかし(それは信仰が来るまでのことで、)信仰が来た以上は、わたし達はもはや家庭教師の下にはいない。

 

教育や躾では人間は良くはならない。それは生まれつきの人間を躾や道徳という檻の中に閉じ込めておくだけのことであり、本質が変わらない。だから親や学校が行う躾や教育というタガが外れれば本能が暴走するのだ。人間は贖罪で新しく生まれ変わらねばならない。でもはたしてそんなことがありうるのか、それは豹の斑点やシマウマの縞を消すこと以上に困難なことではないのだろうか。ところが、ところがである、それが可能なのである。奇跡がおこるのである。全く新しく生まれ変わることができるのである。もう肉の親からもらった性質の人間ではなくなるのだ。新しい神の子としてすっかり違った人間になりうるのだ。これでこそ福音である。キリスト教的躾や基督教教育ではなく神の絶対恩恵でのみ人間は新しく生まれ変わることになるのだ。

2001.4.5        高橋照男

 

 

痛い目にあってわかる「贖罪」の真理

 

人生は「思わざる」出来事、本能に反する惨めな不幸なことを通して絶対的な神の力を認識する。

私は、家を全焼して、この世のものは頼りにならないものであることを知った。わたしがこの世の建築に期待し求めていたものは神の霊の建物に入れられることによってのみ満たされることを認識させられた。

脳出血で一たん意識を失い、再び生かされたことで、この命は100%完全に神の手に握られていることを知った。人間が陥った罪は神の100%の絶対恩恵(カトリック教会ではこれを恩寵という。概念規定や言葉など、どうでもよい)の「贖罪」で救われる。だからどんな人でもどんな深い罪でも救済される。

これら三つの真理に共通なことは神の一方的な絶対的の力が実在するということである。人間はこの認識に到るには痛い目に会わなければならないのだ。なぜなら「贖罪」は人間の本能に反する「イヤな話」あり、生まれつきの人間性では受け入れがたいことなのである・「この俺がなぜなぜ罪人なのか」という反論である。人間の文化や努力に頼ってきた人間が、「不幸や災難」を通してそれが崩されるとき神の絶対的な力に出会うのだ。「贖罪」の救いも人間の教養や努力や育ちや学問や知識や罪認識の深さという人間の側の功績では到達できないのだ。罪の人間は水深650メートルの深海に沈んでしまったあのハワイ沖「えひめ丸」のごとくである。サルベージ船によってのみはじめて「引き上げられる」のである。「贖罪」の業は神による「サルベージ」である。これ絶対恩恵である。

 

2001.4.5  高橋照男

 

 

 

「私はモーだめでしょうか」「贖罪の道がある」

 

ある新しい通信回線の勧誘宣伝の電話の女性との対話。

 

女性「さらに詳しいことは日曜日にお電話してもよろしいでしょうか」

私 「日曜日は聖書の勉強の集まりに出かけるかだめだ」

女性「あの――― ひとつお伺いしてもよろしいでしょうか。わたし過去に好きな人と関係したことがるのですが、私はモーだめでしょうか」

私 「そんなことはない、イエス様が罪の身の身代わりになって死んでくださったからそれで新しく生まれ変わることができる。」

女性「ああ、なるほど」

女性「教会は私のようなものでも行ってよいのでしょうか」

私 「初心者向きの入門講座がウィークデーの夜にでもあるはずです」

女性「ここは神戸ですが、こちらにもありますか」

 

わたしはこれで多くのことを学んだ。この女性には「私はモーだめか」という過去の過ちという汚れの意識が厳然としてある。人間はどんなに堕落してもこのこの汚れの身を何とかしたいという意識があるのだ。

この悩みは、パウロの悩みであり、全人類の悩みでもあるのだ。

「私はモーだめか」という絶望の意識は正しい。なぜか、過ぎ去った過去は取り戻せないからである。汚点である。汚れである。人生のしみである。消せない。これだけはどうしようもないのである。

これに対する私の言葉。「イエス様が身代わりになって死んでくださった。それで新しく生まれ変わることができる。」という「情報」は神学的に言えば物足りず不備があるかもしれないが、この女性には感覚的にその意味が分ったらしい。その答えが、すかさず

「ああ、なるほど」で返ってきた。

わたしはびっくりした。これだけでわかったのか。福音は、これを受け入れる人にはどんなにまずい説明でも伝わるのだ。

「ああ、なるほど」・・・実に手ごたえのある返事であった。全宇宙に木霊(こだま)した。

「教会は私のようなものでも行ってよいのでしょうか」・・・日本の教会は敷居が高いのか。このように思われているのであったら大変だ。

生活に忙しく日曜日も働かなければならない人がいて、その人は「教会にもいけない」そんな人がかなりいることを知っている。教会はいつでも誰にでも接することができるように開かれていなければならないのだが、・・・・・敷居が高いらしい。

「教会」という概念はこのようなときに「救いの手」「見える手」として必要なものである。それが「無」であったらどうであろう。救いを求めているこのような女性はどこへ行ったらよいのであろうか。現代の「無」教会は「見えず」、見えても「教会」よりさらに敷居が高いのではないだろうか。イエスは教会を作ろうとされず、福音を拒否する人々を避けてこのような女性の中に入っていかれたのだ。

彼女の上に主の導きと恩恵あれ。彼女が行くかもしれない神戸の教会は彼女を受け入れ導いてほしい。期待する。彼女とはきっと来世で会えるであろう。いや会えなくても良い。救いの事実の知らせだけあれば。

 

20001.4.4 高橋照男

 

 

なぜ不倫がいけないかの答えは問答無用の「贖罪」の実在で解決

 

なぜ不倫がいけないか、なぜ婚前性交がいけないか、愛し合っているならばそれは自然の姿であるからよいではないか。これ「今日の常識」としてまかり通っているらしい。ところがそれを実行する本人達からは「良心」が痛むが故の様々な行動や弁解が発せられるから不思議である。慰めに不倫文学に興味を持つようになるから悲しい。パウロはロマ書2−3章で世界全人類には共通の「良心」というものがあると説いた。その咎めから救われるために福音があるという。偉大なるかなパウロ。パウロは全人類の父、また兄である。パウロの目は異邦伝道に向いた。その結果、性の風紀が乱れ紊乱したローマ帝国に一陣のさわやかな風をもたらせた。すると良心の咎めに苦しんでいたローマ帝国の不倫の男女は酸欠状態から救われるように息をついた。この個人レベルの小さいが宇宙大の出来事、これが世界史をひっくり返したのである。現代の日本はそのローマ帝国の末期の性の紊乱状態に似ている。パウロは好き好んで他国へ行って性の紊乱を戒めたのではないそれは余計なお世話なのだ。また天下国家を良くしようと思って福音を説いたのではない。では何が動機か。それはただ人間が罪の奴隷になって不自由のためにうめき苦しんでいる、良心の痛みのために苦悩している、その鎖から解放しようと思ってその生涯をささげたのだ。だからその必要、つまり自由になりたい、罪の苦しみ、良心の咎めから解放されたいと思わない人にはパウロは用はなかったのだ。なにを好き好んで追っかけていって贖罪の福音を説く必要があろうか。時間の無駄だ。人生は短いのだ。ところが人間パウロは見限っても神は罪人を捨てない。そこが神の偉大さである。不倫や不義の性を行っている人間に対して、神は最後まで追っかけていき、良心の責め苦を与える。地獄があるかどうか分らないが、彼らにとってはこの世の生涯が良心の責め苦による地獄の一生である。窒息の苦しみの一生である。「不倫や婚前性交がなぜ悪い」と居直る人間には理由を言っても(実は理由はないのだが・・・・罪は罪なのだ、神は神なのだ)聞かないであろう。彼らは理由がわかれば「不倫や婚前性交」を止めるだろうか。やめないであろう。否、やめられないであろう。居直るのみ、歯向かうのみ、理屈をこねるのみ。なぜか、罪の奴隷で鎖に縛られているからである。そんなときは「問答無用」なのである。理論ではないのだ。神の存在証明は理論ではできない。・・・エゴーエイミ(ありてあるもの)の実在の啓示で人間は神の存在を認識する。「救われたいのか」という外部からの神の呼びかけに「頼む」という心を持てば神は問答無用の「贖罪」の啓示を持って鎖を断ち切ってくださるのだ。不倫の者同士がよくても神の目に良くないことは良心の責め苦で警告されるのだ。それゆえに神は実在する。感謝。良心の呵責、痛みで、このままの人生ではまずいヤバイと思う若者は私の言うことに耳を傾けよ。

そうでないものは私を去れ。サヨナラ、達者で暮らせ。しかしなお神の追っかけが君たちの上にあるように。ある日あるとき、どこかの街角で会うときもあろう。そのときは良心の咎めや責め苦から解放されて神の子としての晴れやかな顔でいることを願う。

 

2001.4.3        高橋照男

 

 

神は悪魔の業を滅ぼすために「贖罪」という犠牲愛の道をとった

 

神は人間を悪魔の業から救うために、犠牲愛という道を開くことを計画し、その使命をイエスに負わせた。

犠牲愛による「血」が人間の罪を清め「愛の血」が悪魔を退散させる方法であると考えた。神はイエスにその使命を果たすようにその生涯を期待したのであるが、悪魔はそうはさせじとイエスに近づき、神のその計画に乗るなと執拗に神から離れさせようと、人間的弱点にささやいた。

まず「荒野の誘惑」でイエス自身が奇跡を起こして人間的に有名になって「王になって」よい国を造ろうとさせた。これ、男にとって最大の誘惑である。人間世界の頂点に立って善政を敷けば世の中は良くなるのだ。家庭も企業も国も世界もそうなれば「この私の力で」世界は良くなるのだ。わたしは信仰深く、教養もあり、古今の知識に通じている。だからこれで民衆を味方にして人気を得れば私が王となり、賞賛を浴びてたちまちのうちに「よい国」ができるのだ。経済問題も私が奇跡を起こして石ころからパンを作る。高いところから飛び降りて喝采を得ればみんなの心がなびき、指導しやすくなる。・・・・このような悪魔の誘惑は神の計画をだめにする道であった。もしここでイエスが男の欲望の魅力によりその道に引きずり込まれたら「犠牲愛」の道という神の計画を果たさずに2000年前の一ユダヤの預言者か政治家で終わってしまっただろう。イエスはその危険を察知して「悪魔よ引っ込め」と一喝して退けた。ここで悪魔はイエスを誘惑することに失敗し、ひとまず姿を消すのである。

 

マタイによる福音書 4:10-11[塚本訳]そこでイエスは言われる、「引っ込んでいろ、悪魔!(聖書に)“あなたの神なる主をおがめ、”“主に”のみ“奉仕せよ”と書いてあるのだ。」"11そこで悪魔が離れると、たちまち天使たちが来てイエスに仕えた。"

 

すると今度は悪魔は母を使ってイエスを誘惑する。カナの婚礼(ヨハネ2:1−12)で母親の要請で奇跡を起こそうとした。このときのイエスは「女よ」と言って母の中に入り込んだ悪魔を退けた。

 

ヨハネによる福音書 2:3―4[塚本訳] すると宴会の最中に酒が足りなくなったので、母がイエスに言う、「お酒がなくなりました。」"04イエスが言われる、「女の方、〃放っておいてください。〃わたしの栄光(を示す)時はまだ来ておりません。」"

 

この部分の文語訳は激しい

「女よ、我と汝となにの関係(かかわり)あらんや」。である。これは儒教道徳の日本では考えられないことである。誰が母に向かって「俺はてめえと何の関係もない」と言えるか。それをイエスはあえてしたのだ。神の犠牲愛の計画の御用を果たすために。かわいそうなイエス。かわいそうな母マリヤ。

 

イエスの言葉としてどうしても分らなかったのは「家族を捨てなければ私の弟子になれない」という部分である。わたしは長い間この不思議な言葉が分らなかったが、しかしイエスの母に対する態度で分るようになった。悪魔は姿を変えて肉親家族の心に入り込んでイエスに近づき神のご計画の道からイエスを外そうとたくらんだのだ。。だからイエスは次のように言うようになったのだ。

 

マタイによる福音書 10:37-39 わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。

38 また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。

39 自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。 (JCV)

 

もしここでイエスが人間的情にほだされて、母を助ける孝行心から奇跡を起こしてしまえば、「奇跡マン」として世にもてはやされるのであった。そして戦争をしない(だけで神の栄光があがらない)地上天国を造れる道が開かれることは確かであった。それほどイエスは民衆に人気があったのだ。そこをイエスはぐっとこらえて涙ながらに(これはいささか文学的考察)「女よ」と言って母をつっぱねたのだ。イエスの生涯は犠牲愛、贖罪愛の道を行くように神に計画されたのであるがそれをはばむ最大の敵は肉親の関係であった。悪魔は肉親の困窮ということを通してイエスをして神のご計画の道を歩むことを阻止しようとした。巧妙な悪魔の業よ!。だからイエスは次のように言うのだ。悪魔はいつも困った人間の姿をして哀れみを得ようとして近づく。その手には乗るな。

 

マタイによる福音書 10:34-36 地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。

35 わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。

36 そして家の者が、その人の敵となるであろう。 (JCV)

 

悪魔がイエスに最後に近づくのはペテロやユダを通してである。なんと悪魔は最後は弟子の姿に変えてイエスに近づいたのである。そして神の贖罪愛の道からそらせようとした。イエスをひるませようとした。

 

マタイによる福音書 16:21-23 この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。

22 すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。

23 イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。 (JCV)

 

ヨハネによる福音書 13:2[塚本訳]ユダがそのパンを受け取(って食べ)ると、その時、悪魔がユダに入った。そこでイエスがユダに言われる、「しようとしていることをさっさとしたがよかろう。」

 

イエスは、様々な形でイエスを誘惑して神の計画を壊そうとして近づいた悪魔の手から逃れて犠牲の贖罪愛という神のご計画の道に行ったのだ。われわれはイエスのその従順の姿勢で流された贖罪死の愛の業の血の故に罪から清められるのだ。

2001.4.3 高橋照男

 

 

 

「贖罪」で目が開いて分るよい女

 

聖書が示すよい女とは、男をして神に目を向けさせる女である。そのような女を賜って男の人生は成功である。男が神に目を向けようとするとき足を引っ張る女は悪い女である。そのような女と付きあうと男は成長しないのだ。ツキがまわってこないのだ。

 

箴言 12:4 賢い妻はその夫の冠である、恥をこうむらせる妻は夫の骨に生じた腐れのようなものである。 (JCV)

 

箴言 31:10-12 だれが賢い妻を見つけることができるか、彼女は宝石よりもすぐれて尊い。 11 その夫の心は彼女を信頼して、収益に欠けることはない。 12 彼女は生きながらえている間、その夫のために良いことをして、悪いことをしない。 (JCV)

 

ここにあるような賢い妻はそうはいない。しかしそれを望んでいれば必ず出会えると思うのである。もし不幸にも出会えなければ一生結婚しないほうが楽かもしれない。神から離れないためには独身のほうがよい。神の名を汚さないためには独身のほうがよいのかもしれない。

 

箴言 19:13-14 愚かな子はその父の災である、妻の争うのは、雨漏りの絶えないのとひとしい。

14 家と富とは先祖からうけつぐもの、賢い妻は主から賜わるものである。 (JCV)

 

妻は賜るものである。選んだり、惹かれたりしてくっつくものではない。なまじ変な女となら結婚しないほうが楽である。

 

2001.4.1 高橋照男

 

 

「贖罪」で目が開いて分る悪い女

 

聖書が徹底的に唾棄する悪い女とは、人間を神から離すように働きかける者である。現代の青少年がこのような悪い女の罠に引っかからないように、また引っかかっていたら神の恩恵によって命からがら逃げることのできるように祈る。人類の最高傑作の基督教文学はこれがテーマである。(ダンテ神曲、ミルトン失楽園、バンヤン天路歴程、アウグスチヌス懺悔録)

 

聖書の中の悪い女の例

 

創世記 39:7-23 これらの事の後、主人の妻はヨセフに目をつけて言った、「わたしと寝なさい」。

8 ヨセフは拒んで、主人の妻に言った、「御主人はわたしがいるので家の中の何をも顧みず、その持ち物をみなわたしの手にゆだねられました。 9 この家にはわたしよりも大いなる者はありません。また御主人はあなたを除いては、何をもわたしに禁じられませんでした。あなたが御主人の妻であるからです。どうしてわたしはこの大きな悪をおこなって、神に罪を犯すことができましょう」。 10 彼女は毎日ヨセフに言い寄ったけれども、ヨセフは聞きいれず、彼女と寝なかった。また共にいなかった。 11 ある日ヨセフが務をするために家にはいった時、家の者がひとりもそこにいなかったので、 12 彼女はヨセフの着物を捕えて、「わたしと寝なさい」と言った。ヨセフは着物を彼女の手に残して外にのがれ出た。 13 彼女はヨセフが着物を自分の手に残して外にのがれたのを見て、 14 その家の者どもを呼び、彼らに告げて言った、「主人がわたしたちの所に連れてきたヘブルびとは、わたしたちに戯れます。彼はわたしと寝ようとして、わたしの所にはいったので、わたしは大声で叫びました。 15 彼はわたしが声をあげて叫ぶのを聞くと、着物をわたしの所に残して外にのがれ出ました」。 16 彼女はその着物をかたわらに置いて、主人の帰って来るのを待った。 17 そして彼女は次のように主人に告げた、「あなたがわたしたちに連れてこられたヘブルのしもべはわたしに戯れようとして、わたしの所にはいってきました。 18 わたしが声をあげて叫んだので、彼は着物をわたしの所に残して外にのがれました」。 19 主人はその妻が「あなたのしもべは、わたしにこんな事をした」と告げる言葉を聞いて、激しく怒った。20 そしてヨセフの主人は彼を捕えて、王の囚人をつなぐ獄屋に投げ入れた。こうしてヨセフは獄屋の中におったが、 21 主はヨセフと共におられて彼にいつくしみを垂れ、獄屋番の恵みをうけさせられた。 22 獄屋番は獄屋におるすべての囚人をヨセフの手にゆだねたので、彼はそこでするすべての事をおこなった。 23 獄屋番は彼の手にゆだねた事はいっさい顧みなかった。主がヨセフと共におられたからである。主は彼のなす事を栄えさせられた。 (JCV)

 

  「私と寝なさい」などと言って男に近寄る女(この場合はポテパル)は悪魔の子女である。このよう

な女に対しては男はヨセフがそうであったように逃げるのが正しい道である。なまじ説教などすると罠にはまる。同情などしていてもためにならない。バッとつばを吐きかけて去るべきである。そのほうが彼女のためでもある。聖書はこのような女は悪い女であると語っているのだ。

 

 

箴言 7:16-27 わたしは床に美しい、しとねと、エジプトのあや布を敷き、

17 没薬、ろかい、桂皮をもってわたしの床をにおわせました。

18 さあ、わたしたちは夜が明けるまで、情をつくし、愛をかわして楽しみましょう。

19 夫は家にいません、遠くへ旅立ち、

20 手に金袋を持って出ました。満月になるまでは帰りません」と。

21 女が多くの、なまめかしい言葉をもって彼を惑わし、巧みなくちびるをもって、いざなうと

22 若い人は直ちに女に従った、あたかも牛が、ほふり場に行くように、雄じかが、すみやかに捕らえられ、

23 ついに、矢がその内臓を突き刺すように、鳥がすみやかみ網にかかるように、彼は自分が命を失うようになることを知らない

24 子供らよ、今わたしの言うことを聞き、わが口の言葉に耳を傾けよ

25 あなたの心を彼女の道に傾けてはならない、またその道に迷ってはならない

26 彼女は多くの人を傷つけて倒した、まことに、彼女に殺された者は多い

27 その家は陰府へ行く道であって、死のへやへ下って行く。 (JCV)

 

 

昔も今もこのような悪い女に命をとられて堕落する青年が多い。このような女にひっかって若いうちをすごすと一生の失敗である。まず言動の品性が落ちる。このような悪い女から逃れるためにはまず努めて近づかないことである。家の中に絶対に入れなかったり、用をこしらえて訪ねていったりしないことである。聖書はこのような悪い女に青年が引っかからないように注意せよと書いてあるのだ。

 

女性はどんなに美しくてもよい。否、神の栄光のために美しくなければならない。しかし男をして神に近づけるような存在でなければならない。神から離そうとする働きをする女は悪魔の遣わした女で、そのような女は死ななければならない。死んでもらわなければならない。死ね!。 イエスは次のように言う。

 

マタイによる福音書 18:6―8 [塚本訳] しかしわたしを信ずるこの小さな者を一人でも罪にいざなう者は、大きな挽臼を頚にかけられて深い海に沈められる方が得である。"07この世は罪のいざないがあるから禍だ、罪のいざないの来るのを避けることができないからである。しかしいざないを来させる人は禍だ。"08(だから)もし手か足があなたを罪にいざなうなら、切り取って捨てよ。両手両足があって永遠の火の中に投げ込まれるよりも、片手片足で(永遠の)命に入る方が仕合わせである。09もしまた目があなたを罪にいざなうなら、くじり出して捨てよ。両目があって火の地獄に投げ込まれるよりも、片目で(永遠の)命に入る方が仕合わせである。

 

2001.4.1 高橋照男

 

 

 

 

 

再生でなく新生がもたらされる「贖罪」

(離婚5回、バツ5の女の新生)

 

パソコンがどうにも動かなくなってにっちもさっちもいかなくなったときは、私の経験では一度終了させて電源を切ってから再び電源を入れれば90%の場合回復する。人生と贖罪の関係もこれと同じで、罪のために人生が「ニッチもサッチも」いかなくなったときにはいったん電源を切って、つまりいったん死んで再び生き直すのだ。そうすれば人生をやり直すことが出来る。これが十字架による「贖罪」の秘儀なのだ。パウロが現代に生きていたらこのように言うのではないだろうか。人の世では過去に汚点があるとそれが原因で社会的にうまく生きられない。履歴書が汚れているとまずいのである。結婚にも就職にも完全に不利である。この点バルトではなくブルンナーの言うとおり、この世は堕落しているがなお神の秩序の片鱗が残っているといわなければならない。過去に汚点があるとそれが書面に記されてそれをネタにあらゆる反対にあう。敵の攻撃がある。人が過去の生活から立ち直ろうと思っても汚点という絶対的な過去は厳然として消すわけにはいかないのだ。それが青少年を立ち直せる気力を失わせる原因であるといわれる。人の世では過去の指摘ばかり(後ろ指を)されるのである。悪魔は履歴書を指摘して立ち直りの不可能なことを本人にささやき、さらに重い罪へ罪へと誘うのだ。離婚という事実はバツ一、バツ二、バツ三として記され、これが立ち直りの意欲を失わせる。このようなとき、イエスの十字架の贖罪は過去をいったん死なせて再生ではなく新生させてくれるのだ。新しい人間を誕生をさせてくれるのだ。ヨハネ福音書4章1−26にでて来るサマリヤの女は過去に5回の離婚経験のあるバツ5であった。それでも彼女は飽き足らず現在は6番目の男と同棲中である。その6番目の男はどんな男であるか聖書には書いてないが、その関係は後ろめたいものであることはその女が人目を避けて真昼時に水を汲みにでてきたことからわかる。女は自分の心の淋しさを満たすために多分妻子ある男性か非常に若い男性をたぶらかせて(結婚5回の経験を踏まえて、!!)堕落させているのではないだろうか。しかしイエスと出会い彼女は再生した。否新生したのだ。その後の彼女の人生は聖書に記されていないが、十字架に引かれていくイエスの周りには名もなき女達がいた。多分その中に彼女もいたのではないだろうかと私は思う。彼女のその後の人生は(その女にたぶらかされた男も)結婚などもうこりごりで(結婚では心の安らぎがえられない)一生を独身で通し、ひたすら神に仕える生涯を送ったのではないだろうか。これでこそ新生である。再生ではない。新生である。再生ぐらいでは神の義は満足しないのだ。

2001.4.1 高橋照男

 

 

人間を悪魔の虜から解放する神の必死の業としての「贖罪」

 

 現代の青少年は悪魔の娘たちにたぶらかされ、その魂が神から引き離され、悪魔の虜になっている。悪魔は「不倫」の楽しみを餌に青少年の魂を「神に反抗するように」仕向けているのだ。これが悪魔の最大の目的なのだ。人間に自然に備えられた性の喜びを否定するのではない。神は人間をして神に反応するように「性の喜び」でおびきよせて「神に歯向かうように」しているのだ。イエスは食欲で悪魔におびき寄せられた。〔マタイ4.3[塚本訳]すると誘惑する者[悪魔]が進み寄って言った、「神の子なら、(そんなにひもじい思いをせずとも、)そこらの石ころに、パンになれと命令したらどうです。」〕神に反抗するようになった人間を見て悪魔は笑う。いまその高笑いを感じる。人間は備えられた自然の欲望に勝てることはない。それは生まれつきの人間に備えられた「自然の姿」なのだ。ここにおいて神か欲望かの水平レベルの戦いになると人間は負ける。そのような状態のとき悪魔に捕らえられた人間は「聖書」の忠告にきまって「フン」という態度になるから不思議である。そして自らの心の痛みを癒すために同類の「不倫文学」を読み始めるから悲しい。

この状態から青少年を救い出すためにはまず彼らをして迷妄から目覚めさせなければならない。「この道はヤバイ」と思うようになってもらわなければならない。しかし青少年の首に縄を巻いて悪の道から引きずり出しても、悪魔の娘を滅ぼしても根本的解決にはならない。人間が変わらなければならないのだ。神はどうされるか。義の神は生きておられる。感謝。それは天罰によって「苦しみ」がもたらされ、生活の反省を求められる。それは経済的に行き詰まって「食べられなくなる」とか体の異常を通して神から忠告が与えられる。旧約聖書の「飢饉」とか「疫病」がそれである。これらは皆人間の神に対する「不義」「反抗」の故に下される神の刑罰である。神の残酷な鞭なのだ。そのようなとき、食べられなくなっても病気になってまでもまだなお「罪の生活」にふけってているほど人間はバカには出来ていない。「ハッと我にかえるのだ」。ありがたいことに人間はどんなに堕落してもその能力は備えられているのだ。頭をガンと殴られ、我に返った人間は今までの恥ずべき生活に終止符を打つべく、悪魔とその娘に向かって「NO!」と宣告する。それからが人間としての「求道」の道である。それまでの汚点の生活を悔やむことはない。これであって人間である。それから「巡礼」の道を歩み始めるのだ。ダンテの神曲の冒頭はそれを扱っている。ワーグナーの音楽「ローングリーン」はそれがテーマである。崇高な精神を扱っている。では人間は「巡礼」の旅に出て、(日本でいえば四国八十八箇所霊場めぐりなど)救いが得られるのだろうか。私にはそのような「巡礼」の経験はないから分らないが、私の場合はちょうどよいときにキリスト教とその「よき師」に出会って「贖罪」の道を教えて頂いた。そして悪魔の娘ではなく神に従順な娘を与えられ、「祝福された結婚生活」を送ることができた。「生めよ、増えよ、地に満てよ」の言葉どおり祝福されて子供が恵まれた。しかしここへ来て、悪魔の逆襲に出会い、大切な子供が悪魔に捕らえられた。彼を救い出すためにはイエスが私のために死んでくださったと同じだけのことをやらなければならないのだ。

 

マタイによる福音書 10:34-39 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。

35 わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。

36 こうして、自分の家族の者が敵となる。

37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。

38 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。

39 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」 (JNICV)

 

ルカによる福音書 21:16 あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。 (JNICV)

 

マタイによる福音書 10:35[塚本訳] わたしは子を“その父と、娘を母と、嫁を姑と”仲違いさせるために来たのだから。

 

2001.3.31        高橋照男

 

 

神による「贖罪」の啓示はどんな罪をも清める力を持っている

 

賛美歌246番

かみのめぐみは かぎりなくとも

ゆるさるべきか このつみびとは

 

みいつをなみし みわざをあざみ

ながくめぐみに そむきまつりぬ

 

とんでもない自分であった。とんでもないことをしでかしてしまったと悔いるとき、この賛美歌が思い出される。神は罪を赦してくださると聞いているが、この大きな罪は赦されてよいのだろうか。死んで詫びるほかはないが・・・・と思う時が人生には訪れるものだ。そのとき絶対無条件の罪の赦しの「福音を信じて」(こんなとき福音とは何かなどと屁理屈をいうことはないのだ。ただ「まいった」を言えばよいのだ。神の存在証明を理解して贖罪を納得してから信ずるという態度ではは永久に神も贖罪も分らない。)素直に受け入れる時。それは宇宙大の尊い瞬間、新しい人間が創造されるときである。それまでの人生はこの瞬間を迎えるためにあったといってもよい。優れたキリスト教文学はみなこのテーマを扱っている。(ダンテ神曲、ミルトン失楽園、アウグスチヌス懺悔録、バンヤン天路歴程)この経験をしない人は「人間」でなく、また人間であっても半人前である。この経験で人間は神の実在を実感するのだ。神はどんな深い、重い、恥ずべき罪でもイエスの十字架の「贖罪」の事実を示してその人その人を個別に(大量に一般論でなく)赦して清めてくださる。そして今生まれた赤ん坊のように愛してくださる。あのおぞましき恥ずべき罪の生活、それを思うと自分は赦されてはならない身だ。死ぬべき身だ。いっそ一思いに殺してくれ。と叫ぶその瞬間にイエスの十字架の死の姿が心に示されて、この罪人がイエスによって赦され清められることを実感する。感謝。この死ぬべき身が赦された。神は2000年後の今日もこのようにして個別的に神の主権を発揮して罪を赦して清める「実力」をお持ちなのだ。万歳、神は生きておられる。神の力は永遠に今も働かれる。人間の過去の罪を清めるなどという驚天動地の奇跡を今も行える実力をお持ちである。私は堅く信ずる。この私が救われたのだから世の中に救われない人はいない。神よ今こそあなたの主権の発動を発揮してくださるときです。マラナタ。主よ来たりませ。地をお裁き下さい。そしてお救いください。

20001..30  高橋照男

 

 

 

人間の汚い顔を見ることが出来ない神の悩みを解消する「贖罪」

 

普通一般に贖罪は神が人間を救うために開いた道であると考えられているが、実はもっと本当の神の側の理由は神が愛する人間の顔を人間の罪の故にまともに見ることが出来なくなってしまったつらさ悲しさ苦しさをなんとか解消するための苦しい手段なのだ。罪を犯した人間の顔を神は直視できなくなった。それはライ病(今日この言葉はいけないのか)で崩れてしまった汚い泥だらけの顔なのだ。神としても目をそむけざるを得ないのだ。罪を犯している人間は神の目を避けよう避けようとする。それと同じように神も罪を犯した人間を直視することが出来ない。それを見よというのはあまりに残酷な惨めながっかりのことなのだ。でもなんとか神は愛する人間ともとのどおりの心の交流を回復したい。そこでイエスにその罪の全部を負わせてその罪を断罪し、罪を犯した人間を一回死んだことにして、新たに全く新しい人間を誕生させるという実に不思議な体験しなければわかりずらい心霊上の事実としての贖罪の道を開いた。その事実の説明がロマ書である。ロマ書は事実の説明である。この奥義は日本国の教育制度では教えない。

聖書を読んでも分らない。人間は神の恩恵の光でまず苦しんでその後救われるのだ。

 

   苦しみは瞬時にして 喜びは永遠である。(ヒルティ幸福論Vの最後の言葉)

 

   われ思ふに、今の時の苦難(くるしみ)は、われらの(うへ)(あらは)れんとする栄光(えいくわう)にくらぶるに足らず。

           (ロマ書 8章18節・・・・これは私の父が特愛の言葉であった)

 

2001.3.29 高橋照男

 

 

 

人には隠せても神の目には隠せない罪と「贖罪」の愛

 

罪は人には隠せても神には隠せないのだ。この場合「では罪とは何か」と居直ってくる者には「罪とは何か」を説いても無駄である。居直ることそれ自身が罪の現実を背負って認識しているからである。このような者に向かって答える言葉は簡単である。「問答無用。いつまでもシラをきるな」である。キリスト教は愛だとか赦しだとかを強調しすぎるから現代の青少年には「贖罪」が分らないのだ。罪は断罪されるべきもの、赦しがたいもの、いつまでもそこにとどまってる者は滅ぼされるべきものなのである。なぜか。理由なし。問答無用。神と人間の関係はそう出来ているのだ。どんな人間も「罪」には後ろめたさを感じるから不思議である。特に性の倫理において顕著。これは人類に共通の事らしい。ここにパウロの異邦伝道の根拠があった。だからわざわざ「罪は良くないことだ」などと理論でいう必要はない。理由がわからなければ罪を認めたくない人には理由を説いても罪は分らない。居直り歯向かってくるだけである。罪の奴隷の悲しい現実の姿よ。しかしありがたいことに罪は本人に対し心の苦しみや体調の変化などによって理屈でなく「罪の結果の現実が突きつけられて」現実に示されるのだ。罪の結果が社会的に衆人の目に露呈される絶対絶命のときが必ずくるのだ。神は見逃さない。感謝。それでこそ愛の神だ。また罪が恐ろしいのは、一人本人だけでなく、その家族や同族仲間(学校やグループ)全体が根こそぎ滅ぼされることである。一人の罪が全体を滅ぼすのである。これは旧約聖書の事例に多く現れている。われわれも牛乳にハエが入ったらその牛乳全部を一気に捨てるのと同じである。断罪が愛である。神の愛は激怒になって現れる。捨てることになって現れる。そうすることによって神の栄光が貫徹されるのだ。でもそうすることによって神は淋しい。悲しい。それで神は一人の人イエスで「贖罪」の業を行い。今度はその一人の人のおかげで全体を救うという「道」を開かれたのである。パウロは偉大である。この福音を何とか説明しようとした。聞く耳のあるものは聞け。聞くのがなんとなくイヤで耳をふさぎたい者はふさげ。神はそんな者にはいつまでも「付き合ってはいられない」のだ。「救われたいと思って」真剣に聞いてくれる人がほかに一杯いるのだ。時間は有限である。

 

ローマ人への手紙 5:18、21[塚本訳] 18従って、一人の人の過ちによって全人類に死の宣告が下されたと同じに、一人の人の正しい行いによって、全人類に命を与える義が臨んだのである。

21[塚本訳]これは罪が死を持って支配したように、恩恵も義をもって支配し、わたし達の主イエス・キリストによって、(わたし達を)永遠の命に入れるためである。"

 

2001.3.29 高橋照男

 

キリスト信者の家庭の子供は「贖罪」に関心がないか

 

罪の自覚による贖罪信仰はキリスト教の本質であるが、最近になって罪の自覚というのは育ち方や環境によって必ずしも万人に共通に起こる事はないとの意見があることを知った。確かに純粋培養のような育ち方の人に向かって「罪、罪」ということははばかるのであるが、いかんせん新約聖書の使信は「罪からの救い」が本質である。パウロの異邦伝道も人類に共通の罪の問題を前提としているからあったわけである。これはロマ書を読めばよくわかる。

キリスト信者の家庭の子供はキリスト教にあまり関心がなく、従って罪の自覚もあまり自覚がなく、従って信者になりにくいのではないかという意見がある。たしかにそういう事実が一面においてあるのを知っている。オートバイ屋の息子はオートバイに関心がないのと同じである。すると信者の家庭の子供は救いに対してハンデがあるのかもしれない。パウロはそのことをユダヤ人の救い問題として自問自答している。

 

ローマ人への手紙 9:2 -3

2 わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。

3 わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。 (JNICV)

 

ではキリスト信者の家の子供はどのような道を通って救いに到るのだろうか。子供を純粋培養のように育てていては罪の認識に到らないから親としては「かわいいものには旅をさせよ」で悪の世界に放つべきか。そして失敗を通して罪というものを知らしめるべきか。否、「罪を知る旅」に放ったとしても必ずしも罪と贖罪が分るのではない。罪の自覚というものは神の恩恵によってもたらさられるのである。純粋培養のような環境で育てられた人間にもある日ある時に神の光がその人の心に差し込むと「醜い姿」が照らし出されて罪の自覚が生じるのではないだろうか。罪の自覚の苦しみとは救いの訪れの前ぶれではないだろうか。神はむやみやたらにあの窒息しそうな「罪の苦しみ」の経験をさせないのではないだろうか。

パウロはロマ書9章以下で「救いには順序と時がある」と説く。これは同胞ユダヤ人の不信を嘆いてパウロが自分で自分を慰めている個所である。救いには時がある。そしてその時がいつであるかは神が把握している。そしてどんな人をもお救いになる実力も完全に神がお持ちなのだ。その最後の時にはユダヤ人も異邦人も、キリスト信者の家庭の子供も!!救われるのだ。・・・・・・・と堅く信ずる。パウロに習って。

 

マタイによる福音書 24:36-37 その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。

37 人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。 (JCV)

 

ローマ人への手紙 9:18 だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのである。

(JCV)

 

ローマ人への手紙 11:11-12 そこで、わたしは問う、「彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか」。断じてそうではない。かえって、彼らの罪過によって、救が異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。

12 しかし、もし、彼らの罪過が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となったとすれば、まして彼らが全部救われたなら、どんなにかすばらしいことであろう。 (JCV)

 

2001.3.25 高橋照男

 

 

 

不義の性と体の変調、そして乾かない水を頂くための「贖罪」

 

性の倫理に関しては、そのことが世間一般の風潮から考えて良いか悪いかの議論は体の不調の現象で決着する。同時に多くの男性と関係している若い女性患者を扱っている産婦人科の医師の話から聞いた話。その女性は手の震えと下痢が続いていて彼女の体自身がその道の悪いことを訴えているという。神は実在する。感謝。人間の世界において人間が人間に注意できなくても神が注意してくださる。「罪なきものまずこの女に石を投げよ」(ヨハネ8:7)と言う言葉からすると私は石を投げられないのだ。しかし「悪いことは神が注意してくださる」それはちょうどよいときに最も効果的な方法で。旧約聖書の物語はみなこれである。

 普通、議論の決着は相手をやり込める議論からはこない。初代キリスト教において割礼がなくても救われるか否かというユダヤ教とキリスト教の論争(これがパウロ書簡)は非常に激しかったが、これは事実をもって決着したといわれている。すなわちユダヤ教の割礼をうけないでも、クリスチャン達の生活は清く明るく非常に立派であったというのである。その実生活の事実が性倫理の腐敗したローマ帝国に枯野に火を放つように福音が広まった原因であるという。それはちょうど清いさわやかな風が吹いてきたようなものであったという。

 人に悪いことを注意しようにも自分の身を振り返ると注意できない「もどかしさ」がある。しかし神は罪を決して見逃さず、「正しく罰して」「正しく救う」お方であることを信じる。「悪いことは神が注意して下さる」。神は疫病をもって国民に警告を発する。エイズは現代の疫病である。罪の問題を度外視してそれを防ごうとする今日の医学は禍である。青少年に正しい避妊具の使い方を教えているという。バカな現代医学よ。なにをやっているのか。そんな医学は滅びよ。性は神の備えた祝福の源なのに人間は「神を離れた心の淋しさ」の故に性を淋しさを紛らわすための娯楽に堕落させた。現代の若い女性は淋しさから、男性は刺激を求めるという動機から性を求めている。しかしそれで決して魂の渇きは癒されない。ヨハネ福音書4章のサマリヤの女の物語は。過去に5回もの離婚経験のある女が現在は第6番目の男と同棲中であるが、それでも淋しさが癒されずにいる。このような女に対してイエスは「私の与える水を飲むものは決して渇かない」と言って「命の水」を与えようとした。

 青少年の性の乱行の解決には魂の淋しさという源を断たなければ解決はつかない。そのためには永遠に渇かない命の水を与えなければならないのに、今日のキリスト教はその命の水を与えていない。子供がパンを求めているのに石を与えているのだ。これでは青少年は喉が枯れて死んでしまう。今日の青少年の性の倫理の破綻の原因はキリスト教が命の水を与えていない(ほかのことに一生懸命である)ことにある。社会が良くなっても神から離れた人間の淋しさは消えない。否、社会を良くしようとする行為そのものが餓え渇きを癒そうとする行為なのだが、その道を完成しても神との交流が回復しなければ餓え渇きはやまない。現代の青少年は本当は乾かない命の水を求めているのだ。

 

マタイによる福音書 7:8-11 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。

9 あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。

10 魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。

11 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。 (JCV)

 

ルカによる福音書 11:10-13 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。

11 あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。

12 卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。

13 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。 (JCV)

 

2001.3.25 高橋照男

 

 

性倫理の破綻と正しき道への門としての「贖罪」

 

詩篇 23:3 主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。

(JCV)

 

ヨハネによる福音書 10:9(また、)わたしが(羊の出入りするための)門である。わたしを通って入る者(羊)は救われる。(いつもこの門を)入ったり出たりして、牧草を得るであろう。[塚本訳]

 

人生には誘惑が多く、人生の航海は難破しやすい。特に若い者にとっては「性の倫理」が破綻しやすい。悪い者が待ち構えていて若者を地獄の奈落へ引きずり込むのである。

 

創世記 39:7 これらの事の後、主人の妻はヨセフに目をつけて言った、「わたしと寝なさい」。

(JCV)

 

世の中にはこういう悪い女性(男性)がいるのだ。

 

マタイによる福音書 18:6-7 しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。

7 この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである。 (JCV)

 

ここでイエスが言っているように罪の誘惑は必ず来るのであるが、それをきたらせる悪い者はわざわいなのである。そういう輩は大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方がよいというのである。「地獄に落ちよ!」というのである。また誘惑に引っかかる方もよくない。そのためには「防衛」しなければならない。それは国防より緊急を要する。そのためには悪いやつに「近づかない」ことがまず第一の方法である。よい友達を選ぶのである。

 

創世記 39:10 彼女は毎日ヨセフに言い寄ったけれども、ヨセフは聞きいれず、彼女と寝なかった。また共にいなかった。 (JCV)

 

ヨセフは共にいなかったという。これがまず最良の手段である。戦うな「離れよ」である。それから生活の習慣である。一週間に一度「聖書の集まり」など清い集まりに行く習慣をつけることである。今日までキリスト教が存続してきたのは日曜日を聖なる清い日として守ってきたからであるといわれている。ユダヤ人の優秀さは土曜日には完全に仕事をしないということが原因であるともいわれている。このように罪の生活に陥らないためには生活習慣という「防衛」が必要である。

しかしそれにもまして大切なことは「正しい結婚である」。こう言うと「正しい結婚とは何か」という問いがあるだろうが、それは簡単である。その結婚が多くの人に「祝福」されるようになるかどうかである。

この世は堕落しているがしかしなお民の声としての世論には間違いのないものがある。「しかめ面」されそうな結婚の道は蛇の道で人生を失わせる。良い友を選ぶことの最大のことが「結婚」である。

 しかし、しかし、もし失敗しても立ち返る余地がある。それは「贖罪」の門をくぐることである。人生いったん失敗して堕落してそして「贖罪」の門をくぐる。否、無理にでも「くぐらされた」その人はその後多くの人を慰め導くことができるのだ。アウグスチヌス、トルストイ、内村鑑三。

 

ヨハネによる福音書 10:9(また、)わたしが(羊の出入りするための)門である。わたしを通って入る者(羊)は救われる。(いつもこの門を)入ったり出たりして、牧草を得るであろう。[塚本訳]

 

神の存在証明はできないが、人間は贖罪体験をして初めて神の存在を認識できるのだ。罪の生活にいるうちはその人にとって神は存在しない。正しい道への救いの門としてのイエスの「贖罪」があって人生は息がつける。

 

2001.3.20 高橋照男

 

 

なお罪の生活にとどまるべきか「贖罪」の道に歩むべきか

 

退廃の罪の生活、そのぬかるみにはまってしまうと清い生活に戻ろうとする願いさえ消えうせてしまう。そんな時ハッと我に返り、こんなことをしていては「まずい。このままでは一生を棒に振ってしまう」と目覚めるときがくればそれはその人の人生の夜明けである。罪の日常生活の惰眠から目覚めるときである。その人はやはり人間である。アウグスチヌスもそのような道を通った。トルストイもドストエフスキーの文学もある時期にはそれをテーマにしている。ベートーベンの第9交響曲も「求道」の音楽である。天罰が下り、人間が目覚めるときがくればそれは新しい誕生のときである。それが来なければ「獣」である。

人間の欲望と神の戒めの対決ではない。その対決を頭の中で論争して霊肉が争っているうちは「罪が何で悪い」と居直るのが常道である。そんな状態の人は救われない。「こんな生活ではだめだ」との清い生活へのあこがれが湧くのが人の道である。その憧れが人を悔い改めに導くのである。そのようにまで人を導くのは神の働きである。それは神秘的な超自然的な不思議な業である。

「悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:15)とは人間の過去の罪、汚れた汚い生活は悔い改めただけでは清まらない。だから福音を信ぜよというのである。イエスの十字架の血で過去を洗い流せというのである。そして事実それが可能である。どんなにまずい見られない直視できないとんでもない汚れた過去でもイエスの血はそれを全く消してくださるのだ。だから速やかに罪の汚れた生活から脱出せよというのである。十字架の苦しみは我々が受けるべき罪の苦しみの身代わりである。イエスが代わって罪の苦を受けてくださったのだ。神の「骨も砕けよとばかりの激しい峻厳な怒りの裁き」は一挙にイエスの十字架に下されたのだ。これをバカにする人間は一生のうちのいつかはきっとその帳尻を合わされ精算される。しかしそれはそのとき神の正義が貫徹されるのだ。神の名誉が貫徹されるのだ。同時に福音が証明されるのだ。人生は若いうちにその罪の生活の惰眠から目覚めなければならないのだ。

2001.3.19 高橋照男

 

 

 

汚い女と一緒の性倫理の乱れと血の「贖罪」のありがたさ

 

ルカによる福音書 15:30[塚本訳]

ところがあのあなたの息子、きたない女どもと一しょに、あなたの身代をくらいつぶしたあれがかえって来ると、肥えた小牛を御馳走されるのはどういうわけですか。』"

 

神から離れていると決まって判で付いたようにその結末は性の倫理の乱れとなってあらわれる。

 

ローマ人への手紙 1:26-28 それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、

27 同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。

28 彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。 (JNICV)

 

ローマ人への手紙 3:23[塚本訳]なぜか。すべての人が罪を犯したため、いまだれ一人、(かつて持っていた)神の栄光をもたない。"

 

こういうことに対しては人間同士の倫理論争にかかわらず天罰が何らかの形(それは一族・・・親か子・・・にも)で下るので神はどうしようにもなく恐ろしい方なのだ。これは人生における動かしがたい事実である。神などないといって性の倫理を無視して乱れた生活(低級な文学はこれを美化しているのだ)をしていると必ずといってよいほど人生は行き詰まる。キリスト教を捨てた有島武郎の結末(中学高校のとき有島の自然主義に惹かれたがその最後を知ってがっくり来た)は人妻との情死で首吊り自殺をしたが、発見されたときには綱に無数の蛆虫(うじむし)が滝のように上下していたという。げに恐ろしき光景である。こんなとき、人間はいかに悔い改めても神の心は休まらない。放蕩息子の父の心は玄関先でその息子の顔をガンと一発殴ったぐらいではすまないのだ。一喝して説教や小言を言ったぐらいではすまないのだ。血の粛清が求められるのだ。人間の犯す重い重いどうしようもない罪というのは血を流すことが必要なほどそれほど深く深刻なものなのだ。血は罪を清める。罪は血を流して初めて清められるのだ。罪というのはそれほど深く深刻なものなのだ。慈悲の救いではすまされないのだ。ここに仏教とキリスト教の違いがある。ありがたいのはイエスの贖罪の血である。罪の生活から無条件で清い光の平安な喜びの人生へと招き入れてくれるのだ。人生をやり直しさせてくれるのだ。過去を清算して清めて再出発させて下さるのだ。だからイエスの贖罪は議論でなく人間世界の「要求」である。放蕩息子の譬え話を語ったイエス自身は自ら血を流すために「顔を固く」エルサレムに向けて死の旅に出かけたのだ。(ルカ9:51)。話や説教や研究だけではなく!!。

 

ルカによる福音書 9:51[塚本訳] イエスは(いよいよ)昇天の日が迫ったので、決然としてその顔をエルサレムへ向けて進み、

 

さればわれらもいざ行かんイエスと同じ死の旅に。何を健康で長生きの安逸の老後を求めようとしているのか。

 

20001.3.15 高橋照男

 

 

 

真の安心、安定、安らぎは「贖罪」によって得られる

 

人間(企業や国も同じ)の諸活動は「安心、安定、安らぎ」を求めて動き回っている。よい老後、よい結婚、そのためのよい職場、そのための良い大学、そのための良い高校、そのための良い中学、小学校、果ては幼稚園、幼児教育。これらは皆個人の「安心、安定、安らぎ」を求めんがための活動である。かく言う建築士のこのわたしも建築に「安心、安定、安らぎ」の機能が果たせるようにと追求してきた。聖書の精神はそれであると思っていたからである。・・・・ところが世紀末の2000年春、私の家が火災で焼失した。これは神にガーンと殴られたのである。この世の家では真の「安心、安定、安らぎ」が得られないことを実際教育で教え込まれた。この世の家はどんなに頑丈に造っても火災や地震で失われるのだ。そもそもこの地球が最終的には爆発してなくなることは宗教とは縁のない科学の指摘するところでもある。

真の「安心、安定、安らぎ」は神とともにあるところに生じる。またその「安心、安定、安らぎ」は建築的表現で表されていることが多い。それは枚挙に暇がないからいちいち示さないが思いつくまま2−3

上げるとすれば次のとおりである。

 

詩篇 46:2 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。 (JNICV)

 

マタイによる福音書 7:24-27 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。

25 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。

26 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。

27 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」

(JNICV)

 

ヨハネによる福音書 2:19-22 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」

20 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。

21 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。

22 イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。 (JNICV)

 

これら建築的表現で示された「安心、安定、安らぎ」は物理的建築では得られない。(ことをイヤというほど知らされた)

では建築士を捨ててすぐ修道士になるかというとそうはしない。それは「教会主義」の道である。神学校の道である。わたしはプロテスタントしかも無教会である。最後までこの世の仕事を離さない。(内村鑑三やその弟子達の究極の無教会の主張はそこにあった。神学者になるな。伝道で飯を食うな。それは聖書の本質が見えなくなると説いた。)その精神はルカ16:1−13にある「不埒な番頭の譬え」と「富の利用」についてが基盤である。この部分は聖書を浅く読んでいてはわからない。簡単に言えばこの世の仕事は来世への準備なのだ。準備だからこの世限りの刹那的な有限的の壊れやすいこの世のハードの建築にも愛着が湧くのだ。これはキリスト信者に共通の「救われた者の生涯」である。またすべての仕事、文化文明というものに対する姿勢である。「贖罪」で救われて「安心、安定、安らぎ」を与えられて心が「永遠の家」に住むと初めてこの世の有限なもろい建築に愛情が湧くのだ。しかしこのこと(この世の建築、文化文明)はそれが目的でなく来世に入るための「準備」なのだ。「準備」なのだから苦難があり不完全な人生でもよいのだ。否、この人生は不完全であればあるほどよい「来世への準備」になるのだ。

 

20001.3.12 高橋照男

 

 

「贖罪」愛は母の愛

 

聖書には「母の愛」という言葉もテーマもない。あの有名な「放蕩息子の譬話」(ルカ福音書15章11−32)にも母の姿が出てこない。この物語では母はすでに死んでいるのだろうか。「十字架は義として見るより愛としてみたほうがよく分る」とは塚本虎二先生の言葉である。まことにそのとおりである。ではなぜ聖書には母の愛を描いたテーマがないのであろうか。これは長い間の私の疑問であった。この問題は仏教の慈悲、キリスト教の「贖罪」の違いにもかかわる深い問題である。かって藤井武が救いには愛のみが必要で贖罪は必要ないと内村鑑三と論争したそうであるが(火災で関係資料を焼失したので出典を示せない。このような時いちいち出典を探していては文章は書けない。昨年の火災は生活や時間を単純化してくれた)、内村鑑三は激怒して必死に取り消させたという。わたしはこの内村の「激怒」に内村が神の義を示したという深い意義を見出す。父の激怒は激怒したくないのに激怒せざるをえない贖罪の前提としての悲しみの激怒なのだ。つらい役回りなのだ。それに対し母の愛には贖罪がないのではなくて、怒りの言葉や理論ではなく贖罪の「実行」で現れているのではないだろうか。放蕩息子が帰ってきたとき父は僕たちに次のように言う。

ルカによる福音書 15:22-23 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。

23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 (JNICV)

私はここで考える。いちばんよい服とか指輪とか彼の履物などは僕ではなく母がよく知っているものである.。だから妻がいたら「おーい、次男が帰ってきたぞー」と家の奥に声をかけたに違いない。しかしすでにその妻(つまり放蕩息子の母)はすでにこの世にはいない。そこで仕方なく僕に言いつけてこれら身の回りのものや食事の用意をさせたのではないかと思うのである。もしここでその母が生きていたらこれらの仕事を「実行」したのであろう。すぐ家の奥に入って服や履物を用意し、台所に入って食事の用意(食事作りは愛の労苦)をしたであろう。(この読み込みはいささか文学的に過ぎるか・・・・)もしこの読み込みが当たっていたら、こういう場合の母の愛が贖罪の「実行」なのである。母の愛は「実行」のみになって現れる。イエスの父ヨセフの詳しいことは聖書には書いてないが、イエスが「父なる神」と祈ったそのことから、ヨセフはどんな人かを推し量ることができるという。こういう読み方をすれば聖書には「母の愛」がいたるところにあるではないか。モーセの母は自分の身の危険を冒してまでもモーセをパピルスの籠に入れて川に流して救った。(出エジプト1:22−2:3)イエスの母は「イエスの仲間」だとして捕らえられる危険を冒してまでも最後まで十字架の元にいたではないか。(ヨハネ19:25)これらは危険を冒してまでの「労苦」である。ここにあらわれた母の愛に贖罪愛の精神を読み込むことができる。

母の愛には「贖罪」の労苦が入っているのだ。母の愛がそもそも「身代わりの苦」の愛なのだ。「赦すことが最大の裁きであり、最大の贖罪」である。十字架の贖罪は怒りでなく説教でなく「愛の実行」そのものであり、それは母の愛の実行に似ている。

母の愛のような赦しがかえって最もよく人を裁く。イエスも十字架にかかる前の「別れの言葉」(ヨハネ13:31−16:33)の中で自分の十字架の死を母親のお産の苦しみに譬えている。母の愛は贖罪愛なのだ。

 

ヨハネによる福音書 16:21[塚本訳]

女が子を産む時には、女の(宿命の)時が到来したので悲しみがあるけれども、子が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはや(お産の)苦しみを覚えていない。"

 

2001.3.10 高橋照男

 

 

 

「贖罪」が美談とは違うように感じられるのはなぜだろうか

 

最近JR新大久保駅ホームで酔ってホームから転落した人を助けようとして死んだ二人の人(一人は韓国人)の話題でもちきりである。美談である。これを記念して日本は韓国からの留学生を10人招くという。これに限らず人の身代わりとして自らの命を投げ出した「美談」は非常に多くある。

 米国の航空機事故のとき、ポトマック川で救助のはしごを他人に譲って自分は死んだ人。洞爺丸事故で浮き輪を人に譲って自分は沈んでしまった人。(私だったらそれはできそうにない)カレーの市民・・・国立西洋美術館の前庭にロダンの彫刻がある。ある町の代表として身代わりで死んだ人達。・・・・農民の苦境を訴えて死んだ佐倉惣五郎(千葉県)。コルベ神父(ナチの独房で妻子ある人の身代わりで自ら名乗り出て死んだ人)。また戦場における身代わりの実話などなど、これらはしばらくの間は美談としてもてはやされるものである。感心させられる話である。しかしいつのまにか忘れ去られる。

これら数々の美談とイエスの死とはどこか受ける印象が違うのである。それはなぜであろうか。

 イエスはヒューマニズムの精神で自らの命を投げ出したのではない。そうであったらそれは人間の世界での「美談」である。しかしイエスの死はそのような勇猛果敢なまた人間的美談ではないのである。しかしなぜイエスの死には今でも涙が出るのだろう。高校生のときイエス伝の映画を見たがイエスが十字架を背負って歩く場面のとき後ろの席で小声で「泣く」声が聞こえたのでそっと振り返るとカトリックのシスター達がずらっと座っていた。これは最後列の安い席での出来事であった。

 なぜイエスの死が今でも涙をそそるのか。それは一方は人間の世界でのヒューマニズムの「美談」。一方は「神の業」としての宗教。神はイエスを殺してまで目を我々に向けるようになった。イエスはそんなことを知らずにただただ父なる神の「御用」をするために十字架の道をそれとは知らずに歩んだのだ。ここにおいてイエスの死の伝承とその意味を聞くと、今のわれわれに直接「神の愛」が迫ってくるのである。だから心打たれるのである。これが宗教である。人間の世界のヒューマニズムの「美談」ではない。父なる神の愛が今このときに我々に働きかける(語られる)から感動するのである。イエスの十字架の死とその意味の伝承は「美談」の伝承ではない。勇猛果敢な精神の伝承ではない。もしそれであったら人間崇拝の偶像礼拝である。

 今日無教会主義が若い者の間で振るわないということを聞くが、その原因は明快である。無教会の先人達の勇猛果敢な精神、あるいはその美談、しかもそれはなんと今を去る50年以上も前の戦時中の(!!)ことを第一に「伝承」している人間の世界の話になっているからである。「内村鑑三をして現代にあらしめれば」とか「矢内原忠雄を今日あらしめれば」などというトーンの論考や講演はもう聞き飽きたし、そればかり語っている無教会はすでに断罪されているのである。なぜならそれを伝承しても人間の名誉は上がっても神の栄光は上がらないからである。しかしこういうものは言わしておけばよいのだと信ずる。そのうち消えてなくなる性質のものであるから。こういうことはヒューマニストや共産主義者たちに任せておけばよいのだ。昔も今も永遠に変わらない神の愛の「贖罪」の伝承、そして人間礼賛でなく神の礼賛こそ大切なことなのである。

2001.2.24 高橋照男

 

 

 

 

 

負いきれぬ悩みを救う「贖罪」

 

人生において負いきれぬ悩みに遭遇するときがある。負いきれぬ悩み。それは病気ではない。病気はいつのまにか直ってしまう。人間には自然治癒の内在的力が備わっているようだ。それは貧困ではない。貧困もまじめに働いていればいつのまにか解消されて行く。だから日本においては共産主義革命は起こらない。昨日貧乏な「小作人」であっても今日は「地主」にもなりうる。またそれは学歴の低さではない。学歴で人を見たり判断する風潮は次第になくなりつつある。学歴があっても実際の仕事に有能でない人がたくさん出現し始めたからである。ことに技術の世界では学歴は通用しない。実際やらせてみてもできないのだ。特に大学院を出た人は人に接することがうまくできない例が多い。その原因はなるべく社会に出たくないのでずるずると大学に残っていたのだという動機で大学院へ行ったという人が多いということを聞く。「労働は血の薬である」とはヒルティの言葉であるが至言である。肉体労働で汗をかくことが思想を清めるのだ。いまは欧米のように社会人になってからも自由に学べて真の実力をつけることができるスクールが多く出始めてきた。

負いきれぬ悩み、それは思いもかけず魔がさして「犯してしまった罪」である。それはこの自分のことでもあり、身内、親類縁者のことでもある。これはどうしようにもない暗い重い悩みである。これは医者でも、社会改革でも、教育改革でも癒しがたい悩みである。この悩みが少しでも軽くなるのは私の経験では「伴侶の助け」であった。神はアダムに「助け手」としてのエバを与えたが、「助け手」の真の意味はここにあることを知った。

 

創世記 2:18 また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。 (JCV)

 

妻の真の役目は夫の精神的な苦悩を助けることにある。これは結婚制度の最大の目的ではないであろうか。しかしながらこれで悩みを打ちあけられる相手が得られて少しは気が楽になっても真の解決にはならない。究極の救いは天地(あめつち)の造り主なる神の子の次の言葉を信じて受け入れることである。

 

マタイによる福音書 11:28[塚本訳] さあ、疲れている者、重荷を負っている者はだれでも、わたしの所に来なさい、休ませてあげよう。"

 

このように語ったイエスは、自ら十字架を負って、我々の重荷を軽くして、否、重荷を全く取り去ってくれたのだ。この贖罪の事実があって人生には希望がある。子供を生んで子孫を残す希望がある。そうでなければこの人生は暗く淋しくつまらないものだ。

2001.2.20 高橋照男

 

 

 

 

「贖罪」が必要でない人

 

毎回毎回「贖罪」「贖罪」と実に人聞きの悪いことを書いているが、これは人間にとって真の幸福をもたらすものであると信じているからである。ところが最近私の前に「私には贖罪は必要でない」というクリスチャン(?)が現れた。ご立派である。ギャグにしても言い過ぎである。分っちゃいないのである。パウロに始まり、宗教改革の闘士達(ルター、カルビン)はみな「贖罪」「代罰」をのみ叫んだのである。「贖罪」の話は人間各自にとって恥であり恥部であり触れられたくない痛いことであるが、これなくしてキリスト教の本質、聖書の本質はわからず、結果的に真の平安が得られない。

 「贖罪」を必要とする人は、思わざる事件を起こして「絶体絶命」になった人である。誰も助けてくれなくなった人である。親しい友人にすらそのことを言えないほど「思わざることをしてしまった」人である。彼らは「私には贖罪の必要はない」とは言わず、「必死に」贖罪を求める。罪というものは人間の世界では罰せられ、恥をかくだけである。それをイエスの十字架は贖って赦して隠してくれるのだ。

 「贖罪」を必要としない人は「聞く耳をもたない」ので私の話は通じない。心は通わない。わたしはその人には足の塵を払って決別しなければならない。「さようなら。達者で暮らしてください.

 

ルカによる福音書 5:30-32 ところが、パリサイ人やその律法学者たちが、イエスの弟子たちに対してつぶやいて言った、「どうしてあなたがたは、取税人や罪人などと飲食を共にするのか」。

31 イエスは答えて言われた、「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。

32 わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。 (JCV)

 

マタイによる福音書 10:14[塚本訳]しかし人があなた達を歓迎せず、あなた達の言葉に耳をかたむけないなら、(すぐ)その家なり町なりを(出てゆけ。そして)出てゆくとき、(縁を切った証拠に)足の埃を払いおとせ。"

 

使徒行伝 13:50-51 ところが、ユダヤ人たちは、信心深い貴婦人たちや町の有力者たちを煽動して、パウロとバルナバを迫害させ、ふたりをその地方から追い出させた。

51 ふたりは、彼らに向けて足のちりを払い落して、イコニオムへ行った。 (JCV)

 

わが国に福音が広まらないのは、「必要としている」人にパンを投げないでいるからである。「健康な人」にのみ目を向けてそこにパンを投げているからである。その伝道の目的は世のため、日本のため、世界のためである。そうではないのだ。福音は個の救い、「罪人の救い」のためなのである。「健康な人」には「贖罪」の話より、天下国家を批判する姿勢、社会改革、社会運動、教育改革、福祉改革、文明改革、医療改革などのかっこいいことの方が受け入れられやすい。この世の人が喝采するのはクリスチャンのその働きである。それはすべてこの世のこと、地上天国のことである。それは理性で分りやすいことだからである。.現代無教会はそれらの声に「贖罪」の声がかき消されている。彼らの「贖罪の真理を覆い隠している罪」は重い。教会主義よりもたちが悪い。彼らは「贖罪」は個の問題でそれが社会改革に影響せず上滑りしているという。社会改革がそんなに大切か!。社会がよくなっても霊魂の救いは来ない。罪の赦しはない。真の平和はない。見よ、平和運動者達の間での醜いイデオロギー争いを。

私は彼らに言う。社会改革の運動などに時間を割かずに、もう一度まじめに聖書をじっくり学ぶ必要がある。世の中は「神ご自身が」よくしてくださるのだ。これは怠慢ではない。これを怠慢と考える人は「自分の義」を立てる不信仰の人間である。これは全能の神を味方にする信仰のあるなしの問題である。

2001.3.9高橋照男

 

 

「贖罪」によって女性は美しく、男性は聡明になる

 

「贖罪」によってもたらされるのは霊魂の安らぎと平和である。聖書が御霊の実は愛、喜び、平和、希望、というのはそのことである。

 

ガラテヤ人への手紙 5:22-23

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、

23 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。 (JCV)

 

その結果どうなるかといえば、女性は美しくなり、男性は(女性もであるが)聡明になり、頭がよくなる。

 

なぜか。

女性の美しさは心から溢れる顔の気品である。いくら化粧品を塗りたくっても心が安らいでいて目が澄んでいなければ美しくないからである。

 

マタイによる福音書 6:21-23[塚本訳]

22目は体の明りである。だからあなたの目が澄んでおれば、体全体が明るいが、

23目が悪いと、体全体が暗い。だから(天に宝を積まないため、)もしあなたの内の光(である目、すなわち心)が暗かったら、その暗さはどんなであろう。"

 

男性の魅力は聡明さである。これも心が澄んでいることからくる。心に邪念があると世の中や対人関係でつまらぬ邪推をする。今日の新聞記者や国会議員はみなこれに陥っているからその邪推にもとづく発言は低級である。新聞記事や国会での野党の質問は実にレベルが低い。ところが今日クリスチャンの中にもこれがいて、常に国家批判、体制批判をしていてそれを神のため「地の塩」「預言者」の働きと誤解している輩がいる。彼らに決まって共通なことは顔つきがよくないのである。目がとがっていて澄んでいないのである。鏡で自分の顔を見てみよ!。彼らの働きで世の中はよくならない。「この世の改善」の活動の熱心さからすれば共産党かヒューマニストのほうがまだよい。

仕事でも邪念がなければ「よい発想」が湧く。それには祈りの清い生活が必要である。すると物事の核心を端的に直裁に捉えることができる。その結果仕事や学問が真の意味で発展し、「成功」する。

建築設計の仕事でも本質が見えてきやすい。デザインも直裁で力強いものになる。

塚本虎二先生は若い女性の集まりで「美しくなりたければ古典を読みなさい」と言ったといわれます。

また稲の博士といわれた松島省三先生は「学問上のよい発想は清い生活から生まれる」と言われました。どちらも至言であると考えます。「贖罪」によらなければ人間の発想はいつまでも「地のこと」であり、その水準は低くすぐ古びてしまい役に立たないことを現実に見てきました。

 しかし美、聡明、成功、は結果であって目的ではない。これらを目的として神に近づこうとしても得られない。かえって美、聡明(学問・頭のよさ)、成功とは縁がない悲しみ(失われた悲しみ)の中で真の美、真の聡明さ(頭のよさ、学問、知恵)、真の成功が神により与えられるのである。

 

マタイによる福音書 5:4

 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。 (JCV)

 

2001.2.17 高橋照男

 

 

 

神の怒りと裁きが「贖罪」を要求する

 

神に怒りと裁きはあるのか。聖書に「神は愛なり」(ヨハネの第一の手紙 4:8)とあるから神には怒りはなく、また「裁くな」(マタイによる福音書 7:1)とあるから神に裁きなどはないのではないか。神は慈悲だけではないだろうか。神の愛と慈悲が人を救うのであって「贖罪」が人を救うのではないのではないか。これは異教国日本人の根本的な疑問質問である。かってわたしはこの疑問を教会で発して教会を困らせたことがある。仏教にはただ慈悲があるのみ。どんな深い罪も仏の慈悲で赦され救われる。ところがキリスト教では神には怒りと裁きがあり、そのために十字架の贖罪を必要とするという。実にやっかいなめんどうな宗教である。これさえなければキリスト教はもっとなじみやすく親しみやすく分りやすいのではないかとさえ思う。教会はよいところだと薦められるので行くとすぐ「人間は罪人だ。お前は罪人だ。裁かれる身だ。」といやなことを言われると言う。これ日本人の共通の認識である。

 神に怒りと裁きがあるのかないのかは、これ体験と実験で知る以外にない。頭で考え理論で解そうとしても無理である。神の怒りは個々人に様々の形で迫ってくる。神は何を怒るかというと「罪」を怒るのであって,その罪は「行動」と一体となっている。わたしの体験によれば神の怒りは心の苦しみ、霊魂の窒息状態によってもたらされた。それは「死ぬばかり」の窒息の苦しみである。そのときは「なりふりかまわず」に救われたいと思うのである。この苦しみは経済的苦しみでもなく、医学的苦しみでもない。霊魂の苦しみである。この身が罪の黒い塊であることの自覚である。自分の本当の姿が見えてしまったときの苦しみ、懊悩。この苦しみは「天然自然も父母も我を救えず」、いかにもなすすべがないのである。しかしありがたいことにこの霊魂の苦しみ、罪の自覚の苦しみは人類の普遍的な苦しみである。先輩がいる。

 パウロ「ロマ書7章」、アウグスチヌス「告白録」、バッハ「人よ罪に泣けBWV622」、内村鑑三「求安録」など。そして彼らの実験としては罪の苦しみは十字架の贖罪によって初めて「楽になる」というのである。つまり神の怒りと裁きはキリストの上に激しく下り,そのためにキリストは十字架で苦悶して死んだ。だからわれわれはこの身代わりの代罰のゆえに救われるのだという、実にヘンテコな時間的矛盾の責任逃れの宗教を信じているのである。では現代のわれわれはこの先輩達が信じているヘンテコな無責任な「虫のいい」宗教を信じることができるか。受け入れることはできるか。自分の犯した罪は生涯をかけて自分で償うべきではないのか。いわく何、いわく何。そんな議論をしているうちはまだ「楽」である。

今にも窒息して死にそうにならないとあのヘンテコな時間的矛盾(過去の人物がなぜ今のこの私の罪を贖えるのか)のまた責任逃れの(自分の犯した罪は自分で償え)福音には心が向かない。「溺れるものは藁をもつかむ」である。パウロ、アウグスチヌス,バッハ、内村鑑三ら諸先輩達はみな罪に溺れて、そこから「藁をもつかむ」思いで「なりふりかまわず」理性の疑問を振り切って「贖罪の福音」にすがりついたのだ。受け入れたのだ。その結果、何の不思議か心の窒息状態から解放され「楽になった」のである。

それが「ロマ書」(パウロ)、「告白録」(アウグスチヌス)、「宗教曲」(バッハ)、「内村鑑三全集!!」(岩波書店、教文館)になったのだ。人生の極限の苦しみは「贖罪」によって「楽になる」。神の怒りと裁きは「贖罪」で逃れることができる。

2001.2.16 高橋照男

 

 

 

 

もっとも悲しいことを拭う「贖罪」

 

「贖罪」は人生で最も悲しいことが拭われる人生の真理、実在の秘儀である。この秘儀の真理に出会って我々は人生のオアシスに遭遇したことになる。

人生で最も悲しいことは、この身が罪の身であると、その醜い姿が見えてしまったときである。アンデルセンの「醜いアヒルの子」は水面に移った自分の姿(灰色の毛)を見て悲しむ。それは生まれつきでどうにも直しようがないとあきらめる。

それに比べて、貧困や病気は人間的手立てで何とか回復できるものである。貧困はつらいことである。貧困ならば学校(大学)にも行けないことがある。しかし人生において貧困はいつまでも続かないものであり、またその逆に裕福な状態も長続きはしないものであることを知った。

病気や痛みもつらいことであるが、しかしこれも医学の発展のおかげで直るケースが多くなった。

また「死の別れ」という悲しみがある。これも人間に備わっている宿命だと思えば諦めがつくものだ。死は早いか遅いかだけである。

現代においてのもっとも深い悩みは「むなしさ、淋しさ」である。内村鑑三の「キリスト信徒の慰め」は貧、病、死、迫害、であるが、現代では「むなしさ、淋しさ」を加えなければならない。それは「俺は何なんだ」という迷子の悩みである。

この深い悩みは「あなたは私の愛する子である」という声を聞いて初めて充実し満足する。そんな道はあるのか。それは宗教的幻想ではないのか。幻想ではない。実在であり同時に過去にも現在にも雲のような証人がいる。証言は自分の体験以外は語れない。ただ、「私の愛する子」と呼ばれるためには「罪の身が贖われて」きれいにならなければならないのだ。しかし生まれつき灰色の毛の「醜いアヒルの子」は直りようがない。ところがである。それがイエスの贖罪で「真っ白な毛」になりいつのまにか白鳥の姿になるではないか。この奇跡、この喜び、この羽で飛べるようになった「自由」。この真実に出会って人生は成功である。長生きをしなくても人生は充実である人生は長さではない。金銭的成功ではない。

2001.2.14 高橋照男

 

 

 

「贖罪」は虫のよい話

 

罪は原則として本人が罰せられる。重罪を犯して死刑を宣告される場合,国法では死刑囚に代わってだれか他人が死刑にされるということはない。従って罪の処分は原則として本人が負わなければならない。だからイエスの死による「贖罪」は自己の罪をイエスが身代わりになってくれるという虫のよい話である。

では他人の力に頼らない罪の処分の方法としてはいかなるものがあるのか。それは悔い改め(反省)か自殺である。

 悔い改め(反省)で罪が消えるか。しかしこれは理論でなく実際問題として過去の罪の重荷は忘れようとしても忘れようとしてもそれが思い出されて心がさいなまれるのである。反省しても悔い改めてもこの悩みから逃れられないのである。消えないのである。消えれば問題はないのだが。そこで罪の処分の第一である悔い改め(反省)は実験的に実際的に効果なく無理である。

 では自殺で罪は消えるか。重罪を犯した場合、本人が自殺すればそれ以上追及しないのが国法であり,また被害者もそれで一応の満足をし、加害者の身内を殺すということはできない。しかし罪は自殺すれば済むというものではない。被害者の家族のその後の嘆き心痛が残るのだ。それを見るのがつらいとして自殺するとしたら、それは甘い。人生、そう簡単には死なせてくれない。

 罪とは何かということが根底の問題であるが、罪とは聖なる神の顔に泥を塗ることである。神の顔をつぶす事である。だから人間の両者が同意の行為・・・・たとえば婚前性交など・・・でも神の聖なる目からすれば怒りと断罪の対象である。その結果罪悪感にさいなまれるのも神の存在証明のひとつである。

ささいな事にも罪悪感にさいなまれるのは神が人間に対して聖なる者となるように要求しているかららしい。その期待を裏切る行為に対しては神は烈火のごとく怒るのである。怒るのは神の人間に対する期待と愛からである。

 そこで神はイエスの十字架で人間の罪を贖い、贖われた人は今度は神の奴隷(以前は罪の奴隷)として残る生涯を喜びのうちに償いの生涯(感謝からの働き)を送るのである。だから自殺は中途半端である。

自殺は罪の解決には足りない。(自殺しようと思ってもそう簡単には死ねないのはそのためか)

罪は自殺だけでは済まされない。贖罪は虫のよい話ではあるが、贖罪で贖われた人の残りの生涯は神の奴隷として償いの労役(それは償われんがための苦役でなく感謝の気持ちから)に服するのだ。だから「贖罪」は決して虫のよい話ではないのだ。「贖罪」のあとがあるのだ。それが「救われた人の生涯」なのだ。しかしその労役がなくても天国にいけるというのだから、イエスの十字架は「福音」なのだ。これをあまりにも虫のよい話とかたずけられないほど、我々の罪の重荷、苦しみは大きく、自分の努力ではどうしようもないものなのだ。どうにかできるという道があれば教えてもらいたい。キリストの十字架抜きで罪の苦しみから脱却できて、心がさいなまれなくなる道があればご教示願いたい。トルストイの「復活」は主人公ネフリュードフがカチューシャを犯して堕落させたのを悔い改め、生涯にわたって償おうとする話だが、福音の香りがしない。十字架によって我々は努力なしに苦役なしに一瞬に救われるのだ。「かたじけない」。

 人生は実験である。自己の実験にもとづかないことは他人にしゃべることはできない。

      

2001.2.8 高橋照男

 

 

 

 

「もうだめだ」と思ったときに思い出す「贖罪」

文化文明の進歩は人間をして「もうだめだ」という場面をもたらさないようにとの願いがその原動力になっている。

文明の進歩、それは「自己の保存」への要求である。国家の保存永続、自己の生命の保存永続。そのために人間は非常に高度なものを発案してきた。

民主主義という政治体制、医学医療の発展、延命医術(そのおかげでボケ老人が大量に増えている)自然災害から身体を守る技術(土木建築・・ところが地震では建物が人を押しつぶして殺す)など、これらはみんな人間の「自己保存」の本能が発明をもたらしたものである。

 そしてこれらこの世のことはだれがやったということなしに次第次第に改善されてよくなってきたのである。わたしの若い頃の建築現場の休日は月に一回がせいぜいであったが,今では大工さんも日曜日には必ず休んでいる。これは健康保持のためである。このようなことはだれがやったということなしに世の中は次第次第に改善されていくのである。身体的、政治的、環境的のこの世のことは次第次第に自然に良くなっていくことをわたしは知った。

 しかし人生には「どうしようにもならない」絶体絶命の「もうだめだ」ということがある。それは罪の現実である。つける薬がない。罪があるということは理論ではなく「良心」が証明し、またいやがおうにもそのような現実にぶつかるものである。人間は神の手から逃れることはできないのである。

 

詩篇 139:9-11

曙の翼を駆って海の中に行き着こうとも

10 あなたはそこにもいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる。

11 わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光が照らし出す。」 (JNICV)

 

罪は人間の文化文明ではどうしようもないものである。がんばってもだめである。そのとき人間は直感的に本能的に「もうだめだ」と感じるものである。そのとき思い出すべきことがある。「贖罪」。幼いときから耳で聞いていたところの「神はイエスの死で罪を贖ってくださった。」との千古不易の伝承である。われわれはそのとき、その伝承に(教会にではない)「参った」すべきである。柔道でも参ったをすれば救われる。この人生も「参った」をすれば逃れる道がある。むずかしいキリスト教や聖書を勉強しなくても神の攻撃にただ「参った」をすればよいのである。そのとき神の攻撃は我々を滅ぼすためにあるのではなく,救うためにあったことを知る。信仰は難しいことではない。人生のある日に、もうだめだと思ったときに、人類の歴史の壁に染み付いた贖罪の伝承に(一人の人間にではない)「参った」をして救いを受け入れればよいのだ。            20001.2.6 高橋照男   

 

 

 

 

人生に贖罪は必要か

人生に贖罪は必要か。それは人様々である。ただ罪が「苦しい・つらい」と感じる人にとってのみ必要である。しかし生まれつきの人間は罪が「苦しい・つらい」というまでの自覚に至らない。「罪」は人間に自然に備わっている「煩悩」だとして苦しみなどを感じないで通過する。しかし「煩悩だから仕方がなかった」ではすまされないほど人生が「ひどい」ことになったとき、その泥沼の中で初めて「自分の罪の醜さ」がわかり窒息状態になり必死に救われたいと思うのである。このとき救いの必要を感じる。それまでは人生の淋しさ、むなしさ、生きがいのなさなどが罪の故に生命の本源たる神と交わりができていないことが原因であるとは知らず、人間的手段でその「淋しさ、むなしさ、生きがいのなさ」を埋めて、その日その日を、紛らわせてしまって救いの必要を感じることなく、従ってキリスト教とは「縁」がなく一生を終わる。これが同胞99%の現実である。

ここにおいて我々は同胞に向かって「罪の自覚」や「贖罪の必要」を喚起することはできない。それは余計なおせっかいで無駄なことなのだ。人に「ニーズ」(必要)を喚起することほど時間がかかってまた効率の悪いことはない。指揮者の斎藤秀雄はめったな人を自宅に呼ばなかったという。それは「無駄」だからと語っていた。かって私に「自分はクラシック音楽は何を聞いても同じに聞こえる」と言った人がいたが、そんな人に「音楽の楽しさ」を説くのは徒労である。以前私がある人の家に客になったとき食事の前に盆栽の話しを延々とされて閉口したことがあった。私は盆栽に興味はなく早く目の前の夕食を食べたかったのである。主人にとっては私に盆栽の話をするのは無駄なことであった。わたしはそれを求めていなかったからである。

 神は人の状態を見て、ちょうど良いときに(それはしばしば人生の泥沼を通して)彼の心を照らし出して罪を示し、救いの必要を感じさせ,同時に「救い」を与える。人間にとって自分の醜い罪が照らし出されるとき、救いとしての贖罪はその背後に待ち構えている。神は無駄なことはしない。

 

詩篇 94:18 [口語訳]しかし「わたしの足がすべる」と思ったとき、

主よ、あなたのいつくしみはわたしをささえられました。

 

医者(神)も癒す(救う)場合以外は「病気の宣告」(罪の宣告)をむやみに行わない。罪が示されるつらい日は同時に贖罪の救いの日なのだ。その救いの日、恩恵の日が同胞の若き日に来ますように。年老いて諦めばかりで「救い」を求める意欲すら薄れるまえに。

 

伝道の書 12:1 あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、 (JCV)

2001.1.19       高橋照男

 

 

 

 

 

贖罪は日本語で説明できるか

 

尻拭いする

  これは賀川豊彦の言葉である。神の贖罪は母親が子供の不始末を尻拭いすることだと説明した。母親は自分の赤ん坊の便は汚いものと思わないらしい。

水に流す

  これは亀井勝一郎が贖罪の概念は日本にもあると言ったときに持ち出した言葉。神道の清め。「今日のことは水に流そう」という使い方をする。しかし我々の罪は水ではなく「血」で清められたのだ。罪は水道(井戸)の水などでは清まらないほど重い。

清算する

  人間関係のもつれを解くときに使われる。「彼はその関係を清算するために彼女を殺した」などと。神は人間との関係のもつれを我が子を殺して精算してくれたのだ。

最近の経済ニュースでは、「負債の清算」という言葉が多い。「穴を埋める」とも言う。

保釈金を払う

  刑務所に入った大物が保釈金を支払って出所する例がある。罪の大きさと保釈金の関係はどのようになっているのだろうか知りたい。興味がある。地獄の沙汰も金次第なのか。地獄にはいくら持っていけばよいのか。否、支払い不能な金額をイエスが全額支払ってくれるのだ。「ありがたい」「かたじけない」

禊(みそぎ)

  刑務所に入った政治家が再び選挙に出馬するとき、「禊(みそぎ)」を澄ませてきましたという。しかし彼の過去の罪は消えない。日本人の罪概念の浅さが露呈している。過ぎ去った過去は神でもとりもどせない(三浦綾子)のだ。

自腹を切る、身銭を切る

  我々は本当にやりたいことは「自腹を切って」でも行うものだ。十字架は神が自腹を切って我々を救い出してくれたのだ。「もったいない」

胸が痛む

  北森嘉蔵に「神の痛みの神学」がある。(無教会ではこういうことを神学にはしない。ただ生きるのみ。)十字架の本質は痛みではなく「愛」からである。神の名誉のためからである。神のプライドのためでもある。神の義を立てるためである。神の心を一つの概念で頭で神学的に説明しようとすると急に力と命がなくなる。

人身御供(ひとみごくう)

  ロマ書3章25節の「宥めの供え物」(塚本、新改訳)はこれに近いか。これは人間が神の怒りを和らげるために人間(あるいはわが身を)を捧げる古来からある概念だが、捧げものは神がそれを受け入れるかどうかは別。十字架 は神のほうからの業である

出血サービス

  あるプロジェクトで。「もう少し貸し出し金利を下げてもらえませんか」(私)。「わが方も出血しているのでこれ以上は無理です」(銀行)という場面があった。

恩賜 

上野動物公園の表札に「恩賜記念公園」と書いてあった。十字架も神からの賜りものである。賢き妻は神より賜るという。賜物は素直に受けるときにその本質が分かる

罪滅ぼし・償い

  「罪滅ぼしのために行っています。償(つぐない)のつもりで行っています。」という言葉も日本語になっている(朝の連続テレビドラマで聞く)。しかしどんなに良いことをしても過去の罪は消えず、また心の重荷が降りないところが我々の悩みなのだ。よく「盗んだ金は返しました」という人がある。人生それで済むなら簡単なのだが、そうはいかないところが悩みなのだ。

駆け込み寺

 これは実に分かりやすいよい言葉である。人生はしばしば駆け込み寺に行きたくなる場面がある。あるいは四国八十八箇所霊場の行脚に出かけたくなるときもある。 十字架は神の怒りを避ける我々の駆け込み寺である。失敗による悩み事は何でも聞いて受容してくださる。我々は日ごと夜ごとにイエスに「駆け込む」必要がある。悩み事や心配事を聞いてもらいに行く必要がある。

 

以上はすべて説明であって贖罪そのものではない。栄養学は栄養そのものではない。楽譜は音楽そのものではない。栄養は自分で摂取して、音楽は居住まい(姿勢)を正して聞いて心に響いてはじめて自分のものになる。栄養も音楽も説明を聞いて頭で考えていただけでは自分のものにはならない。居住まい(姿勢)を正して聞き、信じて摂取しなければ栄養にならず、心に響かない。贖罪も姿勢を正して聞き(大工になるための訓練も最低7年はかかるのだ)、求める姿勢で信じることにより現実に「今のこのとき」にわが身に贖罪が起こることによって初めて自分のものになる。パウロ書簡は全部これ「説明」なのである。だから罪の赦しの体験のないものがいくら頭で読んでもさっぱり分からない。しかし「体験者」にはどんなまずい説明(註解)でも「ピンとくる」ものなのだ。だから「贖罪」もいくら日本的に日本語で説明しても伝えることはできない。「贖罪」は人間の言葉による説明では伝達不可能である。神の「超自然的」な介入でその人の「心の目」が開かれるときにはじめて分かるものなのだ。(大工の徒弟も仕事を体でおぼえて開眼する。大工に限らずどんな仕事でも最低7年の修行が必要。)だから同胞に対しては個人的に神の介入の働きが下ることを切に祈るものである。

初代キリスト教徒は同胞に対する福音の弁明に人間的な業のすべてを断念し、ただひたすらに神の介入としての終末を祈った。「主よ、来たりませ!」と。

                              

2001.1.20    高橋照男

 

 

 

 

旧約聖書に現れた神の贖罪の心

旧約聖書に現れた神は「義」(峻厳なる審判者)の神で新約聖書に現れた神は「愛」(救い)の神であると解すると十字架の意味は希薄になる。神は昔も今も永遠に変わり給わない。父なる神は厳しく恐ろしい存在だと思っていた人類がその厳しさは「愛」の故だと悟った段階が新約である。そのことをよーく理解したのがパウロである。パウロはそれをロマ書にまとめた。神においてはその心の中に義と愛が渾然一体で不可分である。義を立てれば愛が立たず、愛を立てれば義がたたず、苦肉の策として他人となった人類を救おうと我が子を殺して義と愛の両方を満足させたのが十字架の贖罪である。

 では旧約の段階で「贖罪」の心はどこにあるかというと旧約聖書を学問的また聖書学的にでなくまた大家の註解書によらず「心でしみじみと」読むと随所に見えてくる。

 リンゴの事件で約束を破られ顔をつぶされた神はアダムとエバに「出て行け!」と怒ったが、そのあとで2人に皮の衣を与えて寒くないようにした。(創世記3:21)

 人類最初の殺人事件。弟のアベルを殺した兄カインはその土地から追放される身となるが、神はカインの追放にあたってよその土地でさまよいさすらう時誰にもいじめられないようにとカインの顔(多分)に徴をつけた。(創世記4:15)

 人類の堕落ぶりに怒った神は全地から人類を滅ぼそうと思って大洪水を起こしたが、もう二度とこんなことはすまいと思ってその約束の徴として虹をあらわした。私の場合は2000年4月23日に家を焼かれたが翌日南の空に大きな虹が現れた。(創世記8:21、9:13−15)

神は堕落町ソドムを怒ってこれを滅ぼそうとしたが、ほんのわずかでも正しい人(10人)がいれば滅ぼさないと言った。(創世記18:32)

 こんなことを何度も繰り返さないために神は十字架の贖罪で永遠に解決したのだ。ヘブル書はそのことを言っている。イエスは永遠の大祭司だと。

 

ヘブル人への手紙 5:6[塚本訳]

また(詩篇の)ほかの所で言われるとおりである。・・“あなたは永遠にメルキゼデクと同等の祭司である。”(彼はメルキゼデクと同じく永遠の大祭司で、ただ一代かぎりのアロンおよびその後継者とちがっている。)

 

ヘブル人への手紙 6:20[塚本訳]

主イエスはわたし達のために先駆者としてそこに入ってゆき、“永遠にメルキゼデクと同等の”大祭司となられたのである。

 

ヘブル人への手紙 7:24[塚本訳] イエス(の場合)は、“永遠に”生きながらえるのであって、彼のもつ祭司職は移り変りがないのである。

 

  2001.1.29高橋照男

 

 

復讐心は贖罪によって静まる

「復讐!!」「復讐!!」、人を赦せない夜。メラメラと燃え上がる「復讐心」。何をしても心に平安がこない「眠られぬ夜」(ヒルティ)。復讐したい。正義のためにも復讐したい。自分で自分をどうしようにもできなくなってしまうそのような夜は人生で一番つらく苦しいときである。

 

民数記 35: 21 [口語訳] または、敵意を抱いて殴りつけて、人を死なせた場合、手出しをした者は必ず死刑に処せられる。彼は殺害者である。血の復讐をする者は、その殺害者に出会うとき殺すことができる

 

詩篇 22:2[口語訳] わが神よ、わたしが昼よばわっても、あなたは答えられず、夜よばわっても平安を得ません。

 

こんなときはパウロの「戒め」の言葉も心に通じず慰めを得ない。「パウロ様ゴメンナサイ」

 

ローマ人への手紙 12:19 [口語訳]愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。

 

また申し訳ないがイエスの「戒め」の言葉すら耳に入らないのだ。「イエス様ゴメンナサイ」

 

マタイによる福音書 5:44[塚本訳]

しかしわたしはあなた達に言う、敵を愛せよ。自分を迫害する者のために祈れ

 

狂おしく「復讐心」に燃えて苦しんでいるとき、心に静かに小さな声がささやかれる。「お前も同罪だ!!」。このときまた瞬間に「十字架」が示されて自分の罪が赦される。不思議なる贖罪の体験。奇跡。そして心の重荷が降りる。

 

ローマ人への手紙 7:23-25[塚本訳]

わたしの肢体にもう一つの(わたし、罪の)法則(を喜ぶ外の人としてのわたし)があり、(その神の律法を行おうとする)わたしの理性の法則と戦って、肢体にあるこの罪の法則の捕虜にすることを、経験するのである。24なんとわたしはみじめな人間だろうだれがこの死の体から、わたしを救い出してくれるのだろうか。

25・・神様、感謝します、わたし達の主イエス・キリストによって!・・従って、このわたしは理性では神の律法に仕えるが、肉では罪の法則に仕えるのである。"

 

そして驚くべき平安が到来し、心に「平安」という大河が流れる。そして心の重荷苦しみからの解放、安らぎ、自由。これこそが人間の真の解放、これぞ「福音」なのだ。

 

イザヤ書 48:18 [口語訳]どうか、あなたはわたしの戒めに聞き従うように。そうすれば、あなたの平安は川のように、あなたの義は海の波のようになり

 

そしてわれわれはそのとき初めて人を赦せることができるのだ。「金持ちけんかせず」という、心に平安という莫大な富をいただいて我々は初めて人を赦せるのだ。それまでは「無い袖は振れない」ので人間は努力しても人を赦せない。ヒューマニズムでは無理なのだ。ユネスコ憲章第一条の「戦争は人の心の中で始まる」とは至言である。地上の平和はまず贖罪の奇跡による人間の「心の平安」が土台なのだ。「復讐心」が静まることが真の平和の基礎で、それは「贖罪」の道以外にはないのだ。

 

歴代志下 14:5 主が安らぎを与えられたので、その時代この地は平穏で戦争がなかった。そこで彼は、ユダに砦の町を次々と築いた。

 

2001.1.17 高橋照男

 

 

 

イエスは自分の死を贖罪の死と自覚していたのか

「イエスは自分の死を贖罪の死と自覚していたのか?」これは近代聖書学の最重要課題であった。その結論は「ノー」である。イエスは自分の死が人類の罪を救うためであるなどとは知らずに死んだのだ。自分は神の子だとか自分の血は人類の罪の赦しのために流す血だなどと自覚することなしに「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(我が神我が神何ゆえわれを見捨てたもうや)と神に絶望して死んでいったのだ。イエスは神の子だとかその死は贖罪の死だと思い込んだのはパウロを筆頭とする弟子達でイエス本人はそんなことは考えていなかったのだ。」これが近代聖書学の結論である。聖書学は良くやってくれた。こんなとき聖書学は有用である。これを否定して「イエスは自分の死を贖罪の死と考えていたのだ」と弁護する聖書学者がいるがそれは「ひいきの引き倒し」である。イエスが自覚していなかったのはそれは「神が」なさった事だからである。神は人類を愛するのあまり「我が子を」殺したのである。そのとき父なる神は愛する「我が子」に「おまえは人類のために死んでもらう」などとは言わない。それはあまりにかわいそうなことである。しかしその死の意味を真に理解したのはその神の心を深く知ったパウロたち弟子なのだ。イエス自身は「自分の死は人類の罪のための贖罪だ」などと「おこがましいこと」を言わずにただひたすら神の強引な方針に従い憤死したのだ。しかしその背後に潜む神の「愛の心」を知った後の弟子達が「イエスは神の子」とか「その死は罪の赦しのため」と自覚したのだ。「先生」という概念や「お父さん」という概念はその愛を自覚した人の唇にはじめて上るのであって、「先公(せんこう)」とか「親父(オヤジ)」とか思っているところには「先生」や「父」の概念は実在しないのだ。イエスはひたすら弟子の足を洗ったそのときイエスは「あとでわかる、いつか分かる」と多分つぶやきながら弟子の足を拭いたのだ。(ヨハネ13:7)。そしてあとになって悟った弟子達の自覚において「神の子」概念、神の子信仰が発生実在したのだ。

 

ヨハネによる福音書 13:7[塚本訳]

イエスが答えて言われた、「わたしが何をしているのか、いまはあなたにわからない。(わたしがいなくなった)あとでさとるだろう。」

(近代聖書学によればこの言葉こそ後代の加筆とするのだろうが、そこまで分析して読むと音楽でいう「音楽性」が失われて、聖書そのものの本質すら見失う。聖書はイエスを「神の子」と信じた人が書いたものなのだ。)

「あとで悟る」。その時はいつか。それは終末の時である。イエスにとって生きているうちは実を見ることができなかった。人生にとって苦難の意味は本人には最後の時まで隠されているらしい。我々はイエス以上に楽な道は歩めないのだ。

 

 

 2001.1.14 高橋照男

 

 

 

 

贖罪はなぜ信じにくいのか

なぜわが国の同胞に福音が伝わらないのか。これはプロテスタント宣教100年以上にわたるわが国の先人達の苦悩であった。

しかしその答えは簡単である。難しいことはない。深く悩むことはない。悪魔が人間に噛み付き毒素を体中に注いでいるので身動きができず、わが同胞は福音を信じようにも信じられなくなっているのである。

 

民数記 21:6-7 [新共同訳] 主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。 7 民はモーセのもとに来て言った。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」モーセは民のために主に祈った。

 

ヨハネによる福音書 3:14[塚本訳] そして、ちょうどモーセが荒野で(銅の)蛇を(竿の先に)挙げたように、人の子(わたしも十字架に)挙げられ(て天に上ら)ねばならない。

 

福音の説き方が悪いのではない。汎神論的日本精神(思想構造)が悪いのではない。聖書が難しいからではない。わが国が岩地だからではない。すぐれた人物がいないからではない。ただただ同胞が悪魔に噛み付かれて盲にさせられているからである。このことはパウロも当時のことを次のように言う。

 

コリント人への第二の手紙 4:4[塚本訳]

彼らの場合、この不信者たちの考えをこの世の神(である悪魔)が盲にして、神の影像である救世主の栄光をつげる福音の光を見ることができないようにしたのである。

 

したがってわれわれの戦いは「この世の人間的諸悪」にあるのではない。人間的諸悪は枝葉であって根ではない。枝葉は切ってもまた出てくる。根を絶やさねばならない。キリスト教は常に周辺のことが中心的になる傾向を持つ。(ブルンナーの教会主義批判、ブルンナー著作集第4巻(上)160ページ)周辺的なこととは教会主義にとっては教会運営、教会組織の維持、会堂建築、信者の増加運動。無教会主義にとっては体制批判、社会批判、国家批判、近代化に伴う諸相の批判。これら批判は信仰の受肉展開ではないのだ。それは神抜きの人間の力で地上に神の国を作ろうとする悪魔の策略に陥ってしまっているのだ。(マタイ4:1−11を精読の必要あり)。戦争反対で真の平和はこない。クリスチャンの教師が、学生が、公務員が、企業人が、専門の仕事を持つ者が本職をさておき信仰の立場からと言って社会批判の活動と運動に狂奔して、あたかもそれを行っていることがそれをしないクリスチャンより神のためにひとかどのことをしていると思っている。それが間違いなのだ。わたしはある時彼らがイエスの有体的復活を信じていないという共通点を持っていることを知った。復活は「神が」イエスを起こしたもうたのである。彼らはそういう神の力を信じられずにいる。彼らには神の力を信ずる信仰がない。!!だから自分達の活動に期待をかけるのだ。しかし彼らの活動は枝葉を切っていることに過ぎず、それは福音の定着、受肉、展開でもなんでもない。近頃は、昔もだが,牧師や伝道者までが本業を忘れてこの世の人の尻馬に乗って社会批判の活動を行っている。これは滑稽を通り過ぎて怠慢の罪悪である。彼らには神の力を信じるという「信仰」があるのだろうか。人生という限られた時間の使い方が間違っている。彼らをして社会を批判せしめよ、その批判は自己自身の内面批判になっていることに気が付く日の早からんことを祈る。我々の戦うべき相手は闇の本源たる「悪魔」(サタン)そのものである。こう言うとそれは信仰の空転、空回りだと感じる自己の義を立てるこの世的クリスチャンがいる。

イエスにとってもパウロにとっても相手はサタンそのものであったのだ。 

 

マタイによる福音書 4:9-11 [塚本訳]

10そこでイエスは言われる、「引っ込んでいろ、悪魔!(聖書に)“あなたの神なる主をおがめ、”“主に”のみ“奉仕せよ”と書いてあるのだ。」"

 

マタイによる福音書 16:23[塚本訳]

イエスは振り返って、ペテロに言われた、「引っ込んでろ、悪魔、この邪魔者!お前は神様のことを考えずに、人間のことを考えている!」

 

マルコによる福音書 1:41-42[塚本訳]イエスは(そのあわれな姿を見て悪魔に対する)怒りに燃え、手をのばしてその人にさわり、「よろしい、清まれ」と言われると、

 

エペソ人への手紙 6:11-12[塚本訳] 12私達の戦いは(この世の)血肉に対するものでなく、「権威」に対するもの、「権力」に対するもの、この暗の世界の主権者(なる悪魔)に対するもの、天上における悪霊(の軍勢)に対するものであるからである。

 

悪魔の業を滅ぼすのは子羊イエスキリストの犠牲の血である。黙示録はそれを言う。

人間を蛇の毒から救うのはただただ御子イエスの血による血清である。我々はただこれをのみ伝承する必要があるのだ。

 

ヨハネの黙示録 1:5[新共同訳]更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、

2000.1.8 高橋照男

 

 

 

 罪が分からなければ贖罪は分からない

 

贖罪は聖書の本質でありキリスト教の本質であるが、罪が分からなければ贖罪は分からない。しかし罪とは普通考えられるように「煩悩」ではない。罪とは神の顔をつぶす事である。神の顔に泥を塗ることである。これに対しわが国では「煩悩」が罪であると考えられているがそれは人間に「自然に備わった欲望」であり人間はこれから脱却することは不可能である。煩悩といわれる人間の欲望は108つあるといわれる。(大晦日に除夜の鐘が108つ打たれるのはここからくる。私には煩悩が108つ以上あるらしい。)この108つの煩悩を克己奮励、人間の努力で我慢滅却することが罪を清めるということではない。それができれば神も贖罪も必要でない。罪の本質を描いた創世記3章によれば、アダムとエバはリンゴを食べて神との約束を破壊した。この場合神の掟は人間の食欲を否定するものではない。食欲も神に備えられたものである。神は人間との間の「心の交わり」を「食欲」以上に重視して「約束」の徴として「りんごは食べるな」と命じたのである。だからアダムとエバがこの「約束を無視して」リンゴを食べたときそれは「神の顔をつぶした」のである。「神の顔に泥を塗った」のである。食欲が悪いのではない。リンゴを食べたことが悪いのではない。神との心の交わりを破壊したことがいけなかったのである。これが罪なのである。創世記3章は罪とは何かを説明する最高最大の「神話文学」である。

 ではこの「心の交わり」を回復するのにはどうしたらよいのか。人間の世界でも顔をつぶされた場合、謝られただけではすまない。約束を無視され顔をつぶされた神の怒りも簡単には収まらない。代償を要求する。人間が神の顔の泥を拭くことではすまない。その精神は「善行」である。「善行」で取り繕っても罪は消えない。罪は「死」を要求するほど大変なことだったのだ。聖書はそれを言う。それほどまでに神の顔は「聖なる」ものだったのだ。人間の側でいくら取り繕っても神との「心の交わり」は回復できない。

そこで神は自分の「満足」のために自分で自分を打って「血を流した」のである。それほど「顔をつぶされた」ことが悩みであったのだ。代償としての血を流さなければすまなかったのだ。それがイエスの十字架である。十字架の血である。「罪には代償が必要である」。この世はそのような原理でできているのだ。もしこの原理に不服で神も罪もあるものかという「独自の思想・人生観」で歩いてみようとすれば、それもひとつの生き方であるから結構であるが、その場合でも、まず人生の先輩としてのミルトンの「失楽園」ダンテの「神曲」など古今の大文学、バッハ、ベートーベンら大作曲家の「ミサ曲」など先人の言うことを学んでから「独自の道を歩」んでも遅くはない。人生の「効率」のためにもまずこれら人生の諸先輩に聞くべきである。一回きりない人生だから先人を無視して「自分独自の道を歩いてみよ」と言って険しくクレバスのある道に送り出すほど彼らは好好爺ではない。バカではない。彼らには愛があったから大文学や「ミサ曲」が誕生したのだ。神は預言者を立てて神を無視した道に行くことを警告している。それが旧約聖書である。              2001.1.4 高橋照男

 

 

 

贖罪が分かるためには

イエスの死は今から2000年も前の一歴史上のユダヤでの出来事である。その過去の一人の死がなぜ現在の私の罪を贖う効力があるのか。それは時間的な矛盾ではないか。・・・これがキリスト教に対する若き日からの長い間の疑問であった。

 「贖罪」はキリスト教の本質であるからこれが分かればキリスト教がわかるのであるが、「贖罪が分かる」ということはそう簡単なことではない。それは超自然的な神秘的な出来事だからである。しかし理屈や疑問はともかくそれは事実この身に起こってしまったのだ。

なぜであるか、その矛盾は人生の旅路の半ば、結婚後に次の個所で解けた。

 

マルコによる福音書 2:5[塚本訳]

05イエスはその人たちの信仰を見て(驚き)、中風の者に言われる、「子よ、いまあなたの罪は赦された。」

マルコによる福音書 2:10-11 [口語訳]

10しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と彼らに言い、中風の者にむかって、

11 「あなたに命じる。起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。

 

 「罪の赦し」という超自然的な神秘的なことがこの身に起こったのは、まず神に対してのなりふりかまわずの「体当たり」、「全身全霊で救いを求める態度」が私にあったからだと今にして考える。イエスに自分の病気を治してもらおうとした人はなりふりかまわず「あなたならきっと治せます」という「信じ込む姿勢」でイエスに接近する例が多い。その信仰の姿勢を「見て」イエスは腰を上げて神の権威を発動して罪の赦しの奇跡を起こしたのだ。(マタイ8:1-4,5-13,9:1-12,9:18-26,15:21-28,20:29-34、マルコ9:14-29ルカ7:11-17, 13:10-17,17:11-19、ヨハネ4:46-54, 5:1-9)今にして思えば私の場合も一生懸命に救いを求めたのだと思う。このマルコ2章5節や次のマタイ8章2節の個所のように。

 

マタイによる福音書 8:2[塚本訳]

02すると一人の癩病人が近寄ってきて、しきりに願って言った、「主よ、(清めてください。)お心さえあれば、お清めになれるのだから。」 03イエスは手をのばしてその人にさわり、「よろしい、清まれ」と言われると、たちまち癩病が清まった。

 

2000年後の今日でも贖罪が分かりたい、キリスト教の救いが分かりたいと思うなら、まず「体当たり」かつ「全身全霊で一心に救いを求める」姿勢を要する。キリスト教の贖罪はこれを分かろうとする人の姿勢次第で神の主権の発動の有無があり、それで「贖罪」が分かりもし、永久に不明のままでもあるのだ。

 

「力を尽くして狭き門より入れ」!(ルカ13:24)

 

次の問題、なぜイエスの死が今日でも「罪の赦し」の効力があるのか。その謎もこのマルコ2章10節の「神の権威」の発動で罪が赦された事実で解けた。つまり、この十字架以前の出来事でも十字架以後の今日の我々にも罪の赦しの奇跡が起きるのは神の権威の発動の故なのだ。それは今現在働く聖霊の働きであり、それによってのみ我々は神の実在を証明され,信仰に入れるのである。

今日の我々に則して考えれば、まず贖罪の本物の福音の伝承(ここにのみ教会・伝道者の使命がある)を聞いてそれを信じる(受け入れる)ことを通し、その結果神の主権が発動されることにより心に十字架が示され(それは一種のサイン、罪の赦しの神の語りかけの言葉)、それによって2000年後のこの身にも罪の赦しの奇跡が起きたのである。

 

2000.12.30高橋照男

 

 

 

罪が分かるということ

罪が分からなければロマ書は分からない。罪ということが分からなければロマ書も聖書も神も十字架も贖罪もキリスト教も分からない。罪の発見が神発見の入り口である。しかし罪を分からせてくださいという祈りは普通は人間の唇には上らない。むしろその先にある平安や喜びを頂きたいという祈りの方が先である。私達はそれを模索していた。しかしその喜びを頂くためには宿命として我々はまず生みの苦しみを経なければならなかった。

 

ヨハネによる福音書 16:21[塚本訳]

女が子を産む時には、女の(宿命の)時が到来したので悲しみがあるけれども、子が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはや(お産の)苦しみを覚えていない。"

 

人生において自分の罪が分かる時がくる。それは実に恐ろしい「宿命の時」である。その時われわれは自分の罪を知って、戦慄、懊悩、恐怖におののくのだ。だからだれもこの恐ろしい瞬間を望まない。自分も周囲も。それは「死の陰の谷」(詩篇23編4節)だからである。

 

ルカによる福音書 23:30-31

その時人々は“山にむかっては、『われわれの上に倒れかかって(殺して)くれ』、丘にむかっては、『われわれを埋めてくれ』と言い”続けるであろう。

31(罪のない)生木(のわたし)でさえ、こんな目にあわされるのだ。まして(罪にくされた)枯木は、どうなることであろうか!」"

 

自己の罪を知って「殺してくれ」と叫ぶときその背後には「救い」が備えられているのだ。罪が分かって救いが分かり神が分かるとき、それは第二の誕生、霊の命という新しい命の誕生、永遠の生命への誕生である。これは肉の父ではなく、本当の父(造り主)に出会うときである。このつらい経験なくして人生は片面であり、半人前である。この恐ろしい瞬間は人間にいつかは訪れる。肉の父としては生んだ子供にその苦痛が訪れるのはかわいそうに思うが、それは肉の割礼ではなく霊の割礼の時が到来した宿命の時と考えなければならない。肉の割礼のときに子は痛がって泣くが親はそれに耐えねばならない。「苦しみは瞬時にして喜びは永遠である」(ヒルティ幸福論)。人生は神を知るための旅路である。

では人間にとってその第二の誕生はいつ訪れるのか、それは神ご自身が定めることなので「神のみぞ知る」ことなのだ。早い人もいれば、人生の最後になって神を知る人もいる。しかし神が生もうとするので早い遅いは関係なく「救いは確実に神の手の中にある」ことを信じてわれわれは一切を神の主権にゆだねること

できるのだ。そして最後は「全人類が救われる」日がくるであろう。

これがロマ書の結論のようである。(ロマ書11章25-32)

 

 

 

 

 

ローマ書講読の方針

長い間取りくんできたヨハネ文書(ヨハネ福音書、ヨハネ書簡)を離れて、今度はローマ書に取り組むことにする。本年7月に脳出血で倒れ、最近の検査で今度は脳梗塞の症状が出ていると宣告され、いつ「死」がやってくるか分からなくなった。そのために何かせかされる気がするようになり、この際、聖書中の聖書と言われキリスト教の歴史を作ってきたローマ書だけはこれを深く読んでおきたいと考えるようになった。

私の手元には、4月の火災で焼け残ったローマ書の研究に関する有力な次の参考書がある。

 カールバルト  ローマ書  カールバルト著作集14  662ページ

        (16世紀宗教改革以後の最大の神学的事件といわれる名著)

 ケーゼマン   ローマ人への手紙 (ケーゼマンはブルトマンの弟子で本書は古今の説を網羅解説したロマ書注解の決定版とされる) 976ページ

 ウルリッヒ・ヴィルケンス EKK新約聖書注解Y-1650p)Y-2556p)Y-2(未刊)

 パウル・アルトハウス   NTD新約聖書注解 404ページ

 内村鑑三    ロマ書の研究 日本の有識者の多くを導いた名著 712n

 塚本虎二    ロマ書 塚本虎二著作集第9、第10巻 合計871ページ

 黒崎幸吉    註解新約聖書 149ページ

 高橋三郎    高橋三郎著作集第6巻 573ページ(新刊)

 白井きく    ローマ人へ 284ページ

しかしこれらの本全部に目を通すには、残念ながらいま体力と時間と意欲がない。そもそもパウロの手紙は難しいと聖書にも書いてある。

ペテロの第二の手紙 3:15−16[塚本訳]

 15また私達の主の寛容をもって(君達の)救い(の保証)と考えよ。私達の愛する兄弟パウロも授けられた知恵に従って君達に書いた通りである。

16これについて述べているその凡ての手紙においても同様であるが、その中には難解なものも少なくないので、教養のない者や心の定まらない者は他の(聖)書と同様これをも曲解して自分の亡滅を招いている。"

 

したがって難解なパウロの手紙のそのまた注解を読むとなるとますます難しくなる。それは本質理解にはあまり関係のない言語上のまた神学的論争が多い。そこで独自に新しい方法で読むことにする。それはローマ書を「イエスとパウロに解説してもらう」方法である。これは塚本虎二先生に「聖書の読み方」の本道として教えられた方法でもある。

それは 

・よい翻訳を複数読む。

・聖書の引照をあちこち引いて「ああそうか」と自分自身の心で納得すること。

・不明な単語は原語にあたること。(しかしそれは本質理解に大した問題ではない)

この3点を忠実に守ることである。それはいわゆる「素人読み」「百姓読み」といわれる方法で、この方法で「心に響く」(胸が熱くなる)ものがあれば真に聖書を読んだことになるというのである。「ああそうか」と自分が思えばそのとき聖書が初めて読めたことになり、読み間違いはないというのである。聖書の読み方にはこの「素人性」が大切で、それが本質理解に迫る方法であると解する。もともとローマ書は素人に向けた「手紙」なのである。難しく読む必要はないはずである。幸い私は聖書勉強の道具としてパソコンソフトの便利なもの(ロゴス聖書ソフトウェアー、Jバイブルなど)を保有しており、これを駆使して新しい方法でローマ書の「心の響き」に接し、胸が熱くなる読み方をしたいと考えている。パウロの言わんとしていることをイエスはどのようにやさしく言っているか、またパウロはその部分を別の個所でどのように表現しているか、それを探求するという方法でローマ書を読む。これは多分はじめての方法ではないかと考える。事実そのようにして「聖書で聖書を読む」と心が満たされて「足れり」と思うのである。そうなると人間の書いた本は色褪せて見え、魅力がなくなる事実がある。それは太陽の光と月の光の差のようでもある。

 さらに私にはまたもうひとつの課題がある。それは無教会読みの姿勢で貫いてみたいと思うことである。無教会読みとは「神がなさってくださる。神ご自身が働いてくださる。」という心(信仰)をもって読むことである。この方法で読むと解釈上で難しい論争になっている部分も註解書に頼らずともよくわかるという不思議な現実がある。この「神がなさってくださる。神ご自身が働いてくださる。」という信仰の姿勢は無教会が持っている独特の雰囲気(目)であり、わたしの(日本人の)心にしっくり、ぴったりするものである。「神がなさってくださる」ということに注目して読むこの無教会的読み方、これが解読のためのマスターキーである。そのマスターキーなる言葉は□□□のように2重下線で示した。

ここを何回も読めば自ずと意味が見えてくる。わからないとしたらそれ以上に人間的手だてはないのであとは神の介入を待つほかはない。それは本人自身の祈りの姿勢にかかわる。

それに対して□□□の一重下線は聖書学者達がこぞって問題にしている部分で、わかれば頭が「なるほど」と思う部分(歴史的背景や編集史的解釈など)であるが、わかったとしても胸は熱くならず、たいしたことではない部分である。したがってそこには注目しなくてもよい。  

もし神許したまえば最終の章(16章)に至る日まで私の命が保たれるように祈るものである。

このようにしてわたし自身が「来世実在の希望」を抱きつつ「死の川」を渡る準備をしたい。パウロがそうであったように。

われ思うに、今の時の苦難(くるしみ)は、われらの上に(あらわ)れんとする榮光にくらぶるに足らず。(ロマ書8章18節)

2000.11.10 高橋照男