感話

 

 

落ち着く場所を求めて

 

命は身体に宿り、身体は建物に宿り、建物は環境に宿る

(その聖書的根拠。建築士としての考察)

 

●命(霊)は身体に宿る

 

新共同 創  2:7

2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

 

口語訳 ヨブ 27:3-4

27:3 わたしの息がわたしのうちにあり、/神の息がわたしの鼻にある間、

27:4 わたしのくちびるは不義を言わない、/わたしの舌は偽りを語らない。

 

口語訳 ヨブ 33:4

33:4 神の霊はわたしを造り、/全能者の息はわたしを生かす。

 

口語訳 ヨハ 20:21-23

20:21 イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。

20:22 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。

20:23 あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。

 

口語訳 創  6:2-3

6:2 神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。

6:3 そこで主は言われた、「わたしの霊はながく人の中にとどまらない。彼は肉にすぎないのだ。しかし、彼の年は百二十年であろう」。

 

口語訳 レビ 26:11-12

26:11 わたしは幕屋をあなたがたのうちに建て、心にあなたがたを忌みきらわないであろう。

26:12 わたしはあなたがたのうちに歩み、あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となるであろう。

 

口語訳 エゼ 37:26-27

37:26 わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これは彼らの永遠の契約となる。わたしは彼らを祝福し、彼らをふやし、わが聖所を永遠に彼らの中に置く。

37:27 わがすみかは彼らと共にあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわが民となる。

 

塚本訳 Uコリ4:16

4:16 このゆえに、わたし達は気を落さない。いや、わたし達の(生れながらの)外の人はどんなにこわれていっても、(キリストによって生れた)内の人は一日一日と新しくされてゆく。

 

新共同 Uコリ5:10

5:10 なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。

 

●身体は建物に宿る

 

塚本訳 ヨハ 2:17-22

2:17 (これを見て)弟子たちは、〃(神よ、)あなたの家に対する熱心が、わたしを焼きつくします〃と(詩篇に)書いてあるのを思い出した。

2:18 するとユダヤ人が口を出した、「あなたはこんなことをするが、(その権威を証明するために、)どんな徴[奇蹟]をして見せることができるのか。」

2:19 イエスは答えられた、「このお宮をこわせ、三日で造ってみせるから。」

2:20 ユダヤ人が言った、「このお宮を建てるには四十六年もかかったのに、あなたは三日で造るというのか。」

2:21 しかしイエスは自分の体のことを宮と言われたのであった。

2:22 だから死人の中から復活された時、弟子たちはこう言われたことを思い出して、聖書とイエスの言われた言葉と(が本当であること)を信じた。

 

塚本訳  Tコリ3:16

3:16 (とにかく、)あなたは達は神のお宮であり、神の霊があなた達の中に住んでいてくださることを、あなた達は知らないのか。

 

塚本訳 Tコリ6:19

6:19 それとも、あなた達の体は神からいただいた聖霊の住んでおられるお宮で、自分のものでないことを、あなた達は知らないのか。

 

塚本訳 Uコリ6:16

6:16 神の宮が偶像となんの一致があろう。わたし達はたしかに生ける神の宮である。神がこう仰せられた。──『わたしは彼らの間に住みまた歩むであろう、わたしは彼らの神になり、彼らはわたしの民になる』

 

塚本訳 Uコリ4:7-11

4:7 しかしこの宝が、(貧弱な)土の器の中にある。それはその素晴らしい力が神のものであって、わたし達(土の器)から出るのではないことがわかるためである。

4:8 わたし達はあらゆることで悩まされる、しかし行き詰まらない。当惑する、しかし絶望しない。

4:9 迫害される、しかし(神に)見捨てられない。打ち倒される、しかし死にはしない。

4:10 わたし達はいつもイエスの死の苦しみを体に受けて持ち回っている。それはわたし達の体にイエスの命も現れるためである。

4:11 言い換えれば、わたし達が生きながらイエスの故に絶えず死の手にゆだねられているのは、イエスの(復活の)命もわたし達の死ぬべき肉体に(すでにこの世で)現れるためである。

 

塚本訳 エペ 2:20-22

2:20 使徒と預言者なる土台の上に築き上げられた建物であって、キリスト・イエス御自身がその『首石』である。

2:21 そして建物全体は彼において(しっかり)つなぎ合わされて成長し、主に在る聖なる宮となるのであって、

2:22 君達も彼において一緒に建て合わされ、神の霊の御住居となるのである。

 

塚本訳 Tペテ2:4-5

2:4 彼は人からは(役に立たぬと)棄てられたが、神の前では、『選ばれた尊い』活きた『石』(である。)

2:5 そして君達自身も(主と同じく)活きた石として建てられて、霊の家となれ。これは君達が聖い祭司として、イエス・キリストによって神の御意に適う霊の供物を献げるためである。

 

●建物は環境に宿る

 

新改訳 詩  16:5-7

16:5 主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。

16:6 測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。

16:7 私は助言を下さった主をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える。

 

新共同 詩  16:5-7

16:5 主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。

16:6 測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。

16:7 わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。

 

口語訳 詩  78:54-55

78:54 神は彼らをその聖地に伴い、その右の手をもって獲たこの山に伴いこられた。

78:55 神は彼らの前からもろもろの国民を追い出し、その地を分けて嗣業とし、イスラエルの諸族を彼らの天幕に住まわせられた。

 

口語訳 詩  84:1-4

84:1 万軍の主よ、あなたのすまいはいかに麗しいことでしょう。

84:2 わが魂は絶えいるばかりに主の大庭を慕い、わが心とわが身は生ける神にむかって喜び歌います。

84:3 すずめがすみかを得、つばめがそのひなをいれる巣を得るように、万軍の主、わが王、わが神よ、あなたの祭壇のかたわらに/わがすまいを得させてください。

84:4 あなたの家に住み、常にあなたをほめたたえる人はさいわいです。

 

口語訳 詩  90:1-2

90:1 主よ、あなたは世々われらのすみかで/いらせられる。

90:2 山がまだ生れず、あなたがまだ地と世界とを造られなかったとき、とこしえからとこしえまで、あなたは神でいらせられる。

 

口語訳 アモ 7:17

7:17 それゆえ、主はこう言われる、『あなたの妻は町で遊女となり、あなたのむすこ、娘たちはつるぎに倒れ、あなたの地は測りなわで分かたれる。そしてあなたは汚れた地で死に、イスラエルは必ず捕えられて行って、その国を離れる』」。

 

口語訳 エレ 3:19

3:19 どのようにして、あなたをわたしの子どもたちのうちに置き、万国のうちで最も美しい嗣業である良い地を/あなたに与えようかと、わたしは思っていた。わたしはまた、あなたがわたしを「わが父」と呼び、わたしに従って離れることはないと思っていた。

 

口語訳 ヨハ 14:2

14:2 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。

 

口語訳 Uコリ5:1

5:1 わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。

 

口語訳 ヘブ 11:10

11:10 彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である。

 

口語訳 ヘブ 13:14

13:14 この地上には、永遠の都はない。きたらんとする都こそ、わたしたちの求めているものである。

 

口語訳 黙  21:10-12

21:10 この御使は、わたしを御霊に感じたまま、大きな高い山に連れて行き、聖都エルサレムが、神の栄光のうちに、神のみもとを出て天から下って来るのを見せてくれた。

21:11 その都の輝きは、高価な宝石のようであり、透明な碧玉のようであった。

21:12 それには大きな、高い城壁があって、十二の門があり、それらの門には、十二の御使がおり、イスラエルの子らの十二部族の名が、それに書いてあった。

 

口語訳 黙  21:22-27

21:22 わたしは、この都の中には聖所を見なかった。全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。

21:23 都は、日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。

21:24 諸国民は都の光の中を歩き、地の王たちは、自分たちの光栄をそこに携えて来る。

21:25 都の門は、終日、閉ざされることはない。そこには夜がないからである。

21:26 人々は、諸国民の光栄とほまれとをそこに携えて来る。

21:27 しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。

 

口語訳 ヘブ 11:16

11:16 しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。

 

口語訳 黙  21:2

21:2 また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。

 

2004.8.22

高橋照男

 

神の霊は長く留まらない・・・創世記6章3節、

2003.11.24 無教会研修所助言者会議での発言骨子)

 

新改訳 創  6:3

6:3 そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」と仰せられた。

 

新共同 創  6:3

6:3 主は言われた。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は百二十年となった。

 

● 無教会からは「神の霊」が去った●神の霊が去ったための無教会の枯れ枝現象は、正統信仰からの逸脱、キリスト教からの変質という現象が起きている。その変質の姿は7つ(7つの悪霊に通じる)。1・ヒューマニズム 2・グノーシス 3・神学老人 4・人間崇拝 5・学歴崇拝 6・社会福祉 7・政治運動 しかもこの7つの悪霊は悪霊同士が「それじゃいけない」とお互いにイデオロギー論争をしている。わめきあっている。またそれを仲裁しようとする老人も現われる。これはみな「神の霊」が去った集団の知識だけの惨めな枯れ枝現象(神学的わめきあい)である。120年と言えば今年は内村鑑三が洗礼をうけた17歳の時から数えて125年目である。無教会は枯れた。●老人にカンフル注射を打ってマラソンをけしかけても無駄。ただ自然死を待つのみ●枯れ木も山のにぎわいとはいえない。枯葉は落ちなければ次の芽は出ない●今井館HPは半月で15000回のアクセス。日本にはキリスト教の教会や無教会の集会には属したくないが、聖書とか内村の本を読んでいるという人は多い。それは隠れキリシタンたるパソコンができる有為の「隠れ無教会」の青年たちである。彼らは救いを求めている。讃美歌214番のとおりである。

 

讃美歌214

北のはてなる 氷の山 照る日にやける 真砂の原

叫び求むる 声ぞ響く 「迷いの鎖ときはなてと」

 

●私のホームページでも5年間で15000回のアクセスがある。色々な悩みを抱えた方々からメールが来る。ホームページは悩みの告白と相談の手段。牧師さんからも悩み事の相談が来る●「無教会雑誌」という手段は次第にホームページいう形に変るであろう

 

●枯れ枝は切って捨てられ、薪にされて焼かれる運命となる。

 

新共同 ヨハ 15:5-7

15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

15:6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。

15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。

 

●ローマ帝国が衰退した原因は人口の減少●全国に300近くある大小の無教会主義集会は北のほうから消滅し始めていて、もはや歯止めがかからない。まもなく東京もその例外ではなくなる。無教会は人口の減少で消滅の危機にある。今井館の維持会員も減少の一途をたどりピーク時の60%●ヨハネ黙示録の7つの教会はスミルナとフィラデルフィアを除いて他の5つの教会はイスラム教に飲み込まれるか同化されて地上から消えた。細々とでも現在も続いている残りの二つの教会に共通して言えることは正統信仰に固く立ってきたことである。●正統信仰とは第一コリント15:3−5でパウロが言うように、「罪の赦しと復活」である●無教会研修所はこの2つに立ち返り、「有体的復活の使徒伝承」に固く立たなければならない。●ブルトマンは「人間は、復活宣教の言葉においてのみ神と出会う」と言っている。だから「有体的復活の使徒伝承」の宣教が希薄な現代無教会では若い者が神と出会えない!!。そういうショッキングな現象になっている。つまり「教会の外に救いあり」ではなくて「無教会の中に救いなし」となっているのが現状。餅屋に行っても餅が売っていない(塚本先生談)状況である。

 

塚本訳 Tコリ15:3-5

15:3 まえにわたしが(福音の)一番大切な事としてあなた達に伝えたのは、わたし自身(エルサレム集会から)受けついだのであるが、キリストが聖書(の預言)どおりにわたし達の罪のために死なれたこと、

15:4 葬られたこと、聖書どおりに三日目に復活しておられること、

15:5 またケパに、それから十二人(の弟子)に、御自分を現わされたことである。

 

新共同 Tコリ15:3-5

15:3 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、

15:4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、

15:5 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。

 

●「草は枯れ、花はしぼむ、しかし主の言葉は永遠」。 無教会主義という形は枯れてしぼむかもしれないが主の言葉は枯れずしぼまない。そして「意外な」形で福音は継続していくと信ずる。

 

口語訳 Tペテ1:24-25

1:24 「人はみな草のごとく、/その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、/花は散る。

1:25 しかし、主の言葉は、とこしえに残る」。これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である。

 

新改訳 Tペテ1:24-25

1:24 「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。

1:25 しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。

 

新共同 Tペテ1:24-25

1:24 こう言われているからです。「人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、/花は散る。

1:25 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。

 

塚本訳Tペテ1:24-25

1:24 何故なら『人はみな草』のよう『また』その『栄華はみな草の花のようである』。』草は枯れた花は落ちた』

1:25 『しかし』主の『言は永遠に消え失せない』。これが君達に』宣べ伝えられた福音の言』である。

 

前田訳Tペテ1:24-25

1:24 「人はみな草のよう、その栄光はみな草の花のようである。草は枯れ、花は散る。

1:25 しかし主のことばはとこしえに残る」と(聖書に)あります。これこそあなた方に福音として伝えられたことばです。

 

2003.11.

 

 

「塚本虎二 死から命に移っている」山下次郎編著の感想

 

 

山下次郎 先生

 

この度は「塚本虎二 死から命に移っている」山下次郎編著をお送り下さり衷心より御礼申しあげます。

塚本先生の聖書講演テープは、故大井花子さん(晩年は東京聖書読者会所属)が病床のご主人に先生の講演を聞かせようと、先生に無理に頼み込んで録音させていただいたものと伺っております。その時塚本先生は「君(大井さん)には負けたよ」とおっしゃられてしぶしぶご御許可されたそうです。このテープについては斉藤茂先生が「これは国宝になる」とおっしゃられたそうです。このたび改めて文書になったものを読みまして私もそう思います。外にではなく親しい内輪の者に語ったものだから、愛情が溢れているのだと思います。内輪の者にぼそぼそと語ったものに「歎異抄」があります。なにかそれと似たところがあると感じます。

 小生は、20歳の頃から、15年間に渡り、塚本先生のヨハネ伝のテープを2回繰り返して拝聴しました。それは故大井花子さん等の「テープの会」においてでありました。わたしはその都度感銘し、私の信仰生活の基盤はこのヨハネ伝講義テープにあると言っても過言ではありません。そのテープがこのたびこのように文献として残されることは日本のため世界のために大変重要なことであると信じます。テープは劣化するものだからです。このためにテープ起こしなどのお仕事をされた方々に深く感謝いたします。

 さて昨日と本日、早速山下先生の手になるところと塚本先生の特別講義を読ませていただきました。本書の真髄はP195の「見る」、p197の「聞く」「示す」「接する」の解説であると思います。つまり「見る」とは単に肉眼で見る、「聞く」とは空気振動によって鼓膜で聞くのではなく(それは浅い)、神の力が流れ込んでくる(p195最終行)ことなのであるという深い理解に改めて感動いたしました。その他p227の「しかし、わたしは信じているのであるが、必ず時が来る、分からせていただく時が来るのである。信仰のベテランである塚本はそれをよく知っている。それで彼は力強くも言うのである。『ある時に分かります』と。塚本の力では出来ないことをイエス・キリストがなしとげて下さるのである。それであるから、わたしたちは『信じて』、その時を待てばよいのである」というくだりは無教会主義の真髄であり、慰められます。名解説です。P240−242の山下先生の信仰告白は分かりやすく書かれています。P246の塚本の不幸論に対する山下理解は独特です。これにも慰められます。小生も2000年に家屋の全焼と脳内出血による一時意識不明という「不幸」は「あちらからやって」(p247の2行目)きましたが、幸いにも「恩恵であった」といえる身に薫陶されていまして、おかげさまで今では「感謝」なことであったと思っております。P251の6行目の「この」は「こと」のミスプリと解します。P209以下のNTDシュルツ、またヘンヘンなどの学説はいわゆる「編集史」の方法でありまして、私などはその時代に育ったものですが結局のところ「多分」とか「だろう」という結論に振り回されて,つまらなかったと感じております。それに比べて塚本先生のお話はご自身の「宗教体験」を通じての「然り,然り,否,否」との姿勢でありまして迫力があります。

さて、このお礼の紙面を通じまして、以前から常々思っているところを率直に申しあげさせて頂きます。私の人生を決定した先の「テープの会」はせいぜい数名の集まりでした。同じ講演には当時3−4百名の聴衆があったと聞いております。その当時私は伺っておりませんでした。私が無教会の集会に連なったのは豊田栄先生の時代で私が16歳の時からでした。私は塚本先生にお会い出来たのは春風学寮における喜寿のお祝いの席だけでした。ですからなおのこと先生のテープは貴重でした。その丸の内の大聴衆に比べ、テープの会は同じ塚本先生なのになぜこんなにも聞く人が少ないのか、それが不思議でした。また最近、武祐一郎先生(前・独立学園校長)が、全国を伝道旅行されると、「わたしもかっては塚本先生の集会に出たことがあるのですがねー」と非常に多くの老人から言われるそうです。現在無教会は大小300ほどの集会がありますが、老齢化が進んで自然消滅という現象になっております。歯止めがかかりません。私の観察するところそれは北の方から順次消滅していっております。まもなく東京もその例外ではないでしょう。このことをどう解釈したらよいのか。それが現在の私の課題であります。その原因は、塚本先生が「今」ここに生きておられないからであると思考いたします。福音を説く者は「今,この時代」に生きていなければならない、それが大切なことであると感じます。

 私は塚本先生と地球上で同時に息をしていたのは30年間でありまして、それで先生の信仰の「姿勢」とか「雰囲気」(エートス)とかに深く影響を受けたのだと考えております。しかしながら「今」その先生の信仰の「姿勢」とか「雰囲気」(信仰のみの信仰など)を後世に伝承しようとしても信仰は一向に伝わらないという苦い現実を体験しています。その方法では若い人にピンと来ないのです。つまりどんな偉大な宗教家であったとしてもその人間を指差していたのでは福音は伝わらないということであります。福音というのは「今に生きる」実在の人格が同時代の人に語りかける時に意味があるのだと解します。ですから過去の人物である塚本先生のテープを回しても人は来ないのです。イエス降世の目的は「今」語るということにあったのだと解します。ですから塚本先生という人が過去から今の人に語りかけても響かない。3−400人が5人になるというのはそういう宗教的な原理が含まれているのだと解します。その意味で塚本先生は同時代の人にご自分の宗教体験をもとに福音を語った。そこに秘密があったのです。不思議なことに塚本先生ご自身は決して過去の人物としての内村鑑三の言葉の引用をしませんでした。塚本先生自身の言葉で説かれました。そこに福音の現在性がありました。

 小生は3年前の2000年に家屋の全焼と脳内出血による意識不明という苦難を通じて「有体的復活の使徒伝承」ということがますます「最も大切なこと」(一コリ15:3)と自覚せしめられました。胸が熱くなった「有体的復活」の使徒伝承が苦難によって焼き付けられました。塚本先生があの「神は愛なり」という声を聞いたというのは圧倒的な臨在感であったのだと解します。胸が熱くなったのだと思います。先生の転機には必ず宗教体験というものがありました。P197の最終行で先生ご自身が「信仰体験」という言葉を使っておられます。パウロの復活体験は圧倒的な個人的な臨在感(それは有体的の感覚)であったと小生の小さな体験からもそう思います。なぜならパウロも塚本の体験もその傍にいた人にはそれがわからなかったのであります。山下説の通り「神は愛なり」は鼓膜の振動で聞こえたのではないのです。塚本先生はそれ以来ただひたすらイエスの復活の実在を宣教されました。これはP250以下に解説されています。無教会主義はそれの結果であります。しかしながらそれに続く弟子達は先生のこの体験をしないで「先生自身」を指差してしまった。先生の信仰の「姿勢や雰囲気」に感心しているばかりで、さっぱり「有体的復活の使徒伝承」を行っていない。つまり塚本先生は「有体的復活の使徒伝承」を指差していたのにかかわらず、その弟子達は人間塚本ばかりを指差している。これが現在,塚本シューレ(荒井献氏のことば)の限界であり衰退の原因であると思考いたします。「有体的復活の使徒伝承」が途切れている無教会は「歌を忘れたカナリヤ」です。ブルトマンは「人間は、復活宣教の言葉においてのみ神と出会う」と言ってますが、そのとおりであります。ですから「有体的復活の使徒伝承」の宣教が希薄な現代無教会では若い者が神と出会えない!!。そういうショッキングな現象になっている。つまり「教会の外に救いあり」ではなくて「無教会の中に救いなし」となっているのが現状です。餅が餅屋に売っていない(塚本先生)状況です。塚本先生ではなく、イエスが復活されたのです。前著「コリント後書講義を読む」において山下先生は塚本はこの講義を通して「俺も使徒なのだ」と言いたいのだとの名解説をなさいました。現在無教会には万人祭司「論」はあっても「使徒意識」はありません。ですから福音そのものが宣教されず、若い人がここに来ても「神と出会えない」のであります。無教会衰退の原因は端的に言ってここにあります。塚本先生は「有体的復活の臨在感による使徒伝承」を行った。しかし今はそういう人がいない。あるのは宗教体験なき人物達のイデオロギー闘争という末期的症状です。「有体的復活の使徒伝承」が途切れてしまっている。

 さてそうはいうものの最近、今井館理事長の清永氏からうれしい話を伺いました。氏は矢内原直系の方ですが、理事長になってからわかったことは今井館の実質的な仕事は圧倒的に塚本派(?)、つまり塚本系であるということを認識したというのであります。つまり世の中で実質的に仕事を行うのは天下国家を批判する人間ではなく、「信仰のみの信仰」の人間だというのであります。なにかマックスウェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で言っていることと同じような現象が起こっているのだとわかります。これを塚本先生が聞かれたら大変お喜びになられるだろうと思います。今井館の建築推進は津上毅一さん、図書の運営管理は斉藤顕さん、蔵書のカード整理の女性はそのほとんどが塚本派です。かく言う私も津上さんと斉藤さんの参謀として働いております。目を転じて、農業,医学、法曹、工学の世界においても実質的に良い仕事をされているのは塚本系の人間であることは私にもわかります。来年の塚本先生記念会には清永氏にそのことを語っていただく予定です。氏自身がそれを望んでおられます。

この度は貴重な文献をありがとうございました。先生のご健康をお祈り申しあげます。

 

2003.11.11

高橋照男

 

 

 

塚本虎二先生30周年記念会 開会の祈り  

主なる御神様

本年もここにあなたの御心によりまして塚本虎二先生の記念会を開かせていただけますことを感謝いたします。あなたがこの日本に福音を植えようとして始められた無教会主義は今や完全に日本に根を降ろしました。

本年は塚本先生が召されて30年です。30年と言いますと歎異抄が書かれたのが親鸞没後30年、マルコ福音書が書かれたのもイエスの死後ほぼ30年であります。このように30年という節目は同時に始めの教えが少々曲がり始める変化の時でもあります。本来の精神から外れた弟子達が出現した時期でもあります。

現時点で全国に300もあるといわれる大小さまざまの無教会集会は近年、メンバーの老齢化で次々と消滅しております。それはとどまることをしらずに消滅の現象が起こっています。なにかおそろしい天罰が下り始めたことを感じます。

私たちは今日ここに塚本先生を記念する集会を開くに当たり、「預言者の碑を建てる」という間違いをしてはならないと感じています。それは塚本先生の最もお嫌いになることでした。もし我々がそのようなことをしていたらそれは禍です。天罰がくだります。人間を指差すことによっては福音は伝わりません。塚本先生はその生涯において決して内村先生を指差しませんでした。その著作には内村先生の語録引用は極端に少なくあります。ほとんど見当たりません。塚本先生は内村先生の精神を生きました。ただひたすら聖書と復活のキリストのみを指差しました。無教会主義というのはその結果でありました。我々無教会グループは、人間内村鑑三を伝道しても福音は若い世代に一向に伝わらないという苦い経験を実証され続けています。それと同じく塚本虎二という人間を世に広めて福音を伝えようとしても福音は決して伝わることはありません。もし私たちがそのような間違いをして、聖書よりも内村・塚本先生の本を熱心に読んでそれを信仰の定規とするようなことをしているようであれば禍です。即刻天罰がくだります。それは聖書よりも教会の存在そのものを大切にする教会主義と同質の愚行です。もしこの30回を迎える記念会も集会の存続のみをその目的とするのでしたら、このような同窓会的な記念会は一刻も早くあなたの手でお潰しください。

しかしそれにもかかわらず本年もまた今日ここに塚本先生記念会を開かせていただけましたのはあなたの御心であると信じます。私たちの義務はこの記念会を通して人間を見ずに、塚本先生を動かしたあなたの「深い知恵」というものを感じとることにあります。もし我々がその神の知恵というものが見えずに、塚本虎二という人間だけが見えるようでありましたらそれは我々の目がおかしいのであります。信仰がおかしいのであります。その責任はあなたになくまた塚本先生になく我々の誤りにあります。

本日の会はまた恩恵によりあなたがお開きになられました。会の始めから終わりまであなたが共にここにおいでくださいまして。この会を祝してくださいますようにお願い申しあげます。開会にあたりこの祈りをあなたの御前にお捧げいたします。  アーメン

2003.10.26 高橋照男

 

 

人生において「まさか」と思うとき

人生には「まさか」と思うことが起こる。「まさか」私の家が全焼しようとは。まさか何の前ぶれもなく脳出血で突然に意識不明になろうとは。まさかウチの子に限ってそんなことが起ころうとは。などなど理想の人生に反して「まさか」という出来事が起こる。しかしその「まさか」と思う出来事の中に神の秘められた大なる知恵が隠されているらしい。それは「まさか」の苦難の渦中には分からないことだが、あとになってわかる。そこに人智では計りがたい神のご計画があるらしい。

 イエスの復活ということも「まさか」の出来事,事実であった。しかしここに神の深いご計画があり、人類の最大の悩み悲しみである罪と死から救う道を開かれた。だから「まさか」この私の罪が赦されるとは、まさか来世への希望が湧くとは、という人知では計り知れないことが起こるのである。

 

2003.10.12 高橋照男

 

 

「処女降誕」はどのようにして信ずるに至るか

2003年7月30日。早朝の散歩で秋留台公園の可憐な花を見たとたんに浮かんだ聖句。

 

文語訳マタイ6:28−30

"400628","又なにゆゑ衣のことを思ひ煩ふや。野の百合は如何にして育つかを思へ、勞せず、紡がざるなり。"

"400629","されど我なんぢらに告ぐ、榮華を極めたるソロモンだに、その服装この花の一つにも及かざりき。"

"400630","今日ありて明日、爐に投げ入れらるる野の草をも、神はかく装ひ給へば、まして汝らをや、ああ信仰うすき者よ。"

 

ここのポイントは30節の「神は」である。神の能力を信じられるか否かである。このことはペテロの次の説教にも通じる。

 

塚本訳 使  4:10

4:10 あなた方御一同はもとより、イスラエル国民全体も、このことを知ってほしい。ナザレ人イエス・キリスト──あなた方が十字架につけ、神が死人の中から復活させられた方──その名で、この人がよくなって、あなた方の前に立っているのです。

 

あくまでも神が主役、神の発意、神の動機である。ここをつかまないと信仰はわからない。この信仰に立つ時にはじめてあの難しい「処女降誕」の使徒信条の一節が氷解し、逆に要求となる。イエスは神が誕生させたのだ、人間の意志とは別にその意思に反して神の発意で誕生したのだ。ヨセフとマリアの合意で生まれたのではない。

 

塚本訳 ヨハ 1:14

1:14 この言葉は肉体となって、(しばらく)わたし達の間に住んでおられた。(これが主イエス・キリストである。)わたし達はその栄光を見た。いかにも父上の独り子らしい栄光で、恩恵と真理とに満ちておられた。

 

塚本訳 ヨハ 1:12-13

1:12 しかし受け入れた人々、すなわち、その名を(神の子であることを)信じた人には一人のこらず、神の子となる資格をお授けになった。

1:13 この人たちは、人間の血や、肉の欲望や、男の欲望によらず、神(の力)によって生まれたのである

 

こういう信仰に対して近代聖書学は「理性を犠牲にしてはいけない。人間はくらげやシダ類のように単性生殖ではない」と言う。しかしイエスの場合は単性生殖。ヨセフの介在なしに生まれた。

2003年7 月12日(土)の町田集会での私の発言「今日の日本の牧師の約三分の一は処女降誕を信じていないといわれている。ドイツの近代聖書学にかぶれているからである」。日本にキリスト教が広まらないのは牧師が原因、「有体的復活と処女降誕」をまともに信じていないからである。これは餅屋で餅が売っていないこと以上に悲劇。「有体的復活と処女降誕」を信じない牧師にひきいられる教会の姿は決まっている。それは音楽会や講演会映画会などのイベント集会、あるいは社会運動、人間崇拝、わめきあいの神学論となる。彼らがいくら「日本伝道論」を論じても無駄、不毛。餅屋に行って餅が売っていないのと同じだからである。「有体的復活と処女降誕」を固く信じてきた集団の無教会にも不信の影がさしてぐらついてきた。不信な彼らの現象は熱心な社会運動か人間崇拝。「アー信仰の薄い者よ」。「処女降誕」を学ぼうとしたらバルトの「我信ず・・クレドー」を読むより可憐な花を見て「神の能力」を思い浮かべたほうがよい。これ私の体験。復活の不思議処女降誕の不思議は植物の生育の不思議を見てそこに神の能力を「感じる」ときに納得する。復活論に植物を持ち出したのはパウロ。

 

塚本訳 Tコリ15:37-38

15:37 そしてあなたのまくものは、やがて出来る体をまくのではなく、たとえば麦にしても何かほかの種類にしても、裸の粒にすぎないのである。

15:38 しかし神は御心のままにそれに体をお与えになる、しかもそれぞれの種に独得の体を。

2003.8.1      高橋照男

 

 

「サウイフモノニ  ワタシハナリタイ」

2003.6.25 の日記より

030625(水)悪夢。外部の講演会における発言で、会社の名誉を傷つけたとして役員幹部連中数人に取り囲まれて責められたが、疑いが晴れて彼らが一斉に頭を下げたところで夢が覚める。そこで感想。死後の審判で疑いが晴れずに断罪されたときには横からキリストが来て身代りになって下さる。●その生涯。神もキリストも救いも何らかの事情で信じなかった人でもキリストの身代りの愛で救われると思うようになった●人間、死の恐怖と断罪される恐怖、これ最大の恐怖。そのとき「イエスの贖罪死と復活がある」と駆け寄って慰める、。そういう人に私はなりたい。

宮沢賢治「雨ニモマケズ」

・・・・・・・

南ニ死ニサウナ人アレバ

   行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ

   ・・・・・・・・・

   サウイフモノニ

   ワタシハナリタイ

●人類は、その生前に神を信じなかったとしても救われる。その聖書的根拠は。

「99匹の羊」(マタイ18章、ルカ15章)「放蕩息子の譬え話」(ルカ15章)「姦淫の女」(ヨハネ8章)「十字架の上の強盗」(ルカ23章)「ロマ書全体・・・異邦人の救い」●このように同類思想を集めるのがBbB(バイブルバイバイブル)作成の目的、ライフワーク。急いでやらねばならない。「行ッテコハガラナクテモイヽト」言うために●万人救済論は頭だけの理論だけでは心の安息がない。「胸が熱くなる」体験で復活を信ずるに至る時、霊肉の安息を得る。史実的根拠を聞いて理性も安息を得る。

2003.6.25 高橋照男

 

 

隠れたる祈り

 

マタイ6:6(文語訳)

なんぢは祈るとき、己が部屋にいり、戸を閉ぢて、隱れたるに在す汝の父に祈れ。さらば隱れたるに見給ふなんぢの父は報い給はん。

 

新共同 マタ 6:6

6:6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

 

新改訳 マタ 6:6

6:6 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

 

[塚本訳]マタ 6:6

6:6 あなたが祈る時には、『奥座敷に入り、部屋をしめきった上で、』隠れた所においでになるあなたの父上に『祈れ。』そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父上は、褒美をくださるであろう。

 

 人生で最も尊いことは人のためにする隠れた祈りである。これができてその人の生涯は

価値ある尊いものになったのであるといえる。神に喜ばれる隠れた小さな人生。しかしそれは成功の人生。イエスに一歩近づいたことになる。親のために、伴侶のために、血を分けた兄弟のために、子供のために流す隠れた涙は「隠れたる祈り」であって神に覚えられている。

●いじめられても、本人が悪いことになかなか気が付かなくても、その人を赦して執り成しの祈りを隠れてする時、それは夜空の「流れ星」のようなものである。一瞬であるが美しく輝く。それを知る人は少ないが神は見ている。

 

 

類似聖書個所

 

[塚本訳]マタ 6:3-4

6:3 あなたは施しをするときに、右の手のすることを左に悟られてはならない。

6:4 これは施しを隠しておくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父上は、褒美をくださるであろう。

 

[塚本訳]ルカ 23:34

23:34 するとイエスは言われた、「お父様、あの人たちを赦してやってください、何をしているか知らずにいるのです。」

 

新改訳 ルカ 23:28

23:28 しかしイエスは、女たちのほうに向いて、こう言われた。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。

 

[塚本訳]ルカ 19:41

19:41 いよいよ(エルサレムが)近くなって(はじめて)都が見えると、イエスは都(に臨もうとしている裁き)を思い、声をあげて泣きだされた。

 

[塚本訳]マタ 5:5-7

5:5 ああ幸いだ、『(踏みつけられて)じっと我慢している人たち、』、『(約束の)地(なる御国)を相続する』のはその人たちだから。

5:6 ああ幸いだ、(神の)義に飢え渇いている人たち、(かの日に)満足させられるのはその人たちだから。

5:7 ああ幸いだ、憐れみ深い人たち、(かの日に)憐れんでいただくのはその人たちだから。

 

[塚本訳]ヨハ 15:13

15:13 (わたしはあなた達のために命を捨てる。)友人のために命を捨てる以上の愛はないのだ。

 

口語訳 創  42:24

42:24 ヨセフは彼らを離れて行って泣き、また帰ってきて彼らと語り、そのひとりシメオンを捕えて、彼らの目の前で縛った。

 

●兄弟に見えないように泣いたヨセフ。尊い。

 

●文語訳の「自分の部屋」や塚本訳の「奥座敷」がない日本の住宅事情では「トイレ」に行って泣けばよいのだ。それに水を流せば小さな泣き声も聞こえないのだ。

 

2003.5.9 高橋照男

 

 

神の絶対恩恵による無条件の救い 

 

[塚本訳]マタ 21:28-31

21:28 いったいあなた達はどう思うか。──ある人に二人の息子があった。長男の所に行って、『坊や、きょう葡萄畑に行って働いてくれ』と言うと、

21:29 長男は『いやです』と答えたが、あとで後悔して出かけた。

21:30 つぎに次男の所に行って同じように言うと、こちらは、『お父さん、承知しました』と答えたが、行かなかった。

21:31 この二人のうち、どちらが父の心を行ったのだろうか。」「もちろん長男」と彼らが答える。イエスが言われる、「アーメン、わたしは言う、税金取りや遊女たちは、あなた達よりも先に神の国に入るであろう。

21:32 そのわけは、(洗礼者)ヨハネが義の道を示しに来たのに、あなた達は彼を信ぜず、税金取りや遊女の方がかえって信じたからだ。しかしあなた達は(あの人たちが悔改めるのを)見たあとでも、後悔して彼を信じようとしなかった。

 

[塚本訳] マタ 20:13-16

20:13 主人がその一人に答えた、『君、わたしは何も間違ったことをあなたにした覚えはない。一デナリの約束ではなかったのか。

20:14 自分の分を取って帰りたまえ。わたしはこの最後の人に、あなたと同じだけやりたいのだ。

20:15 わたしのものを、わたしがしたいようにしてはいけないのか。それとも、わたしが親切をしてやったのが羨ましいのか。』

20:16 このように、最後の者が一番になり、一番の者が最後になるであろう。

 

[塚本訳]ルカ 5:30-31

5:30 パリサイ人とパリサイ派の聖書学者が弟子たちに向かってつぶやいた、「なぜあなた達は税金取りや罪人と一しょに飲み食いするのか。」

5:31 イエスはその人たちに答えられた、「健康な者に医者はいらない、医者のいるのは病人である。

 

[塚本訳]ルカ 7:37-50

7:37 すると、その町に一人の罪の女がいた。イエスがパリサイ人の家で食卓についておられることを知ると、香油のはいった石膏の壷を持ってきて、

7:38 泣きながら後ろからイエスの足下に進み寄り、しばし涙で御足をぬらしていたが、やがて髪の毛でそれをふき、御足に接吻して香油を塗った。

7:39 イエスを招待したパリサイ人が見て、ひそかに思った、「もしもこの人が(ほんとうの)預言者だったら、自分にさわっている者がだれだか、どんな女だか、──罪の女だと分るはずであるのに!」

7:40 イエスが言われた、「シモン、あなたに言わねばならぬことがある。」彼が言う、「先生、言ってください。」イエスが言われる、

7:41 「ある金貸しに二人の債務者があった。一人は五百デナリ(二十五万円)、一人は五十デナリ(二万五千円)を借りていた。

7:42 返すことができないので、金貸しは二人(の借金)をゆるしてやった。とすると、二人のうち、どちらが余計に金貸しを愛するだろうか。」

7:43 シモンが答えた、「余計にゆるしてもらった方だと思います。」イエスは「あなたの判断は正しい」と言って、

7:44女の方に振り向き、シモンに言われた、「この婦人を見たか。わたしがこの家に来たとき、あなたは足の水もくれないのに、この婦人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。

7:45 あなたは接吻一つしてくれないのに、この婦人はわたしが(この家に)来たときから、わたしの足に接吻のしつづけである。

7:46 あなたは(普通の)油をすら頭に塗ってくれないのに、この婦人は(高価な)香油を足に塗ってくれた。

7:47 だから、わたしは言う、この婦人の多くの罪は赦されている。(いま)多くわたしを愛したのがその証拠である。赦され方の少ない者は、愛し方も少ない。

7:48 そしてその女に言われた、「あなたの罪は赦されている。」

7:49 同席の者が(憤慨して)ひそかに考えた、「罪さえ赦す(という)この人はいったい何人だろう。」

7:50 しかしイエスは女に言われた、「あなたの信仰があなたを救った。『さよなら、平安あれ。』」

 

[塚本訳]ルカ 15:1-2

15:1 さて、イエスの話を聞こうとして、(いつものとおり)税金取りや罪人が皆近寄ってきた。

15:2 パリサイ人と聖書学者たちがぶつぶつ呟いて言った、「この人は罪人を歓迎するし、また(招かれていって)食事までも一しょにする。

 

[塚本訳]ルカ 15:20 -24

15:20 そして立ってその父の所へ出かけた。ところが、まだ遠く離れているのに、父は見つけて不憫に思い、駈けよって首に抱きついて接吻した。

15:21 息子は父に言った、『お父さん、わたしは天(の神様)にも、あなたにも、罪を犯しました。もうあなたの息子と言われる資格はありません。……』

15:22 しかし父は(皆まで聞かず)召使たちに言った、『急いで、一番上等の着物をもって来て着せなさい。手に指輪を、足にお靴をはかせなさい。

15:23 それから肥えた小牛を引いてきて料理しなさい。みんなで食べてお祝いをしようではないか。

15:24 このわたしの息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』そこで祝賀会が始まった。

 

[塚本訳]ヨハ 8:1-11

8:1 イエスはオリブ山に行かれた。

8:2 次の朝早く、また宮に行かれると、人々が皆あつまってきたので、座って教えておられた。

8:3 すると聖書学者とパリサイ人とが、姦淫の現行犯を押えられた女をつれてきた。みんなの真中に立たせて、

8:4 イエスに言う、「先生、この女は姦淫の現場を押えられたのです。

8:5 モーセは律法で、このような女を石で打ち殺すように命じていますが、あなたはなんと言われますか。」

8:6 こう言ったのは、イエスを試して、訴え出る口実を見つけるためであった。イエスは身をかがめて、黙って指で地の上に何か書いておられた。

8:7 しかし彼らがしつこく尋ねていると、身を起こして言われた、「あなた達の中で罪(をおかしたこと)のない者が、まずこの女に石を投げつけよ。」

8:8 そしてまた身をかがめて、地の上に何か書いておられた。

8:9 これを聞くと、彼らは皆(良心に責められ、)老人を始めとして、ひとりびとり出ていって、(最後に)ただイエスと、真中に立ったままの女とが残った。

8:10 イエスは身を起こして女に言われた、「女の人、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罰しなかったのか。」

8:11 「主よ、だれも」と女がこたえた。イエスが言われた、「わたしも罰しない。おかえり。今からはもう罪を犯さないように。」

 

[塚本訳]ルカ 19:8-10

19:8 しかしザアカイは進み出て主に言った、「主よ、わたしは(誓って)財産の半分を貧乏な人たちに施します。人からゆすり取ったものは四倍にして返します。」

19:9 イエスが(人々に)言われた、「救いは(きょう、)この家に入った。(人でなしのように言われる)この人も、やはり(あなた達と同じ)アブラハムの末だから。

19:10 人の子(わたし)は『滅びうせた者をさがして』救うために来たのである。

 

[塚本訳] ルカ 23:34 するとイエスは言われた、「お父様、あの人たちを赦してやってください、何をしているか知らずにいるのです。」『彼らは籤を引いて、』イエスの『着物を自分たちで分けた。』

 

[塚本訳]マタ 26:27-28

26:27 また杯を取り、(神に)感謝したのち、彼らに渡して言われた、「皆この杯から飲みなさい。

26:28 これは多くの人の罪を赦されるために流す、わたしの『約束の血』であるから。

 

[塚本訳]ロマ 5:8 しかしわたし達が(義人でも善人でもなく、)まだ罪人(神の敵)であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった。このことによって、神はわたし達に対する愛をお示しになったのである。

 

新共同 Tテモ1:15-16

1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。

1:16 しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本と

なるためでした。

 

 

新約聖書の救いと親鸞の悪人正機説との類似点と相違点

2003.5.2国立博物館「西本願寺展」で「歎異抄」の最古の写本を見ての感想)

 

●歎異抄「善人ナヲモテ往生ヲトグイハンヤ悪人ヲヤ」(善人が救われるなら悪人はなおのこと救われる・・・悪人正機説・・阿弥陀仏は悪人を救うのが本願)

●歎異抄「タトヒ法然聖人ニスカサレマイラセテ念仏シテ地獄ニオチタリトモサラニ後悔スベカラズ」(たとえ法然・・・親鸞の師・・・にだまされて念仏を唱えて地獄に落ちたとしても後悔はしない)

●新約聖書のキリストの救いも阿弥陀仏も罪人の救いを願っている。それが両者の本願である。「南無キリスト」と唱えよという人がいた。

●阿弥陀仏は実在ではない(2000.2.11京都大原三千院の住職に聞く)。イエスは実在(新約聖書の編集方針はグノーシスとの対決が重要なテーマ)。仏教は哲学思想に近い。

●新約聖書は罪の赦しに犠牲の死(血)があるが阿弥陀の救いにはない。罪には犠牲が必要。

●キリストは復活した! 実際に! 霊体の有体として! そして再臨がある

●キリストの約束、担保として新しい霊が与えられる。永遠の生命に生きることができる。

2003.5.4       高橋照男

 

 

新約聖書を解く3本の鍵(マスターキー)

 

 建物の鍵にマスターキーというものがある。ホテルやマンションなどでよく設計する。そのキー一本ですべてのドアが開けられる。だからそれを紛失したら、すべてのドアの鍵を取り替えなければならない。かって外国のホテルでそのキーが紛失した時,一晩で客室の鍵を全部取り替えた事件があったと聞く。またマスターキーはフロアごとのマスターキーと建物全体のグランドマスターキーというものがある。

 新約聖書にもマスターキーがある。それは三本。

 

その第一は

「神による絶対恩恵による無条件の罪の赦し」(主としてイエスの言動)

その第二は

「神によって新しい霊の着物を着せられる」(主としてパウロの思想)

その第三は

「救いの出来事はこの歴史内で確実に起こった」(福音書の編集方針)

 

この三本である。まだあるかもしれないが、まずこの三本で新約聖書のすべてのドアーは開くと思う。このうち第一のものがグランドマスターキーである。単純明解である。目があればこの三本のキーでどこでも開けられる。新約聖書の結集と編集もこの三つの方針に基づいていると考えられる。この三本のキーの中でも第三番目は特に日本において重要である。これは、新約聖書を結集する時に最大の難敵であった「グノーシス」に対抗するものであった。日本人はギリシャ哲学や仏教の霊魂不滅思想に馴染みやすいから当時と共通の問題を抱えている。キリストは肉体をとってこの世に来られて神のお心を分かりやすく見せまた聞かせたのである。ただし、この三つのキー操作は霊の目が開いていなければができない。ここがむずかしいところである。しかし目が開けばこの三本のキーでどこもかしこも簡単に開けられる。新約聖書は単純明快である。むずかしいことはない。

 

2003.4.24       高橋照男