ドイツの旅 写真日記
高橋照男

   このたび、妻が所属する合唱団「もくせい」がドイツのライプチッヒ(旧東ドイツ)の聖ニコライ教会でバッハのロ短調ミサ曲を演奏することになり、私は随員 で参加しました。これを機会に私は個人的にも足を伸ばして各地に旅をしました。それはドイツの精神史でもあるルター、バッハ、ヘンデル、ワーグナー、ゲー テ、シラーなどのゆかりの町々です。これは一般にゲーテ街道と呼ばれているところです。 5年前の脳内出血の病が癒えて、今回このような旅ができましたことは感謝です。
訪れたところは次のとおりでした。

2005年
            6月29日    ライプチッヒ

                 
月30日    ワイマール、エアフルト
            7月 1日    ヴィッテンベルク
            7月 2日    ハレ、デッサウ
            7月 3日    ライプチッヒ
            7月 4日    アイゼナッハ
            7月 5日    ベルリン
            7月 6日    ポツダム
            7月 7日    ハイデルベルク
            7月 8日    ストラスブール(フランス)、バーデンバーデン
            7月 9日    リューデスハイム、ライン川クルーズ、フランクフルト
            7月10日    フランクフルト
            7月11日    帰国

050629(水)●東京から11時間半でフランクフルト着。そこから国内線に乗り継いでライプチッヒ着。現地時間21:05分、日本時間 では明け方の4時。この間眠っていないので非常に眠い。●ホテルはサッカーのドイツチームが同宿。そのためインターネットが使用できるルームが不可。●飛 行中はシベリア上空、バルト海沿岸、ドイツのチューリンゲンの森などが印象的であった。●機内で読んだ、辻壮一の「J.S.バッハ」に、『バッハは敬虔主 義(キリスト教の一派で無教会主義と似ている)の作詞家の詞に曲をつけたカンタータにすぐれたものがある。』との解説に意を強くした。バッハは敬虔主義に 深い影響を受けている。


シベリア上空 2005.6.29
地球は広い。住むところがたくさんある


バルト海沿岸 2005.6.29
いよいよヨーロッパ。人家が見えてきた


チューリンゲンの森 2005.6.29
ドイツは森の国ともいわれている

050630(木) ●近郊観光ワイマールとエアフ ルト。●まずワイマール。ゲーテとシラーの町。非常に高度な文化都市という感じがした。ゲーテはここに40年間住んでここ で死んだ。シラーの多くの作品もここで生まれた。町の中の石畳の道路は直線でなく、そこに樹木が生い茂っているのが美しかった。文芸の香りが馥郁としてき た。●次はエアフルト。カトリック教会の力が強い町。ルターはこの町で学んで育った。彼が宗教改革をしたくなった背景が読めた感じがした。


ゲバントハウス 2005.6.30 ライプチッヒ
このホールがサントリーホール設計の手本になった


ライプチッヒ大学 2005.6.30 ライプチッヒ
ドイツで2番目に古い伝統の大学。東西の統一で大幅に改革されたという。
巨大なレリーフが印象的



聖ニコライ教会 2005.6.30 ライプチッヒ
トミ子がバッハロ短調ミサを演奏する教会
1165年建立。20世紀末の東西ドイツ統一の中心的役割をはたした教会


ワイマール。 ゲーテとシラーの銅像 2005.6.30
後ろは国民劇場
ワイマールは学芸の雰囲気がした


2005.06.30 ワイマール広場のマーケット


ワイマールのシラーの家 小さくて質素。シラーは病弱で貧困 2005.6.30 ワイマール
シラーはドイツではゲーテと同等に尊敬されている。
いたるところに銅像がある。帰国したらシラーのことを学ばなければと感じた。


ゲーテの家。シラーの家から歩いて5分ぐらい。2005.6.30 ワイマール
ゲーテはこの町に40年住んで死ぬ。最後の「もっと光を」と言ったのはこの家。
中にはゲーテが研究した鉱物や描いた絵画があるらしいが時間がなくて入れず、残念した。
ワイマールは文化人の町。鎌倉を思い起こした。道がまっすぐでないところがよい。すべて石畳。


ワイマールのマルクト広場の野菜市 2005.6.30 ワイマール
野菜はほぼ世界共通だ。値段はそんなに高くもなく安くもない


ワイマール マルクト(市場という意味)広場の花屋 2005.6.30 ワイマール
妻は野菜とか花に目をつけた


ワイマール市庁舎 2005.6.30 ワイマール
この鐘はマイセンの陶器、陶器の音色をしていた


ワイマールの菩提樹 2005.6.30 ワイマール
ワイマールの町は緑が多い。菩提樹に花が咲いていた


エアフルトの大聖堂 2005.6.30 エアフルト
743-1465年に建立(一度にはできなかった)
ルターはこの町に育った。当時はカトリック教会が強大な支配力を持っていた。
この大聖堂もその現れ。よくぞこんなに大きいものを建てたものだと圧倒された。


050701(金) ●バスで近郊観光●ヴィッテ ンベルクを観光。ルターの宗教改革が行われた町。ルターの家は質素であった。城の教会の扉は95箇条の質問状が貼られたので有名。市内の大きなカトリック 教会はみなルター派に転向してあったのにはびっくりした。ルターの力というよりも聖書そのものの真理の力●「神の義はその福音の中にあらわれた」というロ マ書(1:17)の解読の違い。この義は愛の意味であるとルターは読んだ。●今日はトミ子の誕生日なので喫茶店でレモンスカッシュでお祝い。


ライプチッヒの朝を早朝散歩 2005.7.1 ライプチッヒ
明日のニコライ教会での演奏会のボスターが町に出ていた。


聖ニコライ教会外観 2005.7.1 ライプチッヒ
ロマネスク様式にゴシック様式が加わっている
明日ここで妻がバッハのロ短調ミサ曲を演奏する
この教会の月曜集会が東西ドイツ統一のきっかけとなった。
2000人収容のライプチッヒ最大の教会。
バッハのヨハネ受難曲の初演はここで行われた


聖トーマス教会 2005.7.1 ライプチッヒ
バッハはこの教会とニコライ教会の双方の音楽監督。
バッハのマタイ受難曲はこの教会で初演。
屋根の角度は63度の急勾配。
ステンドグラスにルター、バッハ、メンデルスゾーンがあった。
ルターのステンドグラスを見ていたら
「君の国の内村鑑三という人は福音というものを正しくとらえているねー」
と語りかけてくるようだった。


トーマス教会に立つバッハ像 2005.7.1 ライプチッヒ
バッハの腹の出具合と私のそれは同じぐらい。
ドイツでは男女とも体格がよいので(食い物が違う)、私などはちょうどよい位だ(笑)
バッハは敬虔主義者のP・ゲルハルトの詞に曲がつけられたものをマタイ受難曲の中に3度も
取り入れた。これが「受難コラール」として有名。
これは日本の賛美歌136番に取り入れられた。

賛美歌136
1・血しおしたたる 主のみかしら、
 とげにさされし 主のみかしら、
 なやみとはじに やつれし主を、
われはかしこみ きみとあおぐ

2・主のくるしみは わがためなり、
  われは死ぬべき つみびとなり、
 かかるわが身に かわりましし
主のみこころは いとかしこし


バスの車窓から見るドイツの田園 2005.7.1 ライプチッヒからヴィッテンベルクへ
ドイツはこのような景色の連続。すると集落が現われる。
ドイツは食料自給の国、国際的発言が強いはずだ。
広大な農地、とても手作業では間に合わない。すべて機械の様である


集落の中心には教会がある 2005.7.1 ライプチッヒからヴィッテンベルクへ
田園が途切れると集落がぽつんと現われる。その中心は教会。
経済原理が中心ではない。精神的よりどころのものが中心。
ここにドイツの強さと健全さがあると感じた


ルターハウスの入り口 2005.7.1 ヴィッテンベルク
このルターの家は修道院、神学校を兼ねていた大きなもの
中にはルターゆかりのものが展示されていた。
ルターは勉強ばかりでなく、若い学生の寝食の世話をした。
カタリーナ夫人の苦労をしのばせる家事道具の数々があった。
カタリーナ夫人は脱走修道女の一人でルターが「拾った」人。
ルターを常に信仰的に励ました。
ルターはドイツ全体ともこの夫人とは取り替えたくないと言った。



ルターハウス 2005.7.1 ヴィッテ ンベルク
飾り気のない質素な建物


ヴィッテ ンベルクの街並み 2005.7.1 ヴィッテ ンベルク
道が曲がっているから建物がよく見える。わざと道を曲げてある。
看板がないから建物が美しい。
クリスマスの時に来たらきれいでしょうねーと言った人がいたが、本当にそうだろうなーと思った。


ヴィッテ ンベルク市庁舎(右の建物) 2005.7.1  ヴィッテ ンベルク
ドイツの町には必ず広場というものがある。そしてそこには市庁舎がある。これも同じ。
広場にある銅像。右はルター像、左はルターと共に宗教改革の運動をしたメランヒトン像
メランヒトンが高く評価されている。これも勉強の必要がある。


ルターとその夫人カタリーナの模型に挟まれて記念撮影 2005.7.1 ヴィッテ ンベルク
こういうのは日本にもよくある



95箇条の質問状を貼った城の教会の扉 2005.7.1 ヴィッテ ンベルク
この扉、もとは木であったが今は金属。それにその95箇条の質問状は初めは紙を木の扉に打ち付けたのだが、今はその内容が金属の扉に刻み込んであった。


ルターがカトリック教会に対して95箇条の質問状を貼り付けた城の教会
2005.7.1 ヴィッテ ンベルク
この教会は建物はカトリックだが、中味はルター派教会に変わっていた。
今回の旅行ではそういうものに多く出会った。
ルターはカトリック内改革という感じもした。 



ライプチッヒホテルの親切な Matthias Ebner 26歳 2005.7.1 ライプチッヒ
左:トミ子 中:Matthias 右:照男
彼のパソコン技術のおかげでホテルのパソコンで毎日に日本にメールと写真を送信できた。
イエナ(レンズのカールツァイスで有名)に在住。父上は私と同じ61歳。
フィアンセがいて来年あたり結婚するという。これを撮影した女性(オバサン)
が「ワー、カッコイイ、オニーチャン」と言った。ドイツの若い人は英語が通じる。

2005年 (平成17年)7月 満62歳0ヶ月 平均余命20年間


050702(土) ●単独で早朝に出発。●ハレ。ここは敬虔主義が出現した町。その中心のハレ大学も見られて満足。●ハレを出発しようと したらパスポートと帰りの飛行機の切符を入れた腹巻のベルトがない!!!真っ青。しかし。腹巻は胸のほうにずり上がっていた(ホ!!)。●デッサウ。こ こはバウハウスやグロピウス住宅の世界遺産を見学。感動。●ライプチッヒに戻って15:00 トーマス教会でトマーナー(合唱団)の演奏を鑑賞。18Mの高さの天井に響く音は 見事。ステンドグラスにはルターとバッハがある。ここも建物はカトリックだが中身はプロテスタント。●19:30 聖ニコライ教会でいよいよ「ロ短調ミサ曲」。成功。とにかく日本人がここでこの曲を演奏できたのは快挙。22:00 打ち上げパーティー。


ライプチッヒ中央駅 2005.7.2 ライプチッヒ
ハレとデッサウに単独旅行。早朝出立。
雨が降っていたがハレにつく頃には晴れた(オヤジギャグ)
クリスチャンは晴れてもアーメン(雨めん)という。(これもオヤジギャグ)
この中央駅は超大きい。第三帝国の威厳を感じさせる。
時間ギリギリで二列車乗り過ごした。ドイツは発車するとき日本のようにベルはならない。
スーッと出てしまう。


猛烈に大きいライプチッヒ中央駅のアーケード 2005.7.2 ライプチッヒ
彫刻あり、各種飾りあり、とても駅とは思えない。
ドイツ帝国の偉容。


ハレの地下道の落書き 2005.7.2. ハレ
落書きもこうなると芸術、ご立派。



ハレの街並み 旧市街 2005.7.2 ハレ
ハレは敬虔主義(ピエティスムス)の本拠地。一度訪れてみたかった。
この町でクリスマスを過ごせたら最高の雰囲気だろうなーと思った
また、ハレはヘンデルが生まれ育った町。ハレ大学で法律を学んだ。
しかし、彼は後にロンドンに移り住み、英国に帰化した。



ハレ大学 2005.07.02 ハレ
ハレ大学は敬虔主義の発祥の大学
一度訪れたかった。敬虔主義は無教会主義と似ている。


バウハウス 2005.07.02 デッサウ
近代建築のスタートの建物。グロピウス設計
建築の工業化と芸術の統合で有名


グロピウスハウス 2005.07.02 デッサウ
グロピウスが設計した4軒の家は素晴らしい
バウハウスとともに世界遺産になっている

●グロピウスの思想はわが国で「国際建築」という雑誌などで宣伝されたがその後廃刊。 世界共通(インターナショナル)のものであろうとするのはかえって行き詰まる。逆にそのお国柄を発揮しようとするものがかえって普遍的になる。●キリスト 教の姿もその国々、また一人 一人違うほうがかえって普遍的な真理を宿す。他人と自分とは生まれも育ちも歩みも全く違うのだから信仰の姿も違うのだ。裁いて はいけない。違っているほうが普通なのだ。


ライプチッヒ聖トーマス教会 バッハの墓 2005.7.2 ライプチッヒ
ライプチッヒに戻って トマーナー(トーマス教会聖歌隊)の演奏を鑑賞。


トーマス教会の内部 2005.7.2 ライプチッヒ
18Mの高さの天井に響くトマーナーの声は 見事。



ライプチッヒ市庁舎 2005.7.2 ライプチッヒ
ルネッサンス様式の美しい建築。ゲーテも見た。1556年建設


ゲーテ像の下にいた可愛い子供 2005.7.2 ライプチッヒ
市庁舎の裏にゲーテ像がある。
この子供を見たらゲーテはきっと彼女を誉める詩を書いただろうと思った。

ゲーテ 野ばら

童(わらべ)は見たり 野中のばら
清らに咲ける そのいろ愛(め)でつ
あかず眺むる
紅(くれない)におう 野中のばら


ニコライ教会内部 2005.7.2 ライプチッヒ
妻たちのバッハ・ロ短調ミサ曲演奏会直前の風景
この教会は2000人収容。東西ドイツ統一の引き金となった集会が行われた。


ニコライ教会オルガニスト ユルゲン氏
バッハ・ロ短調ミサ曲のオルガンを担当




050703(日)
 ●トミ子と聖トーマス教会の礼拝に出席。パイプオルガンに先導されて歌った讃美歌には感動した。ルターとバッハのステ ンドグラスに見守られた。●市内観光でシラーの家に行く。シラーは貧しかったので、友人が家を提供してくれた。その感謝のために作った詞が、後にベートー ベンに取り上げられて歓喜の歌となったと説明された。●ここライプチッヒに住んでいた滝廉太郎の記念碑を見る。●ニコライ教会カントールのユルゲン氏招待 のバーベキュー大会に出席。そこでソーラン節と花とふるさとを合唱した。●この家に盲目のオルガニストヴァルヒャが使用したオルガンがあった。●東西ドイ ツ統一の源流はニコライ教会。そのときのクリスチャン、フーラー牧師も参加していたので懇談。東西ドイツがミサイル開発に乗り出そうとした1980年の翌年に東西の 牧師がマタイ5:3ー10を学びあい、祈りあったのが統一の始まりであったと伺う。


アウアーバッハスケラー 2005.7.3 ライプチッヒ
ライプチッヒ大学に通っていたゲーテがよく通った酒場


聖トーマス教会の礼拝 2005.7.3 ライプチッヒ
祭壇に近い最前列に座っているのがトミ子。しかし後で後ろに下がる。
トマーナー(トーマス教会聖歌隊)が讃美歌を演奏。使徒信条と主の祈りは全会衆が地響きを立てるように心から唱和していた。
パイプオルガンのリードで一緒に歌った讃美歌は18メートルの天井に響いて最高であった


滝廉太郎の記碑 2005.7.3 ライプチッヒ
滝廉太郎はこの地に住んで音楽を学んだ。荒城の月のメロディーはグレゴリオ聖歌にヒントを得たといわれる。


ライプチッヒのシラーの家 2005.7.3 ライプチッヒ
彼は貧しかったので友人4人がこの家を借りてくれた。その感謝の気持ちから
書いたのが今日のベートーベンの第9の「歓喜に寄す」の詞。この詞の内容は壮大なものだが、実は身近な友人への感謝の気持ちがその根底にあったとは全然知ら(シラー)なかった。(オヤジギャグ)
名作は小さな生活から生まれる。

『歓喜に寄す』  シラー

おお 友よ、この調べではない!
もっと快い、喜びに満ちた調べに声を共にあわせよう。

歓喜よ、美しい神々の花火よ、天上の楽園からの乙女よ!
我らは(炎を飲むような)情熱にあふれ、あなたの聖なる場所に足を踏み入れる。
あなたの魔力は 時流が厳しく切り離したものをも 再び結び合わせ、
あなたの柔らかい翼が留まる所で、全ての人は兄弟となる。

大いなることに成功し、誰かの友となり、
優しき伴侶を得た人は歓喜の声に唱和せよ!
そうだ!この地上でただ一つ、魂しか”自分のもの”と呼ぶことが出来ない者でも!
そして、それが出来なかった者は、この集いから泣きながら立ち去れ!

万物は自然の乳房から歓喜を飲み、
全ての善人も全ての悪人もバラの小道をたどる
自然は我々に接吻と、ワインと、死の試練を受けた友を与えた。
虫けらであろうとも快楽が与えられ、天使ケルビムが神の前に立つ。


喜ばしく!太陽が広大な天を駆けてゆくように、
兄弟たちよ、君たちの道を駆けろ、勝利に向かう英雄のように楽しく。


歓喜よ、美しい神々の花火よ、天上の楽園からの乙女よ!
我らは(炎を飲むような)情熱にあふれ、あなたの聖なる場所に足を踏み入れる。
あなたの魔力は 時流が厳しく切り離したものをも 再び結び合わせ、
あなたの柔らかい翼が留まる所で、全ての人は兄弟となる。


抱き合え、幾百万の人々よ! この接吻を全世界へ!
兄弟よ! 星たちの彼方に 愛する父(神)が住んでいるに違いない。

ひれ伏すか、幾百万の人々よ? 創造主を予感するか、世界よ?
星たちの彼方に創造主を求めよ! 
星たちの彼方に、彼(神)が住んでいるに違いない。


歓喜よ、美しい神々の花火よ、天上の楽園からの乙女よ!
我らは(炎を飲むような)情熱にあふれ、あなたの聖なる場所に足を踏み入れる。
抱き合え、幾百万の人々よ! この接吻を全世界へ!

星たちの彼方に創造主を求めよ!  
兄弟よ! 星たちの彼方に 愛する父(神)が住んでいるに違いない。


あなたの魔力は 時流が厳しく切り離したものをも 再び結び合わせ、
あなたの柔らかい翼が留まる所で、全ての人は兄弟となる。

抱き合え、幾百万の人々よ! この接吻を全世界へ!
兄弟よ! 星たちの彼方に 愛する父(神)が住んでいるに違いない。

抱き合え、幾百万の人々よ! この接吻を全世界へ!


歓喜よ、 美しい神々の花火よ!

天上の楽園からの乙女よ! 歓喜よ、 美しい神々の花火よ!





ニコライ教会牧師クリスチャン・フェーラー氏 2005.7.3 ライプチッヒ
ニコライ教会カントールユルゲン氏宅にて。東西ドイツの統一の精神的中心人物。

1989年10月9日、ニコライ教会に出席していた2000人を逮捕しようとして来て聴衆に混じっていた600 人の官憲はこの牧師の説教(マタイ5:3−10)を聞いて回心、逮捕を止めるという奇蹟が起きた。これが機縁で政治的に東西が一致。無血革命であった。そ の後このクリスチャン・フェーラー氏は大統領に押されたが固辞。国家批判して官憲に逮捕されることを美談と思っている日本の一部知識人とは雲泥の差、レ ベルが違う。質が違う。私は持っていた英和対照聖書でマタイ5:3−10を開いて確認しあった。氏は特にその10節、「義のために迫害される人は幸いなり」がポイントだと強 調された。そして私は日本の内村鑑三のグループだと自己紹介したが内村鑑三のことはご存じなかった。だれだれグループの者だなどと自慢すること自体が誤っ ているのだと反省。私も地球の片隅でよいから氏のような存在になりたいと思った。


ニコライ教会クリスチャン・フェーラー牧師夫妻 2005.7.3 
ニコライ教会カントールのユルゲン氏宅バーベキュー大会にて
中央は今回の計画推進者高野氏(当地のバッハ協会勤務)


050704(月) ●早朝の 起床。日本での習慣に戻れた。●11:30聖トーマス教会オルガンコンサート。●午後はトミ子と二人だけでアイゼナッハに旅行。●ワルトブルク城はルター が新約聖書を翻訳したところ。ワーグナーのタンホイザーでも有名。伝説とロマンの城。●ルターは家族とよく歌を歌っていたが、そのとき使用していたギターというかマンドリンのような楽器を見た●ルターの家とバッハの家を見学。●バッハが洗礼を受けたゲオルグ教 会を見学。●パンとソーセージとチーズは見るのも嫌になってしまったので、ライプチッヒの駅でイタリヤ料理の汁もので夕食。●22時ライプチッヒのホテル帰着。



トミ子の誕生祝をしたライプチッヒの街角の喫茶店 2005.7.4  ライプチッヒ
レモンスカッシュで乾杯


ワルトブルク城 2005.7.4 アイゼナッハ
ルターが新約聖書を3ヶ月という猛烈な速さで翻訳したところ。
伝説とロマンの城。ワーグナーのタンホイザーでも有名。


ワルトブルク城からの絶景 2005.7.4 アイゼナッハ
ルターはここに匿われていた時に翻訳ができた。


ルターが新約聖書を翻訳した部屋 2005.7.4 アイゼナッハ
ローマ法王という敵がいて、同時にドイツ人に対する愛情が3ヶ月で翻訳完成という奇跡を生んだ。
ルター訳の聖書は今でもベストセラー。
ルターが悪魔にインク瓶を投げつけたときにできたという壁についた染みは、数年前に見学者により削り取られてしまっていた。



ルターが新約聖書を翻訳した建物外観 ワルトブルク城内 2005.7.4 アイゼナッハ
木組みの木造建物が美しい


ワーグナーの歌劇タンホイザーにある「歌合戦の場」の建物 2005.7.4 アイゼナッハ
ワルトブルク城の一部
ここであの「歌の殿堂を称えよう」が歌われたのだ。


ワルトブルク城をあとにするトミ子の後ろ姿 2005.7.4 アイゼナッハ
帰りのタクシーを拾うのに一苦労。あやうく日が暮れそうになった

050705(火)
 ●今日は ベルリン旅行。25名。ライプチッヒからバスで2時間。●ベルリンはさすがドイツの首都だけあって格が違う。●ベルリンの壁を見学。東ドイツは経済的に相 当遅れていたことがわかった。●ベルリン国立歌劇場のボエ−ムのチケットは売り切れで残念であった。●その代わりコンツエルトハウス・ベルリンを十分見学 できて満足した。●ベルリンが第二次世界大戦で徹底的に破壊された様子を如実にみた。●ベルリンのケンピンスキーホテルブリストルは最高級の五つ星で内装も家具調度品も最高であった。


ベルリンのデパートで昼食 2005.7.5 ベルリン
自由にとる。支払い場では重さを量る。
重量×単価で即座に金額が出るとはドイツ的合理主義か


フィルハーモニー 2005.7.5 ベルリン
ベルリンフィルハーモニーの本拠地。別名カラヤンサーカス
ハンス・シャロウン設計。
これも東京のサントリーホールの手本となったワインヤード形式(客席が舞台を取り囲む)


ホロコースト(ユダヤ人虐殺)の記念碑 2005.7.5 ベルリン
ベルリンのど真ん中にこのような反省の印。ドイツ国民の謝罪の心の表われ



コンツェルトハウスベルリン 2005.7.5 ベルリン
第二次世界大戦の時、この名建築がソ連軍に破壊されるのを嫌ってドイツ人自身の
手で爆破された。しかし戦後突貫工事で再建したもの。ドイツ魂躍如。シンケルの設計。



ベルリンの壁の記念残骸 2005.7.5 ベルリン
時の流れはすべてを正しくする。それにしても東側の荒廃はひどい。



ブランデンブルグ門 2005.7.5 ベルリン
第二次世界大戦で荒廃したが再建。
門の上の彫像はかってナポレオンがフランスに持っていってしまったが返してもらったもの。
さすがにカッコいい


フンボルト大学 2005.7.5 ベルリン
1980年代にドイツでは日本の無教会主義に関心が起こった。木村・ハンネローレさんは その一人。当時チュービンゲン大学の客員教授であった内田芳明教授の依頼で今井館から内村鑑三の文献がダンボールで多数送られ、文庫ができた。そのチュー ビンゲン大学の日本学科長クラウス・クラハト教授がフンボルト大学に移られ、その文庫もこのフンボルト大学に移された。それは1995年のこと。内村鑑三 と無教会主義がドイツに入った。現在日本におられるゾンターク・ミラーさんはこのフンボルト大学の内村文庫により修士論文をまとめられた。

050706(水) ●ホテルからバスでポツダムに出発。●チェチーリエンホーン宮殿を見学。●サンスーシン宮殿を見学。●ライプチッヒに 戻る途中でアウトバーンが交通渋滞。●20:00ゲバントハウスでベートーベン第九合唱を日本チームが演奏。これはトミ子は不参加。日本の素人合唱団がゲ バントハウスと共演できたのは快挙である。


   シャーロンテッドブルグ宮殿 2005.7.6 ポツダム
これを見ると建築はフランスだと思ってしまう



チェチーリエンホーン宮殿 2005.7.6 ポツダム
第二次世界大戦の戦後処理のポツダム会談が行われた場所。英国スタイルのデザイン。
これを見ると建築は英国だと思ってしまう。



サンスーシン宮殿の庭 2005.7.6 ポツダム
この宮殿はドイツ皇太子のものであった。フランス風のデザイン。国それぞれでデザインが非常に違うものだ。


ゲバントハウス内部 2005.7.6 ライプチッヒ
建築的にすばらしい。



ゲバントハウスで第九演奏 2005.7.6 20:00 ライプチッヒ
聴衆はほとんどがドイツ人。盛大な拍手が長く続いて大成功。


ゲバントハウスで日本の合唱団の第9を鑑賞。 2005.7.6
トミ子はこれには不参加
歌った人に聞いたら自分の声きり聞こえなくて歌いずらかったという。
合唱団のステージが客席だからではないか

050707(木) ●7泊したライプチッヒ・ルネッサンスホテルを出発。親切なマティアス君に御礼。●空路フランクフルトへ。そこで帰国 組みと分かれて、我々ハイデルベルク行組みはバスでハイデルベルグへ向かう。●バスはアウトバーンを時速100km。それを追い越す乗用車は200km。


アウトバーンを時速200キロメートルで飛ばす乗用車 2005.7.7 
ライプチッヒからフランクフルトに向うバスから撮影。
速いのでシャッターに納まらない。
アウトバーンには乗用車は制限速度がない。渋滞や事故にも出会った

●ハイデルベルク城から見たネッカー川。カール・テオドール橋。旧市街は非常に美しかった。よい思想は美しい景色、風景から生まれる。

ハイデルベルグの眺めはこのハイデルベルク城から見るのが最高 2005.7.7 ハイデルベルク
ネッカー川とカール・テオドール橋を望む
右から三番目(トミ子の左肩にある)の家がマックスウェーバーが住んでいた家


●同行の富坂キリスト教センターの松本真実さんに、当地に住む牧師のポール・シュナイス氏を紹介された。●ポール・シュナイス氏は宣教師として日本に15 年、日本語がよくできる。内村鑑三、敬虔主義、バッハ、ルターについて話し合う。プロテスタントには様々な派があることを改めて認識した。   

  
カールテオ ドール橋から見たハイデルベルク城と旧市街
                          2005.7.7

●歴史的なホテル、デア・オイローペイシェ・ホフ・オイローオパ(五つ星)に泊。 部屋の鍵がカードでなく、昔ながらのシリンダー錠で安心。それも500gぐらいもありそうな重厚なものであった。●近代ホテルの鍵は磁気カード。電子化は便利だが不安を生じさせる。● 近くのスーパーで質素な夕食材を購入し、ホテルの部屋で食べる。


050708(金)
 ●ハイデルベルクの町を妻と 早朝散歩。●哲学の道を歩く。この町から偉大な思想が生まれた。ゲーテ、ヤスパース、マックスウェーバー。

早朝散歩 ハイデルベルクの哲学の道から旧市街を望む、2005.7.8
ゲーテが誉めた美しさ


早朝散歩 ハイデルベルクの哲学の道から旧市外を望む、2005.7.8
偉大な思想は、美しい風土や風景が生み出すものだと感じた

●バスで仏のストラスブールを見学。ここはアルベルトシュバイツアーの生地。シュバイツアーがオルガン演奏したトーマス教会を見学。


ストラスブール(仏・ドイツ国境の町)のトーマス教会のパイプオルガン 2005.7.8 
この教会は2002年2月に長男の新一が訪れたことがある。
ここに生を受けたアルベルトシュヴァイツァーは、この教会堂でオルガン演奏をしてその収益をアフリカでの医療伝道に捧げた。彼のようなゴツイ人物は美しい風土風景が生み出す。
カトリックの大聖堂もゴツイが彼の生涯もゴツかった。神は建物でなく人物のゴツさを期待する。
ゴツイ生涯とは内村鑑三の「後世への最大遺物」のような生き方。人の目には隠れた下積みの生涯、神にのみ見られる生涯。


●ストラスブール市内見 学。木組みの家が美しかった。建築はまずデザイン、次に構造力学とコストだと感じた。


木組みのデザインが美しいストラスブールの街並み 2005.7.8 ストラスブール
ストラスブールはフランス領になったりドイツ領になったりめまぐるしく変わった。

●ストラスブールの大聖堂(カトリック)を 見学。パリのノートルダムやケルンの大聖堂を思い出し、カトリックの教会堂はゴツイなーと感じた。同時に宗教の力というものはどの国も偉大なものだなーと 思った

ストラスブール大聖堂 2005.7.8 ストラスブール(フランス)
おもわず「ゴツイなー」と叫んだ。
ケルンの大寺院、ノートルダム大寺院を思い出した。


●バーデン・バーデンに行き、カラカラの大浴場に入る。ローマ人の風呂好きを体験した。少しぬるい湯だったが出ると体中がポカポカ。



黒い森(シュバルツバルト)を車窓に見る 2005.7.7.

この森が枯れ始めたのでドイツ人はあわてて環境問題に力を入れ始めた


● フランクフルトのマリティム・フランクフルトホテルに着。五つ星だが、アメリカンスタイルで趣がない。

宿泊したマリティム・フランクフルトホテル。 国際見本市会場の隣り 2005.7.8
近代的で五つ星だが、趣がない。 記憶に残らない。


夕食 歓談 2005.7.8 フランクフルト
左から 夏原和子 高橋トミ子 田中恵子 川口典子 撮影は高橋照男
一人10ユーロ、1400円は格安であった。

050709(土) ●フランクフ ルトはマリティム・フランクフルト(五つ星)。アメリカンスタイルは、ベルリンやハイデルブルグの同じ五つ星ホテルよりも趣がない。

●ライン川クルーズ。リューデスハイム からローレライの岩の付近まで2時間。病気が治って妻と共にここを訪れることができたのは感謝。


ライン川クルーズ2時間 2005.7.9 ライン川
いくつもの古城がある。葡萄畑が多かった。


ローレライ伝説の岩 2005.7.9 ライン川
ハインリッヒ・ハイネの詩、ジルヒャーの作曲で有名

世界的に知られる名曲。ハイネの詞にジルヒャー(1789-1860)がメロディーをつけた。「ローレライ」とは妖精の岩という意味で、この大きな岩があ る場所はライン川でも難所として知られ、たくさんの船乗りが命を落としたという。その理由が、この妖精の甘い声に船乗り達が我を忘れたからだという伝 説も有名である。(YAHOOより)

ローレライ
ハインリッヒ・ハイネ詞 ジルヒャー作曲 近藤朔風訳(明治42年1909)

なじかは知らねど 心わびて
昔の伝えは そぞろ身にしむ
さびしく暮れゆく ラインの流れ
入日に山々 赤くはゆる

うるわし乙女の いわに立ちて
こがねのくしとり 髪の乱れを
ときつつ口ずさむ 歌の声の
くすしき力に 魂も迷う

こぎゆく船人 歌にあこがれ
岩根も見やらず 仰げばやがて
波間に沈む 人も舟も
くすしき魔が歌 歌うローレライ

●これは鎮魂歌ではあるまいか。つまりその頃、このライン川の難所で多くの人が遭難したので、その鎮魂歌として、ハイネが作ったのであるまいか。「心が迷ったからしかたがなかったのだ」と。マタイ13:22を思う。

塚本訳 マタ 13:22
13:22 茨の中にまかれたもの、これは御言葉を聞くが、(しばらく信じているうちに、)この世の心配や富の惑わしが御言葉を押えつけて、みのらない人である。



 ライン川クルーズ 2005.7.9 ライン川
現在の姿。ローレライ伝説にあるように船乗りが遭難するような急流ではなく、非常にゆったりとしたおだやかな流れであった。


ゲーテの家 2005.7.9 フランクフルト
ゲーテはフランクフルト生まれ。

●私だけ皆と別れて市立劇場で、ワーグナーの「トリスタンと イゾルデ」を鑑賞。指揮・パオロ・カリグナニー、管弦楽フランクフルトオーケストラ。オペラ劇場といってもそんなに大きくない。11ユーロ=1,540円 で聴けるとは安い。ドイツは音楽の国だ。17:00にはじまって終了は22:10。途中30分の休憩が2回。たまらず20:30頃退席。本場ドイツの男声 合唱を聴けてよかった。

市立劇場(シャウスピールハウス)で、ワーグナーの歌劇「トリスタンとイゾルデ」を鑑賞。2005.7.9
30分間の幕間では全員がホールで歓談。日本の歌舞伎劇場のようであった。

●三越とJALの前を通り、TAXIで大聖堂を見て、ホテルに戻る。TAXIの25才の青年はギリシャ人で あった●私「ギリシャ語少し知っている。アルファ、ベータ、デルタ。ホ・セオス・アガペー・エスチン(神は愛なり)」、25才青年「どこで習った?」、私「聖書はギリシャ語だ。」、25才青年「私の両親も祖父 母もクリスチャンだが、私はどうも。これは世界中の子供が皆同じではないだろうか」


フランクフルト大聖堂 2005.7.9
これもゴツイものだった。カトリックはすごいなーと感じたが、同時に息苦しいとも感じた。。


●連日ロンドンでテロのニュース。次は日本か。●フランクフルトは東京と同じとい う感じがした。


050710(日)
最後の日。今日は聖日、ホテルの部屋で妻と二人で礼拝。「今日まで旅路をお守りくださりありがとうございました。残る祖国への旅路もお守りください。日本にいる子供たちの家庭の上に末永くあなたの祝福がありますように」と二人で祈る。


ホテルの窓から東方を望む.。あの方角に日本がある。2005.7.10
マリティム・フランクフルトから
早く帰りたいよー。冷奴を食べたいよー

●ホテルの朝食に日本食があった。白米、納豆、味噌汁、海苔、目玉焼き。アー美味しいなー。
●妻と早朝散歩をする。


公園の水鳥(鴨か?) 2005.7.10
7匹の子供を連れた親鳥夫婦
親鳥が鳴きながら近寄ってきた
妻「子供に危害を加えるなという意味よ」
私「仲良くしようという意味かもしれない」


有名なセンゲンブルグ自然博物館の恐竜の模型 2005.7.10
ティラノザウルス



さようなら ドイツ あなたは大国でした。 2005.7.10

フランクフルト発13:45分 帰りは一時間速く到着。それでも10時間半はきつい



050711(月)
 7時40分成田到着。リムジンバスで立川まで2時間。同行の斎藤可南子さんのご令息の車であきる野の家まで送っていただく。●日記に旅行後半の写真を貼り付ける●夕飯のソーメンが美味しかった。

高橋照男ホームページ http://www.asahi-net.or.jp/~ej2t-tkhs/ から転載