2008 プラハとミラノの旅  写真日記

2008年11月3日〜10日

                                    高橋照男

妻がプラハ(チェコ)のスメタナホールでモーツァルトのレクイエムを合唱するので随員として参加、演奏会終了後イタリアを訪れたことのない妻とミラノを旅した。二人での外国旅行はこれが最後になるかも知れない。

●旅の目的

1・チェコのプラハ(スメタナホール)における妻の演奏会の応援。

2・誰もが「素晴らしい」と言っている古都プラハの街を歩く。

3・信仰篤き人々がいたボヘミヤ(チェ西部)とモラヴィア(チェコ東部)の空気を吸う。

4・イタリアのミラノでレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を鑑賞する。

●旅程  2008年

11月3日 欧州へ出発

11月4日 プラハ 古都散策

11月5日 プラハ スメタナホールで妻の演奏会を応援

11月6日 プラハ 郊外のクトナー・ホラ。遥かモラヴィアの地を望む

11月7日 ミラノ  イタリアの古都を散策、ドゥオモ(大聖堂)、スカラ座

11月8日 ミラノ  郊外のベルガモ。「最後の晩餐」を鑑賞、スカラ座で観劇

11月9日 ミラノ  雪のアルプスを越えて帰国の途へ

1110日 帰国 心安らぐ地、日本

(ホームページhttp://www.asahi-net.or.jp/~ej2t-tkhs/「日記と感想」転載)

081103 欧州へ出発 

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今日は39回目の結婚記念日なので。機内隣席の妻と二人でジュースで乾杯。飛行中の場所を示す地図が機内のテレビに出る。シベリヤ上空で、イルクーツクと文字が出た。ここで働かれるY・Tさんを思い、その御無事を祈った。

 

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午前中に成田を出発。地球を逆まわりに飛ぶので日は戻って外は夜明け。海外に行く時はいつもこの時間差で頭と体が悩まされる。人間には体内時計、腹時計というものがあり、これは外側の状態とは関係なく正確に時を刻んでいるからだ。

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ジャンボ機の中央4席の真ん中の2席になったので、通路に出るのに不便で「地獄」。欧州まで身動きの不自由な11時間は辛い。しかし贅沢は言っていられない。半日で欧州へ行けるのだ。我慢、我慢。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 チェコは西部のボヘミヤと東部のモラヴィア 北東部シレジア(わずか)地方とからなる。

 

ヨーロッパ大陸におけるチェコの位置

 

 

面積7.9万Ku(日本37.8万Ku 北海道7.8万Ku) 人口1030万(日本12560万) プラハは北緯50度(サハリン、樺太、フランクフルト) 

チェコ人(チェック人)が90.4%である。さらに、モラヴィア人が3.7%である。少数民族としては、スロバキア人が1.9%、ポーランド人が0.5%、ドイツ人が0.4%、シレジア人が0.1%、マジャル人が0.1%、ロマが0.1%である。

チェコでは歴史的経緯から宗教的メンタリティを持たない者が多く、60%がこのグループに属する。その他、カトリックが27.4%、プロテスタント1.2%、フス派が1%である。

チェコの地図

 

ボヘミア(BHEMIA)はチェコの西部 モラヴィア(MORAVIA)は東部に位置

第二次世界大戦後の歴史

1946年の選挙で第一党となっていた共産党がソ連からの影響力なども背景に1948年共産主義政権を設立し、「人民共和国」となった。1960年には「社会主義共和国」に改名した。しかしスターリン的抑圧に対する不満が爆発してノヴォトニー政権は倒された。スロバキア人のドプチェク率いる政権が誕生し、「プラハの春」と呼ばれる自由化・民主化路線が布かれたが、これに対してソ連を含むワルシャワ条約機構5カ国の軍が介入、チェコ人のフサーク政権が樹立され、国内の秘密警察網が整備強化されて国民同士の監視と秘密警察への密告が奨励され、旧東ドイツと並んで東欧で最悪の警察国家となった。人々は相互不信に陥り、プロテスタント教会では信者や聖職者の間での密告が頻発した結果として教会組織が自ら消滅していき、信者は宗教不信から無神論者になっていった。1989年からの「ビロード革命」によって共産党体制は崩壊し、翌1990年には複数政党制による自由選挙が行われた。1992年6月の選挙では民主スロバキア同盟が勝利したため、それまで互いに反発していたチェコとスロヴァキアの分離は決定的となり、1993年1月にチェコスロバキアはチェコスロバキアに分離(ビロード離婚)した。2002年8月、記録的な豪雨によってヴルタヴァ川モルダウ川)が氾濫し、プラハをはじめ多くの都市が被害にあった。2004年5月1日にチェコは欧州連合に加盟した。

 

081104 プラハ市内観光

     歴史的にカトリックが強く古いカトリックの教会堂が多い

 

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フランクフルトで乗り継いで、プラハに到着。早速市内観光

これはプラハ城の中にある。聖ヴィート教会(1344頃―1929,建設期間600年)。高さ96メートル。ザ・ゴシック建築である。地震がないとはいえ風力にはどう抵抗しているのだろう。 あの尖塔の構造はどうなっているのか。カテドラルに建設方法の記録はない。

 

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教会の内部。ここはノーフラッシュならば撮影は可であった。

その天井の高さに驚く。思わず「スゴイナー」。

 

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曇りと霧で 上部がかすむ。これは北欧特有の天気だという。

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教会の広場でトミ子と

 081104   古都散策。カトリック教会の腐敗と堕落を批判したフスは火刑になったが、その影響を受けたモラヴィア兄弟団(後のヘルンフート派・・・同胞教団)が誕生してキリスト教の歴史に甚大な影響を与えた。日本の無教会主義にも間接的に関係があり興味深い


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 ここボヘミア(チェコ西部)は信仰の篤い人の国。宗教改革の先駆者ヤン・フス(1350年ごろー1415)の像。それでもこの国は現在無信仰者が半分近くいるという。共産主義政権の影響。モラヴィア(チェコ東部)はモラヴィア兄弟団が誕生した場所。この一派は日本の無教会主義とその信仰の質においてかなり類似している。類似しているばかりでなく間接的に影響を与えているので関心が深い。念願の地、瞼のモラヴィアへ。

・ウィクリフ(1320頃―1384)英国。宗教改革の先駆者。ブルガダの英訳。 

・ヤン・フス(1350頃ー1415)ボヘミアの宗教改革者。主張「教会の長はキリスト。信仰は聖書」。異端として火刑にあったが、その「血は種子」となった。

・ペトル・へルチッキー(1419年頃)。フス急進派であったが、争いを嫌って離脱し農業者になる。フスの信仰を継承。彼に共鳴する人たちがモラヴィア兄弟団(後のヘルンフート派・・同胞教団)になる。その篤い信仰の人格的感化が世界的に波及・・・コメニウス(教育学者1592-1670)、ウェスレー(1703-1791)、ローズンゲン(日々の聖句。1725より継続278版)シュライアマッハー(1763-1834、聖書学発展の基礎)・チンチェンドルフ(1700-1760)が敬虔主義(ピエティスムス・・ルター教会の膠着状態に反対して起こる。)と合流させた、ヒルテイ(1833-1909)、シーリー(アマスト大学)、内村鑑三(1861-1930シーリーの感化)、グンデルト(1906来日)、日本の無教会主義、

 

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聖ミクラーシュ教会。これはバロック建築。音楽にもバロックがある。

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コルツ・キンスキー宮殿。 これはロココ様式の建築。華麗である。

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旧市庁舎の天文時計。1時間に1回人形が動く。時計は3つの時間を示すという。

そう言えば、地球を逆まわりしたので時計を8時間戻した。同じ時刻を2度経験することになる。これが体調に変化をきたす。 

 

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ヴァーツラフ広場。「プラハの春」ではここに何十万人も集まってソ連軍に対抗。無神論者の国は70年で崩壊。神が打つ。

 

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レストランで昼食。このアコーディオン奏者は日本の曲を数々演奏してくれた。チェコは親日だ。

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国民劇場の中庭にあった彫像。ハッとした。舟越保武の作品イメージに似ている。私好み。

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合唱団がリハーサル中に私は一人でプラハ市内の散策を開始。

リハーサル会場。国民劇場の全景。竣工式の2日前に焼けたが、国民の熱心により2年で再建。建物よりもそういう経過の方が胸を打つものだ。

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 モルダウ(ドイツ語)川はヴルタヴァ(チェコ語)川。チェコは長い間他国の支配下にあったので自国語が使えなかった。負け犬の国、神に愛されたイスラエルを思う。ヴルタヴァ川は「血の川」であった。スメタナ作曲「わが祖国」

 

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ヴルタヴァ川からプラハ城を望む。天気は次第に晴れてきた。寒い日、白鳥がいた。

 

 

 

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スメタナの像。ヴルタヴァ川をじっと見ている。

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カレル4世象。カレル橋のそばにある。ボヘミヤの名君。皆に尊敬されていたそうだ。

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カレル橋にある。聖ザビエルの像。東洋人が数人で担いでいる。ザビエルが本国ではこんなに尊敬されているとは知らなかった。

 

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名物のあやつり人形を動かず店員。なぜか子供がそばで喜んでいた。

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芸術家の家。これはルネッサンス様式。建築は完全にアートだ。

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 中世のユダヤ人墓地。1787年まで。12000基もの墓石が重なっている。ユダヤ民族の苦難の歴史を象徴。最後の日に神はこの悲劇の民を有体的に復活させると思った。

 

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「旧新シナゴーグ」(建設16世紀)に入るときKIPA(キパ)という帽子をつけさせられた。入口で「私はクリスチャンだからかぶらなくてもよいか」と言ったが、「(クリスチャンでも)いいからかぶって入れ」と言われた。現地人の説明者に「イエスもラビと呼ばれていた」と言ったら「イグザクトリー(そのとおり)」と目を丸くして言われたのが印象に残る。

 

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ラコスティのウインドウ。あまりにすばらしい色彩であったので、撮影。この通りはブランド品ばかり。パリのシャンゼリゼーに真似たという。とても高価で手が出ない。ブランド品とは縁のない人生になった。

 

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エステート劇場 

モーツァルトの「ドンジョバンニ」が初演されたところ。映画「アマデウス」のオペラシーンはここで撮影された。モーツァルトはウィーンでは冷遇されたが、ここプラハでは歓迎された。モーツアルトはプラハが好きであった。交響曲38番はこの地で初演されたので「プラハ」と呼ばれている。人は誰でも排斥される地と歓迎される地というものがあるのだなー。「預言者は故郷では敬われない」という聖書の言葉は真理だ。イエスはユダヤ人に排斥され、ダンテも故郷を追われた。そしてモーツァルトも。どこでも誰にでも歓迎される「温厚な人」は「自分というものがない」人でその時代の人には無害人間として歓迎される(・・・組織のトップに立つ人は大体がこれ・・・)が、その時代に真に有益なことはしない。

 

 

 

 

081105 プラハ。 妻がスメタナホールでモーツァルトの「レクイエム」を演奏する。


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妻と朝の散歩でストラホフ修道院へ。

 

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徒歩1時間の所にあるストラホフ修道院。修道院というのは景観や景色のよいところにあるものだ。便利なところに造らないからだ。 

 

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ストラホフ修道院からプラハの街を望む。よい思想や信仰は景観や景色のよい所から生まれるというのが持論。便利な都心から偉大な思想は生まれない。六本木や新宿から高貴な思想は生まれない。

 

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ストラホフ修道院の紅葉がきれいであった。よい藝術も深い宗教心から生まれる。功利主義の思想からは生まれない。

 

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宿のホテル・デ・プロマット。4つ星だか庶民的。食事も口に合った。チェコ(西部はボヘミヤ、東部にはモラヴィアがある)は日本人の心に合う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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妻たちの演奏が行われる市民会館・スメタナホール。この建築はアール・ヌーボー様式

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「プラハの春音楽祭」はここで開かれる

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演奏会の看板。はたしてどれぐらいの人が入るか。

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スメタナホールの入口。この庇のデザインがアール・ヌーヴォー様式そのもの

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ゲネプロの最中に私は再び市内散策。

右端は地元ガイドの日本人、小此木貴子さん。博学で教養があった。ミーシャ美術館を詳しく案内してくださった。その絵よりも彼の人生に興味をもった。一緒に歩いていたら急にわたしの手を引っ張って脇へ寄せ「スリよ、スリよ!」と叫ぶ。二人組のスリが後ろから私に接近したのだそうだ。10年もこの地にいると見ただけで分かるという。スリル満点の場面であった。 後方はティーン教会の夜景。

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スメタナホールの内部。

演奏会の内容。オールモーツァルトプログラム

アヴェヴェルムコルプス・・(モーツァルトの定番。全員暗譜で結構でした)

ラウダテ・ドミヌム・・・(ヴェスペレ、私の好きな曲。チェコ人のソプラノ独唱は喉で歌っていて祈りの雰囲気がなくいただけなかった。宗教曲は心で歌わなければならない。日本のバックコーラスはよかった)

ヴァイオリン協奏曲5番。(ヴァイオリンは奥村愛。熱演の演奏にチェコ人は各楽章ごとに拍手。)

休憩

レクイエム・・・(ソプラノグループがよかった。高音が良く出た。)

 

指揮・・・ 船橋洋介

合唱指導・・・ 山本義人

ヴァイオリン・・・ 奥村愛

ソプラノ・・・ ズテナ・クロボウヴァ

アルト・・・ 伊原直子

テノール・・・ 望月哲也

バス・・・ ローマン・ヴォーツェル

合唱・・・ シュヴェル・デア・モーツァルト合唱団+地元チェコ人若干名 (150名。妻はこのメンバー)

オーケストラ ・・・チェコ・プラハ管弦楽団

約1500席のうち80%程度の入りは成功。ホールの響きはよかった。

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打ち上げパーティで、貫禄を示されたアルトの伊原直子さんと。伊原さんは今や東京芸術大学の重鎮。

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合唱指導者 山本義人先生と。丁寧な指導をする彼にはファンが多い。

 

 

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今回の演奏旅行の企画者、遠藤明氏と。「最後の晩餐」や「スカラ座」のチケット手配など大変お世話になった。英語に強い。感謝

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

081106プラハから東へ65キロメートルのクトナー・ホラに遠足。限りなくモラヴィア地方に近づく。この地方は農業の地であった。モラヴィア兄弟団も農業者が多かった。どの国でも農業者は信仰が篤い。

 

 

 

クトナー・ホラの風景。瞼のモラヴィアはこの先。神の霊が吹いた場所、農地。

 

 

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演奏が終わって一段落。プラハから東へ65キロのクトナー・ホラにバスで遠足。私にとっては憧れのモラヴィア地方に限りなく近づく。聖母マリヤ教会。バロック様式。均整がとれていて美しい。世界遺産。

 

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聖母マリヤ教会。この奥に、シトー派の修道院があるが、時間がなくて見られず、残念であった。

 

 

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墓地教会。内部は人骨だらけ。墓場を壊してその骨を内部に移動して建てたのでこうなった。フス戦争(1419−1438年、フスの処刑後、フス派が教皇・皇帝に対して起こした戦争)やペストによる死者の遺骨も加わっている。死者もこう飾りものにされては落ち着かないだろう。帰国後、嫁曰く「メメント・モリ(死を想え)の意味ではないでしょうか。」

 

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これ全部人骨でできている。何もここまでデザインしなくてもよいという感じ。悪趣味。

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説明書きを読む妻。

 

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墓地教会外観。建物はシトー派のもの。この派の建築は近代建築の神様コルビジェに影響を与えた。このシトー派の建築はフランスに多い。修道士が自分たちで石を積み上げたという。宗教心が美しいデザインを生む。一度訪れてみたいと思うが、もう無理だ。

 

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聖バルバラ大聖堂。フライングバットレス(飛び梁)が修復中。

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内部はかなり」明るく、気持ちの良い内部空間であった。

 

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クトナー・ホラ  人通りの少ない落ち着いた街であった。銀の産地として栄えた。

 

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同行のアルト三人組み。私のオヤジギャクをよく笑ってくれた「とても素晴らしい方(!)」たち。しかしあの笑いは義理か苦笑か冷笑か。

 

 

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プラハに戻る。妻がユダヤ人墓地をぜひ見たいというので案内。博物館の内部壁いっぱいに何十万人ものユダヤ人の氏名が書いてあった。

 

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ユダヤ人苦悩の象徴。神に愛されるとこの世的にはめちゃくちゃになるものだ。

 

 

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人形劇マリオネット劇場。モーツァルトのドンジョバンニ。人形劇は子供が喜ぶのが不思議。

 

 

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夜のカレル橋を妻と歩く。寒い日でヴルタヴァ川(ドイツ語でモルダウ川)の白鳥たちは寒がっていた。そのうちの一匹は風邪をひいたらしく「ハクチョ(白鳥)」とくしゃみをしていた(オヤジギャグ)。またそばにカモも泳いでいた。写真を撮ろうと思って「カモォーン」と呼んだが来なかった。ここのカモは英語が通じない。ロシアから来たのだろうか。(これもオヤジギャグ)

 

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夜のプラハの街を妻と一時間半歩いて宿まで帰る。夜道。心細くて一人ではとても歩けない。 

 

 

081107 ミラノ ドゥオモ スカラ座 

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スフォルツァ城。街中に古い建築がある。この中にミケランジェロの「ロンダニーニピエタ」があるが、時間がなくて見られなかった。

 

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 スカラ座内部。7層の客席は見事。

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ロビーにある トスカニーニの胸像。指揮者トスカニーニにはイタリア歌劇の基礎を築いた。

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スカラ座正面。次第に暗くなった。

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スカラ座前の広場にあるダビンチの像。いかに尊敬されているかが分かる。

 

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ガレリア 世界のファッションの発信地。この設計者は最後の検査に

あのドームの頂上に登ったのはよいがそこから落ちて死んだという。

 

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ドウォモは総大理石。白色。これには超びっくり

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 ドーム内の床の大理石模様は立派。薄い貼りものではない。

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祭壇をバックに記念撮影。とにかくドデカイ。

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 この大理石の柱の太さにまたびっくり。大理石がこんなに強度があるとは思わなかった。

 081108  ミラノ  ベルガモ 最後の晩餐 スカラ座  


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遠足。ベルガモに向かう。法律でガイドは現地の人でなければならないという。左側が現地人のガイド。イタリア語はさっぱりなので、もっぱら通訳が頼り。

 

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ベルガモは戦争で爆撃されなかったので中世の街並みが残っている。キリストが十字架を背負って歩いたエルサレムの「ビアドロローサ」に似ていると妻と話し合った。

 

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ルネッサン様式の建築。

 

 

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 図書館。バロック様式の建築。建築家の黒川紀章は女優の若尾文子に「あなたはバロックのような方ですね」と言った。その言葉に若尾文子が「まいって」ついに結婚するに至った。それを聞きつけた若い男が交際していた女性に「あなたはバックのような方ですね」と言ったら、振られてしまったという。(後半はオヤジギャク).それにしてもバロック建築はこの通りに美しい。その黒川紀章もすでに逝った。人生は短くはかない。

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12世紀建立の塔。52メートル。時を告げていたという。

 

 

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コッレオーニ礼拝堂。イエスの生涯が表現された壁画があったので妻と確認し合った。

受胎告知、馬小屋での誕生、東方の3博士、ビアドロローサ、十字架、ピエタの計6枚。

これイエス伝の本質。キリスト教の真髄。昔も今もこの真理は変わらないなーと思った。

昔は文字ではなく絵画で伝道したのだろうか。

 

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サンタ・マリア・マッジョーレ教会。中段の細長い壁画は「最後の晩餐」。これはフレスコ画。色の深みがない。ダビンチが自分の「最後の晩餐」をフレスコ画ではなく、テンペラ油を用いて深みを表現した意味がわかった。ここにはまた作曲家ドニゼッティの墓があった。合唱指導者の山本義人先生は感激して墓石をさすり、深く祈っていた。

 

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洗礼堂

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これはシンプルでなかなか素晴らしいデザインの建築だ。 

 

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建物の暗い内部から明るい遠方が見られる。この建築的仕掛けが素晴らしい。立つのは妻。

 

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建物を通り過ぎるとパッと明るいこの外部の景色が現れる。すばらしい建築的仕掛け。

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ベルガモのベストビューポイント。赤い屋根が美しい。これに比べて東京の屋根はごみ箱

 ミラノ(緯度は稚内程度)の中心部に戻る。

レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を鑑賞する。

 

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ミラノ市内に戻ってレオナルド・ダ・ビンチの「最後の晩餐」を鑑賞に行く。妻の先を歩くのはツァーの企画者遠藤明氏。見学時刻4時半の部に間に合うように歩く。胸が躍る。

右は、「最後の晩餐」がある、サンタ・マリア・デッレ・グラツェ教会。念願の場所についに来られた。

25名ずつ15分間だけの見学。遠藤氏が特別に何カ月も前から予約してくれていた。感謝。

 

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教会の入口。

 

 

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サンタ・マリア・デッレ・グラツェ教会。夕方になって光量が不足であった。とにかく古くて大きな教会。

ダビンチがこの礼拝堂の付属棟(左側にある)の壁画制作を引き受けたのはこの教会の存在の大きさによるものだということを感じた。

この日の午前中にベルガモの教会で見た「最後の晩餐」はフレスコ画。色の奥行きがない。ダビンチがテンペラ画で画きたくなった意味がわかった。これが劣化の原因。

 

 

 

 

 

 

 

内部は撮影禁止なので、旅行の前にネットで調べたものを掲げる。ブログから転載する。

「最後の晩餐」1495-97年(世界遺産)  ・・・内部は撮影禁止。この画はインターネット「最後の晩餐」は世界遺産。20年かけて修復されたものが公開。1999年修復完了。厳重な警備のため前部屋を2度通る。いやがうえにも緊張する。いよいよその部屋に入って息を飲んだ。その大きさにびっくり。食堂の一方の壁面の幅(12メートルもあろうか)いっぱいに描かれていた。高さも5.5メートルぐらいか。あまりの大きさに感動。何事も本物に接しないと本質は理解できない。この画はイエスが見る人に「この中に私を売る者がいる」と言っている。「あなたを売るのはこの私です」と心で何度も呟いた。

 

この日の午前中にベルガモの教会で見た「最後の晩餐」はフレスコ画。色の奥行きがない。ダビンチがテンペラ画で画きたくなった意味がわかった。これが劣化の原因。

 

 

 

 

 

 

 

 

(以下ブログから転載)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ダ・ビンチ「最後の晩餐」の鑑賞方法。

           バッハのマタイ受難曲に学ぶ。


 レオナルド・ダ・ヴィンチ 「最後の晩餐」1495-97年(世界遺産) 

ミラノのサンタ・ マリア・デレ・グラツィエ聖堂修道院食堂の装飾画 20年かけて修復されたもの

「最後の晩餐」が160億画素のインターネットで全世界に公開された。2007年

イタリア政府の快挙。

 

[バッハのマタイ受難曲に学ぶ、ダ・ビンチ『最後の晩餐』の

                          鑑賞方法]

イエス(独唱)

   「この中に私を売ろうとしている者がいる」

                    (マタイ26:21)

弟子たち(合唱)

     「主よ、まさか、私ではないでしょう?」

                    (マタイ26:22)

鑑賞者(コラール)

         「主よ、それはこの私です。」

                   (バッハの独創的な挿入

●「バッハは第5番目の福音書記者だ」

      (ナータン・ゼーラルブロム)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(ブログからの転載終わり)

 

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せめて最後の晩餐がある食堂棟の外部だけでも記念撮影したかった。日が暮れたのでうまく写らなかったが、じっと目を凝らして見るとこの写真に窓が写っている。あの窓が「最後の晩餐」のある部屋。建築の高さは2階建てぐらい。頑丈なレンガ造り。高さのスケールを出すために壁面に私が立ったのを妻が写したのだが暗くてだめだった。。

 

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「最後の晩餐」を見終わると外は真っ暗。

2人でミラノの中心部まで歩いて、ファッションの発信地ガレリアに行く。

混雑ではぐれるといけないのとスリが多くて危険だとのことで自然に妻と腕を組んで歩く。(チャンス)。こういうことは私達にとっては珍しいことだ。

妻は一生懸命にショッピング。私や息子たちにはネクタイとかシャツ。オヨメさんたちにはスカーフ。

妻は自分の手袋。これで妻は大仕事が終わった感じ。その後有名なピザ屋で夕食。とにかくドデカイので二人で一人前で十分であった。

 

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予約してあった、スカラ座に行ってレハールの歌劇「メリーウィドー」を鑑賞。

パリのオペラ座、ウィーン国立歌劇場と並ぶ三大オペラ劇場だがここが最高であった。

 

まず私はこの建築に圧倒された。7層である。東京文化会館の比ではない。そしてこの芸術性。

私の予約席は2階ボックスシートの舞台から2番目。花道が目の前でオーケストラピットがよく覗けた。

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席は2階のボックスシート。舞台に近い右側なので舞台の右の方が見えない。ボックスの位置によって値段が異なる。 わたしのボックスシートは安い方。ボックス内は5席。前から2:2;1と椅子がある。その位置は申し込み順。わたしは前から2番目

 

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ボックスの位置は悪かったが、そのかわりオーケストラピットが全部見えるのと、出演者が目の前の花道を通るので表情がよく見えるというメリットがあった。 オーケストラはミラノスカラ座管弦楽団。指揮はアーサーフィッシ。手なれた演奏の様子であった。日本では「メリーウィドー」と言われているが本当は「ハンナ・グラヴァリー」。

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劇場にはドレスアップした男女が並んで入ってきて、幕間の30分はロビーで談笑していた。人間の造り出した文化の華というものがここにあった。

 

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演目はレハールの「メリーウィドー」。中学生の時から聴きなれた曲が2つ。「ヴィリアの歌」「メリーウィドーのワルツ」。ここでその本物に接することができてうれしかった。中学生の時からの音楽の親友であった浦和の大沢胖君(共助会のクリスチャン)のことをしきりに思った。彼はオペラが大好きであった。しかし還暦を待たずに逝った。わたしが葬儀を行った。彼が残した大量の音楽ビデオテープの遺品は遺族から贈られた。オペラが多かった。「大沢君悪いねー」と思いつつ舞台を鑑賞した。

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 最後の場面。ハッピーエンド。ここで有名な「メリーウィドーのワルツ」が二人で踊られる。日本の色恋物語のような暗くジメジメした雰囲気はここには全くない。倫理観があり、明るい。キリスト教文化の影響だ。 不倫を美化しない。心の中での不倫も赦していない。だから清潔感溢れるドラマ。「メリーウィドー」の公演回数は今日まで世界で20万回。人間は誰もがこの清く明るい清潔感というものを本能的に求めるものなのだ。

 

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舞台に近いボックスシートなので出演者が目の前を通る。

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フィナーレ。舞台も観客も一体となる。観客は手拍子。すごい文化だなーと思った。

081109 雪のアルプスを超えて心安らぐ地、日本へ。 

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機中、隣席の同行のS氏はカトリック信者。ミラノのドゥオモの夕方のミサに参列した話しをしてくださった。音楽や建築を中心に信仰と文化の関係についてカトリックとプロテスタントの違いを話し合った。私はドゥオモが全部白い大理石でできていたのに驚いた。ミラノの空港を飛び立つと間もなくアルプス上空になる。ナポレオンはあの山を超えてイタリアに遠征したのだ。トマ作曲の歌劇「ミニヨン」の中に「君よ知るや南の国」という歌がある。ゲーテに「イタリア紀行」がある。北欧の人たちは太陽の国イタリアにあこがれた。

さようならイタリア。さようならチェコ。再び訪れることはないでしょう。美しい国でした。

口語訳 伝  3:11a

3:11 神のなされることは皆その時にかなって美しい。

 

 

 

 

081110  帰国 心安らぐ地、日本

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リムジンバスで成田から新宿まで1時間半。新宿駅前に最近できたばかりの建物(コーンビル)を近くで初めて見る。

思わず「ヤメテクレー」という感じ。ここに建築の藝術的感動はない。日本のモノマネ文化の底の浅さよ。

日本人は日本独自の文化でなければならない。建築も音楽も宗教も。日本人にとっては日本が最高、和食が最高、日本人の妻が最高。日本建築が最高。落ち着く。心が楽である。人間にとって幸福とは「心が落ち着くところ」だと感じた。

地球を右回りに飛んだので時計を8時間進め、日本はもう10日の月曜日。