2007
オーストリアの旅
( 2007年6月19日〜26日)
高橋照男
旅の目的
妻のトミ子がウィーンムジークフェラインザール(ウィーン楽友協会ホール)で行なわれる5カ国(米、中、日、インド、オーストリア)の合唱祭で、ウィーン少年合唱団と合同演奏する。
照男はその応援と共に、奇跡的なよい音響をするというウィーン楽友協会ホールの音響をこの耳で聞きに行く。7年前に一度計画したがその時は脳内出血で断念、今度は念願を果たしたい。
また、音楽家たちはなぜウィーンに集まったかその謎を現地で探りたい。
旅 程
2007年 6月19日 モントぜー
20日 ザルツブルグ
21日 ザルツブルグ
22日 ウィーン
23日 ウィーン
24日 ウィーン
25日 ウィーン
26日 帰国
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070619(火)
成田発11:40 全日空ボーイングトリプルセブン777 ロンドンまで12時間ノンストップのフライトは驚異の技術。
●妻が故郷(ふるさと)の山を眺める
日本海に出て北周りで欧州に向かう。日本を飛び立つとき、新潟上空で妻が「あれは東北の山だわ」と言う。
ふるさとの山に向ひて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな。(石川啄木・一握の砂)
「ふるさとは遠くにありて思ふもの」(室生犀星) 2007.6.19
シベリア、ウランバートル上空。高度9601メートル。時速840キロメートル。シベリアに抑留されて亡くなられた方々のことを思う。2007.6.19
ロシアのサンクトペテルブルグ上級。高度10688m、速度857km。トルストイの「戦争と平和」を思う。2007.6.19
ロンドン郊外。ロンドンは都心から50キロ圏の田園地帯によい住宅街がある。 2007.6.19
ロンドン、ヒースロー空港の「サイン」はいつ見てもすばらしい。この色彩が何ともいえない。2007.6.19
翼のメカニック。翼の中はガソリンかと思ったら機械であった。妻はよく「この重いものが飛ぶわねー」と言うので、流体力学と自然は真空を嫌うから浮かぶのだということを話す。 2007.6.19
ロンドンで乗り換えてドイツのミュンヘンへ。ドイツの美しい田園内集落を見る。 2007.6.19
●ミュンヘンからモントゼーに行くバスの中で妻の胃が激しく痛みだす。ここが妻の良いところ、必死になって祈った。すると不思議に楽になった。食事も控えた。妻の言葉、「あのときはどうなるかと思った」。
070620(水)
●ザルツブルグ郊外の風光明媚なモントゼー
モントゼーの三日月湖。ミュンヘン郊外にあるこのような景色は芸術家にインスピレーションを与えた。 2007.6.19
「偉大な思想は、景色のよい所に誕生する」というのが私の持論。ベスタロッチ(教育)、デュナン(赤十字)、ヒルティ(幸福論)、バルト(神学)、ブルンナー(神学、無教会主義を高く評価して世界に紹介)。 2007.6.19
何かを語りかけてきそうな形の山。ザルツブルグとこの辺は映画「サウンドオブミュージック」の舞台となった非常に美しいところ。2007.6.19
朝目覚めると、ホテル(パノラマホテルモントゼー4つ星)の窓からこの景色。「美しい」。2007.6.19
●神は天地を創造されたときこれを「美しい」と言った。
新共同 創 1:9-10
1:9 神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。
1:10 神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。
新共同 創 1:31
1:31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
●この「良し」というのは言語では「トーブ」で、それは「美しい」という意味である。
今回演奏会の指揮者山本義人先生、左はそのご両親。パノラマホテルモントゼー 2007.6.20
●ザルツブルグ旧市街(世界遺産)の観光。ザルツブルグは世界で最も美しい街の一つ。観光客が多い。
ミラベル公園。背景のホーエンザルツブルグ城との調和が素晴らしい。2007.6.20
ミラベル庭園の階段。この辺が映画「サウンドオブミュージック」の舞台だったそうだ。この映画、帰国してから見てみよう。2007.6.20
指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンの生まれ育った家。銅像があった。こういう芸術家もやはり自然環境の素晴らしいところに誕生するものだなー。2007.6.20
カラヤンの家のそばを流れるザルツァッハ川。緑色をしているきれいな川だった。 2007.6.20
モーツアルトが生まれた家。観光客で一杯であった。決して大きな家ではない。展示品を見ると、彼の神童、天才ぶりが現れていた。音楽の才能は家庭環境の影響らしい。 2007.6.20
モーツアルトの生まれた家。自分の家の庭はないが他人の家との共同の中庭がある。ザルツブルグ全体が庭なのか。
モーツアルトの家の前の通り。看板が美しいケトライドガッセ通り。原宿の竹下通りと言ったところか。モーツアルトはこの景色を見た。この通りで遊んだのか。いやピアノの練習ばかりで遊べなかったのかも。子供は自由に遊ばせなければいけない。彼は大人になってギャンブル好きでそのうえ浪費してしまったという。人間は天才神童よりも凡人のほうが幸せだなーと思った。2007.6.20
●ザルツブルグ祝祭劇場
ザルツブルグ祝祭劇場。外観。7月下旬から8月一杯にかけて行われる「ザルツブルグ音楽祭」は世界的な音楽フェスティバル。ザルツブルグはこの間世界中からの客でにぎわう。この劇場はその中心的なもの。ホールは複数あるが、岩をくりぬいたものもある。自然と調和させているところがよい。 2007.6.20
●ザルツブルグのランドマークであるホーエンザルツブルグ城
中世の城であるが保存されていた。詩篇とルターの讃美歌267番「神はわがやぐら」を思う
口語訳 詩 18:1-2
18:1 わが力なる主よ、わたしはあなたを愛します。
18:2 主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。
新共同 詩 46:2
46:2 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
●しかしこの堅固な城も第二次世界大戦でナチスドイツに攻め落とされる。敗戦。オーストリアは英米仏ソの共同占領となるが1955年に永世中立国として主権を回復。1995年にEU(欧州連合)に加盟したが、軍事同盟への参加、大量破壊兵器の保有、国内の外国基地の設置などは、法律で認めていない。日本が真似たいところだ。●人の手で造られた城はいつかは壊される。新生オーストリアは神の手によって起こされた。復活した。敗戦が幸いした。
ケーブルカーで城に近づく。
左官の塗り方がでこぼこしている。現代建築のようにまっすぐに塗ってないところがまた人間らしくて親しみが持てる。壁の穴はここに太い材木を差し込んで工事用の足場を作るためのもの。 2007.6.20
戦いの名残の大砲。詩篇127編を思う。永世中立の小国オーストリアは神が守る
口語訳 詩 127:1
127:1 主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。
ホーエンザルツブルグ城より、世界遺産のザルツブルグ旧市街を眺める。平和の町だ。また明日訪れるウィーンもジュネーブ、ニューヨークと並び、国連都市がある。平和の国オーストリア。うらやましい。 2007.6.20
070621(木)
●朝、妻とホテル周辺を散歩する。
ザルツブルグ駅。オーストリアの人口密度は、一平方キロあたり98人で日本の30%。町は混雑してない。宗教はカトリック78%、プロテスタント5%。ヒルティはカトリックの町は落ち着いているというがその通りだと思った。 2007.6.21
町に今晩の演奏会の張り紙があった。ウィーン少年合唱団が目玉なのでその文字が大きかった。日本、中国、米国、オーストリアの各国の演奏会。 2007.6.21
●妻が今晩の演奏会の練習をしている時、私一人でもう一度ミラベル庭園に行く。
ミラベル庭園の花壇は良く練られたデザインだ。2007.6.21
ミラベル庭園で映画「サウンドオブミュージック」のような場面に出会った。2007.6.21
ミラベル宮殿とバラ。バラはこういう建物とよく似合う。2007.6.21
ミラべル庭園はこういう人の手入れが常にあるからきれいなのだなー。 2007.6.21
ミラベル庭園に面しているバロック美術館に入った。ルーベンスを見る。2007.6.21
ミラベル庭園の前の教会堂広場では野菜や果物が売っていた。野菜や果物はどこの国でも似ているなー。 2007.6.21
●ウィーン少年合唱団と一緒に昼食。ルネッサンスザルツブルグホテル 2007.6.21
ウィーン少年合唱団員と昼食。彼らは整然と並んで入ってきた。2007.6.21
ウィーン少年合唱団の団員と。
真ん中の少年に「私は日本人だ」というと「僕のお母さんも日本人」と言った。名前を書いてと言ってメモ帳を差し出すと左手で漢字まじりで「朗男 Friesocher」と書いてくれた。また「Ruiko」とも書いたがこれは母親の名前らしい。オーストリアは親日である。ウィーン少年合唱団は4チームあり、今回のメンバーはその中でもベストチームである。団員の中に日本人がいた。
●ザルツブルグ祝祭劇場の内部見学
ザルツブルグ祝祭劇場の中のホールの一つは岸壁をくりぬいて作られている。感動的。自然と建築との調和。この写真は舞台背後の客席。この左側に大きな客席がある。幻想的な雰囲気で人気があるホールだという。 2007.6.21
英国の建築家も見学に来ていた。夫人は日本人。私が「わが国は英国から建築を学んだ」と言うと、彼は「日本の建築の間(ま)ということから多くを学ぶ」と言ってくれた。 2007.6.21
●ザルツブルグモーツアルテイムにて第一回目の演奏会
日本は女性43名が 浴衣姿で歌う。全員が浴衣姿でバスに乗って演奏会場に向かうとき、街ゆく人は珍しそうに見て手を振った。2007.6.21
「世界合唱祭」、第一回目はザルツブルグモーツアルテイム。写真は最後の合同演奏。ハイドン「戦時のミサ」から「グローリア」。さすがはウィーン少年合唱団。彼らの声がよく響いた。昼食で出会った「朗男 Friesocher」君を探したが見つけられなかった。セーラー服に着替えたのでイメージが違ったか。妻は前から3列目、右から7人目。これを聞いて、少なくともここで演奏している、米、中、日、オーストリアはお互いに戦争はできないと思った。そして思わず「ブラボー」と叫んだ。写真撮影は演奏中以外なら許可された。2007.6.21
070622(金)
●ザルツブルグからウィーンへ4時間のバスの旅
アウトバーンは時速200キロメートル。ブンブン飛ばしているが、車間距離が少ないのはなぜか。不思議
途中休憩のレストランで古い「ブドウ搾り機」を見た。電気仕掛けでないところが人間的。道具というのはマニュアルなしに一目見ただけで使い方がわかるのが理想だ。現代のパソコンの分厚いマニュアルは「わかりにくい」。不親切。技術としてはイマイチだ。
このような景色の連続。ドイツの風景よりも奇麗である。オーストリア人はドイツ語を話すが自分たちはドイツ人ではないと言っているそうだ。ドイツ人は野蛮なのかなー 2007.6.22
リンツを通過し、バロックの宝石といわれるメルク修道院を車窓遠方に見る。モーツアルトに「リンツ」という交響曲第36番がある。モーツァルトも旅人であった。
なだらかな丘陵地帯の連続。なんともまー色彩がきれいだ。農業者が見えない。
ウィーン市内に到着。車窓に主要建築を見る。 ウィーン国立歌劇場(オペラ座)。我が小沢征爾が音楽監督を務める。
国会議事堂。ギリシャ建築のスタイル
ゲーテ像。ゲーテはドイツ人だがこの国でも尊敬されているのはなぜか。音楽と同じく精神文化には国境がないからだろうか。
王宮。この建築的リズム、音楽が聞こえてくる。
世界一美しいといわれる王宮図書館。25万冊収蔵。こういう雰囲気だと猛勉したくなる
ハイドンはミヒャエル広場に面するこの建物に住んでいた。その広場には下記の王宮の入口がある。
この建物はハイドンの曲を彷彿とさせる。たとえば、弦楽四重奏曲第77番「皇帝」の第2楽章。これは讃美歌194番「はてしもしられぬ」となり、オーストリア国家にもなった。「建築は凍れる音楽なり」と言ったのはガンジンスキー。
ウィーンの古い伝統に抗して建てられた中央郵便局。オットーワーグナーの1912年の設計。建築の学生の多くが見学に来る
ウィーンフィルの本拠地、ウィーンムジークフェラインザール(ウィーン楽友協会ホール)。
夢にまで見た、ウィーンムジークフェラインザール(楽友協会ホール)にきた。思わず「これかー」。ここが第2回目の演奏会場。しかしここが主目的。
これからここでわが国の合唱団が歌うのだ。ドキドキ。
このホールが奇跡的に素晴らしい音がするのはやはり努力のあとがある。1・天井裏に砂袋がいくつも置いてあって響きを調整している。2・床下が2メ−トル以上もあって、建物全体がヴァイオリンのような楽器担っている。3・上記写真のような女神の彫像が両脇にたくさんあって音響によく働くらしい。などなど。設計は国会議事堂の設計もしたテオフィール・ハンセン(デンマーク)、1869年の作。幅の22メートルなどこれに似せて設計した日本のホールを聞いたが、こんな響きはしない。タケミツホール、浜離宮ホール、カザルスホール、など。
米国、中国、インド、オーストラリア、日本。そしてウィーン少年合唱団がそれぞれ歌ったのち、合同でハイドンのミサ曲。日本は日本の歌を12曲。日本の心を歌って大成功。スタンディングオーべーション。音は「まろやか」。一言でいえばCDの音でなく、レコードの音、なんともマーすばらしい「一味違う」音色。私としても思わず「ブラボー」を二回も叫んでしまった。その声も深くよく響いたのでした。
知人から「女性に対しては『ブラボー』ではなく、『ブラバー』というのです」と言われたので、「いいですよ、いいですよ。どうせわたしの妻は婆(バー)ですよ」と言い返した。
ウィーンムジークフェラインザール(楽友協会)の夜景。
夜遅くまで打ち上げパーティ。早寝の私にとっては参った。演奏終了後は楽屋で指揮者はじめみんなが涙涙であったそうだ。 2007.6.22
070623(土)
●すべての演奏会が終わってこれからは観光。
市立の中央墓地。多磨霊園のようであった。
ブラームスもウィーンに眠るのか。すると主要音楽家のほとんどがここに眠る。
世界遺産のシェーンブルン宮殿。外壁はマリア・テレジアのイエロー。そうか。モーツァルトはこのようなところに住む人に喜ばれるようなものを作曲したのか。少しわかった。ここに住む人はかなりかなり暇なのだ。大体1400もの部屋があっては人を呼んでもすぐには来てくれない。これ庶民のひがみかなー
シェーンブルン宮殿の庭。フランスのヴェルサイユ宮殿のようだ。
ウィーンのシンボル、シュテファン寺院。塔の高さは137メートル。鉄骨なしでこの高さとは驚異。石と石は鉛でつないである。現代の超高層ビルも顔負け。創世記11章4節を思う。
新共同 創 11:4
11:4 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
高い建物を建てて有名になり、優越感に浸りろうという気持は昔も今も同じだ。神はその不遜な動機を喜ばなかった。
新共同 創 11:5-7
11:5 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、
11:6 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。
11:7 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
塔の頂で、米国人にシャッターを頼むと、奥さんの肩を抱けという。そこでおそるおそる肩に手をまわした。こんなことはじめてだ。出来上がった写真をみると妻が笑っていたので「ホッ」とした。
今日はまた楽友協会ホールで演奏会を聴く。本日はウィーンモーツァルトオーケストラで「ザ・ベスト・オブ・モーツァルト」。最後のラデッキー行進曲の手拍子は楽しかった。やはり音がよい。
2回の演奏会が終わり、トミ子は解放された顔をしている。
070624(日)●ホテルの一室で妻と二人で家庭礼拝。讃美歌294番。「みめぐみゆたけき主の手にひかれて、この世の旅路をあゆむぞうれしき」。詩篇朗読118編「主に感謝せよ、主は恵みふかく、その憐み、とこしえに絶ゆることなし。・・・・」。讃美歌74番「はてしもしられぬ あまつうなばらを」(ハイドン作曲天地創造から)。祈り、祖国日本のこと、子どもたち家族のこと、旅の無事のこと●二人の間にイエスの臨在を感じ、どんな大聖堂よりも本物だと感じた。
文語訳 マタ 18:19-20
18:19 また誠に汝らに告ぐ、もし汝等のうち二人、何にても求むる事につき地にて心を一つにせば、天にいます我が父は之を成し給ふべし。
18:20 二三人わが名によりて集る所には、我もその中に在るなり』
新改訳 マタ 18:20
18:20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
塚本訳 ヨハ 4:21
4:21 イエスが言われる、「女の人、わたし(の言葉)を信じなさい。(間もなく)あなた達が、この山でもエルサレムでもなく(どこででも、)父上を礼拝する時が来る。
●ウィーン郊外、カーレンベルグの丘に行く
ウィーンを一望する「カーレンベルグの丘」。左にドナウ川、右にウィーンの森。ウィーンは自然環境に恵まれた街だなー。 2007.6.24
カーレンベルグの丘にある教会。ポーランドに関係のある教会で、この日もポーランドからの旅行者がいた。ポーランド出身のローマ法王パウロU世の写真があった。 2007.6.24
●ベートーベンが難聴に苦しみ、遺書を書いたハイリゲンシュタットの家を訪ねる。
ベートーベンが耳が聞こえなくなって遺書を書いたハイリゲンシュタットの街並み。この景色をベートーベンも見た。右手前がべートーベンが住んでいた家 2007.6.24
ベートーベンが住んでいた住居の中庭。目の前の教会の鐘が動いているのに音が聞こえないので耳が悪くなったということがわかった。気の毒。しかしそれからがベートーベンの偉いところ。傑作を続々と生み出した。 2007.6.24
ベートーベンが遺書を書いた、ハイリゲンシュタットの家。中庭に大きな木があった。この付近はワインの店が多い。ベートーベンはそれが目的でこの付近に住んだとの一説もある。彼は37回も住まいを変えた。部屋の鍵穴から中を覗かれないような工夫があった。 孤独な人生であった。2007.6.24
ベートーベンのデスマスク。苦悩の跡が感じられた。モーツァルトとは違う。ベートーベンは人生の苦悩と喜びを謳い上げた。耳は解剖されたためになかった。 2007.6.24
●ベートーベンが交響曲第6番「田園」の曲想を練った「ベートーベンの小道」を散策する
ベートーベンが一人散歩したであろう森の中に立つ像。
この森はなかなかよかった。ベートーベンの曲はこういう 自然の中で発想されたのではないだろうか.。 2007.6.24
ベート−ベンの小道。なるほどよい道だ。曲想がどんどん湧いてきたのだろう 2007.6.24
ベートーベン交響曲第6番「田園」第二楽章「小川のほとりの情景」の曲想が浮かんだ小川が右側。左はその散歩道。私はここに訪れたかったのだ。しかし、気持ちよく歩いている時、先を行く妻が振り返って「お父さん。ウンコがあるわよ、気をつけて!」。気分が壊れた。人生なんてこんなものだ。 2007.6.24
帰国してから職場のヴィオリスト氏にこの話をすると音楽奏法標語に「ウンポコ・ソステヌート」というのがあると教えられた。(笑)
●ウィーンの街を歩く
市立公園にあるヨハンシュトラウスの像。ウィーンで生まれた者は「ヨハンシュトラウスのワルツはドナウ川で産湯をつかったものでなくては演奏できない」と言っている。 2007.6.24
シラーの像。本国ドイツと同じくシラーはこの国でも高く評価されていることがわかった。彼の精神性が評価されているものと思われる。 2007.6.24
ウィーンの街並はこのようなもの。歴史的建造物だらけ。法律で解体が禁じられている。 2007.6.24
ウィーン美術史美術館。これにはびっくり。人類の至宝とも言うべきものが沢山集まっていた。時間がなくて絵画のみ鑑賞。ブリューゲルの部屋で「バベルの塔」を子細に見る。この絵画、今まで建造物にのみ関心があったが、実は建築職人を描いているものだと新発見。2007.6.24
●ウィーン国立歌劇場(オペラハウス)を見学する
外観。建築は完全に芸術品。すごいなー。わが小沢征爾がここの音楽監督とは。2007.6.24
内部は芸術品そのもの。特に天井に力を入れていることに感じ入った。日本では考えられないことだ。 2007.6.24
幕間に休憩する貴賓室も豪華。我が小沢征爾はよくぞここの音楽監督になれたものだと思った。2007.6.24
6層からなる客席。東京文化会館の比ではない。しかし安い立ち見席もあるから感心。この国では音楽が金持ちのものだけではないことを知る。2007.6.24
正面は貴賓席だがそばに立ち見席がある。朝から並べば入れるという。その他の階の立ち見席は2〜30分前から並んでも入れるという。日本の歌舞伎座に似ている。 2007.6.24
日本語ガイド。流暢な日本語だと思ったら、父親はオーストリア人、母親は日本人であった。私の質問。「我が国の小沢征爾がこんなすごいところの音楽監督であることを誇りに思うが、正直なところ現地での評判はどうか」。ガイド「大変評判がよい。その一つに子供向けの音楽会を開いている」。小沢征爾は2010年まで契約が延長された。 2007.6.24
ウィーンならではの「ホイリゲ(居酒屋)」の中庭で打ち上げパーティ。みんなで日本の歌を合唱。他国の客から拍手。ベートーベンも飲んだであろう地元のワインがおいしかった。私は演奏会での「ブラボー」がよかったので商品をいただいた。 2007.6.24
070625(月)
●自由行動。妻とウィーンの旧市街を散策する。
マリア・テレジア像。女帝の偉大さを示すようにものすごく大きかった。美術史美術館と自然史博物館の前庭 2007.6.25
ウィーン建築センターを訪れてオーストリアの近代建築を学ぶ。子供たちが床に寝そべって建築や都市の勉強をしていた。幼時から「美学」を学んでいる姿に感心。上の写真はその食堂のモザイク画。 熱の入れようが違う。 2007.6.25
王宮前広場 ヨーロッパを650年も支配したハプスブルグ家の影響は大きかったことを今度の旅行で初めて知った。その王宮。 2007.6.25
ミノリーテン教会 ゴシック様式。内部にはダビンチの「最後の晩餐」がモザイク画になっていた。2007.6.25
ペーター教会。ウィーンで最も美しい教会の一つ。バロック様式。建物が傾いているのは妻の撮影の具合による。玄関には照男が立っている。
案内書の言葉に感動。「ここは1600年以上前から、毎日ミサが続けられている場所なのです」。三位一体を強調していた。 三位一体の正統信仰が教会の本質。心が通じ合った気がした。 2007.6.25
ペーター教会の前にある三位一体記念碑。
そうだ。キリスト教の本質は三位一体なのだ。2006.6.25
カプツィーナ教会の地下。ハプスブルプルグ家の歴代皇帝の納骨所。 女帝マリア・テレジアの棺がひときわ大きかった。妻は「私の遺体は灰にして東北の山に撒いてほしい」と言った。
旧市街の中心的なゲルントナー通り。歩行者天国。ここを前後3〜4回も歩いたので、ウィーンの方向感覚が大体つかめるようになった。2007.6.25
さようならオーストリア。あなたのことは忘れません。あなたは小さくてもキラリと光る国でした。 2007.6.25
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帰国してからの感想。日本人には日本国が一番よい。
食事(さっぱりの和食)、風呂(洗い場で肩から湯をかけられる)、風景(自然美は世界共通。神は公平)、宗教(日本には日本人にしっくりする無教会主義キリスト教が与えられた)、言語(全国で日本語が通じる)、安全治安(安心)、日本人の妻(世界一といわれている)
・・・・2007.7.3記・・・・