法禅院(檜尾寺)の心礎実測図






母校京都府立桃山高等学校の先輩たちの郷土史研究部のメンバ-で「南やましろ上中古篇」と題した立派な冊子を残していることを

知って桃山高校の図書館で借りコピ-したものから心礎を上図に示した。

全部で258ぺ−ジで南山城地域の歴史について,高校生としてはよく此処まで学問的に調べあげたものかと感心した。

発行は昭和25年12月で,指導教官は森田勝治先生で,同じく同志社大学文学部文化史学研究室石田一良先生も助言にあたっておられる。

広く細かく根気よく文献を拾い集められているのには驚き且つ感動しました。

幼い子どもの頃,この石の上に乗っかってよく遊んだ記憶がよみがえってくる。

石はやや細くなった先端方向に傾き地中に埋もれて,周囲が畑地で図で黒く塗られているところは畑の周りの粘土か空き地だったと記憶している。

今では心礎の実物が何処かで見つかれば良いのにと願っている。

探して持っておられるのではないかと思われそうな方のお庭をみせてもらうと確かに石質は同じだが形が違っている。

大きさもやや小さい。その家の方が庭に合ったように加工されたのかとも想像しているが。

全く違うかのかもしれない。

心礎は家族が第二次大戦の戦後のこと, 誰とも知らない買いにこられた人に売ってしまっている。

当時は畑地にとって邪魔なものとしての認識しかなかったようだ。畑地の西の辺りの部分に放置されていた。

畑地の周辺に大きいな石それに小さい石が多くあった。石が少し頭を出して殆ど埋もれたままで,それが礎石だったのかもしれない。

瓦片もあったとも考えるが,当時では無用のものとして,その価値は全くわからなく眼中になかった。

最近稲荷山の一の峯 二の峯 三の峯に登った。これらは四世紀後半の古墳とされている。この古墳群にも同じ石質の石灰岩か゜使われ

丁度中腹の四辻辺りはには同じ石が地面に露出している。手近な石が使用されている。

昔は巨大な石を山上に持ち上げるのが大変だから当然の事と考える。

京都府立桃山高等学校の先輩たちが一日かけて瓦片を探し出し大切に持ち帰ったとこが本に記録され,図示されている。

子共の頃,印象にあるのは道に接した正面真ん中辺りに高札が建てかけてあった。

それにはこの寺の由来が京都市の方でもって記録し掲示されていた。それには深草寺址と書かれていた。

そのような掲示の高札はあちらこちらでよく見かけている。

当時の方が今より京都市による古い文化施設に対する市政が進んでいたのではないかと思われる。

そのことは「南やましろ上中古篇,」の本にも同じく深草寺址と書かれている。

当時一般には誰もが゛行基と関係した法禅院で,その後の檜尾寺だったことは夢想だにもしていなかった状態である。

勿論,のこと檜尾寺のことについては知られていなかった。

昭和55年頃に,初めて一回だけ深草極楽町にお住まいだった木村捷三郎先生にお会いするまでは深草寺址と思いつづけていた。

多分その頃は寺に関心もたれていた方達もそのように思っていたか,或いは昔,此処に古いお寺があったくらいの認識しかなかったと考える。

現在では,多分その場所に住んでいる土地の人達も含め,誰も殆どの人たちがお寺があったことすらも知られていないと思う。

最近になり色々と調べだすと行基の法禅院で,後の檜尾寺という,木村捷三郎先生の説は間違いなく正しいと確信している。

何故にこれだけはっきりしていることに対して,京都市の関係の方達が「おうせんど廃寺」を「檜尾寺(法禅院)跡}にされないのか

不思議でならない。

現存している有名な古寺にも衰退し荒れた状態の状況にあるものもある。

弘法大師当時の空海が一時居住していた乙訓寺も訪れてみた。

寺域も狭くてひっそりとしていて,大きな伽藍などは見当たらない。牡丹の花が沢山植えられてその時だけ拝観料をとっておられるようだ。

実恵が檜尾寺に居住していた頃に空海が゛一時的に住んでいた寺である。空海は帰唐後三年間は石山寺に住んだとの記事もある。

国宝第一号の弥勒菩薩がある広隆寺でさえも幼稚園経営と雑然としたところに沢山な仏像並べて拝観l料で

経営に苦心されているのが伺えるのだが。従業員の方たちが多ければそれだけ経営も大変だと思う。

でも一時の戦後の頃に比べれば全体的に各寺院ともによく整備され綺麗になってきている。

戦前はどうであったか。

京都市の方で高札を掲げていたくらいだから,それなりに文化行政に力を入れていたと思う。

古いものの価値がどんどん失われゆき,日本文化が衰退し,欧米文化が凌駕されている:現代において

日本人としての固有の文化は大切守ってゆくべきことで゜ある。

再び強調するが,このような時代こそ,日本の固有の文化は益々大切にして保存に力入れるべきである。

遺跡地図を買いに京都市埋蔵文化研究所によった。

その時にだれが廃寺名をば固有の寺院名称に決めるのかを京都市埋蔵文化研究所で聞いたところ,

研究所の方で決めることらしいことを知った。

同時に以前は京都府の管轄であって,廃寺の名前は京都府からそのまま受け継ぎ名前が続いてついているとのお話だった。

,多分研究所には木村捷三郎先生に教わった方達も沢山おられるとおもう。

誰もが納得するように誰が最終的な決定を下すのだろうか。

文化遺産保存維持推進のためにも現在で,判る正確な判断でもって決定すればそれでよいことだと考える。

,決定されないのはいろいろといらない憶測,をし,考えたくなってくる。

是非早く検討していただきたいものである。

本として出さないと名前は変えられないような話もあったたが,それはおかしい話だと思う。

現に間違った事実が綿々と歴史上正当化されて辞書類などにもいろんな所で執筆されている

,矛盾が生じたことを放置し,嘘のことをが本当のこととして多くの有力な歴史の本や,そして辞書類に

書かれている原因が「京都市埋蔵文化研究所」に一端の責任を,背負っているのではないでしょうか。

正式には現在では京都の深草には「おうせんど廃寺」は有っても,「法禅院」その後の「檜尾寺」が存在しなかった状態にある。

京都市埋蔵文化財研究所で,そのことを,特に肝に銘じて真剣に早く取り上げて欲しいところて゜す。







京都府学務部社寺課によって昭和13年4月15日に発行された書物の

「京都の古建築」によると



114 深草寺阯 伏見区深草谷口町 京阪バス,谷口下車東へ300米

秦氏が天智天皇の御為に天武天皇の御代に創立した寺で,法長寺と号した。法隆寺式の伽藍配置を有し,弥勒菩薩を本尊とした。

奈良朝前期の瓦が出土し,又凹二段式の塔婆心礎を出土している。因みにこの付近に行基の創立した禅城寺のあったことが

出土瓦によって考えられる


図面として下図と同じものが掲示されていた。



心礎は二重円孔式、218×158×67cmで、径76×13,5と径13.5×10cmの円穴を彫る・・・:(径は直径×直径でなく直径×深さで

13,5で正しいことでした。測定者による誤差は仕方ないことだと思います)

これははっきりと京都府によって昭和13年時に深草寺阯と断定されている。

記事内容も広隆寺資材帳並びに広隆寺来由記に書かれている広隆寺末寺としての深草寺についてのことと

全く同じである。

行基創立の禅城寺については意味不明である。

だが,これは紀伊寺の別名である隆城寺と法禅院が混じて城禅寺になったのだと考える。

弥勒菩薩は深草寺には丈六の弥勒菩薩があったことが書かれている。

これらの内容が一般に戦前・戦後には,高札にも掲示されていて深草寺阯が広く流布されたと考える。

伽藍配置はやはり法隆寺式伽藍配置と書かれている。



「心礎は二重円孔式・・・・・」での記事はインタ-ネットでは「佛教考古学論巧」に書かれているとの事だが

見つけ出すことができなかった。


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