所在地(比定地)  京都市伏見区深草鞍ヶ谷

 







イラストレーターUno Chiaki作成による当時の現地想像図

上記の原図



(1) 法禅院と「おうせんどう廃寺」

(2) 発掘の遺物

(3)実恵について

(4) 檜尾寺(法禅寺)と実恵(弘法大師の一番の弟子)

(5) 空海は実恵の師






法禅院と「おうせんどう廃寺」


法禅院については確定的な名称にいたつていない。京都市遺跡地図では「おうせんと゛う廃寺」になっている。

京都市埋蔵文化資料関係の方に,このことを尋ねしてみると「おうせんとう゛廃寺」が一般的に知られているので

そのようにしているとのことである。

平成18年になってから ,昭和14年に既に田中重久氏が「行基建立の四十九院」を「史跡と美術」第118号で発表されているのを知り

京都市埋蔵文化資料研究所にその文献があるかをたずねにいった所 で, 

いろいろと研究員の方及び幹部の方とお話しする機会があった。

現在の状態だと伏見深草には「おうせんどう廃寺」は有ったことになっても行基が建てたとする「法禅院」はなく

,「檜尾寺」も認められなかったことになる。

次回の京都市遺跡地図台帳作成する際に検討するとのご回答を頂いた。

まさか「行基年譜」に書かれている 「法禅院 檜尾 山城国紀伊郡深草郷」について史的価値がないとも言われないし

文徳実録に載る仁明天皇陵近くにあったとされる「檜尾寺」の存在を否定はされないと考えるのだが。

もし否定されたならば仕方ないことだが,京都市埋蔵文化:研究所としての見識が疑われることになるだろう。

,否定されないならば法禅院は何処に,檜尾寺はどこにあったのか。そして鞍ヶ谷にあった寺はなんという寺だった可能性を

考えておられるのかを是非知りたいところです。


平安時代史事典よりの引用

檜尾寺 ひのおでら

空海の高弟である実恵(七八六〜八四七)によって創建。法禅寺とも。実恵はここに住したので「檜尾僧都」と呼ばれたという(『伊呂波字類抄』『東寺長者補任』)。文献上の確実な初見は『文実』嘉祥三年(八五〇)三月二十七日条で、仁明天皇七日忌に際して使者が派遣された「近隣七箇寺」の一つであった。従って京都または仁明天皇陵(山城国紀伊郡深草山陵)の近傍に所在していたらしいが、これ以外は未詳。なお後世、河内観心寺の地が檜尾と呼ばれるようになり、檜尾寺と観心寺が同一視されるようになった。

【研究】 足立康『日本彫刻史の研究』(東京、昭19)、福山敏男『寺院建築の研究』下(東京、昭58)。[竹居明男]


おうせんどう廃寺 おうせんどうはいじ

「おうせんどう」の名は江戸時代以来の通称で、現在の京都市伏見区深草鞍ヶ谷町及び谷口町付近をさし、この地で発見された寺院跡は、おうせんどう廃寺の名で知られるが、この名称の由来は明らかではない。昭和七年にこの一帯は大規模な土取り工事が行われた。その際、瓦片や土器片、仏像の破片などが出土し、塔や堂と考えられる建物跡や礎石も発見されたと伝えられるが、本格的な調査がなされないまま破壊される。平安中期以前のこの付近一帯は、秦氏の支配するところであった。和銅四年(七一一)には、同氏によって稲荷社が創建されたと伝えられ(『二十二社註式』)、天平三年(七三一)には行基が深草郷に法禅院を建立したと『行基年譜』は記している。当地は大津街道に北接する山麓で、難波からの交通の要所でもあり、近辺には嘉祥寺・貞観寺・極楽寺等の名が文献に見え、奈良時代から平安中期にかけて多くの寺院が営まれた地であったことがうかがえる。当廃寺出土の軒瓦には、「修」や「左」の銘を持つものがあり、また平安宮跡・小野瓦窯跡などから出土する官窯で生産された一本造の軒丸瓦と同笵のものも含まれている。現在当廃寺は、出土遺物から、奈良時代に行基によって創建された「四十九院」の一つ法禅院とする説が有力である。いずれにせよ、平安中期には官窯系の軒瓦を使用しうる規模の寺院であったと推定される。

【研究】 川勝政太郎『深草新発掘廃寺跡の考察』(『史迹と美術』一八、京都、昭7)、木村捷三郎『平安中期の瓦についての私見』(古代学協会編『延喜天暦時代の研究』所収、京都、昭44)、同監修『古瓦図考』(京都、平1)。[寺升初代]



寺院は秦氏により白鳳時代に創建され,後,奈良時代後期から平安中期に属すると推定される廃寺跡である。

深草に居住していた秦氏は,和銅4年(西暦711年に稲荷社を創祀したと伝え,また行基は天平三年(西暦731年)に

深草郷に法禅院を建立したと「行基年譜」に記されている。更に「日本霊異記}には行基にかかわる説話を載せて,

行基が紀伊郡の深長寺(深草寺)にも居住していたことを記している。

仁明天皇の深草稜,・ 嘉祥寺・貞観寺なども近辺に存在し奈良時代から寺院の営まれることが多かった地域である。

この寺院は行基の四十九院の一つ法禅院と推定されているが,未だに断定されるに至っていない。

文徳実録に嘉祥三年(西暦851年)に深草山稜の近隣七箇寺,紀伊寺・寶皇寺・未定寺・拝志寺・深草寺・真松尾寺・

檜尾寺・嘉祥寺の寺々に初七日の修徳を命じていることが記載されている

天平三年(731)に建立された法禅院が嘉祥三年(851)の檜尾寺と名前を変え,その後も125年以上健在であったことが判る。

行基の四十九院の中に記された法禅院 檜尾のことである。又法禅院(檜尾寺)は弘法大師の上足実恵大徳が退隠したところで

「東寺長者補任」に「承和十四年(847),長者少僧都実恵十二月十二日入滅.号檜尾僧都法禅院是也」とあり,寺跡から東寺と

同笵瓦が出土している。「おうせん堂廃寺」は廃深草寺に比定されたこともあったが,しかし通称名「おうせんどう」や近くにある

「日野ヶ池」という名前に加え,出土遺物の上限年代から,行基によって創建された廃檜尾寺(法禅院)であるとされる

木村捷三郎氏の説が一番有力であるが,何故か決定に至っていない。

深草地域で奈良時代以前の屋瓦を出土する寺院は深草寺と法禅院の二寺だけである。

昭和初期にこの一帯は大規模な土とり工事が行われたが,その際多量の瓦片,土器片(須恵器・緑釉土器)と仏像破片が

出土した。

塔心礎、御堂とみられる建築跡も発見されたが,工事続行で完全に跡地は破壊されてしまった。

塔心礎は長い間その場所に置かれていたが,売られてしまっている。

塔心礎については第二次大戦後もずーと置かれていたが当時子供の頃の筆者の記憶て゛は,長径約2メートルくらいで

上面中央の中心柱をはめ込む穴は経約70mで二段に掘れていた。

大山崎町の離宮八幡宮の推定相応寺塔心礎に似ているが石の質は全く違っており穴は浅かったように記憶している。

心礎の石の質が廃寺院跡地から約280メ−トル位西側にある谷口町の旧桓武天皇陵(谷口古墳)とされている古墳の周囲を

取り巻き築かれている石垣の石と同じであることに気ずいた。

このことは古墳を築いた人が同じ場所からの石でもって,寺院の塔をも建設されていたことが推定される。

さらに廃寺院のもっと近く約180mの所に山伏塚古墳が存在する。

古墳に埋葬された人を弔うための寺院であった可能性も考えられるのだが。

「おうせんどう」の名前は江戸期以来の通称で「黄泉堂」「追善堂}「大仙堂」「法禅堂」など書かれているが

確かなことはわかっていない。

法禅院}がいつの間に檜尾寺に変わり,寺中に「法禅堂」があって,,さらに「おうせん堂」と言われるようになったのか

確かなことは全く判らない。

戦後一時数人で一部の発掘調査がされていたようったった゛が記録は見当たらない。

現場の状況は該当地の西に心礎があって,東の方に礎石が並んでいたようだった。

かなり以前に関わりのあった木村捷三郎氏とか小川氏と面会しているが,

木村先生は長年の間法禅院(檜尾寺)に確信をもっておられたように見受けた。

以後筆者が文献を色々調べていても,矛盾を感ずることは出ずに,むしろ木村先生の正しかったことが補強される資料が

見つかっている。

伽藍配置については木村捷三郎氏によると法起寺式と書かれているようだが法隆寺式と考える。

何点かの白鳳時代の瓦も発掘されているので

行基によって建てられた畿内49院の一つ山崎院と似て,白鳳時代の昔の寺院のある場所に新しく行基は法禅院(檜尾寺)

建てていると思われる。

現在は殆ど宅地化されている。

丁度すぐ南側に隣接して「がんぜんどう廃寺」があり奈良時代からの遺物も発掘されている。

その中に「おうせんと゛廃寺}即ち法禅院(檜尾寺)と同笵の瓦が何点か発掘されていることから,一帯が一蓮の寺院だった

可能性もあって,かなり大きい寺院だったことにもなりうる。

だが発掘に立ち会われた星野氏にお尋ねしたところ「がんぜんとう廃寺」は法禅院(檜尾寺)と全く別個のものと考えられており,

平安前期の一棟だけの寺院建造物で,焼けた痕跡をも認められたとのご指摘をうけた。

「がんぜんどう廃寺」は現在,一応報恩寺に比定されているが,嘉祥寺はもっと西にあり,江戸時代までの柏原陵とされていた所とは

近いが,少し東寄りである。それに既に柏原陵は桃山丘陵に決定されてしまった。

結局星野氏も「がんぜんとう廃寺」は何かかは判らないとのことで,だが伴大納言善男が建てた報恩寺であった

可能性は捨てきれない。






深草新発掘寺址の考察(昭和7年当時の記事)


昭和七年発行の「美術と史跡」第18号゜「深草新発掘廃寺址の考察-嘉祥寺か報恩寺か-」で

川勝政太郎氏が始めて「おうせんど廃寺」について深草新発掘寺址の考察として

論及されている。その内容をば下記に書き写してみました。

現場は京都市深草谷口町の東はずれ(現深草鞍ヶ谷町)にあってね俗称オウセンドウというところである。

京阪電車師団前(:現藤森駅)で下車して,東方へ衛戍病院(現国立京都医療センタ−)の前を更に東して奈良線のガードを

過ぎると谷口町で、その東はずれの北側にある。

地形は山科に通ずる東西の道を挟んで,北は丘陵をなし,道の南には七瀬川の上流あり ,少し低地を隔て南に丘陵がある。

発掘地は北の丘陵で,,粘土採取のためとり壊しつつあるので,後方は高く竹林となっているが,前方は断崖状をなして

路へ向かって低く掘り下げられ,その土中から遺物を発掘したのである。

遺物は礎石,古瓦であるが,埋没の状態は初めから旧態をとどめていなかった。又既に塔の風鐸を出土したと伝えられている。



昭和七年頃の深草近辺の地図






現在の深草鞍ヶ谷付近の遺跡地図(京都市都市計画局)





赤で囲んだところが「法禅院」遺跡地域に相当する

下の黒で囲んだところが「がんせんど廃寺



発掘の遺物

古瓦




古瓦はあまり多く出ていないが,,山川名跡志によると古くからこの地では古瓦が採集されているらしいので,、

今回は深くほったものが発掘されたと見られる。

今度の発掘品では奈良後期のものと,,平安のものがあった。




写真(1)

唐草紋花瓦

少し欠損したところもあるが,jまず全景がわかる。周縁をとり,珠紋をもって囲み,内区には中心飾りから左右へ唐草を

出している。

唐草は奈良時代の系統をひいているけども弱く、平安期をよく現している。中心飾は文字で「修」と読まれる。

断面が瓦当の部分から後ろへ急に厚さを減じているのは平安の特色である。

この「修」の文字は延喜式にも出ている大内裏の修理職の瓦で,これと殆ど同じ字が藤原貞幹の「好古日録」の

古瓦文字の部に出ているから,参考のために示しておいた。


写真(2)

単弁蓮華紋疏瓦

ここに示したものは周縁を欠損しているが,他のには割合広いものが付いている。その内に細かい珠紋帯があり,

弁も上等である。蓮実は小さく,蓮子は何粒か分からない。平安初期。


写真(3)

唐草甍譜花瓦

幅約一寸といふ小さいもので檜皮葺等の時,棟に用いた瓦であろう。右半分の破片である為め全体の大きさは判然しない

けれども,唐草の簡単ながら伸び伸びしっかりしている。瓦当の下側及び瓦の裏に二条の紐を作っているのは

瓦がずらないようにしたものである。断面は花瓦と同じである。平安初期。


写真(4)

円珠紋疏瓦

周縁内に珠紋を蟯らし,又円を以って内区を作り,,内に五珠を配している。これは蓮花紋瓦当から脱化したもので

内区の五珠は蓮実の五子にそうとうするもので連弁を略してしまっている。その手法は極めて拙く,平安でも前掲より

遅れるものであろう。


写真(5)

重弧紋花瓦

これは三条の弧を以って瓦当を装飾している。誠に嫌味のない,しっかりしたもので,この式のものは奈良前期から平安まで

あるけれども,断面即ち側面から見ると,瓦当の所から後の方へやや厚みが減っている。

この断面はよく奈良後期を表している。

   鐙瓦。 重圏を配する。圏線2重目と3重目の間隔は等間隔である。

瓦当部裏面上部に浅い溝を付け,丸瓦を挿入し,粘土を付加して接合瓦当部側面上半タテケズリ後にナデ。

下半ヨコケズリ後にナデ。裏面ケズリ。胎土は砂粒を含み,灰白色,硬質 奈良時代。

    

                            

表面                      裏面

 鐙瓦 昭和32年8月6日 大亀谷大仙ドウ 西山ロク

二重圏紋を配する。圏線は2重で,中心1個,1重目・2重目間は小粒の珠文が蜜に巡る。

瓦当面離れ砂付着。瓦当部側面上半タテナデ,下半ヨコナデ,裏面ナデ。

丸瓦部凸面タテナデ,凹面ナデ,側面タテナデ。胎土は砂粒を少し含み,灰白色,堅緻。平安時代前期 

                              




  
 鐙瓦  中房は平坦で圏線が巡り,蓮子は1+4。複弁4弁で,子葉盛り上がり,

弁端に雁行形を配する。間弁は撥形。界線は蓮弁に対応して突出する。外区は珠紋が粗く巡る
瓦当部成形は,

成形台による一本作り技法
瓦当部側面ヨコナデ裏面布目で下判ヨコナデ。胎土は細砂を含み,灰色 やや軟質平安時代中期  



  字瓦   谷口 オウセンド 塔祉

重郭文を配する。郭内に弧線配する弧線断面は台形。曲線顎。瓦当部凹面布目。端部ヨコケズリ。顎部凸面ヨコケズリ,

裏面タテケズリ後にナデ。平瓦部凹面布目,凸面・側面タテケズリ。胎土砂粒を含み,     灰色,硬質
奈良時代


   前面                      上面
     字瓦  中心飾りは上向きC字形で、

中に小葉を配する。 唐草紋は両側に3転する。 唐草各単位は離れ,主葉は強く巻き込む。

 直線顎。瓦当部凹面布目端部ヨコケズリ。顎部凸面蠅叩きね側面タテケズリ。 胎土は砂粒を含みね、灰色,堅緻。平安時代前期。




                                                                 




心礎


←図をクリックすると「法禅院(檜尾寺)の心礎実測図


第三図の心礎は丘陵中腹の上に掘り出され露出していたもので,角岩(一種の硅岩)の,自然石の凡そ菱形をしたもの。

長径七尺、短径四尺七寸,高さ三尺あり,上面中央に中心柱をはめ込む穴を穿ってある。

一ぱいに土がつまっていたので,それを全部掘り取ったところね直径二尺五寸,深さ四寸あり,その中心には長径五寸五分,

深さ三寸五分の小孔を作っていることを発見した。

これは明らかに三重又は五重の塔の心礎で,小孔は飛鳥,奈良時代の心礎に見出し得るように,佛師舎利其の他の珍宝を

伏蔵しておく孔。平安前期とみてよかろう。



礎石

第四図の礎石は普通の柱に用ふる礎石は以前から道路から発掘されたもの二,三あるということだが,

今回は十五、六個発掘されて,その内四個は約二間をへだてて東西に位置していた目撃者は言っている。

憶測するとこれは塔の一辺の礎石の配列であったかも知れない。

礎石は何れも花崗岩の自然石で,上面に直径一尺八寸乃至二尺,高さ一寸五分乃至二寸の円形作出しがあり

作り出しは横から見ると上方へ向かってややすぼまっている。

この形式,この大きさのものは平安に通常のものである。












檜尾寺(法禅寺)と実恵(弘法大師の一番の弟子) 

伊呂波字類抄の十巻本に「檜尾寺」 法禅寺是也 実恵僧都居住所也。と記されている 

伊呂波字類抄は二巻本は天養年間(1144-45),三巻本は冶承年間(1177-81)iに補訂を加えられ,

さらに十巻本も鎌倉時代初期成立して百科事典の形式をとっており,橘忠兼によって編集されたものである。

伊呂波字類抄では京都近辺以外のものにはその土地の名前が記されている。例えば在河内国などである。

文徳実録に嘉祥三年(西暦851年)に深草山稜の近隣七箇寺,紀伊寺・寶皇寺・未定寺・拝志寺・深草寺・真松尾寺・

檜尾寺・嘉祥寺の寺々に盆での修徳を命じていることが記載されている。

又,京都の山科にある「安祥寺」は実恵の弟子である恵運が建て,,文徳実録の斎衝三年(856年)十月二十一日の条に

山城国宇治郡粟田山が安祥寺に施入されたとある。その粟田山は安祥寺伽藍縁起資材帳に「山五十町,四至

東限大樫大谷 南限山陵(天智天皇陵) 西限堺峰 北限檜尾古寺所・・・・・となっている。

檜尾古寺所は「檜尾寺」のことである


これらの記事から行基が建てた法禅院は法禅寺と称され,て,さらには檜尾寺として^平安中期から後期頃(西暦1150年頃)

まで続いたことが推側される。だが発掘の瓦からて゛は平安中期で中期頃まで続いたとするのが妥当か。

しかし同院公賢選,曾孫実熈補選の「拾芥抄」には見ないから平安中期頃(!1100年頃)迄には

廃寺になっていると考えられる。河内の観心寺は両辞典に記載されていない。

又山城小野の曼荼羅寺を開祖した仁海が檜尾寺上座だったとの伝もある。(真言宗全書の血脈類集の「仁海」の項)

曼荼羅寺は後の随心院で,仁海は天暦5年(951)から

永承元年(1046)の96歳または92歳までの長命であった。

「東寺長者補任」によると弘法大師が始めた東寺の二代目の長者を継いだ実恵は承和三年 長者権律師 檜尾 東大寺

と記されている。この檜尾は檜尾寺で修行寺は東大寺であることを記している。

同じく,承和十四年の項には 長者少僧都実恵 十二月十二日入滅ととされているが

横に十一月十三日と書かれている。多分十一月十三日が:正しいと理解する。

(歳が)六十二 事務十二年 檜尾僧都と号し法禅寺是也と書いてある。

法禅寺で亡くなったとされているが,:現在 実恵の墓は檜尾山観心寺に存在している。

このため後世いろいろな誤解を生む結果にもなっている。

一方では「国史大辞典」には「檜尾口訣}(ひのおくけつ) 檜尾山観心寺に住した実恵が,師空海(弘法大師)より

伝授された口伝をまとめたもの・・・・と書かれているが,檜尾山観心寺は実恵が天長四年(827年)に開基したことになっている。

しかしそれ以前から実恵の弟子である真紹が住んでいた。だから名目上実恵が檜尾山観心寺の開基になつているだけである。

観心寺が檜尾山観心寺としたのはに実恵が住所していたのが檜尾寺であったが故に

檜尾山観心寺を名ずけられたと考える方が自然である。

檜尾口訣檜尾寺で書かれたことにより,檜尾の名がついたものと考える。

「空海辞典」によると「法禅寺」は檜尾山観心寺にある。空海は天長九年(832年)東寺を弟子の実恵に譲った。

それ以前に実恵は空海有縁の運心寺を復興して檜尾山観心寺とした。

東寺と観心寺を中心として活動したが,,彼は晩年に法禅寺を建てて隠棲した。

承和十四年(847年)
彼はこの寺で六十二歳の生涯を閉じた。

法禅寺を中心とする実恵の密教を檜尾流とも実恵流とも呼ぶ。法流には恵運 真紹などがいる。

以上が「空海辞典」の内容だが晩年に檜尾山観心寺に法禅寺を建てて隠棲したとするのは無理がある。

大阪河内長野市役所観光課に問い合わせても,法禅寺の名は知らないとの返答である。

観心寺に実恵の墓が有り,:尚:現在に至るまで存在しつづけたからが為に該当されたものと思う。

江戸時代に書かれた「弘法大師弟子伝」には「承和十二年に(観心寺)に一院を造り檜尾法禅寺と号す」と書かれている。

,それによるか,又はいずれかの時代に誤まった記載がなされ,その本からの引用により,

間違いを犯し続けて伝えられれているものと考える。

河内長野市には檜尾山観心寺はあっても檜尾寺はみつからない。法禅寺も同様みつからない。

弘法大師が唐より帰朝後の初灌頂が弘仁元年(810)に実恵へ檜尾御灌頂と記されている。

これは実恵が天長四年(827年)檜尾山観心寺と名ずける前の出来事である。

そうすると檜尾山観心寺と関係なく檜尾御灌頂が施行されたことになる。

この檜尾御灌頂は檜尾寺で行われたと考えるのが妥当である。矛盾が生ずるために「檜尾御灌頂は行われていない」

と説いている記事もあるが,弘法大師の初灌頂弘仁元年(810)に実恵へ檜尾御灌頂は施行されている。

当時には京都山城国深草郷の法禅院→法禅寺→檜尾寺が世間一般に知られていなかった結果によると考える。

実恵の伝記に「檜尾」の言葉が再々でてくるのは檜尾寺に住居して書かれたが故である。

間違を引きついで「国史大辞典」「空海辞典」などにも記載されるようになって, 誤まったことか真実のように書かれ

一般世間に広く流布されるように至ったと考える。現在の情報化の時代,間違ったり新しく判明したことは

すみやかに正しいことに書きなおすべきである。

全てが「檜尾寺」 法禅寺是也 実恵僧都居住所也。に表現される京都深草の法禅寺即檜尾寺の存在事実が

知られていなかった結果によって生じたものである。

東寺の長者になった人たち全部が京都に寺を持っている。三代目真済は京都高雄神護寺  

四代目の真雅は京都深草の貞観寺で実恵の住んだ檜尾寺の直ぐ西側にあった。

権律師真紹も京都の禅林寺である。二代目実恵だけが河内長野観心寺と東寺を往来することは

極めて困難なことであって河内の観心寺に実恵が住所していたとは到底考えがたい。

檜尾山観心寺に檜尾の名がつき,且つ実恵の墓も有り,実恵が創建にかかわっているが為に, 

「密教大辞典」「国史大辞典」「空海辞典」など全ての辞典類も関係づけて,間違ったことを真実として説かれたと考える。

改めて欲しい所である。





実恵について
(西暦786年ー848年)


讃岐国多度郡に延暦5年(786年)に生まれる、姓は佐伯氏。又檜尾僧都と称す。幼少の頃佐伯直葛酒麻呂について

儒学を修めて,出家の後に,大安寺泰基に従って法相・唯識を学ぶ。

延暦二十三年具足戒を受ける。,大同元年空海が唐より帰朝すると,それに就いて真言の教義を習う。

、弘仁元年(810)両部灌頂をうけ,最初の入団の弟子と称された。同三年高雄山寺三綱の設置よって寺主に任ぜられた。

同七年空海の命によって泰範とともに高野山に草庵を結び創建に従事する。

天長四年(827年)に河内国に檜尾山観心寺を建立する。

承和三年(836年)空海のあとを継いで東寺長者となり日本第二の阿闇梨と称される。

同四年四月入唐僧円行に託して,書信並びに法服を青龍寺恵果の墓前に送り遥かに孫弟の禮を執る。

同七年九月少僧都に任じ,十二月神護寺別当を真済に譲る。

同八年他の定額寺に準じて高野山に燈分・佛飼二座を申請して許され,

同十年十一月伝法職位を東寺に置き毎年春秋二季の結縁灌頂を修することを許され,同年十二月真紹に灌頂を授けて,




                           弘法大師行状絵巻「東寺潅頂」より      
                         弘法大師入定した後に潅頂院ができて実恵によって始められた。
            

東寺具支か灌頂の初例となった。結縁灌頂は翌十一年祖三月から始行された。

同十二年,空海が創設した綜芸種智院を千四百貫文で活却して丹波国大山荘を買得し,その収入で東寺の伝法会を経営することとし

,同十四年四月から伝法会を開き,真言宗の経律論疏の講説の資とし教学の興隆をはかった。

弘仁十四年に設置された五十口の僧の教学講説はこれによって実施され,空海筆頭の弟子として教団と教学の基礎を築いた。

承和十四年十一月十三日(一説に十二月十二日)に没す。年六十二(一説に六十三) 付法の弟子に恵運 ・真紹・宗叡・源仁らがいる。

後桃園天皇安永三年(1774年)八月に勅して道興大師と諡す。檜尾流をたてて祖となる。

著述に「檜尾口訣」二巻「阿字観用心口訣」即ち「檜尾記}一巻 などがある。



空海は実恵の師


弘法大師,俗に〈お大師さん〉と略称する。平安時代初期の僧で日本真言密教の大成者。真言宗の開祖。

讃岐国(香川県)多度郡弘田郷に生まれた。

生誕の月日は不明であるが,後に不空三蔵(705‐774)の生れかわりとする信仰から,不空の忌日である6月15日生誕説が生じた。

父は佐伯氏,母は阿刀(あと)氏。弟に真雅,甥に智泉,真然,智証大師円珍,また一族に実恵,道雄ら,

平安時代初期の宗教界を代表する人物が輩出した。

自伝によれば,788年(延暦7)15歳で上京,母方の叔父阿刀大足(あとのおおたり)について学び,18歳で大学に入学,

明経道の学生として経史を博覧した。

在学中に一人の沙門に会って虚空蔵求聞持(こくうぞうぐもんじ)法を教えられて以来,大学に決別し,阿波の大滝嶽,

土佐の室戸崎で求聞持法を修し,吉野金峰山,伊予の石排山などで修行した。

この間の体験によって797年24歳のとき,儒教,仏教,道教の3教の優劣を論じた出身宣言の書《三教指帰(さんごうしいき)》を著した。

このころから草聖と称されるようになった。

 804年4月出家得度し,東大寺戒壇院において具足戒を受け空海と号した。同年7月遣唐大使藤原損野麻呂に従って入唐留学に出発,

12月長安に到着した。

翌805年西明寺に入り,諸寺を歴訪して師を求め,青竜寺の恵果に就いて学法し,同年6月同寺東塔院灌頂道場で胎蔵,

7月金剛の両部灌頂を,8月には伝法阿闍梨位灌頂を受け遍照金剛の密号を授けられ,正統密教の第8祖となった。

師恵果の滅後806年(大同1)越州に着いて内外の経典を収集し,同年8月明州を出発して帰国した。

10月遣唐判官高階遠成に付して請来目録をたてまつったが入京を許されず,翌807年4月観世音寺に入り,

次いで和泉国に移り809年7月に入京した。

 同年8月,経疏の借覧を契機に最澄との交流がはじまり,10月嵯峨天皇の命で世説の潅風を献上したが,

このころから書や詩文を通じて嵯峨天皇や文人の認めるところとなった。

810年(弘仁1)10月,高雄山寺で仁王経等の儀軌による鎮護国家の修法を申請したが,これが空海の公的な修法の初例である。

811年10月,乙訓(おとくに)寺別当に補され修造を命じられたが,812年10月高雄山寺に帰り,11月最澄や和気真綱に金剛界結縁灌頂,

12月には最澄以下194名に胎蔵界結縁灌頂を授けた。

813年最澄は弟子円澄,泰範,光定らを空海の下に派遣して学ばしめ,同年3月の高雄山寺の金剛界灌頂には泰範,円澄,光定らが

入坦している。

812年末の高雄山寺の灌頂や三綱(さんごう)の設置は教団の組織化を意味しており,813年5月には,いわゆる弘仁の遺誡を作って諸

弟子を戒めている。

814年には日光山の勝道上人のために碑銘を斤し,815年4月には弟子の康守,安行らを東国に派遣し,甲斐,常陸の国司,

下野の僧広智,常陸の徳一らに密教経典の書写を勧め,東国地方への布教を企てた。

このころ《弁顕密二教論》2巻を著し,816年5月,泰範の去就をめぐって,最澄との間に密教理解の根本的な相違を表明してついに決別した。

 同年7月,勅許を得て高野山金剛峯寺を開創したが,819年ころから《広付法伝》2巻,《即身成仏義》《声字実相義》《吽字義(うんじぎ)》

《文鏡秘府論》6巻,820年《文筆眼心抄》などを著述して,その思想的立場と教理体系を明らかにした。

820年10月伝灯大法師位,821年5月には請われて讃岐国満濃池を修築し,土木工事の技術と指導力に才能を発揮した。

822年2月,東大寺に灌頂道場を建立して鎮護国家の修法道場とした。

823年正月,東寺を賜り真言密教の根本道場とし,同年10月には真言宗僧侶の学修に必要な三学論を作成して献上し,

50人の僧をおいて祈願修法せしめた。824年(天長1)少僧都,827年大僧都。828年12月,藤原三守の九条第を譲りうけて

綜芸種智院(しゆげいしゆちいん)を開き儒仏道の3教を講じて庶民に門戸を開放した。

このころ,漢字辞書として日本最初の《篆隷万象名義(てんれいばんしようめいぎ)》30巻を斤述した。

830年天長六宗書の一つである《十住心論》10巻,《秘蔵宝鑰(ほうやく)》3巻を著し,真言密教の思想体系を完成した。

《弁顕密二教論》では顕教と密教を比較して,顕教では救われない人も密教では救われること,即身成仏の思想を表明しており,

これを横の教判といい,《十住心論》の縦の教判に対する。

 空海は個人の宗教的人格の完成,即身成仏と国家社会の鎮護と救済を目標としたが,832年8月,高野山で行った万灯万華法会や,

835年(承和2)正月以来恒例となった宮中真言院における後七日御修法(ごしちにちみしゆほう)はその象徴的表現である。

同年正月には真言宗年分度者3名の設置が勅許され,翌2月,金剛峯寺は定額寺に列した。

同年3月21日奥院に入定した。東寺の二代目長者を実恵が継ぐ。

世寿62。857年(天安1)大僧正,864年(貞観6)法印大和尚位を追贈され,921年(延喜21)弘法大師の号が諡(おく)られた。

宗教家としてのほかに文学,芸術,学問,社会事業など多方面に活躍し,文化史上の功績は大きく,それに比例して伝説も多い。  


                                                   世界大百科事典より引用



[空海の書] 

空海は日本書道界の祖として重視され,嵯峨天皇とともに二聖と呼ばれ,また橘逸勢を加えて三筆とも呼ばれる。

世に空海筆と称されるものは数多いが,確実に彼の筆と認められるのは《風信帖》《灌頂歴名》

《真言七祖像賛》《聾瞽指帰(ろうこしいき)》《金剛般若経開題》《大日経開題》《三十帖冊子》などである。

《風信帖》は空海から最澄にあてた書状で三通あり,いずれも812,3年ころのもの。

《灌頂歴名》は高尾神護寺で812年に授けた金剛界,胎蔵界灌頂に連なった人々の名簿。

《真言七祖像賛》は金剛智,善無畏,不空,恵果,一行,竜猛,竜智の7人の画像の,

初めの3幅にはそれぞれの名の梵号と漢名を飛白体で,次の2幅には漢名を行書で書き,

画像の下部には付法伝が小字で記される。竜猛,竜智のものは空海筆か疑わしい。

《聾瞽指帰》は797年の著述原稿で,彼の若年の書法を知るに貴重である。

《金剛般若経開題》は815年の著作の草稿で,書き直しや墨の抹消など推敲の跡がある。

《三十帖冊子》は空海が入唐中に経典,儀軌,真言などを書写したノートで,

現存するものは《三十帖冊子》のほかに《十地経》《十力経》の32帖が伝わる。

空海自筆の部分と,彼とともに入唐した橘逸勢筆といわれる部分,他の人々の書写した部分などを含んでいる。

彼の書法は,王羲之の書法に顔真縁の法を加えて独自のものとしており,後世の書道界に大きな影響を与えた。     


                                                  世界大百科事典より引用


[弘法大師の説話] 

弘法大師空海についてはさまざまな伝承が形成され,その人物像は多様に展開した。

それらは平安〜室町時代を通して制作された各種の大師伝記に詳しい。

最も早い時期に成立したのは,大師自身の遺言という体裁をもつ《遺告(ゆいごう)》の諸本であり,

次いで11世紀初頭から12世紀にかけて,《金剛峯寺建立修行縁起》,経範の《弘法大師行状集記》(1089),

大江匡房の《本朝神仙伝》,藤原敦光の《弘法大師行化記》などに大師の説話伝承が集められていく。

これらは《今昔物語集》《打聞集》などの説話集の典拠となっている。

鎌倉期には,これらの諸伝を基として各種の大師絵伝が制作される。

その成立には確実な説はないが,梅津次郎によれば,13世紀半ばに《高祖大師秘密縁起》《弘法大師行状図画》が成り,

1374年(文中3年ー応安7)には東寺において《弘法大師行状記》が成立する。

南北朝期以降は,上記大師伝の物語化,注釈化が行われる。

注釈面では,《弘法大師行状要記》がその代表である。物語には,《高野物語》《宗論物語》がある。

さらに,幸若《笛の巻》,説経《苅萱(かるかや)》,謡曲《渡唐空海》,室町物語《横笛草子》などにも大師伝が物語られている。

 伝説化の萌芽は大師の著に仮託されている《遺告》諸本にすでにみられる。

たとえば誕生の奇瑞が説かれ,子どものころ,夢中に諸仏と語ったとされ,苦行中に明星が口に入ったとされるなどである。

さらに《遺告》諸本にみえる伝説的な部分を記すると次のようなものがある。

行基の弟子の妻から鉢を供養され,伊豆桂谷山では《大般若経》魔事品を空中に書き,

入唐中には恵果または呉殷纂から三地の菩醍とたたえられ,

帰朝後は神泉苑で祈雨法を修して霊験をあらわし,その功によって真言宗をたて,高野山を開くにあたっては,

丹生の女神が現れて大師に帰依し土地を譲ったとされる。

また,密教を守り弥勒下生に再会するため大師は入滅に擬して入定していると説かれ,宀一山(べんいつさん)(室生寺)には

伝法の象徴として如意宝珠を大師が納めたとも説かれる。

 やがてこれらにさまざまな伝承が加えられるようになる。

入唐求法については,夢告で久米寺東塔から大日経を感得したのがその動機とされ,

恵果入滅のときに影現し生々世々師弟と生じて再会しようと契ったなどとされ(清寿僧正作《弘法大師伝》),

神泉苑に請雨法を行ったのは,無熱池の善如竜王を勧請し密教の奥旨を示すためであったとされる(同書,《二十五箇条遺告》)。

大師が公家に召されて諸宗の学者を論破し信伏させた(《行状集記》)とする説話は,清涼殿で即身成仏の義を説き,

みずから大日如来の相をあらわした(《孔雀経音義序》《修行縁起》)ことと結合して《行状図画》に宗論説話となり,

他の大師の説話とあわせて《平家物語》に結びつき,《平家物語》高野巻などを形成する。

《高野山秘記》には入唐中,童子の導きで流沙・葱嶺(そうれい)を越えて天竺の霊山の釈梼説法の座に連なり

直接に教えを受けたとする渡天説話を伝える。

唐土よりの帰朝に際して,三鈷を投げると雲に飛び入り,高野山に落ちたと伝え(《修行縁起》),

また鈴杵を投げると東寺,高野山,室戸に落ちたとも伝える(《本朝神仙伝》)。

大師が巡遊中に猟師にあい,高野山を教えられたとする説話(《修行縁起》)があり,

延喜帝の夢想により観賢が高野山に入定した大師を拝すと,容色不変であったとする説話(《行状集記》)もあり,

同様の説話は《高野山秘記》《高野物語》にもあって,《行状図画》や,《平家物語》にもとり入れられる。

書に秀でた大師の説話には,唐の宮殿の壁に,手足口を用いて五筆で詩を書くなどしたので五筆和尚の号を得たとするものがあり,

また,唐土で童子が空海に流水に字を書かせ,大師が籠の字を書くが,これに点を付すと真の籠となったとするもの(《修行縁起》)がある。

これらの説話は,先の渡天説話とも結合して謡曲《渡唐空海》,舞曲《笛の巻》,説経《かるかや》などに流れ込み,物語化される。

書に関しては応天門の額の字を書き,書き落とした点を下から筆を飛ばして補ったとする(《修行縁起》)説話もあり,

このような神異は《本朝神仙伝》に説かれている。

験者としての大師については,神泉苑で対抗する行者守円(敏)が瓶中に竜神を閉じ込め,殿上でクリを加持してゆでたり,

呪詛したりするのを大師は破って勝利する(《行状集記》《御伝》)という説話があり,やがて《太平記》の神泉苑事として物語化する。

始祖としての大師は,《麗気記》などに両部神道の祖とされ,また〈いろは歌〉の作者ともされ,

《玉造小町壮衰書》は大師の著に仮託されるが,これでは浄土教の唱導者の面をも与えられている。

 大師の足跡を残す聖地は各所にあって,とりわけ四国に集中し,

やがてこれを結んで参拝する四国八十八ヵ所の巡礼〈四国遍路(へんろ)〉が生まれた。

人々は大師とともに修行することを示す〈同行二人〉と書いた帷(かたびら)を着て巡礼するが,

このように大師は民衆の生活とも深くかかわっている     

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