檜尾古寺所


素直にこの言葉「檜尾古寺所」を考えれば,,檜尾寺という名称をもった古い寺のある場所と解釈するのが普通である。

安祥寺資材帳が作られた当時は既に檜尾寺は古寺にふさわしい寺で,大方の人たちが゜「山陵」が天智天皇を祀った場所と同様に

,当時広く一般の人々に判り,知れ渡っていた場所だから四至の名前に取り上げられたと考える。

北限と南限は明らかに間違われて書かれている。書かれた当初より間違っていたのか,途中で間違われたのかは判らない。

東限が大樫大谷とある。大谷となると山科川しか考えられない。そこに大きい樫でもあったのか。

山科川はその上流の支流(安祥寺川並らび旧安祥寺川で旧安祥寺川はより南方面を流れており,寺領であったことを示唆しているかと考える

現在も安祥寺と関係ない遠い箇所に旧安祥寺川の名称が残っていることは安祥寺の寺領だったことを示唆するか,少なくとも安祥寺と関係が

あったことを示している)を含め南方面へ流れており最後に宇治川と合流している。寺領寺域は別で寺域は寺の境内.で,

寺領とは寺院が持っていた所領である。藤原順子皇太后の「粟田山施入」は寺領である。

東西は西限が堺峰である。粟田山の峰続きより東側の箇所には,西の大樫の生えている山科川に沿っての間で,

南北が天智天皇陵と古寺檜尾寺の間である。

50町は面積なのか距離なのかは判断しかねるが,この場合はやはりり距離だと考える。

他の資料での御陵などの大きさを示している四至では距離になっている。

そのようにして「山陵」と「檜尾古寺所」の間を直線で結んだ距離を測定すると5150メートルとなった。約5キロで50町とぴったりとなってくる。

昔の人もいい加減には書いていないものだ゛と感心し且つ驚いた。

距離はパソコン上で住宅地図ソフトで距離が測れるもので,それで測定しているから全く正確なものである。

四至の名称に使われる場所は書かれた当時の人たちにその場所が直ぐに理解できる場所が選ばれている。

いい加減に檜の木が多く茂っている所にある古い寺をもって,その場所を四至の名称として使われたと考える人がいるならば,

それは歴史に疎い人の考え方だと思う。

やはり当時の人たちが誰もが知っている有名だった陵, 寺とか谷 峰などが選ばれている筈だ。

この際,上下の安祥寺のある箇所とは関係ない。この境域内に安祥寺が入らないことを指摘する方もおられるようだが,

安祥寺建立後に藤原順子皇太后が安祥寺に寄付し施入した山地だからその必要性はない。

資材帳が恵運によって書かかれたたものだとすると,師の実恵が住居していた檜尾寺に対し特別な気持ちがあったものと想像する。


粟田山も様々な名前で呼ばれ、どこからどこまでが粟田山なのかはっきりしない。三条通の南の山の総称として使われることもあるし,
知恩院から蹴上浄水場にかけて一帯の裏山を粟田山という場合もある


インターネット検索上で「檜尾寺について」「檜尾寺の位置に就いて」がみつかった。

足立康氏の「日本建築史」収められた以下がその論文である。


本編は建築史第三巻第三号(昭和十五年五月)iに発表されたものであるが,文中に見ゆる観心寺の古名と覚しき「檜尾寺」なる名称に

ついてその後二回にいたって補考がが加えられた。併し生前には遂に決定的な解釈を聞くことを得なかった。

「檜尾寺について」

本誌前号に於いて文徳実録
檜尾寺は観心寺ではないかとの推測を試みたが,かの後ふと安祥寺資材帳四至の条に

北限檜尾古寺所

とあることを想起した。よって安祥寺付近に檜尾と云う地名があったらしいから,文徳天皇実録の檜尾寺は或いはこの辺にあった

一寺を指すものと考えられよう。(:建築史第三巻第四号所載)

「檜尾寺の位置に就いて」

,文徳天皇実録嘉祥三年三月二十七日の条に仁明天皇御初七日にあたり「近隣七箇寺即ち紀伊寺,寶皇寺,来定寺、拝志寺,

深草寺,檜尾寺iに使を遣わされているが,その最後に「檜尾寺」の名が見える。この檜尾寺について伊呂波字類抄に

檜尾寺 法禅寺是也 実恵心僧都居住所也

とある。これによれば檜尾寺は一名法禅寺と呼ばれていることが判る。然るに行基年譜によると

法禅院檜尾九月二日起,

在山城紀伊郡深草郷

とある。年譜の記事にはそのまま信じ得ないところもあるが,この深草郷檜尾に在ったという点は認めて良いと思われる。

若しこの法禅院がが伊呂波字類抄の云う法禅寺を指すならば,法禅寺即ち檜尾寺は深草檜尾にあった事となる。

果たして然らばその位置は,文徳天皇実録の云う「近隣七箇寺」の一つとして寔に適当であり,ことに仁明天皇の御陵のある

深草にあるとすれば,これが七箇寺の一に選ばれたのは偶然でないように見える。

尚法禅寺に就いては実恵僧都と関係あるか否かの問題もあるが,それは別の機会に述べよう(:建築史第二巻第六号所載)

 
「日本彫刻史の研究」1944.9.30 龍吟社より引用


足立 康

大正昭和期の建築史家,日本古文化研究所理事 明治31(1989)年7月10日生 昭和16(1941)年12月29日没

神奈川県中郡城島村(現平塚市)d出身 東京帝大工学部造兵学科(大正13年)卒 東京帝大文学部史学科(昭和3年)卒

東京帝大大学院工学系研究科建築学専攻(昭和9年)修了 工学博士(東京帝大)(昭和9年)

日本古文化研究所理事 及び建築史研究会機関誌「建築史」の主幹を務めた。藤原宮跡の調査に尽力した。

著書に「古代建築の研究}{日本建築史」「法隆寺再建非再建論争史」「足立康著作集}など 




「筆者の考察」

足立康氏は檜尾を土地名として扱っておられるが,深草には檜尾という地名の場所はない。

檜尾は元は行基が生まれた土地の近くの名前として現在も堺市に存在している。

法禅院檜尾の檜尾は行基年譜をしらべていると他の寺院にも同じような形式で書かれたもの全が

後に(下に)後世名前を変えた寺の名が書かれている。

法禅院檜尾も法禅院から檜尾寺に変わっていることを示している。

文徳実録に載る「七ヶ寺」は知る範囲,判っている範囲では全て伏見に存在した寺々である。

稀に真木尾寺今は亡き宇治郡朝日池尾村槙尾山辺りにあった古寺かとされている。(文徳実録の上欄に書かれた注記)

だから山科の安祥寺の近くに該当できない。又檜尾の地名や,檜尾寺も見つからない。

安祥寺資材帳には

「嘉祥元年戊辰歳次秋八月 得前攝津国少掾上毛野朝臣松雄之松山一箇峯, 謹奉為太皇大后井四恩初建立安祥寺

とあるが如く嘉祥元年八月に安祥寺が建てられている。仁明天皇のの順子皇后は篤くこの寺を尊崇し給わり,

仁寿元年には七僧が置かれ,斉衡三年には広大な寺領を施入され,貞観元年には年分度者を置かれ, 又一方に於いて

この寺のために六躯の純銀仏像や八大明王画像を造られ,更に高四丈除の寶幢二基を建造されている。

かくてこの寺は順子皇后の御願に転格され・・・・・・・」

足立氏も粟田山施入を寺領としている。

寺領ならば寺域とは関係なく広大な土地であっても決しておかしくはない。

檜尾古寺所は古寺とよばれるようになった紀伊郡深草郷にあった檜尾寺しかかんがえられない。

後世において安祥寺の寺主は,,観修寺が平安中期には勢力を強めて,観修寺五世深覚が安祥寺主職を兼務し

以後観修寺長史が事務を兼ねた。南北朝時代の永和三年(1377年)に安祥寺二十一世興雅が高野山宝性院の有快に

継がし以後高野山の兼務するところとなった。さらに慶長十九年((1614年)iに高野山宝生院が支配下に置くようになった。

一時は安祥寺は観修寺の末寺と書かれており,後世には安祥寺と観修寺は寺領で争いばをしている。(東京大学史料編纂所で

「安祥寺}で検索すると記事が見つかる)。観修寺と安祥寺とは寺領が接していたとも考えられ

或いは末寺だったから混同されていたとも考えられる>

観修寺内から「安祥寺資材帳」が発見されている。

檜尾寺と観修寺とは安祥寺からすれば同じ方向になり,且つ近い所から,

そのような事情もあって,檜尾寺古寺所をば南を北と入れ替えられ書き写された可能性が考えられる。



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