棚殻とし(田中敏)

85・6・18三鷹・武蔵野芸能劇場で横になりながら考えた事
(イノ・カシュ・ラン放送2)

仁王立ち倶楽部@CHRIS002(1985年7月発売)

 ハロー、ハロー、起きてますか? こちらイノ・カシュ・ラン放送。寝ても醒めても、

「人間なんて自分自身で思っているようなもんじゃない」、自分自身の想像のおよぶような存在じゃない」と写真家のデュアン・マイケルズは語り、また、
「あなたはいつも何をされているんですか?」
 と問われて
「私は毎日空気を吸っているんです」
とM・Dは軽やかに一息吐いた。

 ところでいつになっても「放送」が聴こうとするほど聴えて来なくなるという正直な人がいるというのはどうしたことでしょうか。

 御存知のように、昔は、気に入った娘と結婚したいと思っても、その娘を手に入れるのはそう簡単にはいかなかった。

 始めっからネットワークがあるのではありません。それ自体をいかに結びつけ作り出してゆくことができるか、何と何が呼び合いどこへ向うのか、そういった実験自体がこの放送(イベント)だし、そこで起る失敗こそが「人間」という夢から醒まさせ、「自分」という檻から追放させてくれる。

 さて、もしもあなたが美しい娘に恋したことがおありなら、ユキ少年が事がこうなった今どんなに悩んだかお分りだろう。彼はすっかり参ってしまい、仮に打ち倒れれて死んでしまうことはないにしても飢え死んでしまうのではないかと思われた。ところがもうひとつの突発事が、芝居の進行中に起った。ヤジを受けて演出家アルトーが突然、俳優がセリフのやりとりをしているのに舞台に登上して、つぎのようなことを述べたのである。《ストリンドベリは、ジャリ、ロートレアモン、ブルトン、そして私と同様に革命家である。われわれはこの作品を、彼が祖国に対して、すべての国家に対して、また社会に対してヘドを吐くものとして提出する》そこでスエーデン人たちはいそいで退場したのだった。

 場所ははじめっからころがっているもんじゃない、獲得するもんだ。人間の屍の存在のし方病院の患者の中世のような盲信、そうしむける必要な催眠術の効力、牛丼、チューハイ、サンチェーン。絶対絶命そう簡単に逃がすものかと小僧ずし。カゼが万病の元というのはウソでしょう。本当の医療は、狂気のじんましんを自然に吹き出させてやらなくちゃいけない。

 劇場が持つ専政的な特権的制度、そこにかかわる者たちのイディオマティックな姿勢、潜在的にある、おもしろい、つまらない、成功、不成功の評価規準の怠堕な設定、それを発想する頭の中、石頭、不感性、からだの慢性的なひずみ、それを成立させてきた人と人の相互作用、無反応、馴れ、それらを自ら問い直し脱出してく戦術を学び行動すること、しがみついてる手を放し木から落ちねばならないはずだ。

 国家支配の内にありかろうじて限定つきの想像力の発動が許されているメディア。そこ自体には自らの虚妄をあばがれる可能性を持っているからこそ厳重にしかも巧妙にある限度を越え自らを無意味なものとしてしまわぬように自動制御装置を持って作動する。しかしそれに乗せられることは、薬づけにされ一生病院から手が切れなくされるばかりか「患者」「迷える家畜」「廃人」などと呼ばれても感謝してることと変らない。それによって人は劇場に足はこぶたびに勝手な心理現象を舞台に投影し、指をくわえて始まりも終りもない夢を見て来たのだし変らず人間としていられるだろうと安心し、蛇や猪などに化かされることに怯えることなどとっくの昔に忘れてしまった。しかしそっちの方がよっぽど怖いやと猫も杓子も言っているのはこれまたどうしたことでしょうか。

「ブラック・エルクは語る。」
「小屋は四角形だった。これは良い住み方ではない。四角形のものには力は宿らないからだ。もう気付かれたことと思うが、インディアンがすることは何でも丸い。それというのも、世の力はつねに円を通じて働くからであらゆるものは丸い形であり、あらゆるものは丸い形をとろうとするからだ。〈中略〉
 ところでワシチュー@たちは私たちをこのような四角い箱に入れた。私たちから力は去り、民人は亡ぼうとしている。かつて私たちが踏むべき道にしたがい、円の力によって生きていた頃には、少年たちは12、3歳になればもう立派な一人前の男になっていた。今では彼らが大人になるにはもっと長い年月がかかる。」

 箱型抑制管理装置、T・V、新聞、本、部屋、ギャラリー、劇場、キャンバス、窓、扉、etc 四角形であることの不気味。そしてそれら自体が問題なのではない。それはいくらだって姿を変えるだろう。それを疑わずそこは欲求を噴出させてさらにそのものをあきるどころか増々捏造してゆく人間の変態行動が、思考が、無意識が、病気、言語、金銭、芸術表現が問題だし、それらはまさに一瞬にしてフッ飛ぶことを本当のところ自ら熱望しているということなのだ。

 私はその場に坐ったまま、彼らの姿に目を凝らしていた。彼らは巨人たちの住む方角(北)からやって来たが、私のすぐ近くまで来ると空中で旋回して日の沈む方角に向を変え、そして突然彼らは二羽の雁だった。彼らの姿は消え、雨が大きな風と吼の姿は消え、雨が、大きな風と吼え声とともに、どっと降つて来た。イノ・カシュ・ランは今日もノイズの雨ばかり。

 実存しない物に対し

 また存在しない物に対し
 すべてを与える
そして
 存在する物に対し
 人々が見たり

 取り囲む物に対し
 何も与えないA

 彼らは特定の趣味や教義といったもとに集まり活動して来た連中ではない。また「彼ら」と呼べるだけの統一的な意言や主張を持っていないし、固定化した輪郭を有したメンバーによる「集団」なのではなかった。一人一人の実感からくる独得な行動様式でもって引きつけ合いやって来て楽しみまたどこかへ消える。フォルムを形成する以前のよどめき、未熟さ、共感、ヤボッたさ。

 個々人がそれぞれ確固とした表現をする寄せ集めの場なのでもない。アンデパンダン的とも違う。そこにいる全ての人たちの呼吸を感じ合い、掛け合い、相手の動きを小刻みに敏感に感じ取り思いやるやりとりから発生する生命の脈打った空気、肉体、音、「開かれた心臓の痙攣状態」B。堅くならず力まず弛みすぎず間と間をていねいに繋げてゆく動きから、それぞれのし方で強度ある生を獲得してゆく実験ライブの試み。

 そして劇場ではまたも片っ端から失敗に股開いて、行く先も戻るあてもない。

 6月18日三鷹、武蔵野芸能劇場に於て「日曜午後、井ノ頭公園の広場で出会って来た人たちによるイベント」なる催しが勃発した。かくして翌日、朝日新聞武蔵野版評は「原宿竹ノ子族のアダルト版」。それもいいでしょう。サンキューT記者。

@ワシチュー 侵略統治者たち、白人のこと。

ABアントナン・アルトー「俳優を狂気にする」より
引用文献「ブラック・エルクは語る」J・G・ナイハルト著


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