竹田賢一 

とうようズ・エスニック 
仁王立ち倶楽部014(1986年12月発売) 

 日本国民のかなりな多数が支持を与えている中曽根首相(わが家庭では専らバカソネと呼んでいるが)が、9月に「アメリカには黒人とか、プエルトリコとか、メキシカンとか、そういうのが相当おって、平均的にみたら(知識水準は)非常にまだ低い」と喋って陳謝したことは、まだ忘れるわけにはいかない。ぼくはたまたま、この発言を記事にした二つの新聞、『赤旗』と『東京新聞』のうち後者を購読しているので、『読売』や『朝日』を取っている人や、ニュースはTVで見る、あるいは政治がらみのニュースには無関心という、おそらくかなりな多数の日本国民よりは、この発言に早く接することができた。記事を見てぼくがびっくりしたのは、中曽根発言それ自体に対してでない。記事の扱いに対してであった。大日本帝国海軍将校だったときから、中曽根のナショナリスティックな思想が変っていないことは、いろいろな機会に明らかになっているのだから、奴がこうした発言をすることに何の不思議もない。ただぼくには、このような思想が大変恐ろしいものとして映るし、日本に異民族がいないという発想は自分の存在を抹殺されたように感じるし、プラグマティックに考えても多くの外国人との付き合いにマイナスをもたらすことはまちがいない。新聞は当然、重大な問題として扱い、厳しい批判を加えるものと思ったのに、“またまた失言をやらかした”ていどのコラムの扱いだったのだ。

 異民族の存在が、その国の水準を引き下げるという発想は、アメリカやヨーロッパにも存在している。イギリスのナショナル・フロント、フランスの極右政党、アメリカのネオ・ナチ党やKKKはいうまでもなく、サッチャーやレーガンも心の底ではそう思っているのだろう。しかし同時に、この思想こそファシズムの根幹をなすものだ、という認識も一般化している。思ったとおり、『朝日ジャーナル』で3週にわたって紹介された海外の新聞の論潮でも、首相が公然と民族差別発言のできる日本のナチズム的体質を指摘するものが多かった。

 ぼくがびっくりした第2弾。それは『ミュージック・マガジン』誌11月号の「とうようズ・トーク」だった。このページにはカチンとくることも多いのだが、最近では、多少の勇み足があっても、床屋政談の趣があっても、中村とうようの批判的物言いは貴重なものかもしれない、と思いかけていたのだが・・・・・・。“エスノポップ”という言葉の発明者ともいわれる中村とうようはここで、日本単一民族説を堂々と主張しているのだ。中村は、『朝日新聞』に載った“「単一民族」は明らかな誤り”という投書を取り上げ、「日本にはアイヌがおり朝鮮民族や中国民族も住んでいて、日本は決して単一民族じゃない、と。こういう人こそ、実は人種主義というもっとも悪質な思想の持ち主なのだ」と批判する。日ごろの知識人コンプレックス、現代音楽コンプレックスからすると、投書者の肩書きが“大学教員”だったのが気に障ったのかもしれない。ぼく自身、投書の原文を読んでないので、その文脈がどういうものだったか正確に判断できないが、日本に複数の民族が住んで生活していることは、虐殺や同化を強制された歴史にもかかわらず、中曽根や中村にとって「残念でけしからぬことであっても、事実は事実である」。

 中村は、アイヌ人を例に挙げて、「アイヌが日本文化と異なる文化を現実に持っていれば、それはすばらしい」のだが、「実際にはアイヌたちも日本語を話し、日本文化の中に組み込まれてしまっている」といい、「意識の高いアイヌの人々がアイヌの文化をよみがえらせようと運動していること」をも「保存の運動が必要だということじたいがその文化が現実の文化としての力を失っている」証拠だというのだ。

 たしかに、現在のアイヌ人は狩猟採集生活を生業にしているわけではない。日常的に民族衣装を着て、民族音楽シリーズに収録されているような音楽を演奏しているわけでもない。アイヌ語を話せるアイヌも多くはない。では、アイヌ文化は観光用を除いて死滅し、アイヌ民族は消滅してしまったのだろうか。ぼくの友人のイターロというイタリア人は、日本に来るたびに北海道を訪れ、シャクシャイン祭りをはじめアイヌの祭りや生活を映画に撮ってきたが、彼を惹きつけたのは現実の力を失った文化なのだろうか。

 「エスニックには伝統的というニュアンスはない」というのは中村のいい過ぎではあるが、民族文化イコール伝統文化ではないことは、いうまでもない。“民族”という概念自体、近代的国家の成立とともに生じてきたものであるし、エスニシティーということになれば、それが自覚的に捉えられるようになったのは、ごく最近のことだ。中曽根が話題にしたアメリカの例を見てみよう。

「1960年以降にアメリカに起こった国家目標および社会の基本的価値(たとえば競争の原理、勤労の倫理、個人主義など)の動揺は、自分は何であるかということの確認を、個々のアメリカ人にせまったのであった。その意味において、エスニック現象とは、現代アメリカ社会が抱える諸々の問題についてエスニック(人種や民族)の観点からの再検討を提起したものであると見てよいであろう。アメリカ社会の主流になかなか受け入れられることのなかった集団の保有していた文化遺産のなかに、現代社会の問題を解決する鍵が隠されており、それこそアメリカを再活性化する動因となりうることを人々は発見したのであった。」(明石紀雄他著『エスニック・アメリカ』)

 国家が伝統的な共同体を超えて統合を図ろうとするとき、〃国民〃への帰属意識をつくり出すのがナショナル(民族)・アイデンティティーだ。そしてそのナショナル・アイデンティティーは、国家の支配的民族の文化を中心に形成される。日本人意識を創出するために天皇を担ぎ出した明治維新政権も、アフリカ諸国の“ザイール化”を典型とする民族化政策もこの文脈のうちにある。この過程では、どこの国でも多かれ少なかれ「単一民族国家」化のイデオロギーが見られるのだ。そして、教育、マスメディアから武力までが、少数民族文化の抑圧のために動員される。

 このような支配民族(通常は多数民族)中心のナショナル・アイデンティティーのもとでは、被支配民族の文化を受け継ぐ者は心的葛藤なしには十全な帰属意識を持つことができないし、少数派文化を抹殺することなしには文化間の葛藤も(隠蔽されることはあっても)解決されることがない。エスニック・アイデンティティーあるいはエスニシティーの主張は、伝統的な共同体が破壊あるいは損傷された後、国家によって強制されることから独立して、個人がどのような文化にアイデンティティーを見出していくか、という問題で、その場合の拠りどころとなるのが「特殊な言語、宗教あるいは歴史的体験を共有すること」(前掲書)なのだ。

 たとえばアイヌ人のエスニシティーとは、単にユーカラやムックリやトンコリに表現されるものではない。アイヌモシリを奪われ、アイヌ語を奪われ、「土人」として「保護」され、民族差別を受けてきたことの中に、アイヌ文化の根拠があるのだ。残念ながらぼくは、現在のアイヌ文化の展開の具体的な姿を詳しく知っているわけではないが、制度的に心理的に加えられる同化の強い圧力に抗して、アイヌとして自己のアイデンティティーを確立しようとする人々は、年を追って増えているようだ。それが見えないようでは、アイヌ人よりも遥かに数の少ないウィルタ人(オロッコ人)の故ゲンダーヌ老が、非定住民族の尊厳を懸けて日本政府に対して戸籍抹消闘争を続けてきたことなど、思いも及ばないかもしれない。

 まして、日本が複民族国家であることを指摘することが、どうして「人種主義」なのだろうか。人種主義とは、アイヌモシリを侵略、植民した歴史や現在の民族差別の実態(ぼくたちは東京にいてさえ山谷などの寄せ場でその一端を知ることができる)を捨象して、「マユやヒゲの濃い私にはアイヌの血が流れている」などと身体的特徴で分類する中曽根のような輩のことを指すのだ。

 中村はこのページの後段で、タンゴ・ブームについて触れている。そこでは「(アルジェンチンから)黒人が消えたあとタンゴから黒人的要素は拭い去られた」といい、潜在的活力、エネルギーガ残っていないことをほのめかしている。白人=ストイック、黒人=エネルギッシュのような単純で均一な色分けこそ、人間の具体的な多様な生き方を無視した、「人間を“人種”で分類する考え方」ではないだろうか。さらに、タンゴ・ブーム復活の気配を「異文化共存のエスニック感覚とは似て非な」るものというにいたっては、彼のエスニック理解をも疑わないわけにいかない。アルジェンチン・タンゴの発展が、イタリア系エスニック・グループと密接に結びついてきたことは、任意のタンゴ・アーティストを研究すれば、目につかないはずはない。

 しかし、ここでぼくが書いていることで、中村とうようも中曽根も同類だ、という印象を与えるとしたら、フェアではないだろう。「中曽根は日本人は単一民族だからヨイ、と考え、ぼく(中村)は日本人は単一民族だから困ったものだ、と考える」のだから。「自分とちょっと違う服装、違う生活態度、違う思想の人が近くにいたら直ちに白眼視し、排除しようとする日本人の均一指向は、病的だ」という判断にも共感できる。

 それでもなお、ぼくがさらに中村と中曽根から共通の性向を感じ取ってしまうのは、次のような発言だ。「日本人には、エスニックという概念が・・・・・・国内に異種のエスニック・グループを持っていないから、実感できないのだ」などといわれると、「ゴツンゴツンとぶつかってしまう」。アメリカに対しては陳謝しても、少数のアイヌ人からの抗議には耳も貸さない人と、ベーシックな認識は大差ないのではないだろうか。

 ぼくたちに身近な音楽の世界をとってみても、白竜、ホン・ヨンウン、氾バンド、朴保と切狂言など、日本に生きる朝鮮人であることにアイデンティティーを求めているミュージシャンはいくらでも挙げられる。韓国からの留学生たちとともに始められたマダン劇集団・ハヌリも、日本人をも巻き込んだ活動で、ぼくたちに新たな刺激を与えてくれている。喜納昌吉の歌も、ウチナー(沖縄)人に生きる宗教意識、言語、自然やコミュニティーに対する態度が、ぼくたちの現在と未来を考えるうえで大きな問題提起をしていることを示しているではないか。李世福バンドの音楽から、在日中国人が確としたエスニック・グループを成していることを、ぼくたちは実感できないという

のだろうか。

 確かにこれらのミュージシャンは、伝統的な空間で暮らすマサイ人たちのように、一目でわかる服装をしているわけではない。日系日本人が、今や和服を着るのが異例なこととなっているように、単一民族イデオロギーに縛られた目から見れば、均一な日本人的生活に埋没してい

るかに見えるかもしれない。しかし、彼らが多数派日本人と異なる歴史的体験や日常感覚に、音楽のアイデンティティーを築いていることは、繊細な耳や神経を持っていれば明らかなことだ。外面的な風俗や人種主義によってしかエスニックを捉えられない者には、映画『ストレンジャー・ザン・パラダイス』に一端をかいま見られたような、東欧系のエスニック・グループがニューヨークの文化状況に与えている大きなインパクトなど、決して理解はできないだろう。

 昨日、わが家の近くのコンビニエンス・ストアで、女主人が愚痴をこぼしているのを小耳に挟んだ。「ああいう事件(“じゃぱゆきさん”のエイズ感染のことらしい)があると、フィリピンの女の子に歩きまわられるのも気持ち悪いわね」。ぼくの住む高田馬場では、現在日本語学校が4つか5つあり、また新たに大きな学校の建設が始まろうとしている。不動産屋に聞くと、外国人を受け入れるアパートを探すのに大忙しだそうだ。日本の、少なくとも東京のエスニック地図は、現在急速に塗りかえられつつある。街を歩いて耳を澄ませば、日本語以外の言葉が必ず聞こえてくる。外務省や国際音楽産業のお先棒をかついで、ナショナル・グループをエスノポップとして売っていったり消費していくのか、ぼくたちに直面するエスニシティーの存在を、「多民族・多文化の共存を当然なことと認める考え方」に導いていくのか、今ぼくたち一人一人に問いかけられているのだ。 

 10月5日の『東京新聞』日曜版は、東ドイツの少数民族ソルブ人を紹介していた。ソルブ人の作家ユーリー・コッホは、19世紀のドイツの貴族がアイルランドを訪れた旅行記を引く。「アイルランドの民謡のメランコリックな旋律は、スラブ系のソルブの哀愁の旋律に通い合うものがある」と。エスニックな「民族の記憶」は、民族の閉鎖的な穴に逃げ込むことではなく、異質なものに触れることによって、いわば人間性の母型、祖型に向かう心だという。

           *   *   *
 次号から、報われることの少なかったミュージシャンを巡って、「どのみちあいつにベートーヴェンの第九が書けるわけじゃなし」というシリーズを書いていこうと思っている。


仁王立ち倶楽部総目次に戻る

Arai's ZANZIBAR, Tanzania Home page へ