The1st Open Art Platform-
Performance Art Festival 日記

2000年5月24日
北京の朱冥(Zhu Ming)から書留郵便が届く。8月26日から31日までThe first Beijing International Art Exchangeを開くから、参加してほしいという内容。旅費はわたし持ちで、宿泊・食事は面倒をみると書いてある。ただ北京のプライベートな場所で行うとだけ書いてあり、中国のどういう作家が参加して、どの程度の規模なのか、国外の作家にはどういう人に招待状を送ったのかは書いてなく、かなりアバウトな印象を受ける。企画者はほかにChen Jin、Shu Yangである。
Zhu Mingとは昨年春NIPAF99で、約2週間の国内ツアーをともにした。北京・東村グループの最年少メンバーで、1971年生まれ。NIPAFでは半透明の球体の中に入り、その中で体に蓄光塗料を塗り、暗転させると闇の中にぼんやりと彼の姿がまるで胎児のように浮かぶパフォーマンスを行った。英語がまったくダメで、台湾から参加していたAdaw Palafが中国語を英語に訳してくれていた。
わたしは彼が企画するおそらく中国で初めての国際的なパフォーマンスフェスティバルに招待されたことをうれしく思った。また以前から中国に行きたいと思っていたので、お金を工面して参加しようと決意する。

5月27日
メールで参加する旨を送信。

6月12日
NIPAFの夏のアジアシリーズのミーティング。NIPAFディレクターの霜田誠二さんが、99年夏北京でのパフォーマンスの際、企画者のひとりShu Yangにも会ったこと、今回の企画はそのときに聞いていたと話す。彼自身は忙しくて参加できない、また今の段階で北京で民間の国際的なフェスティバルは難しいし、彼らがそれをやる力量があるか不安だと言う。またいろいろなことが起こるだろうな、とも。

8月7日
Shu Yangからメール、ミャンマーのアーティスト2名が参加すること、Zhu Mingがドイツに行っていて8月20日帰国するとのこと。ミャンマー(ビルマ)のアーティストはNIPAFの夏のアジアシリーズに参加したAung MyintとTin Swe。このあと、ほかに誰が参加するのかとメールを送るが返信なし。

8月21日
Shu Yangから到着日に空港に迎えに行くとのメール。

8月25日
北京着。空港にはShu YangとChen Jinらが迎えに来てくれる。初顔合わせだったが、看板を持っていてくれたのですぐに分かる。フェスティバルは8月28日の昼から翌朝までに変更になった、理由は何日にもわたると警察に中止させられやすいからだとのこと。また北京市内はまずいので郊外の農村で行うらしい。ミャンマー(ビルマ)のアーティストは空港に迎えに行ったものの、到着しなかったようだ、そしてその後なんの連絡もないらしい。日本を発ったあと、彼らに何かトラブルが起こったのではないかと不安になる。英語を話せるのShu Yangだけで、わたしのつたない英語で何とかするが、ニュアンスは伝わりあわない気がする。Zhu Mingは明後日帰国する。国外から参加するのは、いろいろ招待状を送ったが、結局わたしと向井千恵、フィンランドのRoi Varaa。
レストランに行くと入り口に魯迅の胸像と著作が並べてあり、びっくりする。店の名を「孔乙己」という魯迅の小説から取っているため(主人公、孔乙己は旧世代の知識人で没落しアル中状態、しかしこの店はなかなかおしゃれ)。

8月26日
3日前に到着していた Roiと会う。RoiもZhu Mingと一緒にNIPAF99に参加した。中国に住む友人弘子さんも合流し、北京ダック。その後彼女と北京の "広尾" 、大使館街のオープンカフェでビール。小瓶が25元(x13=円)、街の飯屋では大瓶2元。若い中国人たちが、空瓶を何本も並べている(ガイドブックでは中国人の月収は平均1000元とある)。

8月27日
会場となる北京郊外の村ホワイロウへ下見に出かける。郊外とはいうものの車で2時間弱かかる。北京市街を抜けるとすぐ郊外という感じである。羊が放牧されていたり、馬が木につながれたりする。ホワイロウは山に囲まれた、桃源郷のような村だ。バスは日に2便とのこと。会場は煉瓦壁に囲われた古い農家である。4畳半くらいの部屋にシングルベッドが2つ置かれた部屋が10室ぐらい長屋風に並んだ棟が2-3棟、広い中庭には中国式のあずまやがある。犬が放し飼いにされ、台所は中庭に面した屋外にあり、おばさんたちが薪で煮物をしたり、野菜や肉を切ったりしている。そのほか30畳ほどの食堂と集会室があり、そこで屋内のパフォーマンスをする。
裏門を抜けると、大きな石がごろごろした水無し川、ところどころにロバがつながれ、何ともいえない悲しい声で啼いていたりする。感じとしてはこの空間は外と隔離された独自のアットホームな感じを持っている。
ここは新しいタイプの民宿で、北京の若者に人気があるらしい。北京市内には中国人が安く泊まれる招待所という商人宿・ビジネスホテルが散見されるが、結婚証明書携帯でないと男女が泊まることができないし、またそれに違反することは大変リスキーなことらしい。そこで仲間とハイキングがてら、こういう場所に遊びに来てリフレッシュするとのこと。しかし本当に田舎、むかし中国近代文学を通して感じていた匂いが立ち上ってくる感じだ。
どの場所を使ってパフォーマンスをしてもいいと言われる。
夜、Zhu Mingと再会し、彼の故郷の湖南料理を食べる、辛い。
深夜、経由地・上海で天候の関係で3時間以上足止めをくった向井千恵さんが疲れ切って到着。

8月28日
朝、集合場所のバスターミナルへ。弘子さんに言わせると「今まで5年間北京に住んできて、初めて見るこんなに溌剌と自己主張している」人たちが集まってくる。20人くらい乗れるミニバス5台でホワイロウに出発。この春NIPAF2000に参加したWang Maiと再会。
到着、村の入り口に2台のパトカーが止まっていたという情報が流れる。昼食後なんの挨拶もなくパフォーマンスが始まる。
Wang Chuyuの作品は10人ぐらいの労働者風の男たちが腹這いになり、ひとりが立ち上がり、あとの者を踏みつけていき最後列でまた腹這いになる。これを繰り返し部屋を男たちの群が一巡するというもの。真ん中には男が四つん這いになりテレビ台になっている。テレビには黒い布がかけられているが中国の議会の様子が映し出されているのが分かる('Chinese Kongfu')。
このあと警察官が宿屋の入り口で宿屋の主人や、Shu Yangと話をしていたので緊張した空気が流れるが、問題はなかったようでパフォーマンスは続けられる。
Chen Guangの作品は裏の水無し川で男たち四人にテーブルを支えさせ、その上には生きた鰻、泥鰌、海老、魚、生の内臓類が並べられ、たくさんの蝿がたかっている。彼はそれを黙々と食べていく('Supper to the Mankind')。
Cang Xinは水無し川にバスタブを置き全裸で、大カメレオン3匹、小カメレオン10匹と時を過ごす('Bath')。
Liu Jin は世界の国旗を縫い合わせた15x10mの布を用意し、各国旗の中心の切り込みに参加者が頭を入れ、川を行進した。最後に彼の指示により参加者は国旗を破りさった('The Earth Village')。
Liu Jin と友人は中庭のあずまやで、中国の農村で風呂として使われる大きな壷にコカコーラのロゴを描き入れたものを置き、コカコーラをはり全裸でつかり、シャンプーをし、ペットボトルのコーラですすいだりした('Coca Cola Bath')。

このパフォーマンスが終わった午後4時頃、かねてから周辺をうろついていた警察が主催者のZhu MingとShu Yang、そしてコカ・コーラ風呂のパフォーマンスを行ったLiu Jinと友人を呼びつけ、事情聴取を始めた。Roi、わたし、向井、フランス人ジャーナリストのリュックは先ずパスポートを取り上げられた。その後そこにいたすべての観客と参加アーティストは名前、住所、身分証明書番号(中国国民はこれを常に携帯していないといけないらしい)を控えられた。そしてわたしたちも、「誰からこのフェスティバルを教えられたか」「パフォーマンスをする気だったのか」「中国では無届けのこういった集まりは違法であることを知っていたか」等の質問を英語で受け、それを調書として自ら英語で書かされ、パスポートとビザ番号を控えられた。そしてパスポートは返された。しかし、その際今すぐにここから退去するように強く言われる。びびっていたので、国外退去かとはじめは思ってしまった。
午後8時頃前述の4人は警察署に連行された。ある人は1-2日は警察に拘置されるだろうと言っていた。またZhu Mingはこれが2回目なので、もし有罪となれば刑は相当重いだろうという話も出ていた。Zhu Mingは東村時代、友人Ma Liu Mingのパフォーマンスを手伝っているところを一緒に逮捕され、3カ月拘留されたのだ。
しかし、幸運なことに午後11時頃連絡があり彼らは釈放され、もう1人の主催者Chen Jinが迎えに行った。なお、ビデオカメラ等は没収され、後日テープ、フィルムを抜かれて戻ってきた。
警察からは中止命令が出たが、深夜比較的静かな2つのパフォーマンスが行われた。
Roi Vaaraは宿の納屋にあった煉瓦で台を作り、その上でNIPAFでも行った、台所道具を使う自死をイメージさせる作品(ナイフで舌をステーキを切るようにする、撹拌器で目を撹拌するなど)。その後煉瓦を崩しながら積み上げ、煙突状のものを作りつつ自身はその中に隠れていく、最後に大量の煙がその煙突から吹き出て、客とは反対のほうから、自分が出れるだけの煉瓦を崩し、出てくる('brick Project')。
Wang DerenはRoiの煉瓦の煙突を崩し、その煉瓦を使って、コンセプチュアルな英文字を書いた('When! The Greatest Secret Can Be Exposed in the World.')。

Shu Yangからどういう形でもパフォーマンスをやってもらうようにするから、安心してくださいと言われる。

8月29日
昼頃、北京から車で30分のChen Jinの家に帰る(わたしたちの宿舎でもあり、部屋が5つ、アトリエ・スペースが2つ、20畳ぐらいのリビングと相当広い。彼はお手伝いさんと住んでいる)。車中、今夜彼の家で昨夜パフォーマンスをできなかった人のパフォーマンスをやる、観客は呼ばないとことにしたが、それでいいですか? と聞かれる。

彼らは細心の注意を払い、なるべく外部にこのフェスティバルが知られないように準備をしてきた。当然チラシ等の一般への告知は行わず電話を使って、出演者を募り、観客にも知らせていった。そして、北京では国際フェスティバルでなくても、パフォーマンスを行うときにはこの方法が一般的らしい。しかし、その過程でも警察への密告者が出たのだ、警察と通ずることで立場がよくならないわけはないからと、昨日の原因を話してくれた。

また、1.中国ではたくさんの人間が集まり、当局の理解を超えたことが行われること、2.外国人が参加することに、とてもナーバスなのだとも教えられる。つまり、パフォーマンスというジャンル自体やたとえば裸になることが問題ではないことを知る。しかしパフォーマンス以外では詩が当局から目を付けられているジャンルだとも聞く。

夜、Yang Qingのパフォーマンス。コンドームを膨らませ、特殊な薬品が入った墨で「隠棲」と書く瞬間それが割れる('The Burst - that is caused by the Chemical Reaction of Writing "Recluse" on a condom with Printing Ink')。
Zhu Ming 、スキンヘッドの彼が全裸で、腰に赤ん坊の全裸の人形をつけ、体と人形に蓄光塗料を塗り、自身で強力ライトを照射し、暗転させる('29 August 2000')。
荒井真一、キャンバスの上に糞に見立てた赤の絵の具を「君が代」を歌いながらひりだし、その後、尻で絵の具を丸く延ばし、キャンバスを壁に掛ける。小林よしのりの「戦争論」を1ページ口に押し込み、その度に「Happy Japan!」と万歳する。口に押し込めなくなるまで続ける('Happy Japan!')。
向井千恵、胡弓、シンバルとヴォイスを使った即興演奏(彼女は25年来の胡弓の使い手。 'Improvisation I' )。
Jess To、彼女の薄いドレスを黙々と引きちぎっていく('Untitled')。
Chen Jin、6色のガムテープを全裸の体につけ、本体を観客に持たせる。回転しながらガムテープを体に巻き付けていく('Binding')。
この日は出演者のほかにRoi、Shu Yangなど6人の観客。

8月30日
夜、Ma Liu Mingらと火鍋。途中からMa Liu Ming とShu Yangらが議論をはじめる。弘子さんによると、Ma Liu MingはShu Yangらの今回のフェスティバルのやり方を批判していたようだが、早口のため細かいところは理解できなかったという。

9月1日
北京から、一番近い万里の長城でRoi、向井、Shu Yang、Chen Jinのパフォーマンス。万里の長城も奥まで行くと観光客がほとんどいない。しかしタバコを吸っているところをどこから監視していたのか、守衛に見つかりライターごと没収される。
Shu Yang、ビニールの買い物袋を被り、息を荒くしながら長城の塔の中を四つん這いで歩き回る('Journey on the Great Wall')。

北京に戻り四川料理。Roiの明日の天安門でのパフォーマンスの打ち合わせ。Roiは体を白塗りし白いスーツを着た「White Man Meets --」シリーズを万里の長城だけではなく、天安門でもやるつもりだ。天安門 前を白く塗った自転車に乗ったWhite Manが通り抜けていくというアイデアだ。彼とChen Jinは昨日、そのために自転車にペンキを塗っていた。その打ち合わせで、Shu Yang (彼しか英語を話せない)はゆっくりとそのアイデアが今の状況でいかに危険かを話し始めた。それはアイデアを変えてくれというものではなく、それが行われたら、自分たちはどうなるかを伝えるためだった。Roiは明後日自分はフィンランドに帰る。荷物、パスポートはフィンランド大使館に預け、もしトラブルが起こっても強制送還されるだけだし、みんなのことは口にしないし関係を示す荷物も大使館にある限り、当局にチェックされることはないから、大丈夫という。またホワイロウについてもみんなとの関係は偶然出会ったアーティストとしか書いてないから問題はないという。

しかし、長い話し合い中でのあとの2人の主催者とオブザーバーのWang Maiが中国語で猛烈に議論をはじめた。結局、明日のパフォーマンスを実行すれば、わたしたち主催者は半年ぐらい北京を離れなければならない、今日帰ったら、そのための荷造りをする、と Shu Yangがみんなの議論をまとめて、話した。Roiは「Too Much!」と言い、そんなことならばアイデアを変更すると言った。時間は12時を過ぎようとしており、店員はわたしたちの帰りを待っていた。

9月2日
天安門でRoiのパフォーマンス。
午後12時半。タキシードを着、サングラスをかけたRoiが天安門広場の中央で天安門を背に立ち続ける。次第に人が集まり、中国人観光客がRoiの隣に立ち、記念写真屋に写真を撮ってもらったりする。人が集まりすぎると、警官が人々を排除する。だんだん警官たちの無線でのやり取りが多くなるが、Roiには直接何も言わない。しかし、最後に数人の警官がRoiに近づき英語で「お前は何をやっているのか」と聞く、Roiは「人々の行動の社会科学的調査を行っていたが、目的を果たせた」と言って、その場をあとにした。この間1時間30分('Total Standing")。

わたしたちは集合場所に決めてあった飯屋に集まり、彼のパフォーマンスの成功を祝福し、ビールを飲んだ。

9月4日
午前3時、北京のカフェバーでShu Yang、Chen Jinと別れ弘子さんの家に着く。そのまま荷物を整理し、午前6時空港に向かう。

10月17日
12月23、24日に西荻Wensスタジオで行う「第三回Perspective Emotion」にShu Yang、Chen Jin、Zhu Mingを招待するための課税証明書が取れたと鈴木健雄君から電話が入る。アーティストとして彼らを呼ぶ場合には団体としてでないと呼べない。わたしたちのイベントはその団体の資格を取れそうにない。そこで個人でも保証人になれる「友達招待ビザ」で呼ぶことにした。この場合、中国人との友達関係を証明する、写真、手紙、中国に渡航した際のパスポートの出入国スタンプ、ビザのコピーと課税証明書などが必要となる。課税証明書をとってみるとわたしの所得は140万円しかなかった。中国の弘子さんは400万はないと無理だろうと言う。外務省に聞くと、多いにしたことはないだろう、しかし中国の日本大使館が決めることですからと言う。友達がわたしの保証人のパートナーということでどうですか、と聞くと、やってみる価値はありますねと言う。そこでNIPAF99に参加した鈴木君に課税証明書を取ってもらったのだ(彼はサラリーマンでもある)。しかし、本当に日本に来れるかどうかは、彼らがわたしの用意した書類を使い日本大使館に申請し、ビザが発給されるまで分からない状況である。


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