私の勤務校では、12月初めに高校三年の学年末試験が終わると、「消化授業」の数週間がやってくる。私はこの数年間、「選択 倫理」という科目を担当している。これは、「受験で社会を使わない生徒向けの教養講座」というふれ込みなのだが、実際には古代からの諸思想をできるだけ資料を読みながら論ずるという事で、試験には必ず論述が4割あるなど、結構、やっかいな事を強いている。「受験科目じゃないのに…」という愚痴も聞かれるが、それでも理系の生徒が選択者に多いからか、理屈で考えたり論ずることに、反応してくる生徒たちもいる。「魂は不滅か」とか、「本当の自分を生きるとは」など、作文を書いてもらってコメントすることも時々はやっている。が、この「消化期間」ほど自由な期間はない。
さて、この期間に何をしようか…と秋頃から私は考え出す。番外編だからこそ「生徒諸君にも身近な対象から現代と人間を考える」という事でやってみたいと思っている。去年は「The携帯電話」でやった。その前には「新世紀エヴァンゲリオン」を取り上げたこともある。あるいは、「アニメヒーロー像と戦後日本社会」をあつかった年もあった。アニメ系が多いのは、私の高校時代に「宇宙戦艦ヤマト」ブームがあり、高校の文芸部から大学まで、口角泡をとばして作品論を議論した「原点」があるからだ。
そして、今年は「千と千尋の神隠し」で大ヒット・ロングラン上映の続いている「宮崎 駿」をとりあげてみよう、と思い立った。
それは「豚」からはじまった
私たちの世代は、知らぬうちに宮崎駿氏のかかわった作品にふれて育った世代である。私は1959年生まれだが、子どもの頃に好きだった「狼少年ケン」なども宮崎氏がかかわっていたことを最近になって知った。だが、「風の谷のナウシカ」を自主上映の会で観た1980年代前半、時代はまさに米ソの新冷戦のただ中であった。ナウシカの「最終戦争後の世界」は、基本的に核戦争後の世界として観られていたと思われる。だが、その段階では、「最終戦争」の設定は、SFではありふれたものであったし、私はそれ以上の関心を持つことはなかった。「天空の城ラピュタ」も同様である。
だが、「紅の豚」を観た時に、私はこの宮崎駿という人物に非常に関心を抱いた。「星の王子様」を彷彿とさせる大空を飛ぶことへの夢、元パリコミューン戦士の残したシャンソン、「ファシストになるくらいなら豚の方がましだぜ」というポルコ、ロマンを自由な大空に求め、「豚」と呼ばれてもロマンを求め続けたいと思い続ける姿…。「ああ、この人はそういう人だったんだ」「がんばりましょうぜ、お互いに」と、「中高年のための作品」というふれ込みに「俺も中高年になったか」と苦笑しつつ納得できたのであった。後に宮崎氏は「豚」について、「アニメは自分のためにつくってはならない」と否定的にとらえているようだが、「飛べない豚はただの豚だ」という言葉を、90年代に私は何度も口にし、自分に言い聞かせ続けることになった。
そして、「ものけ姫」に続いて「千と千尋の神隠し」が、アニメとしてというよりも「日本映画の代表作」して大ヒットした中にあって、この「宮崎駿」という人がどうしてこんなにも人々の心をとらえるのだろうか、とたどってみたいと考えたのである。さっそくwebで資料をあさると、北海道新聞の夕刊に連載された宮崎駿のインタビュー構成の記事、さらには「宮崎 駿・高畠 勲 作品研究所」の論考などが見つかった。そして我が家で子ども用に集めてあったビデオに加えて、たくさんのビデオを借り出してきて、12月初めの土日をつぶしてながめながら、授業の構想をねった。その結果、二回構成でこの授業をやってみることにした。
授業 宮崎駿と戦後民主主義思想(1)
一年間、様々な思想家たちをみてきましたが、今日と次回の二回は「宮崎駿」という人を作品を交えて考えてみたいと思います。
@原点としてのホルス
宮崎駿氏らの「原点」が、「太陽の王子ホルスの大冒険」である事は、広く知られています。そこでまずその一部を観ていただきましょう。
*…ホルスのラスト 5分間ほどを観る。悪魔の襲撃を、村人はみんなで火をおこして抵抗する。そしてホルスが一人ではどうやっても輝かなかった太陽の剣は、村人のみんなで起こした火の炎で鍛えると輝くようになり、悪魔をついにうち破る。…
この作品のテーマはわかりますか?? そう、「働く者の団結」という事ですね。でも、どうしてこういう作品がうまれてきたのか、資料を配るので観て下さい。
また、宮崎氏は「東映動画の最後の定期採用で入社」したと履歴に書いています。この「最後の定期採用」というのはとても重たい意味があります。60年代はテレビが普及し、鉄腕アトムから動画がテレビに登場していく時代でした。しかしその時代は、アニメが「安上がりなもの」にさせられていく過程でもありました。手塚氏はアトムをテレビで流すために制作費を大幅にディスカウントし、作画枚数は大幅に削られました。ここから日本のアニメーションは「動かない絵になっていった」とも言われます。「新世紀エヴァンゲリオン」はその最たるものかもしれません。また、みなさんは「ポケモンを観ていた子どもが気持ちが悪くなった」という事件を覚えていると思います。あれは、一枚のセルで背景の光の色だけをかえるという、「安上がりに表現する手法」の結果でもあったのです。
ですから、安上がりとするために動画を描くアニメーターは、「外注」「請負」とされるようになり、正社員ではなくなっていったのです。一日中、アニメを描いても生活費にも足らない請負の支払いしか受けられないというアニメーターの過酷な労働が、この頃に広がります。「履歴書」の資料で、「長編は作れなくなるのではないかとの危機感」と書いてあるのも、そうしたことを示しています。
こうした中でホルスを創ることは、彼らにとって、自らの生活を守る闘いと、子どもたちへの最善のものを伝えることとが結びついたものとなり、それが彼らの「原点」となったのです。しかし、この作品は興行的には完全に失敗します。売れなかったのです。そして、彼らはやがて東映動画を去ることになります。
Aエンタティメントとしての完成
さて、70年代にはいって宮崎駿 の作風というべきものが次第に確立してきます。まず、子ども向け中編として人気をあつめた「パンダコパンダ」の一部を観て下さい。
B「最終戦争」とナウシカ
この点ではもっとも明確なのは、「風の谷のナウシカ」でしょう。腐海、火の七日間戦争、巨神兵という設定そのものは、一般には1980年代初めに、米ソの新冷戦と核戦争の危機の中でとらえられました。ただ、そこでの設定は次のような部分に示されています。
C自然の価値とトトロ
さて、80年代後半を代表する作品はやはり「となりのトトロ」でしょう。そこでまずこの一部を観てみましょう。
しかし、私たちは、当時この作品を観ることを通じて、「里山の価値」を考えさせられました。実際に宮崎氏の住んでいる狭山丘陵では「トトロの森基金」というナショナルトラストが設立されますが、ちょうどバブル期、日本中で里山の自然が破壊されていく中で、私たちはこの作品を通じて里山の価値を再確認したのです。高畠氏の「平成狸合戦ポンポコ」も同様です。ポンポコの場合には、例えば多摩丘陵の自然と狸を守る市民運動の中で、上映されたりもしています。最近では里山の価値を見直す動きはずいぶんひろがってきましたが、トトロはその先駆でもあったのです。
一時間目はここで時間が来てしまった。
授業 宮崎駿と戦後民主主義思想 (2)
さて、前回は宮崎駿と戦後民主主義思想という事で、彼らの「原点」から始まって80年代後半の「トトロ」までを観てきました。(これをまとめたプリントを配布する。)そして、90年代にはいるのですが、最初は…そう、このカットでわかるでしょう。 (「豚だ」「豚」との声あり)
D「理想としての社会主義」への揺らぎと「紅の豚」
紅の豚 トップ部分。アドリア海の入り江に停泊する飛行機、そして電話が鳴る。が、出たのは何と豚だった。
私が宮崎氏に注目し始めたきっかけは、実はこの「紅の豚」にあります。というのは、この作品には彼の思想的な迷いというのか模索がよく示されているからなのです。まず、次の部分を観て下さい。
紅の豚 ・シャンソンをバックに飛行機が飛んでいく。生徒はうっとり聞く。
・ポルコの無事が伝えられ、電話でのやりとり。「飛べない豚は単なる豚だ」の名せりふ。
・飛行機を修理に行ったミラノでの空軍の親友からの忠告。「空軍に戻れ、今ならなんとかなる」。ボルコは、「ファシストになるなら豚の方がましさ」と一蹴する。
この歌にまず注目して下さい。これは挫折した最初の社会主義革命であったパリコミューンに参加した戦士の生き残りがつくった歌だと言います。いわば、ここにはロマンとしての「社会主義の理想」という事が示されているのです。そして、「飛べない豚は単なる豚だ」という言葉ですが、サンテクジュペリの「星の王子様」にもつながり、飛ぶという事がロマンを求める姿を示しているのです。また、ポルコ 豚野郎という言葉を、宮崎氏は、共産主義者・社会主義者がこのように呼ばれていたという認識のもとに使っているようです。
宮崎氏は、ソ連の解体もですが、特に中国の天安門事件に大変な衝撃をうけたと言います。みなさんにはよくわからないかもしれませんが、それは戦後の日本人の多くが共有したものでもあります。ソ連に対しては、シベリア抑留でたくさんの人がひどい目にあった事もあり、そんなにあこがれを持つ人はいなかったかもしれません。でも、新中国は戦争犯罪人としてとらえた人々を処刑するのではなく、「なぜ侵略戦争は間違っていたのか」を教育して日本に戻してくれた、さらに人民解放軍は「人民の物は針一本とらない」軍隊として道徳的にも高いモラルと規律を持つ集団だ、という事で精神的権威を持ってきたのです。その人民解放軍が天安門広場で民衆を虐殺したという事は、日本でも多く人々にとても大きな衝撃を与えました。宮崎氏はスタジオの外にそれに抗議する紙を貼りだし、その怒りをスタッフにぶつけたといいます。
人間の理想としての社会主義、それは働く者の団結によって、人が人を抑圧する、暴力も権力もない自由で平等な社会を実現する壮大なロマンとしてイメージされてきました。そのロマンが揺らぐ中で、しかし、人間へのロマンをどう見いだしていくのか、という苦悩が「飛べない豚はただの豚だ」という言葉に示されているのです。
もっとも、この作品にはこんな部分もあります。
さて、こうした苦悩から彼はどこに新しい転換をとげていくのでしょうか。そこで注目されるのが「耳をすませば」です。
E生きている人間への共感と「耳をすませば」
この耳をすませばという作品は、中学三年生の雫という女の子が、小説を書くことにチャレンジする中で自分と自分の生きていくことをとらえかえしていく、という自分探しをたどった作品です。特にそのラスト部分に注目してみましょう。
耳をすませばラスト部分 雫と自転車で日の出を見に上っていく。坂がきつくなると雫がおり、「私だって役に立ちたい」と言う。登り切ったところで副都心の見える風景。日の出を見ながら、将来を約束する二人。その後、「カントリーロード」のエンディング…。
ここでは雫は単に誰かに頼って生きるのではなく、自分の足で自分で生きていこうとする者として描かれています。そして何よりもこのカントリーロードという歌の訳に注目する必要があります。もともとのこと歌は、故郷から遠く離れて暮らして故郷を懐かしむものです。しかし、この歌詞は10代の女性が訳した異なる訳を使っていて、「この街で生きていく」自分への肯定が歌われるものになっているのです。
どこかに仮想の理想をおくということから、今の現実の中に生きていこうとしている人間を肯定し、その人間の中の可能性を信頼すること、これがこの作品で宮崎氏がたどりついた結論であったように思うのです。
さて、そして90年代に漫画版のナウシカは完結し、それの後に制作されたのが、「もののけ姫」です。
F人間と自然の対立
もののけ姫の最初 たたり神に矢をいって呪いをうけ、村を去ることになるアシタカ
ラスト部分 戦いは終わった。しかし、もののけ姫はアシタカと共に暮らすのではなく、山に戻る、アシタカはタタラ場の人々と別々に生きていくことになる。
さて、この作品の全体を通じているテーマである「人間と自然」について、ここでは映画版ナウシカとは違い、「自然と人間との共存」なんて実はそんなに簡単にできるはずはない、自然と人間とは常にぶつかりながら生きていくものではないか、という事が示されているようです。と同時にここでは人々は「タタラ場」で共に働き、共に協力して生きていくものとして描かれています。人間はそうした存在として生きていくものだ、という事は、宮崎氏の原点である「ホルス」以来の確信として、この作品でも生き続けているわけです。
ただ、この作品では他の宮崎作品とは違って、戦いで人間の首が飛んだり、血が流れたりというようなシーンが多く描かれました。そうした事から、私もですが、それまでの宮崎作品との違和感を感じる人や評論も見られたように思います。
G「千と千尋の神隠し」
さて、それで最後に「千と千尋」になるのですが、まだ映画館でやっていますし、ビデオもありません。みなさんも受験が終わらないと、映画どころではないでしょうね。
宮崎氏はこの作品を「十歳の子どものためにつくった」としています。で、私が見て感じたのは、次のような事でした。描写としては「水の透明感がとてつもなくきれいだな」という事がありますが、内容としては次のような二つがあります。
第一は、「成長神話からの決別」が鮮明になっているな、という事です。この作品では千尋という女の子が主人公で、とてもすばらしい勇気を見せるのですが、最初と最後に暗いトンネルを通る時に母親にしっかりとしがみつき、「痛いじゃない、そんなに引かないで」と言われる場面をつくっています。これはフェードイン、フェードアウトというか、作品をファンタジー化するためによく使う技法ではあるとも思います。でも、作中で大活躍をした千尋だから、何か人間的成長をして怖がらなくなる…なんてことはないわけです。宮崎氏自身も書いていますが、どうも宇宙戦艦ヤマト以来、主人公は人間的成長をしないといけないような感覚がもたれるのですが、人間をそのまま肯定的にとらえるという事は、そんな成長神話ではとらえられないものではないか、と思われるのです。子どもはある時はとても勇気を出してがんばってみる、でもまた恐がりになったり、すねたりする。でも、そういう子ども自身がすばらしいし、人間そのものがすばらしい存在なんだ、という事がモチーフとしてあるのだと感じました。
第二に、映画を見終わった時のまわりの雰囲気が、「なるほど」と思わせるものでした。これは結構おもしろいものでして、「新世紀エヴァンゲリオン」の時には、「おい、なんだよ、あれは」と不機嫌だったり怒っている人が多数でした。でも、「千と千尋」を見終わって周りを見渡すと、出てくる人たちは「ほっとした顔」をしていたのです。
子どもたちをめぐっていろいろな事が言われ、「今の子どもは」「今の教育は」「今の社会は」と、みなダメだダメだという事で言われるわけです。しかし、この作品は人々に対して、「あなたの隣に座っている普通の子どもだって、たくさんすばらしいものを持っているよ。子どもは、人間はもっと大切に見るものだよ」と語りかけているように思うのです。これが生きていく人間への信頼にゆらぎ、中高年の自殺で平均寿命が短くなってしまうような社会に生きている人々に、この作品が受け入れられていった大きな背景ではないかと思うのです。
H最後に
こうして駆け足で宮崎氏の作品を眺めてきましたが、確認できることは彼の作品には、「人間への肯定」が貫かれているという事だと思います。それは「ホルス」での働く者の団結こそが平和と幸福をもたらすというテーマからはじまり、紆余曲折をへながらも、人間そのものの肯定的な捉え方へと回帰しています。戦後民主主義は、「国家のために生きる人間」から「人として生きることのための社会・国家」へと原理的な転換をはかろうとしたのだと思いますが、彼の思想的な歩みはまさに、そうした戦後民主主義思想そのものの歩みであったと言うことができるかと思うのです。ちなみに宮崎氏のスタジオ・ジブリでは初めて「月給制」を採用しています。それは経営的にはあたる作品を作り続けなければ成り立たないものですが、彼らの原点である「ホルス」を生み出したところのものは、今も大切にされようとしているという事は評価してよいのではないでしょうか。
一年間、哲学者たちの思想をたどってきました。最後がアニメとは何だ、と思うかも知れません。でも、思想とは時代を生きるものなのです。そして、それは音楽にも、アニメの中にも見ることはできます。逆に私たちが時代に向かい合うために哲学や思想だけでなく、様々なものを検討対象とすることができるかと思うのです。大切なことは、そうした中で時代を見つめ考えていくことだろうと思います。
授業を終えて
最後に感想文を書いてもらったのだが、対象が広く駆け足であった事、時間が足らなくなってしまった事もあり、あまりつっこんだものは見られなかった。
中には「作品がブツブツと編集されて楽しめなかった」という苦情(?)も一つあった。それでも、「耳をすませば」が好きで好きで…という女子は、自分が共感した部分とつながるものがあったようで、そういう意味で考えながらもう一度みてみたい、と書いていた。また、「千と千尋」を早く見てみたいなという者も多く、これを見ていないと作品評価としての完結性がもてなかったかな、というようにも思われた。
全体としては、受け止め方は好意的で共感的なものが多かったのだが、やはり「新世紀エヴァンゲリオン」をあつかった時のように、ガツガツゴツゴツとぶつかって議論するという対象とは、宮崎駿という人自身が違うのだな、という事を実感した。宮崎作品の中で育ってきた我々にとって、この作品は空気のような存在であるという事なのかもしれない。ただ、彼らがあまり考える対象として来なかったアニメにも、こうしたアプローチができるという事は、新鮮ではあったようである。
参考資料 ちくま新書 「宮崎駿の<世界>」 切通理作(2001/8刊)
宮崎駿・高畠勲作品研究所 web-page *特に「耳をすませば」について