自然公園法地域に県の環境アセスの適用は可能か


箱根のブナ帯における美術館建設計画をめぐって

箱根を守る会 田代道彌・蛯子貞二・川崎英憲
自然公園法を超える県の環境アセス

 箱根は富士・箱根・伊豆国立公園のほぼ中心に位置する。この地は中世以来街
道交通の要衝として重視され、湯治場としても繁栄し、現在では世界的に著名な
観光地となった。箱根の森林は山頂付近より海抜700m内外の地域までブナ林に
占められ、温帯性落葉広葉樹林の世界を現出する。
 箱根のブナ林は、多くの生物をここに依存させ、豊富な地下水を蓄え、温暖で
多湿な気象条件の維持に貢献してきた。ここにはハコネコメツツジ、ハコネグミ
など30種以上の遺存種植物が生育し、動物相にも深山性の種類が多い。このよう
な箱根固有のきわめて特徴的な生物相は、駿河湾や相模湾に近くそびえ立ち、そ
のため低海抜域に下降する箱根のブナ林に負うところが大きい。
 ところがこの箱根のブナ林を伐開し、大量の土砂を掘削して大規模な美術館を
建てる計画が着工に向かって歩き出している。ポーラ化粧品本舗(株)(以下
「ポーラ」)は、数年来神奈川県と環境庁に対して水面下の交渉を続けていた
が、県は突然これを神奈川県環境影響評価条例(以下「アセス」)に乗せること
を決定した。アセスは所定の手続きを順次終了し、いま神奈川県環境影響評価審
査会の答申を待つところまで来ている。

国立公園内で県条例によるアセスがまかり通る

 現地ではこれまで自然公園法に基づく審査は全く無く、ただ開発を前提とする
アセスが進んでいる。これでは箱根の自然など戦車に踏み砕かれる草原の花でし
かない。もちろん手続上は、この後、審査委員会報告を受けて神奈川県知事がア
セスの是正などを指摘した上で、はじめて環境庁がこれを審査することにはな
る。しかし環境庁に現在、都道府県の意向にまともに対処して、自然公園法の精
神を貫徹する姿勢があるだろうか。箱根を守る会は会長以下、環境庁に自然公園
課長を訪れ、この点を質したが都道府県の決定を環境庁が完全に否定した前例は
ないという。
 自然公園法地域に何故にアセスが持ち込めるのか。環境庁は否定した前例はな
いとしながら、何故に国の審査より先にアセスを進行させたのか。美術館は本当
に自然保護地域に優先する施設なのか。箱根を守る会はこれを単に箱根の事例と
してとどめず、全国の今後の自然や文化財の保全のために、今これらの点を明ら
かにする運動を続けている。

国・県・町による保全慣行をみずから放棄する県の真意は?

 自然公園法地区の箱根に、神奈川県がアセスを持ち込んだ時、箱根町も同調
し、両者は「私権の制限は困難」を繰り返した。しかしそれでは過去の努力を捨
て、多くの問題を積み残したまま、県と町は箱根高地の自然景観の保全から逃げ
出すことになる。これまでで規制に従ってきた企業や個人に、行政としてどう責
任を果たすのか。箱根の今後にどう対処するつもりなのか。
 この地域がこれまで開発されなかったのは世論も大きく貢献しているが、法的
にも、第二種地域でありながら特別保護地域に準ずる扱いが周知の事実としてあ
ったからである。例えば「自然公園法第17条に対する審査指針とその運用通知」
に係わる審査指針(昭50・3・18環自企148号)7項は、『特別保護区、第一種特
別地域に準じて取り扱う地域』として、「定着した地域的慣行、公の学術調査の
結果極めて高い学術的価値があると認められた地域」として例外的な認め方を規
定しているが、ポーラの美術館建設計画地はまさに右の第七項が求める二点を満
足させてきた。法的にも私権の制限は理由にならないのである。
 箱根山のブナ林は海抜700m内外から始まり山頂に達することを述べたが、端
的にブナ帯を説明するには水平分布を言う方が早いかもしれない。例えばこのブ
ナ帯を海岸に近い低地で見るには、私たちは北海道の渡島半島か、近いところで
も青森県最北端の尻屋崎迄、出掛けるしかない。箱根の最高地の森林であるブナ
帯とはこのようなものなので、大部分は特別保護地区に指定され、そうでなくて
も特別地区に準じて扱われてきた。当該地域の取り扱いの経緯も、まさにこれで
あった。箱根小塚山の南側の肩、大涌谷との中間に位置する当地は、自然景観上
ブナ帯の下縁に近く、そのため久しく開発が危惧されていたので、箱根を守る会
は昭和50年に、環境庁長官にこの地域を特別保護地区に編入することを要望し、
開発計画の安易な容認は陸続として連鎖的な開発申請を招く危険のあることを指
摘した。これに対して昭和52年1月、環境庁は環自保第14号をもって「(この地
域は)厳しい姿勢で自然公園法第17条の運用にあたっている」ので現行第二種地
域であっても、特別保護地区に準じた扱いをすること、また会の憂慮には「この
地域の(開発行為については)連鎖的開発現象は今後おこらないと思われる」と
の確固とした認識を示した。
 これらが空文でなかった事は、この通達以後、箱根の各地域の開発計画につい
ては、環境庁・神奈川県・箱根町の三者による定期協議が久しく行われ、特に小
塚山周辺の第二種地域については、特別保護地区に準ずる扱いが貫徹され続け
た。例えば同じポーラが場所も今回と同一の地に計画した社員寮は、同じ箱根で
も早川中流域の宮城野に変更して建設された。また隣接地一帯にあった幾つかの
開発計画も、一件も実現していない。これは何よりも国・県・町の三者協議の結
果であった。
 こうしてこの地域は箱根のブナ帯の保全地域の下縁として開発から守られるこ
とが周知の事実となった。昭和50年以来すでに20年以上もの間・・・である。こ
れは、この地域のブナ帯の保存意識が、第7項の「定着した地域的慣行」となっ
ていることの証左と言えよう。顧みて神奈川県や箱根町の弁解を、逃げ口上とい
う所以である。

ブナ帯の意義とこれに逆行する大規模美術館建設計画

 次に、「公の学術調査の結果極めて高い学術的価値があると認められた地域」
についてこれまで幾つかの公の調査とその報告書があるが、そのいずれも同一の
見解である故、いま一例のみを掲げる。この地域のブナ林について「小塚山南東
の緩斜面には小沢沿いに(計画地が該当)自然度9と自然度の高い、垂直分布的
に低海抜分布型のヤマボウシ・ブナ群集が比較的纏まった面積で生育している。
このため本地域では、早川沿いに低海抜地のヤブツバキクラス域から上昇してき
た自然植生と、高海抜地のブナクラス域から下降してきた自然植生とが移行帯を
形成している状況が明らかに認められる。今日の箱根地域ではこれらの低海抜分
布型のブナ林の殆どは開発により破壊されており、本地域に残存するブナ林は貴
重な植物生態学資料といえる。」(宮脇昭:1992年横浜植生学会)
 このようにこの一帯のブナ林の貴重性は周知の事実であり、その保存の認識は
環境庁・神奈川県・箱根町ともに共通した定見となっていた。だからこそポーラ
社員寮は、場所を他に移して建設されたのであり、これは自然公園法地域におけ
る開発行為が通常の手続きによって審査されている一例であるといえる。箱根で
は日常茶飯事的に、屋根や塀の色彩から、庭木の伐採や移植まで制約があるが、
これも通常の手続きによるからである。いつか英国BBC放送が「日本の国立公
園」を取材に来て、そんなに規制が加えられていて、いったいどのくらいの補償
があるのかと、筆者に聞いたことがある。もちろん一銭も補償はない。しかし国
立公園は国民共有の財産であり、地元にはそれを管理する責任があろう。そして
何よりも箱根の住民にとって、今日明日の目先のことも大切だが、子孫の代にま
で伝えねばならぬ自然景観は是非とも守られねばならない。箱根のブナ帯はその
自然景観の象徴的存在なのだ。
 それにしても、社員寮は自然公園法によって規制されたのに、県がアセスに乗
せたため、社員寮とは比較にならぬ大規模開発が今着工に向かって歩き出してい
る。利用者年間数千人を出ないであろう社員寮に対して美術館は、観客数年間60
万人、大型車を含め220台の駐車場スペースが用意される。さらに驚くべきは、
直径63m、深さ24mの巨大な穴をブナ帯に穿ち、地下三階地上二階を建てる設計
である。このため搬出される貴重な土量は5.3万立米、この工事計画は、ひたす
ら自然公園法による建造物の高さ逓減に迎合し、ここにも特別保護地域に準じて
扱われるブナ帯に、自然公園法の皮をかぶったアセスが、場違いにとまどい乍
ら、仕方なしに尻尾を出している姿が見え隠れする。
 いったい駐車場を含めてこれだけ広範囲にブナ帯を伐開し、それがどうして美
術館であろうか。自然に調和しながら印象派絵画を展示するというが、ブナ帯の
地下に5.3万立米の土砂を掘り、その結果ブナ帯の地下水流路を堰止め、貴重な
生物相を駆逐して、それがどうして自然との調和であろうか。年間60万の人と車
をこのブナ林に誘致して、排気ガスなど大気の汚染や気温をはじめ微気象までも
撹乱させ、それを憂慮する良心が、当事者にも行政にも、本当にないのであろう
か。

 今年度、箱根を守る会は次の三項目を中心に箱根のブナ帯の保全のための運動
を展開しようとしている。その一は、自然公園法・文化財保護法指定地域にアセ
スの適用が可能とする神奈川県・箱根町の主張の是非を裁判に訴えて明らかにす
ること。第二に、この分界を明確にする関係法の整備を、内閣総理大臣宛に陳情
する署名運動を展開すること。そしてこれはすでに全国約100団体およそ一万名
の参加を得たが、なお継続して努力中である。第三に当該地域に形成されてきた
保全の慣行や学術的評価上の定見から、神奈川県がまず逸脱し、次いで箱根町が
同調した異例の事態について、隣接地に陸続として計画されている開発計画を抑
制するためにも、原因を行政監査請求をもって明らかにすること。
 箱根と美術館とが、本質的に違背するものとはもちろん考えてはない。箱根が
現在高所の建造物を山陰に移転し、送電線の地中埋設を急いでいるなど自然景観
への配慮もまた美術的な要請によるものである。誰からも賞賛される場所に建つ
ことが、箱根における美術館計画の前提ではなかろうか。なお、公聴会における
意見陳述は、計画に賛成する者0名、反対意見36名であった。この結果を神奈川
県がどのように判断されるのか注目したい。

−「法と民主主義」1998年3月号より、連絡会通信編集子の責任により一部
  抄録し、転載させていただきました。