再・「エヴァンゲリオン」考

熊野谿 寛
*「高校生活指導」135号に掲載された投稿原稿の元稿です。
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拝啓、恒川さん。  過日、機関誌134号が届いて目次を見て、最初に恒川さんの「『エヴァンゲリオン』考」 を読ませていただきました。私も世代は少し違いますが、「宇宙戦艦ヤマト」「機動戦士ガン ダム」と見てきて、今年の夏は思いっきり「エヴァンゲリオン」にはまった者ですから、そ れらを思い返しつつ読ませていただきました。ちなみに私の場合は、高校二年の時に「宇宙 戦艦ヤマト」の再放送があり、ここから「宇宙戦艦ヤマト」人気が広がった時期にこの作品 に出会い、大学時代には映画第二作をめぐっての「『宇宙戦艦ヤマト』論争」に口角泡を飛 ばしたという世代になります。そして、『エヴァンゲリオン』は、趣味とするアマチュア無 線の転送ネットワークの仲間を通じてその存在を知り、夏の再放送と映画版最終編とをぶっ 続けでみて、すっかりその世界にはまってしまいました。ですから、機関誌にこうした投稿 が載ることは、それとしては大変にうれしく思いました。 しかし、恒川さんの「エヴァンゲリオン」観には、どうしても違和感を感じる部分があり ます。そこで、この様な文を書くことを思い立ちました。
「宇宙戦艦ヤマト」「機動戦士ガンダム」「新世紀エヴァンゲリオン」〜確かに時代を代表 するアニメであると思います。そして、いずれも(ガンダムについて、私は認識がやや曖昧 なのですが)「再放送」から話題になりブームとなった事が共通しているかと思います。エ ヴァの場合も、もともとのテレビ放映から見ていた者はそう多くなく、むしろ放送終了・再 放送・映画化というあたりから話題となりより広い人々に注目された作品であると思います。 このあたりがアニメで話題になる作品のおもしろい所でもありましょう。 恒川さんが言われるようにこの三作品の設定の違いそのものには、実に時代的な違いが現 れていると思います。 ヤマトの場合で考えると、確かに志願した者が放射能除去装置を求めて地球を救うために イスカンダル星に向かう、という設定になっています。私は当時、ヤマトを高校の文芸部の 仲間にすすめられて見て、仲間たちと未熟ながらも作品論を交わしました。そこで注目され た「転換」は特にヒーロー像、主人公像の問題でした。中でも古代 進という主人公が持つ 人間的で欠陥だらけの姿が注目されました。その「欠陥人間・古代進」がヤマトの航海を通 じて人間として成長していく、そこには愛や人間への信頼が貫かれている、というモチーフ がそれまでの単純な勧善懲悪的なヒーロー像をこえていたのです。 時はあたかも高度経済成長が挫折し、低成長時代への転換期でした。高校の選別体制が確 立して、輪切りが進んでいました。既に高校紛争の余波はなく、「n無主義」が叫ばれ「友 情と連帯への要求」が青年運動・高校生運動で大きな拠り所とされた時代でした。すでに高 校生は学校の序列の中でバラバラになり、「差別と選別の体制」が確立していました。東京 では13回続いてきた全都高校生文化祭典が14回目を開けずに解体し、都立高では制服へ の回帰が新設校から始まっていました。私自身、学校から離れた三多摩での高校生講座や高 校生集会の活動を通じて、はじめて「大学に行かないが高校で勉強をしようと思う人たち」 がいるんだ、という事を知りました。そして、自分の自明としてきた世界と異なる世界が同 じ高校生の中にあるということに衝撃を受けたのが昨日の事のように思い出されます。そし て「なぜこのように違うのか」と本をひも解き、「差別と選別の教育」「高校の多様化」…と いう社会の現実に目を開かれたと思います。ですから、やがて大学一年の時に高生研の「す べての者に完全な後期中等教育を」というスローガンにふれた時、電流に触れたかの様な感 銘をうけたのです。この場合、「すべての者に」と共に特に「完全な」という所に大きな意 味を感じた事は言うまでもありません。 こうした時期の私たちがヤマトに共鳴したのは、ヤマトに期待する人々とヤマトに乗り組 んだ人々が共有する、そしてやがては敵たるデスラーとすら共鳴することができる、「人間 への信頼」と「愛」の力への確信でした。人間は欠陥だらけだけども、その中で共に生きて いくことによってかわっていけるのだ、という人間の可能性への信頼こそがヤマトの主題だ ったと思うのです。だからこそ、映画版第二作でヤマトが「特攻」させられた時に「『宇宙 戦艦ヤマト』論争」がわきおこり、松本氏も新聞紙上で自ら「あの作品は松本の求めたヤマ トの世界ではない」と書かれていたのだと思います。
さて、「ガンダム」についてもふれたいのですが、私の記憶は曖昧です。ただ、再放送で 見た「ガンダム」には「迷う主人公のゆれ」がいっそう強く描かれていました。また、ベル ファストという地名の設定などが、「あ、この作品はアイルランド問題を意識しているのだ ろうか」という連想をさせたのが私の持った印象の大半です。再放送を見た大学を出た頃に は、それだけ考える余裕がなかったのかな、とも思います。もう少しじっくりと見ていれば よかったと最近、後悔している所です。 ところで、この作品から「ニュータイプ」という言葉が生まれてきますが、この言葉は作 品の展開の途中から持ち込まれたものだ、との指摘を何人かの方がしています。しかし、こ の「ニュータイプ」という言葉は一人歩きをし、「言葉にしなくても分かり合え、通じ合え る世界を求める」というような傾向、いいかえれば引きこもりをニュータイプとして考えて 美化するものとして語られる結果を生んだようにも思われます。 さて、そしていよいよ『エヴァ』の話に入りましょう。 しかし、「高校生活指導」読者の大半の方は、「エヴァンゲリオン」をご覧になってはいな いでしょう。機会があれば是非みていただきたい、と私は思いますが、少し話の設定を説明 しておかないと話が通じないかも知れません。なにしろエヴァは謎が多い作品で、テレビ版 を全部みなくては、映画をみてもさっぱりわからないのです。恒川さんの論考も、内容を知 らない方には「なんだこれ」という受け止められかたをしてしまうのではないか、と危惧し ます。 エヴァンゲリオンの設定は、「南極で大爆発があり氷が溶け、多くの人類が失われた」 というセカンド・インパクトから15年後におかれています。そして、使徒と言われる謎の 生命が次々と襲撃をしてくるのに対して、それを予想した国連などが設置したNERVとエ ヴァンゲリオンという人型ロボットが闘う、というのが話の筋では中心になります。 しかし、恒川さんはあまり注目されなかった様ですが、このエヴァンゲリオンでは「14 〜15歳」という年齢に意味が持たされています。セカンドインパクトの時に14〜15歳 であった葛城ミサトたちは「大人」としてNERFの中心を担って現れます。そして、エヴ ァンゲリオンに乗り込むパイロットとして選ばれたのも14歳で、やがて15歳を迎える子 どもたちでした。作戦担当となる葛城ミサトは、青年期に入り込もうとする時期に南極で破 局的なセカンドインパクトを受け、自分が拒否して嫌っていた父親のおかげで奇跡的に生き 残りました。そのため、数年間は、誰とも話すこともできなかった、という経験を持ってい ます。ここから「使徒せん滅」を自分の恨みと「任務」として追及する、NERVでのエヴ ァ担当としてのミサトが形成されてきます。一方、セカンドインパクトの後に生まれ育った パイロットたちは、いずれも母親をなくしており、親に裏切られたという経験を持つ者(レ イの場合は別ですが)となっています。この子どもたちが青年期にはいろうとする時期に、 エヴァンゲリオンと自分のすべての神経をつないで闘うパイロットとされるのです。この事 の意味については、後で少し述べたいと思います。 主人公となる碇シンジという主人公の場合、父親にも捨てられ、「平和だが何もなかった 平穏な生活」を送っていた田舎から、「お前が必要になったから呼んだまでだ」という父親 に呼ばれ、無理矢理にエヴァのパイロットとされてしまいました。普通に見れば、彼は特に 問題もなく、言われたことはなんでもやる「良い子」です。しかし彼は、自分から何かを主 張することなく生きており、他人の目で期待される事を受け入れることだけで自分に関心を 保ってもらおうと生きてきたのです。ですから、本質的には他人とかかわる事を恐れており、 他人と自分がぶつかる事を極度に恐れ、自分とは何かを問うことも恐れて、周囲にあわせる ことで自分を平和に存在させようとしてきたのです。そうした彼は、エヴァに乗ることを「み んなが期待するから」と受け入れざるを得なくなります。 しかも、このエヴァというロボットは話の展開と共に明らかになるのですが、シンジの乗 る初号機の場合は、コアとして実験中の事故でなくなったシンジの母親の魂を宿していまし た。エントリープラグの中に満たされたLCL溶液を通じてエヴァとパイロット、そしてそ の中に宿された母親と結びつき母胎との紐帯を結んで、共に使徒と戦うという関係になるの です。シンジは「何のためにエヴァに乗るのか」と自問します。何度かははっきりと自分の 意志で出て行こうとしたのですが、その度に「立ち直って」エヴァに戻ってくるのです。そ うしたシンジの内面的な葛藤がこの作品の中心である所に大きな作品としての特徴があると 言えましょう。 特にテレビ版の最終二話はアニメとしては特異な展開を示します。アニメーションを「動 画」と言いますが、最終二話では絵はほとんど動きません。新しいパイロットとしてやって きたものの実は最後の使徒であったカオルを、シンジは心を通じ合い「好きだ」と感じなが らも、自らの選択として使徒として殺してしまいます。ここから決定的になったシンジの人 格的な破綻を前に、テレビ版はストーリーとしての展開をやめてしまうのです。そこでは、 シンジの内面の世界だけが自問自答を軸に延々と描かれています。この最終二話こそがエヴ ァンゲリオンが「ロボットアニメ」でなくなった世界を作り出したものだ、と考えてよいで しょう。そして、「この終わりかたでは謎がわからない」「どうなって終わったのか」という 声が殺到して、やがて映画版が作られる事になりましたが、それも今年・春の映画版では完 結にいたらず、夏の完結編でようやく終わったのです。テレビ放映当時からこの作品を見て いた生徒と話していましたら、「まったくなんなんだ、と怒りながら見ていたよ」と言って いました。 これに対して映画での最終二話は、具体的なストーリー的世界の中に作品を戻しました。 サードインパクト、人類補完計画など、一通りのなぞ解きもされます。しかし、やはり中心 がシンジの心の旅への物語である所はかわりません。そして、見ているものには「これで終 わりなの」「なんなのこれは」と言わせる最後のシーンで終わるのです。ちなみにテレビ版 では、アスカが「廃人同然となって終わる」のに対して、映画館でやった春のリメーク版と 夏の最終版では、アスカは復活してシンジと共に生きる存在へとなっていっています。恒川 さんの場合、テレビ版についてを軸に論じておられるようですが、映画版によってより明確 となる「心の世界」の問題に言及したいところです。 さて、恒川さんはエヴァンゲリオンの「心の世界」を「他者視線空間」に苦しめられる自 我の問題としてとらえ、「『他者視線空間』から自由になることができない」事に現代学校と 社会における問題の所在を求めておられます。言い換えれば、「他者視線空間」から開放さ れた世界が必要なのだ、あるいはそれを弱めた空間が必要なのだ、という事をいわれている 様に思われるのです。 しかし、私はこの恒川さんの捉えかたそのものに疑問を感じるのです。 パイロットとしてのシンジは、「僕はなぜエヴァに乗るんだ」と自問しつつ、闘いの場面 で「逃げちゃ行けない、逃げちゃ行けない」と自分に対して叫び続けます。ちょうど不登校 の子どもの中に「学校にいかなくてはいけない」という強迫観念がついてまわるように。 どんなにシンジが「逃げちゃいけない」と叫んでも、他人に関われない(他人を恐れる) 自分の問題は何も解決できません。なぜならば、他者から見られた自分(他者の中にある自 分、自分の中にある他者という事ですが)と重ねあわせるべき、自分自身が持つ自分へのイ メージが存在しないか、ほとんど見えていないからなのです。このあたりは、テレビ版の最 終二話で繰り広げられる「心理劇」的な展開の中でも述べられています。シンジという人間 は一人なのではなく、周囲の人の中にあるシンジと自分自身とがとらえたシンジとのぶつか り合いの中にあるのですが、彼はぶつかり合う自分の内側の自分を持てないがために、ただ 他者からとらえられた自分の姿に翻弄されてしまってきたのです。 ここで注意すべき事としては、シンジにとっては「自分が他人に必要とされている」とい う事も自分への自己愛を育てるものとしてではなく、「必要とされている自分」に自分を押 し込め、自分を抑圧するものとして考えられている事がありましょう。愛された経験をもた ずに、自己愛を持てない場合、「必要とされている」ということを、「愛されている」と誤解し たり、「必要とされている」ことに反した場合には「さらに自分が捨てられるのではないか」 と考えたりすることになるのでしょうか。「エヴァに乗るとみんながほめてくれるんだ」と いうシンジの言葉は、「エヴァに乗らなくては僕はみなから見放されてしまうんだ」という 意識とつながっているのです。 しかし、テレビ版最終二話の中では、シンジはそうした中から抜け出しはじめようとして ます。テレビ版26話の中の最後で、彼は「自分はここにいていいんだ」「自分はボクであ ってよいのだ」「自分のあり方は最終的には自分が決められるのだ」という事を発見し、そ れを登場人物たちが輪になって祝福する中で、テレビ版は終わっています。しかも、それに 至るプロセスで現れるのは、「他者視線空間を弱める」ことではありません。引きこもった シンジが突然に体育館のような所にほうり込まれ、登場人物たちが次々と彼をなじり、彼の あり方を批判し、そして激しいやりとりをしていく中で「結論」を見出していくのです。も っとも、この「体育館みたいな所」は彼の引きこもった心の空間であり、現実の世界ではあ りません。ですから、テレビ版の場合は彼の心の中でのやりとりから現実の世界と人間との 関係をつくりかえる所までには至らずに終わるのですが。 これに対して、映画版最終版でのサードインパクトから後の展開はより鮮明です。すべて の人間が「補完」という名の下に自己を失い溶け合ってしまった中から、シンジは再び人々 が個人という形を持って傷つきあいながらも生きていく事を選択していくのです。もっとも、 彼にとっての現実の世界での人間との関わりの問題は、それで解決したのではありません。 現実の人間と人間のかかわる世界に戻った時に、シンジはラストシーンのように無器用にし か他人にかかわることができません。しかし、彼が自分と他人が溶け合うのではなく、互い が衝突したり誤解したりしながら生きていく事を主体的に選択していった事は間違いありま せん。そして、この作品の終わり方は、ラストシーンが終わって場内が明るくなると、「お い、あれは何だったのだ」と思わず隣の人と議論を交わさずにはいられないようになってい ます。ここにも「おい、お前たち見てるだけでなくて、お互いにぶつかれよ」というメッセ ージがあるのかも知れません。このように「自分の存在への承認」を持てるようになるプロ セスは、エヴァの中では決して「他者視線空間からの解放」によるものとしては描かれてい ないと思われます。 さらに、この点にかかわってエヴァの中で最も重要な意味を持つのは、「ATフィールド」 でしょう。それは最初はバリヤーのようなものとして見えましたが、話の展開と共に実は自 分と他人とを隔てる「自我境界線」である事があきらかになっていきます。シンジやアスカ たちは、自分を閉ざしているがために他人と関係を持てないかのように見られています。し かし実際には、他人から捉えられた自分に対して、自分をいとおしむために必要な防御壁と なる「ATフィールド」をつくる事ができていないのです。「自閉」なのではなくて、開か れすぎているために他人とのかかわりに耐えられないのです。こうした状態から自己愛を持 つことでATフィールドをつくり、自分をあくまでも大切にできるようになってこそ、他人 とかかわれるようになれる、という事がエヴァの一つのテーマだと考える事ができましょう。 こうした事から考えると、「ニュータイプ」という言葉が、「言葉なんかいらなくても分か り合える」というイメージで、他者の視線から「自由」になった自分の存在を許容したとす るならば、エヴァの求めたものはちょうどその対極にあるのだと思われるのです。 生徒会を担当している私が、最近かかわった生徒たちの現実を見ていても、この事の意味 を感じます。誰にでも強く言えるのに、他方では人一倍に他者視線にあまりにも敏感だった Sの場合がそうでした。自分がぐちゃぐちゃにわからなくなって、彼女は不登校的な生活を しばし送りました。やがて、カウンセリングを通じて落ち着きを取り戻して復帰してきた時 に言った事は、「あたしが委員長をやっていてよいのだろうか」という事でした。私は、「あ なたはそのままのあなたで良いんじゃない」、「自分である事を大事にして委員長をすればよ いのだ」と話しました。彼女に限らず委員長であることは、常に他者視線にさらされる事で す。それも、「委員長が集会であんな服装をしていた…」という様なことばかり「指摘」す るのが好きな教員もたくさんいるのですからたまったものではないでしょう。でも、問題は 他者視線を弱めるかどうかという事ではなく、そうした他者視線に侵されない自分のための 「ATフィールド」をつくり、自分の中から生まれてくる様々な情動を自分で受け止めつつ、 自分を愛すべきものとして守る事だったと思うのです。 学園祭準備の過酷な日々が続いた或日、彼女はこんな事を言いました。なにせ直前に、準 備期間の服装規定をめぐって、生活指導部から「挑戦的」とも思える申し入れを受けて、「よ し、あたしはこんなうるさい事を言わせないために、ここは割り切ってしきるし、あれこれ 言われないようにするからね」と言い切って始まった学園祭期間でした。 「昨日、久しぶりに家に帰って寝たら夢をみたよ。夢の中で『ううっ、こんなつらい生活 耐えられん…』と思いっきり、壁をマジックで黒々と塗りはじめたんだ。でも、ふと見ると クマが(私のことですが・・)遠くから腕組みをして見ているんだな。で、その後、近づい て行くと、『S、何か言うことはないか』と言うんだ。『す、すいません。壁をマジックで塗 りました』って言ったら、『うん。そうか』って。そこで目が覚めたんだよねぇ。」 それを聞いて何人かで、「おいおい。俺は他人の夢に出て行くほど暇はないぜ。夢なんて 見ないで寝てたよ」と大笑いしました。でも、私は内心でドキッとしました。他者視線をど うやりすごしつつ自分を保持するのか、彼女にとっては夢として笑いながら話せるようにな った事が、一つの大きな進歩であったのだと思えると共に、「無理させたかなぁ」と心配に もなつたからです。でも、その後、こっそりお歯黒してみたりする彼女を見ていて、「はは あ、自分なりにやってやがるなぁ」と安心して見ていられるようになりました。最近は、廊 下で会うと、違反のベストを着ながらも「ようっ」と声をかけてきます。私はエヴァンゲリ オンの世界を考えていると、Sのこと、そして生徒会でかかわっているたくさんの生徒たち の事が浮かんでは消えていくのです。
さて、恒川さんは、学校を「他者視線空間」を強制するものとしてとらえ、その学校、特 に高校に「全入させる」ことを求めるのでは今日的な状況にはこたえられないと言われます。 しかし、私はこの捉えかたにも大きな疑問を持ちます。 「高校全入」の思想とはいかなるものであったのでしょうか。それはすべての者に高校教 育を強制しようとするものでありません。高校全入、すなわち「社会による高校への希望者 全入の保障」ではなかったでしょうか。それが求めたものは「すべての者が高校に行け」と いうような意味でのものではありません。そしてそこで求めてきた課題は、現実の問題とし てあるのではないでしょうか。生徒数が減ったから、地方自治体の財政が公共事業で破綻し たから、というような「理由」で高校の統廃合が進められています。その最初のやり玉にあ げられているのは、定時制高校です。一方では高校進学を希望してもかなえられない中学生 がおり、そしてさらにたくさんの中学生が「高校に進学できるかどうか」という競争の中に おかれているのです。「希望するすべての者に高校教育を保障する」という原理が確立され ることは、こうした「競争原理」による支配をかえることになるのではないでしょうか。そ もそも、高校に行くことが保障されている中でこそ、「高校に行かない自由」「学校に行かな い自由」が意味を持つのであろうかと思います。 さて、恒川さんは「学校らしさ」という言葉で何を想像されますか。私には、今日の学校 の問題点は学校が学校らしさを失うしかなくなっている事にあると思えるのです。言い換え れば、学校が子どもたちにとっても教師にとっても人間と出会う場ではなくなっている事が 問題なのだと思うのです。その社会的な土台をたどっていくと、依然として高校全入が否定 されている事に大きな問題がある、と捉えることができると思うのです。 いわんや「完全な後期中等教育」という事にいたってはどうでしょうか。社会的な選抜と 振り分けの体制として巨大化した高校入試の仕組み(学区制度を含む)の問題点は、あまり に鮮明になっているのではないでしょうか。 さて、エヴァンゲリオンにおいて考えるべきもう一つの問題は、いま、「14歳」とは何 かという事でしょう。 神戸の小学生殺傷事件の「犯人」として逮捕された少年が14歳であった事は、とても大 きな衝撃でした。ただその衝撃は、「まさか14歳の少年が」という事でのものではなく、 私の場合で言うと、「おいおい、マジかよぅ。これってどこでもありそうな事じゃないか。 でも本当に起きてしまったぜ」というものでした。私の勤務先は中高一貫の私学なのですが、 中3の生徒何人かとも、「あれってどこでもありそうな話だよね」と話しておりました。そ して、私がこの夏にエヴァンゲリオンを見て最初に考えたのは、やはりこの「14歳」とい う事でした。このシンジにとっての14歳と、神戸の少年にとっての14歳とはどう重なり、 どう違うのだろうか…そんな思いでこの作品を見たのです。多分、教育関係者の多くはそう ではなかったでしょうか。 夏休みに入ってすぐ、エヴァンゲリオンを見るために、映画館の順番で5時間ほど待ちま した。その間に、久しぶりにルソーの「エミール」をひも解いてみました。ルソーは「エミ ール」の中で、第二次性徴にはじまる性への衝動を「恐ろしい力」と呼んでいます。そして、 その始まる前の12〜13歳(今ならばもっと前になるのでしょうか)を子どもの持つ力が 相対的に彼らの存在に対して大きな力となる時代として特徴づけ、この時期にける学習の重 要性を指摘しています。逆に言うと、14歳という年齢は常に「性への衝動的な欲求」に自 分の存在そのものが脅かされています。14歳の少年が自分自身の内側からあふれてくる性 の激しい欲求をどうあつかってよいのか分からずに苦しむ、という姿はごく自然なものでは あるのでしょう。自分の肉体に自分でコントロールできない力があふれてくる、という事は 自分の存在そのものへの疑問を持つ一つの背景ではあると思います。ルソーはそうした青年 期にまず出会うべき人間を同性の友に求めています。異性との出会いには、常に性的な欲求 との関係に加えて、そこから巣立つべき母性との一体化の志向が姿を変えてあらわれている と考える事ができるからでしょうか。 エヴァの中にもシンジ、アスカ、そして葛城ミサト、ゲンドウ、リツコなどの「性」の問 題が繰り返し様々な形でとりあげられ、描かれています。特に映画版完結編の中では、シン ジの性の問題が生々しく描かれています。廃人同様となって病室に寝ているアスカにすがっ たシンジが、胸がはだけたのを見て思わず、オナニーをしてしまう、というのがそれです。 こうした肉体の問題は、シンジとアスカがミサトの家で共同生活をするという設定そのもの にも見て取ることができるでしょう。しかし考えてみれば、今日の子ども・青年にとって不 幸な事には、未熟なままに性の衝動だけが肥大化させられる文化・情報などが氾濫していま す。同性の友と関係が深まる事もなく、性の衝動が煽られ、しかも母性から離れきれない人 格を持つ時、性の衝動は近親相姦的な性格を持つこともあるでしょう。また、異性との関係 をこそ求める中に、これらの様々な要素が混在しているという事にもなるのではないでしょ うか。 エヴァンゲリオンに戻って考えると、エヴァの中に宿る「母性」との関係、異性との関係、 これらに共通する肉体の問題という問題が、この作品のもう一つのモチーフとなっているの ではないかと考えられるのです。この問題が、自分を抱きかかえ大切にして生きていくとい うテーマとあわせて、現代の「14歳」としての青年たちをとらえる上で大きな視点になる ではないかと思うのです。これを実践者としてどのようにとらえていったらよいのか、私に はまだ結論らしきものは見えてはいません。むしろ、「性の衝動と結びついたサディズム」 と言われた神戸の小学生殺傷事件について検討する方が、この問題には近づけるのかもしれ ません。 多分、エヴァンゲリオンは普通のアニメとしては「面白い」ストーリーの作品ではないの でしょう。しかし、現代の中で傷つけあいながら苦闘する若者の心の姿をリアルにとらえよ うとした作品として、私は「面白い」と思います。そしてその世界から、私たちは過剰に開 かれてズタズタに引き裂かれた子どもたちの「自我」の姿と、そこに何を共に育てていくこ とが課題なのかを、「自己愛」という問題を中心に考えられると思うのです。少なくとも私 には、「エヴァンゲリオン」はそうした世界を考えさせてくれる作品でした。  最後に、私が最も感銘を受けたエヴァンゲリオン論を紹介しておきます。私の駄文よりも、 はるかに精緻にエヴァの世界を心理学的に描き出しています。カウンセリングの専門家によ るエヴァンゲリオン論として、心理学的考察に関心のある方におすすめします。  阿世賀浩一郎「エヴァンゲリオンの深層心理−自己という迷宮−」(三修社) その外、インターネット上にある阿世賀さんのホームページからたどることのできるペー ジの中にも実に興味深いものがあります。インターネットをご覧になれる方は、ご一読をお すすめします。(こちらです。) 最後にエヴァンゲリオンと現代というテーマについてもe-mail等にて、ご意見をいただ ければ幸いです。(e-mail DQ5H-KMNT@asahi-net.or.jp OR KHC00451@niftyserve.or.jp) 敬具 *本ページに使用した画像は、(株)ガイナックスの「ホームページ等掲載の基準」に基づいて掲載しています。無断転載・再配布を禁じます。