自然と遊ぶということ

 

顧問 熊野谿

 

この三月、久しぶりに春合宿は良い天気に恵まれた。湯桧曽川の新道をマチガ沢出合付近まで進み、樹林帯の安全そうな場所にテントを設営した。雪は、ほどよく締まっていて、ワカンがなくても走り回れる。それでも何かの拍子でズボるので、ワカンをつけて何人かと散歩に出かけた。対岸のデブリ(雪崩の跡)を眺めたり、清水峠につらなる山々を眺め、あるいは一の倉沢の岸壁を見上げてみた。もう十年前だと、雪の一の倉の雪稜を登りたいと思っていたのだが、さすがに最近の生活ではしばらくは無理そうだ。それでも、一の倉はやはり重々しい重量感を感じさせてくれる。週末ごとに山々に抱かれた日々が、ふと昨日のように思い出される。そう言えば、あの頃は中央線や上越線夜行列車の床が毎週末のベッドだった。

夕方近くになって、私から久しぶりに雪洞掘りを始めた。急な雪面を選んで、ブロックを切り出して、中に進む。まず、縦に人が入れる程度まで掘り、続いて横に広げる。途中で部員どもを連れ出したら、あちこちと何カ所かで雪洞堀りが進みだした。割と大きな雪洞ができたので、「今晩泊まるか」と聞くと、皆、遠慮すると言う。なんだ、喰いたりない奴らだな。天井が抜けても、この程度なら生命にかかわることはない。晩飯を食うだけでもよいが、雪洞で一晩すごすのは、なかなか面白い経験だと思ったのだが…。以前、大雪の時に、小さなカマクラを子どものために作ったら、狭いのに意地でも中でロウソクをともして飯を食べていた。比較して、なんだか、こいつら大事なものをどこぞに落として来たのとちゃうか、と残念だった。

テントで泊まるのも確かに面白い。薄い布きれは防音なんてことは絶対にないから、テントでの内緒話は翌日には全員の知るところとなる。雨の音、風の音、そして日の出の輝きなど、テントの中にいても感じ取ることはできる。だが、やっぱり雪洞に泊まったり、ツェルトで雪に半分くらい埋まりながらビバークしたりする経験はもっと違うものがある。まあ、テントでも丸ごと埋まれば また違う経験ではあるのだが。

快適なアウトドア生活、快適なキャンプ場、きれいなトイレ…そんなものも別に悪くはないだろう。ただ、そうした快適さは自然そのものがもたらしてくれるものではない事は頭のどこかにおいておきたい。人間はもともと弱い動物だから文明を作ったというが、その鎧を完全にではないとしてもできるだけ解き放つ事がたまにはあってよい気がする。「喰うものがなくて半ば飢える」なんて経験も、何日かの合宿だったらよいものだ、と私は思う。でも、そう思って考えた夏合宿も、結局は豪華にイモなどが食えるだけ持っていったので、やはり楽しい飢え なんてものは無かったのだが。

そんな具合で、自然への回帰がなかなかはかれない野外活動部ではあるが、とりあえず「いろいろ」やってみようと言うことでやっている。手作りでペットボトルロケットを作って飛ばすのも、「野外活動」には違いあるまい。まだ、「最悪兵器」という程の出来ではないかも知れないが、既成のものに終わらず、何かしら手作りでやってみるのであれば、まあそれでも良いのではないかという事だ。私はと言えば、合宿にも短波帯の無線機を持ち込んで、手作りのアンテナで電信を打ちつつゴソゴソとやっていた。願わくば、何かしら新しいことを常に、自然に対しても、自分にも、仕事にも、社会にも求められる何かを培ってくれれると良いという思いだけは抱きつつ。