ドツボにはまるということ

 

顧問 熊野谿

 

部員たちに「忘れがたい自然体験を書け」、と自分で言っておいて、実はハタと困ってしまった。というのも、実に「忘れがたい」ことばかりあって、どれを選ぶか決めかねてしまうのだ。だいたい、意欲的に一つの山行をすれば、何かしら「忘れがたい」ことがあるものだ。「死にかけた」ことやら「すばらしくて忘れがたい」ことやら、あれこれと。

 

沢登りを入門した頃、丹沢の悪沢に連れて行ってもらった。一つ目の滝をすぎて、二つ目を横から巻く。巻き道の踏み跡があるのだが、ちょっとした岩があった。それを越えようとした時、靴の下についた泥がツルッと滑った。一瞬だった。これで滝の下まで一直線…。でも、小さな灌木にとっさに掴まって止まった。その時の感覚は今も忘れない。一瞬の事ではあったのだが。あのまま落ちていたら、良くて骨折、悪ければここにはいなかったのだろう。一歩一歩を考えて選択することの重さを、何よりも思い起こさせてくれる。

 

もう一つヤバイ体験の代表格は、5月連休の北アルプス白馬岳・主稜を登った時の事だ。ナイフリッジの続く雪稜を登る途中で、ツェルトを張るために整地をしていた時だ。あたりの金属部が放電を始め、顔の鼻の頭とおでこの間で、パチッと火花が散るようになった。「ヤバイですね」と言いつつ、スコップで雪を整地していたら、突然、相棒のスコップに落雷したのだ。その時にはわからなかったが、一瞬、目の前が真っ暗になり、二人ともそこに倒れていた。小さな雷だったから、二人とも生きていたのだが、同じ日に「雷の通り道」として有名な大天井岳では、落雷で死者が記録されていた。その後、雷雲は去り天気は持ち直して、翌朝には白馬山頂の雪庇をくり抜いたトンネルから頂にたった。あの時の恐怖とその後のなんとも言えない充実感は、十数年がすぎても、さっきの事のように思い出すことができる。

 

もちろん、「すばらしい体験」はもっとたくさんあって、とても選ぶことが難しい。雪山の美しさは、何度見ても飽きることがない。特に朝日に染まる姿は、この世のものとも思えない。人のいやがるラッセルも、深さが腰くらいまでならば、私は好きである。ラッセルに汗を流した上で見る雪山は、もっと美しいように感じるのだ。全身で自然を感じる瞬間の一つだからだろうか。また、同じ夏山でも、沢から立てば全く印象が違う。そういえば、カミさんとも一緒に沢に行ってからつき合いだしたのだった。もっともカミさんは、その後は山から離れ、今では、夏に子連れの家族で北アルプスをテントで縦走する程度なのだが。

 

この十数年、山に行くことは私のベースになる部分だった。「山に行く合間に、下界でどう暮らすか」という発想の時期もあったように思う。この所、あまり行かないとは言っても、一番休まるのは、やはりテント場での気楽なひとときのようにも思う。そういえば、今年は8月末に北穂高のテント場で星を眺めなかったから、どうも夏が終わった気がしない。自然の中に深くはいることは、実は自分が生きている事を一番感じさせてくれる。どうせドツボにはまるのであれば、投機的な通貨取引やら、どうでもよいような人間の作った地位にハマるよりは、自分と自然との関わりの中で自分を見つめ直すことの方が、何十倍もよいような気がしてならない。