テーマ 「私と雪山」

顧問 熊野谿

 

心地よい眠りの中で、ふと重圧を感じた。今年の元旦の「朝」(?)のことだ。

ん??重いな。お??身体が動かないぞ。ゲッ!!天上が低いじゃん。ありゃ、これはテントごと雪に埋まったらしい。

ゴソゴソと時計を見ると、まだ夜中の12時半。確か紅白の途中で寝たから、まだ二時間と少ししか寝ていない。しかし、このまま朝まで寝ていると、本当に埋まってテントが潰れるかも知れない。春まで冬眠するわけにもいかないだろう。

「おい、フクちゃん。起きろよ。埋まってしまったぜ」。と、入り口に頭を向けて寝ている連れをたたき起こす。案の定、テントの入り口をあけようとするとそこは雪の壁の中だった。除雪と口で言うのはたやすいのだが、まずスコップを掘り出さねばならない。そして、朝まで6時間、時々休んだものの交代で除雪を続けた。除雪するとテントの中が少しだけ広くなった。そこでガスコンロを点けて朝食をつくり、また必死の思いでテントを掘り出す。ともあれテントを撤収して、ガチガチに凍った寒い中、わかんで腰までの雪の中を泳ぐように、下山をはじめた。7時間も苦闘して街にもどったあとも一月ほど、指の感覚が戻らず、多少気をもむはめになった。

 

なかなか信じてもらえないのだが、天気の良い雪山は天国のように暖かい。暑いと言った方がよいかもしれない。山頂を往復して戻ったテントの横で、昼寝をしたり、ひなたぼっこをしながら宴会をしていると実に心地よい。これぞ、太陽の恵みを感じるときだ。でも、昨日10分で歩いた所が、一晩で新雪が降ると2時間かかっても進めなかったりする。腰下までの雪ならばわかんでラッセルして歩くのも楽しいのだが、へそを越えて胸とか首までの雪となると、「もう帰った方がいいかしら」という事にもなってくる。もちろん、そうして山頂まで行けなくて戻っても、「敗退」ではあるが「敗北」ではない。「生きて帰ること」が何よりも第一でそれが果たせないなら「敗北」と呼びうるのだろうが。

 

そんな雪山が好きで年末年始と春休み、そして五月連休に通いだしてかれこれ12年ほどになる。念願の冬の槍に立ったのはもう何年まえだろうか。この数年は、爺ケ岳、五竜岳など、冬は後立山の山々にはいる事が多い。単独の事も、ワンゲルのOBたちと出かける事もある。雪山を楽しむこと自体が目的なので、さほど欲張ったりはしない。山スキーで山を歩き回るのも楽しい。わかんに汗するのも生きていることがこれ以上ないほどに充実する。下界に降りて温泉にでも入れば天国だ。たくさんで出かける山ももちろん楽しい。

「雪山なんて危ないじゃん。なんで登るの」という人には、「では君は何のために生きているの」と問うことにしている。人間は自分の造りだした金やら地位やら権力に囚われて生きているが、そんなもの所詮は人の作り出したものじゃないか。好きだから雪山に登る。雪山に登ることを通じて自分であることを取り戻す。あるいはテントで飲む雪割りの酒が忘れられないから登るのかもしれない。

秋の風が冷たくなると、また冬が来るのが待ち遠しい時期になってきた。