1997年 神奈川高生研 春ゼミ 基調報告
「いま、子どもたちが生きる『学校』の再生を求めて」

                                                              1997年3月29日
                                                               神奈川高生研
                                                               理論委員会
                                                            (湘南サークル)


1.現代の子どもと高校生をどうとらえるか

(1)価値基準文化の崩壊

 いま、子どもたちの文化状況が変化する中で、今までの価値観が通用しない現実が広
がっていないでしょうか。例えば、次のような事が話題になりませんか。

「女子生徒がトイレの前で、廊下に車座になってスカートのまま座り込んでいたよ。」 「そういえば、うちの学校でも土足の廊下にも何も敷かないで座り込んでいたので、汚い んじゃない、と声をかけたら気にならない様子だった」「女子が男子の前で平気で着替え だして周りが驚くという事もしばしばあるよ」「修学旅行で女子が男子の部屋に夜中に 行って見つかり怒られたら、少し前は『いけない事をしたのがばれた。でも私たちの気持 ちも聞いてよ』という反応だった。でも、今では何がいけないの、と逆にくってかかられ るよ」
 これだけではありません。ルーズソックス、セーターの腰巻き、「腰パン」など、今ま では「格好が悪い」「だらしがない」「ダサイ」と思われたような「だらしなファッショ ン」がとても流行しています。さらに、「女子中学生の約4割がテレクラを経験してい た」「県内で高校生が大麻所持により補導された」「覚醒剤や薬物すら出回っている」と いう情報が示すように、子どもたちと「風俗」的な世界との境が薄れていないでしょうか。  また、県内では高校生がスニーカーを他の学校に盗みに入って捕まる事件が起きました。 それ以外にも多くの学校で盗難事件が増え、その当事者には、スリルよりも、「ただ欲し かったから盗った」というような衝動的な動機が見られる場合が増えています。  今の高校生はバブル経済のまっただ中で幼児期を送りました。日本中がブランド志向に 踊らされた中で育ってきた彼らは、バブルが崩壊した今もその「魂」を持ち続けているの でしょうか。ある中学生は「現代の流行についていかねばならない。僕もがんばっている つもりだが、友達は自分よりももっと先を見ているような気がする」とその心情を書いて います。現代の消費文化そのものが子ども・青年を競争的に規定し、持たない者に対して の優越感を持つことでお互いを格付けたり、分断するものとなっているのです。もちろん、 今日の子どもたちも青年として明日を願い、自立して生きていこうとしています。しかし、 一方では決められた体制と秩序のもとに押し込もうとする力が彼らを押さえ込み、他方で は商品化されたこうした「文化」への消費願望が彼らの自立への要求、他人とは違った自 分として何かを発信したいという願いをからめとっていきます。  昨年から大きく話題になってきた「援助交際」の中にも、こうした一つの姿を見ること ができるでしょう。「東京での調査では、援助交際経験が女子高校生の4%にのぼった」 と報道され、その動機として、表面的には「お金」や「物」をその理由としてあげられて います。しかし、現実に援助交際経験者へのカウンセリングなどに取り組んできた関係者 からは、「自分がどう生きたいかわかっていない」「(援助交際をした)ある子が親に 『生きるってこんなに楽しいものなんだ、と一回でも教えてくれたことがあるか』と言っ た言葉がすごく重い」(朝日新聞1997/1/25)と、「生き方の問題」が基本にあることが、指 摘されています。ですから、買春をする大人の責任問題とは別に、高校生に対しては違っ た関わりが求められます。  「高校生たちと同じ場所に立ってみたとき、(彼らがはじめて自分を)話してみようと なれる」という指摘は、この問題に限らず、彼らの中にある可能的なものをいかして自立 への道筋をさぐる上で、示唆にとんだ指摘でしょう。 (2)疲れている子どもたちと教師たち  子どもたちの心と体の健康の問題も深刻な物となっています。例えば、次のような事は みなさんの周りでは、ありませんか。
「ある時、中学生の授業を見てみたら、合同クラスの授業なのに生徒は数名しかいない。 先生だけが大きなかけ声をかけていた。全員見学だったらどうなるんだろうか」「衛生室 (保健室)にすぐに行きたがるので、許可用紙を持たないと行けない制度にした。でも、 しばらくしたらやっぱりすぐに行くようになった」「朝から、疲れた、肩が凝る、腹が痛 い・・と言う。運動部で鍛えていると思っていた生徒もだ」・・・
 子ども・青年の体がおかしいということが言われだしてから既に20年以上が経過して います。もちろん、体育の授業がこのようになるのには、授業や評価のあり方にも問題が あるのかも知れません。しかし、それにしても「勉強はともかく体を動かすのは好きだ」 という子どもたちはどこにいったのでしょうか。精神的なストレスの問題を抜きには、こ うした状況はつかめないと思われます。  その大きな要因として、子ども・青年の人間関係におけるストレスが指摘できます。お 互いに対して常に気づかわなくてはならない関係、本音などは言わずに無理にでもあわせ てみんなと同じでなければならない関係、お互いに対して意見することができず、しかも 一緒にいなければならない関係。クラスの中にいてもまったく仲間として意識できない。 一つの「グループ」にあるように見えても、お互いに「ぶつかりあう」ことができない関 係など、これらはみな精神的なストレスの原因となります。  また、今日の地域・家庭では、お互いの関係が崩れてきている事にも大きな要因が指摘 できます。過労死が蔓延する日本社会の「会社人間」たちには、家はあっても家庭があり ません。また長期化する不況と貧困の広がりの中では、生活に追われ家庭生活そのものが 成り立たない人々も増えています。さらには、順調なように見えても、マイホーム型の消 費文化にどっぷりとつかっただけの消費型の「家庭生活」など、これらに共通な要素は、 家族においても人と人の関係が喪失されている事でしょう。  今の子ども・高校生が実に忙しい生活を送っている事も無視できません。彼らの 忙しさは、「すべてが決められている」ということに最大の特徴があります。県立の進学 校と言われる高校では、「中学の時の模範生だった生徒たちは、一年の時は様子をみてい る。しかし、二年の時は思いっきりはめをはずして、高校三年になるとまた予備校に行っ て戦列に復帰する」と言います。彼らが、わずかな自分たちの「決められていない時間」 を、必死で持とうとする姿を、ここに見ることができます。他方には、高校の間だけは ルーズソックスをはき、「卒業までは」と遊びに夢中になる高校生たちもいます。  体育祭・文化祭の準備に熱中した後で、「あー、疲れた。忙しかった。でも楽しかっ た」と彼らは言います。こうした忙しさには、自らが仲間たちと何かを作り出した活動と しての充実感があります。その中では彼らは他者とかかわり、「他者に対して意見する」 「他者から批判される」という関係にも踏み込んで行けます。彼らの日常はあまりに「す べてが決められている」のです。そこから逆に、決められていないと不安を感じるという ことにもなります。  こうした「決められた中を生きる」という現実は、子どもや高校生だけではなく、教員 の中にもないでしょうか。現場で次のような声が聞かれます。「LHRはやることを決め てくれないと困る」「クラスで話すよりも学年集会で話してもらったがよい」「学園祭で クラス参加を何にするのかと言われても困るから、参加しなくてもよい」「生徒の問題に 責任が持てないから、学校で決めてほしい」「できない生徒は留年させても仕方がない」 など。決められたことでしか生徒に対応できないのでは、生徒とかかわることができなく なってしまうのではないでしょうか。                 (3)「拒否」される学校  しかし、「疲れた」とか「肩が凝る」というストレスは、まだ、「学校生活に参加して いる中での『症状』」です。これに対して、「行事の日には腹痛になる」「学校に行くと 体が悪いのではないのだが頭痛がする」という生徒が無視できない数に増えています。こ の生徒たちの現実は、「心と体がもはや学校や他者を拒否している」サインを発している のです。  ある小学校の先生が、小学校五年生で不登校的な状態になった子どもと話しをしたら、 「たくさんの人がいるのが嫌だ。自分の部屋で一人でいるのが一番だ」と言ったそうです。 元々、冷房もなければ階段だけでエレベーターもない、小さな部屋にたくさんの子どもが 詰め込まれて、チョークの粉が舞う学校・教室という空間そのものが、彼らにとっては大 きなストレスを伴う場所なのかも知れません。さらに人間関係のストレスも重なると学校 への「拒否」によって自分を守らざるをえなくなるのです。学校がすばらしいものである、 という考え方はもはや子どもの中には生きてはいません。  この秋、各地で「自殺予告」による行事の中止や延期などが相次ぎました。その多くは 「試験を中止しろと何度も電話などが届いたが、マスコミで報道されると収まってしまっ た(毎日新聞1996/11/9)」という「いやがらせ」か「いたずら」なのかも知れません。し かし、「中止を求める」対象とされたのが、生徒から見て「嫌だなぁ」と言われる「中間 試験」や「競歩大会」だけでなく、相当数の「文化祭」や「体育祭」にも及んでいること をどう見たらよいのでしょうか。ここに「行事は強く人間関係にかかわるから嫌だ」とい う子どもたちの存在をみてとることが出来るでしょう。特に事件の中には、長期にわたる いじめや嘲笑の対象とされた子どもたちが、やむにやまれず手紙を出した、という例もあ りました。福岡県では、体育祭が中止になった後に、「我が子から打ち明けられた。昨年 の体育祭で出場した種目の順位を下げたことからいじめられている、と。」とのワープロ うち・匿名での親からの手紙が届いたのです。(毎日新聞1996/11/16)  核家族化が進んだ中で、今の子どもの多くは、親しんできた人が亡くなって悲しんだと いう「死の経験」が欠落しています。そして、自分が生きているという実感が薄れている 中で、死ぬことをゲームの世界でのことのようにとらえる感覚が広がっています。しかも、 いじめによる自殺が大変な話題となった中で、「大人は自殺をおそれている」「学校も自 殺をおそれている」ことを知っています。この「自殺予告」はそうした文化的背景と今日 の子ども・学校の現実が生み出したものととらえられるのではないでしょうか。今の学校 では、こうした事件の多くは「部外秘」として闇から闇に葬り去られてしまいます。しか し、葬り去っても解決されていない問題が残る事を、私たちは忘れてはなりません。  もちろん、「自殺予告によって行事を中止させる」ということは、違った形での暴力的 行動です。学校で「自分が否定される」現実に対して、「自殺予告」という反社会的方法 によって対抗し、自己を守ろうとしているのです。しかし、こうした子どもたちの中にあ る暴力的なものへの願望や衝動の問題性を見据えつつも、私たちは「自殺予告」という歪 んだ形であっても、子どもたちが「自分でありたい」と異議申し立てする中にある「可能 性」に注目する必要があります。決して、こうした子どもたちや高校生の現実には、出口 がないのではありません。  高校で不登校となり留年した一人の高校生の事例がこの事をはっきりと示しています。 彼は、何も語らず、いっさいだまっていました。しかしある時、担任が彼の母親と真剣に 議論し合っているのを聞き、「担任が母親にひどいことを言っている」のだと思いこんで しまいました。彼には父親はなく、母親をいとおしく思う気持ちが強くありました。突 然、彼が担任に電話で怒鳴り込んできたのは、その日の夜でした。どんなに働きかけても 口を開かなかった彼が、激しく担任に抗議し、激しく主張したのです。これを契機に、彼 は変わり始めたといいます。自分を主張できない子どもたちや高校生がたくさんいます。 自分をまっとうに主張できるようにしていくことができ、自分自身が拓かれた時に、初め て彼らは自分の姿を見いだし、自立への階段を上りだすのではないでしょうか。 (4)高校生の社会への『参加』と気になる「男の子」の存在  この数年間、HIV訴訟への支援や核実験反対、様々なNGO活動に参加する高校生の 輪が広がっています。それらの中にある高校生は、何ら臆することなく行動し、その体験 を通じて人間にであい、その出会いから世界を考え、自らの生きる道を探っています。そ うした活動に参加した生徒たちの多くは、活動の中で出会った「人間」に感動し、次の行 動へと進んでいきます。デモや座り込みもそうした中では飛躍のない自然な行動であり、 行動を通じて自分と社会の関わり、社会のあり方などを探りだします。  子ども・青年の間に広がる「ポケベル」での会話、携帯電話、インターネットでの情報 収集や電子メール・情報発信などに夢中になる高校生の中にも、孤立した子ども・青年が 互いの関係性を求め、何かを発信し続けることで人と自分とのつながりを確かめようとす る姿をみてとることが出来ます。確かにそれらは、あくまでも「間接的」または「擬似 的」な人間関係にすぎないかも知れません。しかし、新しいツールに群がる子ども・青年 の中に、あるいは大人の中にも、縛られない自由な関係を求める要求が現れているのでは ないでしょうか。
今年、夏休みに神戸の仮設住宅で活動するNGOが行ったセミナーに参加した高校二年 生の場合もそうでした。神戸に行く以前、人間関係をつくるのが苦手な彼は、本をながめ る程度のことしかできませんでした。しかし、神戸でたくさんのボランティアや被災者に 出会い、自らそうした人たちとの関係を求めて行動し始めました。電子メールでやりとり をし、学園祭ではキャラバンのメンバーに協力をしてもらって「震災がれき展」・パネル 展示・講演会などに取り組みました。終始、担当の教師は参考意見を言うだけでしたが、 現地との折衝、キャラバンのメンバーが泊まる宿舎の手配などのいっさいを、彼らは自分 の手ですすめていったのです。人間との直接な関係が苦手な彼には、こうしたツールなし にはできない事だったでしょう。
 しかし、こうした中にあって、次のような問題はみなさんのまわりではないでしょうか。
 「女子は消費文化に取り込まれて風俗化した文化にもかかわる危険性があると言うけ ど、男子はどうなのかねぇ」「いやぁ、男子の方が最近は弱いんじゃない」「そうそう、 男子の方が親からは将来はどうなってほしいとか、老後のめんどうを見てもらおうとか、 縛られる要求が多いのではない。そうした親に反抗する事も出来ず、親の求めるままを受 け入れ、与えられた中で無難に生活している様だけど、自分では何もできない・・そんな 生徒がどのクラスにも必ずいるんじゃない」「女子の方が、女性の社会的解放が進んだ中 で、実行委員会でも何でも元気だけど、男子はなんだか縛られていて自由になれず、自立 への困難を抱えているのではない」
 いくつもの高校で「学校行事や生徒会活動、社会的な活動などで、女子が活発だ。しか し、男子の方が重いのではないか」との声が聞かれます。今の社会の中では、男子の方が より「すべて決められた生き方」を求められる面が強いのではないでしょうか。こうした 「行動的でない。無気力だが、かといって悪さをするのでもない」という男子にとって自 立への回路はどのように拓かれるのでしょうか。  全てが決められている現実の中で、子どもたちが自らを主張し、自らの手で豊かな関係 性を育て、現実をつくりかえる経験をすることができ、自立していく足場となるような、 子どもにとって必要な「学校」が、いま、求められています。 2.「教育改革」の動向をどう考えるか (1)第15期中教審の位置  1996年7月、中央教育審議会は「第一次答申」を発表しました。その内容は、今日の学 校と子ども・青年、さらには教職員にとって大きな影響を与えることが予想されます。  戦後教育改革をすすめた教育刷新委員会を解体して設置された中教審は、これまでにも 様々な「教育改革」を提示してきました。その前半においては、経済成長への「夢」に よって、「改革」の国民的な「正当性」が確保されました。60年代の人的能力開発政策、 高校多様化政策など、経済審議会などと呼応した「教育政策」は、今日では考えられない ほどあけすけに「経済発展のための教育」を語っています。しかし、高度成長が挫折し、 さらには旧来の能力主義による教育の現代化への国民的な批判が広がると、1970年代後半 からの教育改革と政策は、「人間教育」を標榜するものとなりました。  1980年代に入ってすすめられた「新自由主義」・「新保守主義」による行財政改革は、 あらゆる分野での「民間活力」の導入と、そのための規制緩和という方向を確立しました。 それはやがて、臨時教育審議会による「教育改革」構想となりました。さらに臨教審によ る中断をへて再開された中教審は、それ以前の中教審とは大きく異なる特徴を持つにいた りました。それは、(1)「平等な教育」「国民に共通する教育」など、これまでの学校制度 の基本に関わる制度や理念をはっきりと批判し、新しい理念への転換を求める (2)学校と 行政の現実に対しては、時として極度に攻撃的とも思われる主張を展開する (3)民間の活 力導入を基本的な方向として考え、公的部門の縮小をはっきりとめざす などです。  例えば、第14期中教審は、「有名高校からの大学入学者数の制限」など「競争での機 会の平等」という近代日本教育の理念にかかわる提起を行いました。さらに、皆が高校・ 大学に行くという単一的な価値観を捨てるように国民に訴えかけました。この「分相応で あればよい」という考え方は、その後、文部省により「新学力観」として現場に持ち込ま れてきました。  しかし、新学力観をすすめる新学習指導要領は、多くの地方議会で「白紙撤回「見直 し」を求められました。多くの国民が「多様な人生選択」の名による早期選別を拒否して いるのです。一方で、昨年来の「いじめを苦にした自殺」の連鎖的な発生や、不登校の広 がりなどは、国民的な「学校と教育への不満」を生み出しています。こうした中で第15 期中教審は「審議」を始めたのです。 (2)第15期中教審と「生きる力」  さて、第15期中教審第一次答申で、まず注目されたのは「生きる力」を大きくとりあ げたことです。ここには、現在の教育と子どもたちの現実への国民的な危機感に応えると いう形をとりたい、という意図を読みとれます。また、この中教審が「いじめ撲滅」路線 を掲げたことには注意が必要です。この裏には、「改正少年法」体制とも連動して、地域 の保守勢力・警察権力による子どもと家庭への地域支配を確立するねらいを指摘すること ができましょう。さらに、この問題は「いじめを解決できない学校・教員はダメだ」とい う事から教員統制をすすめ、今まで学校が持ってきたある程度の独自性をも社会的な攻撃 によって破壊する側面をも持っているのではないでしょうか。  また、答申の背景として、「異質な発想」を許容しない社会といじめによってエリート 的人材がつぶされ、大学に入学しても自ら問題を発見して学習することができない「エ リート大学生」たちの群れしかいない〜これでは多国籍企業化している「国際国家日本」 のエリートとなり得ないのではないか、という危機感があると思われます。ここから旧制 中学校の再来ともとれる、「公立での中高一貫教育と大学への入学年齢の弾力化」という、 第二次答申へ向けての方針が出されているのでしょう。  ところで、第15期中教審が看板とする学校の「スリム化」ですが、すでに高校の実態 においては「生徒にとっての『スリム化』」が進展しています。進学校では、今日すでに 「高校は卒業証書をもらう所」となり、予備校とのダブルスクールによる教育の市場化は 広がっています。義務制の小中学校においても塾とのダブルスクールが普通のものとなっ ています。小学校・英語の導入などもあわせて、中教審はこうした市場化をさらに広げよ うとしている、ととらえることができます。  答申は教育内容について、「言語」「論理的思考と処理能力」「民族のアイデンティ ティ」だけを学校教育の課題として考えています。このうち「論理的思考と処理能力」と されるものでは、「問題解決力」「情報処理力」等を特に重んじ、「これまでの既成の学 問体系は陳腐化が進んだ」ので「それにとらわれないで教える」ものとされています。こ のために、中教審では「教育課程の厳選」をすすめ、これらの内容についてはすべての子 どもに「徹底」する必要があるとしています。この「徹底」は新学力観の否定とも言われ ました。しかし、「小さな政府」として教育に金をかけないことが全ての改革の前提であ ること、中教審が第14期に引き続き「多元的な人生選択」を求めていること、等とあわ せて考えると、これらは習得度によって早期から徹底的に選別することを意味するのでは ないでしょうか。「関心・意欲・態度」を重視するとした新学力観は、中教審によって否 定されているのではなく、実際には土台とされているのです。そして、学校はあくまでも 個人の力の程度に応じて学ぶ場となり、それ以外の教育サービスは「自由教室」において 自費で受けることを原則としていこうというのです。  さらに、中教審の言う「心の教育」には、大きな問題点が含まれてます。その育てると している「心」は「不易なもの」、すなわち「連綿と受け継がれてきた」文化、要は「民 族の生命」を教える事を中核とするものです。そこでは、人権までもが心情主義的、情念 的にとらえられます。与えられた社会・体制と関係を受け入れ、順応する事を基本として、 一つの「心」への強制的同質化を求めるのです。しかも、こうした「心」はあくまでも合 理的な思考とは別のものである、とされています。こうした論理の次にくるものは、日の 丸・君が代などについても「これは理屈ではない。こうした心を持てないのは、日本人の 心を失っているからだ」とする「非国民」狩りにではないでしょうか。  しかし中教審のめざす未来社会像は、明確なものではありません。「大競争時代」の中 での不安な時代としてのこれからを語り、「不安定な時代」を生きる力を求めるだけです。 不況の長期化と「終身雇用」の崩壊の中で、国民の生活がかつてなく階層化していく事は 間違いありません。これまで働くことを支えてきた価値観も崩壊してきています。トッ プ・エリート以外には高度な能力を求めず、しかしあくまでも「それぞれの階層なり」に 競争に参加する事を求める現実が、すでに生まれてきています。こうした変化は、これま での勤労に対する価値観を支えに生きてきた親の世代と、子どもたちとの間での関係をく ずすものとなるでしょう。これから子どもたちがいかなる生活現実の中を生きるのか、リ アルにとらえて行くことが求められましょう。   (3)県立高校入試制度改変と「学校改革」  神奈川県公立高校の入試制度は、97年入試から全面的に新しい制度に移行しました。  93年度末に県が各高校に対して「魅力ある特色」について作成と提出を求めた時、こ れが今日のように入試での「選抜の視点」にさせられると考えた教員は、誰もいなかった でしょう。県教委自身も「そうしたことはない」と明言していたのです。ですからその時 には、今までの教育活動をふりかえって、その中から「国際交流」だとか「ボランティ ア」だとかを特徴としてあげたのです。ところが、95年度になって、県教委は、これが 入試にリンクしたものとなると言いだしたのです。各校共にとまどい、今までの入試選抜 とできるだけ違わない対応を考えようとしてきたようです。しかし、県は「情報公開に耐 えうる内容としろ」として、明確に特色に基づく基準を設けることを、各高校に対して求 めてきたのです。  県のすすめる高校入試改革については、高教組からは「適格者主義である。ハードルを 低くして全員をできるだけ入学させろ」との批判がこれまでにもされています。また、学 校の「特色づくり」についても、まったく予算上の裏付けがないことも問題です。そして 今回の「入試改革」そのものが、高校間格差を是正するものとはならないことは明らかで す。特に希望変更においては学区の制限がない事から、かえって格差が拡大し、固定化す るとも思われます。  こうした現実の中で、専門学科をのぞくトップ校以外の高校では、普通科から「総合学 科」への再編の動きが広がっています。そして、やがて総合学科が広がった後に、再び高 校入試制度において「推薦制度」を大幅に取り入れる「改革」が進められるのではないか とも考えられます。そうした形で推薦入試が広がるならば、中学生の推薦をめぐる競争と それによる人間関係の分断はいっそう厳しくなることが予想されます。また、全体として の学校間の競争はいっそう激化し、その次には生徒の集まらない高校から統廃合を進めて いく可能性があります。既に神奈川県は97年度から二年間で「今後の県立高校のあり方 を検討する」事業に取りかかる方針を公表し、その中では「統廃合も検討する」と伝えら れています。(1997/2/9神奈川新聞)  公立中学校の側では、受験校の調整と指定を従来通りにすすめたいと考えているようで す。しかし、必ず学校の「指導」に従わず、独自の判断をもって「学校選択の自由」を主 張し行動する生徒・保護者がでてきます。その時、中学校の進路指導体制そのものが、大 きく社会的な批判にさらされて揺らぐことになっていく可能性があります。  また、この入試制度改革は入試業務のセンター化、学校自治の解体をすすめる面も持っ ています。各校で採点された資料がオンラインで集約され、それによってまた逆に各校の 判定が行われる〜ここには事務的な集権化が考えられます。これを通じて、入試および教 務事務のセンター化・集権化が進み、やがては学校運営そのものの集権化をすすめる土台 となることが懸念されます。  橋本内閣は、五大改革に「教育改革」を加えた「六大改革」を97年度の目玉として打 ち出しました。これを受け、第15期中教審と一時並行して、第16期中教審が発足しよ うとしています。しかし、その基本は第15期を受け継ぎ、「国際競争力ある日本」のた めの教育改革を急速にすすめようとするものとなるでしょう。こうした中で、学校の解 体・再編への動きはいっそう急速に進むことが予想されます。しかし、それは自立を求め て模索する子ども・青年の求める教育とは異なった質のものとならざるを得ないでしょう。 3.子どもたちが生きる『学校』を求めて  こうした「教育改革」が、上からとあわせて、教育産業や地域の「下から」も進められ つつある現実の中で、今日、子ども・青年と共に生きる私たちが求めるものは、「子ども たちが生きる『学校』」です。それは、どこか遠くにあるのではありません。神奈川の各 地で取り組まれている実践の中に、既にそれらにつながる要素があるのです。これらの実 践からは、次のような視点で学校をとらえ返し、つくりかえていく展望が浮かび上がって きています。 (1)学びのある『学校』の復権  学校における学びが衰弱しています。進学校では「高校三年生で日本史の授業をしてい たら、予備校のテキストで日本史の内職をしている生徒がいた。学校での授業は単位のた めのもので受験には役立つものではない、と信じ込んでいる。」という現実があります。 何か「受験勉強」という商品を予備校で買い物するかのような感覚がそこにはあります。 また、困難校では授業の成立そのものが広範に崩れ、そのことだけに捕らわれていると学 校と授業の全体が「治安対策」的なものになってしまいがちであるという現実があります。  こうした中で、生徒と共に「学び」のある授業をどう作り出すのか、大きな課題です。 その際、大切になってくる事は、「生徒の側からの世界を学びの中にどうつくるのか」と いう事です。カリキュラム全体を生徒たちの学びの論理からとらえなおして組み替える事 は、容易にはできません。あるいは「進学のためにも進度はどうしても確保しなければな らない」という学校もあるでしょう。しかし、そうした中でも、「生徒たちがつくりだす 世界」を求めることはできないでしょうか。
 町井実践(川崎サークル)では、生徒たちがグループをつくり、自らの関心を出し合いなが ら「環境問題」の学習に取り組んでいます。ここでは、生徒たちがグループを組み、その 対象を自らが設定しながら考えていく、「生徒の側からの学び」が意識的に追求されてい ます。また、ここで生徒たちが多ような形で地域の自然や現実、そこに生きる人々に出会 う空間が求められている事にも注目する必要があります。
 しかし、こうした授業分野における実践研究と報告は、今日、求められている現実に照 らして考えると、必ずしも十分ではありません。学校における学びの問題を、より日常の 授業そのものをどのようにつくりかえるか、という問題として研究し、実践をすすめ、議 論をすすめることが求められましょう。その際、授業のすべてを一気に作り変えることは できなくても、授業の中の一部でも、生徒の側からの関心で展開される「余地」をつくる 事はできないでしょうか。例えば、「燃焼の実験で、生徒が燃焼させてみたいものをとり あげた」というような事です。決められたことを決められたように聞くだけという授業か ら、一歩、生徒自身の関心から考える授業へと転換をはかる場面を作り出すことはもっと できるのではないでしょうか。 (2)学校に青年の交わりのある空間を  学校に来れない子どもたちが増え、学校に来ていてもクラブ活動、行事などになかなか 生徒が参加しなくなっている現実が、かなり以前から広がっています。小学校からある私 学では、「学校に行かないと友達に会えないので、不登校になりそうな子どもなのに、来 ている」という例がしばしば見られます。  しかし、そうした場合であったとしても、今日の学校に青年どうしがつくる人格的な交 わりの空間がどれだけあるのか、ということは共通の課題として存在しています。学校に 子ども・青年が人間として交わる場を回復していくことが、今日の教育実践の上での大き な課題ではないでしょうか。
 「困難校」での二度目の担任に挑んだ小林実践(横浜サークル、7月・1月)に登場す る生徒たちは、「一割が中学段階で不登校」「クラスの約半数近くが学校に毎日通うこと に大きな困難を抱え」ています。新高一を迎える学年会は、生徒たちの困難な状況を予想 し、生徒たちに近いところに「学年室」をもうけ、昼には「生徒と話したり、将棋をした り」と、生徒に寄り添う関係をつくりました。実践者は、一学期に困難をかかえる生徒の ひとりひとりを知るべく、家庭訪問や個別面談で関係をつくっていきますが、退学する生 徒、進級できない生徒が続出してしまいます。夏休みがあけた9月、実践者はクラスに 「お茶会」を呼びかけます。そこを土台として学園祭での企画が取り組まれはじめます。 学校に来ることに困難をかかえる生徒たちが現実に多くを抱える中で、「お茶会」を通じ て学校の中に親しい関係、生徒が交わりながらクラスに働きかけていく土台がつくられて います。小林実践では、あくまでも生徒たち一人一人の困難さを見据え、子どもたちに決 して無理な何かを求めずに、しかし、希望を持って人生を歩んでいくことが、繰り返して 語られています。どれだけが進級できるかわからないとしても、生徒たちが「このクラス で一年を確かに送った」と言える場を、私たちはまずつくりだして行くべきでしょう。
 高校一年の学年クラス委員会に取り組んだ矢後実践(湘南サークル・関東ブロック分科 会)は、学年クラス委員会を軸に「性や人間の尊厳についての学習活動」と「学年の日 (一泊行事)」に取り組みました。実践者は、中高一貫の中学三年段階で十分に学年の リーダーを育てられなかったのではないか、という思いを持ち、一年間の中で「学年の全 体で何かにとりくんだ、やり遂げた」という達成感のもてる取り組みをしたい、と意気込 みました。学校としての「特別教育活動のカリキュラム」にそった性問題の学習に対し て、クラス委員たちは五役を中心に「なんとか成功させたい」と取り組みます。そして、 何度かの学習への取り組みを通じて「学年に知らない奴が多すぎる」と言い出した彼ら に、「学年の日」の取り組みが提起されます。秋の学年総会から学年の日へと、彼らが中 心となった取り組みが進められていきます。生徒たちに学年の課題を考えさせ、学年全体 で何かに取り組んで達成したと言える経験を、というねらいは、学年委員長(生徒)が前 に立つと学年集団が集中する、という「学年の日」の経験を作り出したのです。  しかしこの実践では、「高校一年生に何を課題として求めるか」「リーダーに何を課題 として提起し、自分の集団とかかわらせるのか」「学年のリーダー集団をどこに求めるの か」等の重要ないくつかの点で、実践者自身にねらいが持ちきれなかったことが指摘でき ます。そのため、行事としての学年の日には取り組んだものの、学年生徒集団の中にある 様々な問題に取り組むリーダー集団が見えてこない、という結果に陥ってしまいました。 豊かな活動の経験を生徒たちと作り出すことと、そのリーダーに集団全体を見つめ、問題 を分析して取り組む課題を指導していく事とが、並行して進んでこそ、行事が生徒たちの 関係性を豊かな物としていくのではないでしょうか。
 正木実践(湘南サークル)では、クラブ(水泳部)がこうした実践の舞台として登場し ます。正木先生は、「子どもたち自身が主体的に練習に取り組めるクラブ」づくりをしよ うと考え、これまで五年間の指導をつみあげてきました。練習しないで、適当に集まるメ ンバーだけで遊んでいた水泳部に、学年ごとの責任者がつくられ、お互いの関わりが求め られるようになっていきます。部の中心になった部長には、「勝つこと」よりも、部のみ んなが部の活動に参加し、ひとりひとりがそれぞれの役割を担いながら関わり合うことが 求められています。こうしたクラブ観は、実践者自身が大学時代に水泳部のあり方を同級 生たちとのつくりかえた経験に出発しています。生徒たちは、水泳部の中で、タイムの速 い者も遅い者も、それぞれの存在を認め合いながら、お互いの関係を見つめ合えるように なっていきます。さらに、こうした中で育ってきた生徒たちは、クラスで、学年で、そし て様々な活動の中で活躍するようになってきています。前述した矢後実践に登場する生徒 たちの多くも、この水泳部の中から輩出されています。  昨年の基調の中でも、クラブ活動の多くが勝利主義や成績主義、あるいは精神主義的な ものに支配されている、という指摘がありました。こうした中で、生徒たちは、部活動に 一生懸命になればなるほど、自らの心と身体を傷つけています。正木実践は、そうしたク ラブのあり方を根底から作り変えようとしました。つまり、生徒たちが自分の好きなス ポーツに取り組みながら、自分の課題を自分で見つめられるようになること。さらにクラ ブ集団の自治活動の中で鍛えられ、そこで得た様々な経験と行動力が、クラブ以外の活動 への新たな活力にもなっていく。こうした実践の模索は、現実の学校におけるクラブ活動 の一つの「可能性」を示すものと言えるでしょう。
 クラス、クラブ、あるいは愛好会やお茶会など、様々な場面で、こうした子どもたち自 身の交わりの場を学校の中に作り出していくことができないでしょうか。そうした広がり の中で、学校に生徒たちの交わりを取り戻し、教師の生徒とのかかわりを再生する土台が あるのではないでしょうか。    (3)子どもの権利条約にねざした『学校』をめざして  子どもの権利条約批准から2年をへて、社会的には子どもの権利への意識は変わってき ました。「中学時代に受けた体罰に対して、高校生が刑事告発を行った。さらに謝罪を求 める民事訴訟を起こし、損害賠償を認める判決が下された」という事例も、社会的には決 して突飛なものではなくなりました。しかし、問題は学校と教師の側で、「子どもの権利 条約」による学校と教育のとらえなおしがすすんでいない事です。こうした中で、生徒の 自治を育て、そこから権利主体としての子どもたちの姿を求める実践は、どうしても学校 の現実・教師の意識と様々な形でぶつかることになります。
 高橋実践(小田原サークル4・5月)では、一年間のクラス実践を踏まえて、2月のス キー修学旅行に「宿舎自治」を実現しようとします。実践者は、管理的な職場の中で、最 初から生徒の日直による点検などを提起しません。学年会では「集合時間への遅刻をなく したい。そのために、生徒たちに取り組ませたい」という点のみを提示し、一日目には点 検は教員が行っています。しかし、一日目を終えた部屋長会議を高橋先生は「総会」と位 置づけ、生徒自身の取り組みを点検班を含む新しい水準のものに高めていきます。二日 目、三日目をへて、当初は半信半疑であったかも知れない学年の教師達にも、生徒たちが 自ら取り組んでいく姿が認識されていったに違いありません。部屋長会議には学年の教師 全員が参加しており、生徒たちの取り組みを通じて学年会の合意が新しい水準のものに変 わっていくのです。こうした氏の実践においては、(1)修学旅行という特別な空間と時間が 持つ可能性に着目して、その中でならば初めての取り組みでもかなりのことが出来る事を いかしていること (2)拠点クラスとしての氏のHRでの集団づくりの到達が土台となって いること (3)部屋長会議における遅刻班への追求において、叱責は絶対に行わず、事実を 究明して対策を考える事を求める、という原則が貫かれ、生徒たちにもこの会議が自分た ちを否定しないものととらえられていること (4)生徒の活動と取り組みという現実に出会 わせる中で学年の合意を作り替えていくという柔軟なアプローチ などを読みとることが できましょう。
 当初から「生徒の自治」の理念を求めることからでは一致し得ない中で、実質的に生徒 の存在と取り組みを認めさせていった取り組みは、今日の学校の現場において、一つの実 践的な方向を示しています。同時に、こうした実践から日常の学校の変革をどう展望して いくのか、また、生徒自らの要求にもとづいた活動が組織できたか、が課題として指摘さ れます。さらに、学年の教師一人一人の指導とこうした実践の間にある距離をどの様にう めていくのか、という事も考えられていく必要がありましょう。
 熊野谿実践(湘南サークル、全国大会)では、生徒たちが体育祭・学園祭・NGO活動 と、様々な生徒会活動に活発に取り組んでいます。「学園祭でのエレキの認可を求める活 動」や「核実験反対のキャンペーン」などに様々なグループがつくられ校内・校外を通じ て行動しはじめています。また、行事活動においては「実行委員会が実施内容を専決せず に、生徒総会にはかる」、「体育祭・応援団の募集に上級生だけの横暴ができないルール をつくり、その履行を迫っていく」等が提起され、生徒会活動への全校的な参加がめざさ れています。行事を全校的なものとしていく上での執行部の指導や、権利要求を掘り起こ す上での有志グループの組織化、さらにはそれを土台とした協議会への取り組みなどは、 一つの試みとして意味を持つでしょう。
 しかし、この実践においては、「学校の都合による行事の再編」に直面した時、それま での「参加」の構図が機能しなくなりました。協議会で「行事の再編」を通告された執行 部は、「学校の決定をふまえてどうしていくべきか」と言う議論をすすめた結果、一般生 徒との間に大きなギャップを経験します。「まず、全校生徒に問題を投げかけ、クラス委 員たちとどうしていくか考えてみよう」とならなかった中に、それまでの指導で「執行部 に何を求め」「意志決定機関や代議機関がどのように位置づけてきたか」という問題、意 識的に生徒たちに「学校を相対化させる」観点で指導をしてこれたか、という課題が浮か びあがっています。そうした指導のつみあげがあれば、「学校からの一方的な行事再編の 通告」に対しても、「協議会」形式をとることによって、生徒が学校を客体としてとら え、逆に自分たちの「生徒会」を自覚し、自らの権利を考えていくことにつながる可能性 があります。そして、生徒たちが明確な権利主体として主張し行動し始めた時に、子ども たちの変化と向かい合うことで、教師の認識がゆさぶられ、硬直化した学校にも変化の可 能性が開けます。これが「学校紛争」的事態が持つ一つの教育的可能性でしょう。しか し、そのためには実践者自身が学校を相対化する視点を持つことが必要となりましょう。 (4)『父母・地域とつくる教育』から『父母・地域とつくる学校』へ 第15期中教審は初めて「開かれた学校」が必要だとの見解を示しました。しかし、そ こでの開かれた学校は、地域の保守勢力・警察権力等とPTA、さらには企業が一体と なって、子どもと親、さらには学校を管理し、その教育要求を商品化する体制を構築する ものとなることが危惧されます。これに対して、どのように父母の教育要求にねざした教 育、父母・地域とつくる学校を構築するのか、が問われています。
 有薗実践(湘南サークル・機関誌131号)では、父母との関係づくりが新たな実践の土台 ともなっていった数年間が報告されています。その基本は「父母の協力なしに、子どもの 事実は見えない」という確信にあります。そして、実践を通じてぶつかった子どもたちの 現実を、父母の直面している子どもの現実と重ね合わせて考え、親の悩みについて学習し 合う関係がつくられた時に、授業への不満、教師の指導や体罰への批判などの声があがっ てきます。そこから、父母の学年でのネットワークが、何よりも「子どもたちのためにど う協力していくか」という点を中心に形成されていきました。やがて父母の声から、学年 会で「ぶたないで指導して欲しい」とのことが確認されていきます。また、教育活動全般 について学年の教師達とPTA役員との話し合いが企画されていくようになりました。こ うした実践をふまえて、翌年は学年での父母集団を土台とし、その中の基本単位として位 置付いたクラスPTAが探求されています。この報告は、実践者の真摯な姿勢と教師とし ての力量、明るいトーンを土台にし、どのようにクラスPTAを土台とした父母との関係 をつくっていくかについて、すぐれた典型を示しています。  しかし、同時に有薗実践においては、実践者自身が、学年の父母集団と学年会との関係 をどのようにつくりかえようとしたのか、必ずしも明確ではありません。学年の教師とP TA役員との懇談会も、一年間は行われたものの、その後は途絶えており、学年の教師た ちが常に父母のPTA役員たちと話し合うことで、その指導を父母の視点から問われてい く、という関係は継続・発展させられていません。一方で、クラスPTAの発展や父母集 団の中での様々な自己運動の発展が読みとれるだけに、これを学年会、さらには学年の生 徒集団や学校そのものと出会わせていく実践を構想することが必要であったのです。そう した時に、学校経営の一部をPTAと父母が担っている実践者の学校制度の中では、父母 の実質的な教育づくり・学校づくりへの参加が大きく進んだのではないでしょうか。今 日、クラスPTAの持つ意義はますます大切になっています。
 父母との連帯は、子どもの中にある事実を実践的に示すことから始まります。そしてP TAにおいて大切な事は、父母自身が悩みを出し合い、それについて共に学習する関係を つくる事です。次には、そうした事を土台として、子どもたちの様々な問題について、生 徒たちと共に父母が意見を表明し議論する機会をつくる事も意味があるでしょう。また、 教育活動そのものに父母とつくる場面を持つことも考えられます。文化祭などの行事で 「PTAに食堂をお願いした」等の実践はどこでもあります。これを一歩進めて、PTA と生徒、父母と教師たちの間での調整の会議を設定したり、教員・生徒・父母でつくるイ ベントを盛り込んだりしていくことができないでしょうか。父母とつくる教育こそが、父 母とつくる学校への土台ともなるはずです。  この他に高生研の中では、地域における「教育懇談会」など、様々な父母との共同の取 り組みに意欲的に取り組んでいる会員が、少なからず存在します。こうした実践やそこで の経験をもっと積極的に出し合い、取り組みを広げることも重要です。「学校」というカ ミシモを脱いで地域に入った時に、違った視点から子どもや父母の姿が見えてくるはずで す。   4.『学校』を再生する集団づくりの現代的意義  現代の子ども・青年は、「他人に対して物が言えない」「討論が出来ない」「交わりの 力が弱い」、などと指摘されています。また、大企業の小集団活動による労務管理が学校 にも持ち込まれた結果、「集団づくりは全体主義的だ」としてこれを拒否する、という傾 向もあるようです。  支配としての『学校』は、子どもたちを傷つけ抑圧し、選別している存在かも知れませ ん。しかし、他方では『学校』には同じ世代の仲間と出会う可能性があり、自分たちの集 団をそこから作り出す可能性があり、独自の文化を生み出す可能性があるのではないで しょうか。学校だけに可能性があると考えることは、学校教師の独善になるでしょう。し かし、青年期までの子どもたちの大多数にとってそうした可能性がある場は、学校以外に は存在しないのではないでしょうか。  今日、既に現れている「学校のスリム化」の中で、子どもの生きる学校を作り出すため に、子ども・青年を社会的実践主体としてとらえ育てる集団づくりの意義が問われている のです。