<顔>、この所有しえないもの メモ


(1)顔という「現象」そのもの、「現れそのもの」を捉えること

・顔の現象形態を突き詰めることで、かえって「現象しえないもの」が主題化される。この「現象しえないもの」が、現象を支えている(ブラックホールの比喩。228。「現れの超越論的条件」243)


・現象しえないもの=「隠されている」というわけではないが、「見えないもの」:「見えない可視性」(フーコー)。「読む」ことはできないが、「読む」ことをかきたてる。


(2)「見る」ことと「触れる」ことの関係。

(3)「痕跡」(レヴィナス、デリダ)としての「顔」。けっして「現前」することはなく、つねに身をかわすものであるが、この身をかわす運動そのものが「痕跡」を残す。「痕跡の痕跡が残る」(デリダ)

(4)顔との「はすかい」の関係、「はすかい」であるからこそ、根本的に私に突き刺さるようなもの。

(5)空間の歪み(234)=「遠近法とは別の強度をもった現出空間」(242)

(6)ジャコメッティ。

・「顔」がまさに引き退きの運動において現れること→ この運動そのものを「かたち」にすること。

そのとき画面に到来した「顔」のまなざしに見つめられること。「呼びかけ」としての「顔」

・「死」の可能性。


問題:

・鷲田が「顔」と呼ぶものは、じつは時間と空間そのものを作り出すような働きのことではないか。空間の「厚み」において、宙ぶらりんになるような状態。

・それが「死」と関係付けられることはどのような意味を持っているか。たしかに、普通の意味での「主体」にとっては、それに疑問を投げかけ、見つめ返し、消去してしまうようなものである。だがそこにこそ「主体」の「生命」があるのではないか。←フロイトの「死の欲動」ハイデガー「死へ臨む存在」の概念は、現在どれだけ有効なのか。これを「死」とか「無」などと呼ぶことは、人間的な次元に議論を閉じ込めてしまうことにつながるのではないか。


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発展:

(1)哲学的な問題として

・デリダ、レヴィナスの「痕跡」の思想。デリダ「差延」(『哲学の余白』所収)ミシェル・アンリ『現出の本質』(法政大学出版会)。

→ 前者は、「痕跡」という「エクリチュール」として「ズレ」を強調

  後者は、情動性を強調→「におい」「雰囲気」「重力」などの分析へ

  

・「現れないものの現象学」という主題。参考:新田義弘『世界と生命』(勁草書房)


(2)芸術論として。

メルロ=ポンティの「奥行=深さ」の思想(『眼と精神』みすず書房)

ドゥルーズ・ガタリ『千の高原(ミル・プラトー』)

フェリックス・ガタリ「田原桂一の顔貌機械」『分裂分析的地図作成法』(紀伊國屋書店)所収