「ああ、マネね」メモ

・フーコーとデューブの差異について。

1)技法解釈の相違 

フーコーとデューブの差異について小林康夫は、デューブの「実証性」にたいして、フーコーにとって「絵画はなによりもその<効果>によって見られるべきだ」(227)とする。X線による撮影は、マネの作業のプロセスの痕跡ではあっても、そのイメージそのものの効果を明らかにするものではないであろう。(タブローの生成過程とイメージそのものの生成過程の混同)。

2)遠近法に対する断絶

 この差異は、マネの絵画そのものの位置づけにもかかわる。デューブは、マネがあくまでアルベルティの『絵画論』以来の一点透視画法の伝統の中で絵画を作成していると前提している(120-121)。デューブにとって、<フォリ・ベルジェールのバー>の「謎」は、あくまでマネによって、すくなくとも彼の「欲望」によって仕組まれたものなのである。だがフーコーにとってはマネがもたらした「断絶」はもっと深いものであり(4)、「位置づけの難しい」ものである。それはたんに、一点透視画法の内的な変容のみではなく、キャンバスの裏と表にある「物質性」(あるいは「キャンバスという場についての問いかけ」)、そして絵画における光の特性そのものにおける変容だからだ。

3)自己認知の媒体としての鏡 vs 「照明」としての「視線」

 このことと関連して、画家という「主体」の位置づけにも解釈の相違がある。おそらくラカンの精神分析の影響ゆえか、デューブにとって鏡とは、「マネ」という「主体」が、屈折した形で自己を認知するための媒体である。それは時間的なずれをはらみつつ、マネの「ポジション」(136)を肯定してくれるものである。それにたいしてフーコーにとって、そのような「自己認知」はない。フーコーにとってはじめにあるのは「不可視性そのものの炸裂」と呼ばれるものであり、主体はそれに付き従うことしかできないのだ。私たちは、絵の前に立つと同時に、<オランピア>を見えるようにしてしまうのであり、絵に「巻き込まれ」、それに責任を持たされてしまう。「視線」でもあり、「照明」でもあり、「暴力」でもあり、「美学的=道徳的スキャンダル」の「責任者」でもあるような<誰か>というものこそが、フーコーにおける鑑賞者=われわれなのである。