前回のまとめ
前回は、現象学についての簡単な説明をしたうえで、クロード・ランズマンの『ショア』の一部をみてもらい、コメントした。おさえてほしい点は・・
・ このような作品を作る歴史的動機は何か(ナチスの大量虐殺の特殊性)
・ 『ショア』が模索した「新たな形式」とはどのようなものか
・ この作品が、歴史、芸術、記憶などについてどのような問題を提起しているのか
・ 痕跡が失われた風景の中を歩き回ること:死者たちの「移動」の「身体感覚」(感覚なき身体感覚)の再現
「私はこの歴史を物語ることの不可能性からことを始めました。」「無から出発して映画を作らなければならなかったのです」。
「この映画はドキュメンタリーではない」(死体の不在)
「歴史映画ではない」(ストーリーの不在。出来事を一般化することの拒否)
「回想映画ではない」(個人の思い出のレベルにはとどまらない)
「生き残りの映画ではなく、死についての、死へ導いていくメカニズムについての映画だ」
「死者は映画には現れない」「生き残った人々は、死んだ人々のことを語る」「それはいつまでも走り続ける汽車である。ホロコーストは終わらないと言うために」(ランズマン)
・「言葉にするわけにはいかない、誰にも想像できない、無理です、理解不可能です、今考えたってわからないのですから」
・「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮だ」(アドルノ)
(4)アブラハム・ボンバ
監督の介入に注目
・ 床屋の仕事を再現しながら語らせること
・ 鏡の多い空間
・ 当時の事情を第三者的に語らせるのではなく、彼がいつどこにいて、何をし、何を「感じた」か(「感情は消え去ってしまう」)を語らせ、身ぶりを再現させる
・ you have
to, we have to. We とは「誰」か(監督とボンバ、ユダヤ人、人間、ショア以後の人間)→ この出来事の「普遍性」
この映画が提起する問題
・ ナチスによる大量虐殺という未曾有の、一回的な出来事の特殊性とその「普遍性」との関係。
・ この映画は誰のためか。
死者たち(ユダヤ人、当時の犠牲者、すべての戦争犠牲者、すべての死者)
生者たち(生還者、イスラエル、加害者を含めた関係者、「私たち」・・・)
・ フィクションとドキュメンタリーの対立を越えて
Ø
・当時の映像、写真も再現フィルムも使わない(「歴史物」として見られてしまう)
Ø
・「証言」を客観的に伝える?・・・語ることの「不可能性」(語りたがらなかった、語れなかった人々)、証言の断片性、「場」の再現、移動の再現、発言の仕方の指定・・
・ これらを貫く監督の意図は何か?
・ 歴史記述の問題。
Ø
出来事と語り。言語は必然的に出来事を「普遍化」しまう。証言の不可能性から出発して、その不可能性を隠蔽してしまうことなく、沈黙から言葉へと移行すること。そのとき出来事のかけがえのなさが、特殊性を失うことなく、伝達されるのでは??
・身体の記憶、記憶の身体。歴史的出来事が蓄積される場としての身体。
参考文献
・ DVD「SHOAH」HERALD (1985年の作品)
・ 『ショアー』高橋武智訳、作品社
・ 『ショアーの衝撃』鵜飼哲・高橋哲哉、未来社
・ 『声の回帰』ショシャナ・フェルマン、太田出版
・ 『夜と霧』(新版)ヴィクトール・E・フランクル
・ 『アウシュヴィッツは終わらない』プリーモ・レーヴィ
・ 『ホロコースト』芝健介、中公新書
学際研究一般については、廣瀬浩司HPにも参考文献を載せてあります。(廣瀬浩司で検索)