人文・文化学群コアカリキュラム「学際研究を学ぶ」担当 廣瀬浩司 2009. 2. 17

方法:「現れないもの(=見えないもの、聞こえないもの・・・)の現象学」(2)

前回のまとめ

前回は、現象学についての簡単な説明をしたうえで、クロード・ランズマンの『ショア』の一部をみてもらい、コメントした。おさえてほしい点は・・

このような作品を作る歴史的動機は何か(ナチスの大量虐殺の特殊性)

『ショア』が模索した「新たな形式」とはどのようなものか

この作品が、歴史、芸術、記憶などについてどのような問題を提起しているのか

痕跡が失われた風景の中を歩き回ること:死者たちの「移動」の「身体感覚」(感覚なき身体感覚)の再現

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「私はこの歴史を物語ることの不可能性からことを始めました。」「無から出発して映画を作らなければならなかったのです」。

「この映画はドキュメンタリーではない」(死体の不在)

「歴史映画ではない」(ストーリーの不在。出来事を一般化することの拒否)

「回想映画ではない」(個人の思い出のレベルにはとどまらない)

「生き残りの映画ではなく、死についての、死へ導いていくメカニズムについての映画だ」

「死者は映画には現れない」「生き残った人々は、死んだ人々のことを語る」「それはいつまでも走り続ける汽車である。ホロコーストは終わらないと言うために」(ランズマン)

・「言葉にするわけにはいかない、誰にも想像できない、無理です、理解不可能です、今考えたってわからないのですから」

・「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮だ」(アドルノ)

(4)アブラハム・ボンバ

監督の介入に注目

床屋の仕事を再現しながら語らせること

鏡の多い空間

当時の事情を第三者的に語らせるのではなく、彼がいつどこにいて、何をし、何を「感じた」か(「感情は消え去ってしまう」)を語らせ、身ぶりを再現させる

you have to, we have to. We とは「誰」か(監督とボンバ、ユダヤ人、人間、ショア以後の人間)→ この出来事の「普遍性」

 

この映画が提起する問題

ナチスによる大量虐殺という未曾有の、一回的な出来事の特殊性とその「普遍性」との関係。

この映画は誰のためか。

死者たち(ユダヤ人、当時の犠牲者、すべての戦争犠牲者、すべての死者)

生者たち(生還者、イスラエル、加害者を含めた関係者、「私たち」・・・)

フィクションとドキュメンタリーの対立を越えて

Ø   ・当時の映像、写真も再現フィルムも使わない(「歴史物」として見られてしまう)

Ø   ・「証言」を客観的に伝える?・・・語ることの「不可能性」(語りたがらなかった、語れなかった人々)、証言の断片性、「場」の再現、移動の再現、発言の仕方の指定・・

これらを貫く監督の意図は何か?

歴史記述の問題。

Ø   出来事と語り。言語は必然的に出来事を「普遍化」しまう。証言の不可能性から出発して、その不可能性を隠蔽してしまうことなく、沈黙から言葉へと移行すること。そのとき出来事のかけがえのなさが、特殊性を失うことなく、伝達されるのでは??


・身体の記憶、記憶の身体。歴史的出来事が蓄積される場としての身体。

参考文献

DVDSHOAHHERALD (1985年の作品)

『ショアー』高橋武智訳、作品社

『ショアーの衝撃』鵜飼哲・高橋哲哉、未来社

『声の回帰』ショシャナ・フェルマン、太田出版

『夜と霧』(新版)ヴィクトール・E・フランクル

『アウシュヴィッツは終わらない』プリーモ・レーヴィ

『ホロコースト』芝健介、中公新書

学際研究一般については、廣瀬浩司HPにも参考文献を載せてあります。(廣瀬浩司で検索)