デリダの時間論と「痕跡」の概念
○デリダ「声と現象」1967
- 「現前の形而上学」の批判。
- パロールによるエクリチュールや痕跡の抑圧。
- プリント「差延」参照
○要点
- 過去は、かつての現在ではなく、未来はこれから現在であるようなものではないけっして現在ではなかったような過去、けっして現在であることがないような未来
- このような過去や未来の「痕跡」が、現在という「点」をcontaminer
していること。現在の純粋さを浸食する。
- 意識の自己現前が成立するためには、こうした過去や未来の「痕跡」が働いていなければならない。現在の自己同一性を、こうした痕跡が分割している。
- けっして現在たりえない過去の痕跡、反復可能性。不在の現前(記号)。
-
- ただしパロールそれ自体もエクリチュール的なものを含む(「私は死んでいる」)
- 発話者の死の可能性を越えて、反復可能であるのでなければ、イマココでの発話は現前しない。
●エクリチュールとパロール(おのれの声を聞くこと)
- 純粋意識の自己への現前とロゴスの明証性、不純さの排除。
- 声の特権。おのれの声を聞くこと
- 記号一般の無際限な再現前
- 瞬間的現在の過去把持的反復の必然性。
●差延
- 差異=自己と非自己との差異
- 遅延=自己が自己に対して現前し、自己意識となるのを遅らせる。意識はつねに差延のはたらきにたいして遅れている。
- 時間的待機でもあるとどうじに、空間的間化(espacement)
でもあるような差異の産出の運動。
- 間化(espacement)
=時間と空間の共通の根拠。根源的時間性がはらむ根源的空間性。
- 同一者は差延の運動の「効果」にすぎない。主体は、差延のシステムの中のひとつの「効果」である。
- だがそれは根源の抹消でもある。現前と不在の対立から出発しては考えられない。
まとめ
- あるものが我々に現前してくるとき、そこに痕跡が働いている。痕跡は隠れた神のような形而上学的なものではないのか?有限な人間の有限性以前の無限のロゴスではないのか?
- しかし痕跡は根拠や本質ではない。痕跡は、破壊不可能なモニュメント、実体ではない。痕跡はみずからを消し去ること。現前者は痕跡の消去の痕跡である。
- それ自身は現前しないがなにか別のあらわれるための「根拠」、意味の根拠
- しかしこの根拠は「起源」ではない。とりわけ単一な起源ではなく、むしろ起源の抹消である。おのれの起源を抹消する生成の痕跡。
- 意味の可能性であるとともに、純粋で根源的な意味作用の不可能性の根拠。
- そのとき差異が差異として現れる。同一性に回収されることなしに。
- 「反復可能性」(iterabilite)
反復しながら、他になる可能性。
(補足)
痕跡と無意識
- 「あとから理解されるということ」Nachtraglichkeit
- 無意識は、隠れた潜在的な自己現前ではない。
- 無意識の痕跡の読解=かつて現前した過去ではない。
- フィクション・現実
反復可能性(現代思想1988年デリダ特集)
- 署名は、偽証する可能性がなければ、署名として機能しない。
- 反復可能性。他になる可能性。
- 起源や同一性が反復の条件なのではなく、反復が起源や同一性の条件である。
- 未来の他の可能性(メシア主義なきメシア的なもの「法の力」)