前回の講義では、
(1) マネの絵画のおさらい。とりわけその「知覚」の在り方について
(2) フーコーの理論の応用と新たな展望として、ジル・ドゥルーズの「コントロール社会論」を紹介し、「リゾーム」という考え方について解説した。
(3) こうした感性を表現したものとして,宮沢賢治の詩作品を紹介した。
とりわけ、
・意識が風景に溶け込んで、屈折したりするありかた
・自己の分身がリアリティをもって迫ってくる意識のありかた
・そのような意識をもって、他者と交流するような機械としてみずからを創り上げようとすること
・夢とうつつ、現在と過去、自分と他人などが<うつろいあう>ような世界
などが注目される。またこのように世界に溶け込んでしまうような意識を持ちながら、それを「詩のことば」へと練り上げていくことも重要だろう。
Cf. 「みんなむかしからのきょうだいなのだから
けっしてひとりをいのってはいけない」(宮沢賢治「青森挽歌」下記参照)
cf. 「なんでもないものが、なんでもなくごろんところがっていて、なんでもないものと、なんでもないものとの間に、なんでもない関係がある。なんでもないものが、何故此の世に出現したのか、それを問おうにも問いかたが分らない。なんでもないものは、いつでもどこにでもさりげなくころがっていて、さしあたり私たちの生存を脅かさないのだが、なんでもないもののなんでもなさ故に、私たちは狼狽しつづけてきた。」(谷川俊太郎『定義』より。)
今日の授業では、ひとりひとりの「個性」や「生命」までも、規律したり、コントロールしたりする、現代の権力関係における芸術のありかたについての模索として、劇団「態変」の舞台作品<天国の森>をビデオで見る。
「態変」については、詳しくはホームページ
(http://www.asahi-net.or.jp/~tj2m-snjy/jtop.htm)参照のこと。
・「健常者」への「挑発」としての舞台から、「身体性」の立ち上げへ。
「個性」の主張ではなく、身体を「媒体」とすることで、なにか「共通のもの」を立ち上げていくこと。
・でこぼことした球としての身体
・頭脳でのコントロールに抵抗したり、迂回的に応ずる身体→ そのとき空間がねじれや傾斜、濃淡や迂回路にみちた空間として現れてこないだろうか。
・最高のインプロヴィゼーション→ 「生命自身が動きたがっている動き」
・重力の縛りの中で動いている身体のリズム
・「ローリング」。皮膚の細胞ひとつひとつが息づく感覚。
・大野一雄との交流
まだいつてゐるのか
もうぢきよるはあけるのに
すべてあるがごとくにあり
かゞやくごとくにかがやくもの
おまへの武器やあらゆるものは
おまへにくらくおそろしく
まことはたのしくあかるいのだ
《みんなむかしからのきやうだいなのだがら
けつしてひとりをいのつてはいけない》
ああ わたくしはけつしてさうしませんでした
あいつがなくなつてからあとのよるひる
わたくしはただの一どたりと
あいつだけがいいとこに行けばいいと
さういのりはしなかつたとおもひます(「青森挽歌」)