フーコーの権力論(2)

 

パノプティコン(一望監視装置)(『監獄の誕生』より)

注目点

「可視性が一つの罠である」。

個人化された「舞台」

雑多な群衆 から 区分された個々人の集まり。取り締まりやすい多様性 → 新たな「集団」の模索(ネグリ)。マルチチュードmultitude

個人はこの権力の作用をつねに自覚して振る舞う。。

注目点:閉じこめられる個人もまた、この装置の重要な要素であること。

見られるが見ない囚人 と 見るが見られない監視 の組み合わせ

身体・表面・光・視線などを巧みに配置

暴力的に受刑者・「狂人」・労働者、生徒・病人を従わせる必要がない。

囚人は監視されると同時にみずからに権力を及ぼす。

「博物学」と関係。各人の適性が分類される。

「再教育」の実験場。

観察するものも観察される

 

まとめ

個人を配分するための視覚的な装置として作られた建築

構成メンバーはこの装置の構成要素。とりわけ囚人は観察対象であると同時に役者。囚人はなんらかの「変化」や「差異」を提示しなければならない。

 

権力とは?

(1)         権力=抑圧ではない。禁止や制裁のようなネガティヴなものではなく、むしろ個人の「こころ」を見えるようにするポジティヴなもの。

個々人の振る舞いを「禁止」するのではなく、むしろさまざまな振る舞いを訓練したり、それを評価したりする。Conduct.

(2)         権力=法律ではない。むしろそれをとりまくさまざまな「制度」(監獄、病院、兵舎、学校)などで鍛えられる「技術」において働いている

(3)         権力は「誰か」あるいは「国家」などの機関が「持っている」ものではない。むしろ人と人の間に働く力のようなもの。(権力諸関係

(4)         この関係はときどき逆転するが、「抵抗」もそのなかに織り込み済み(

(囚人は役者なので・・・)

(5)         科学も権力とは対立せず、むしろ密接に絡み合っている。(犯罪者の骨相の分析、精神医学など)。「告白」という装置。

 

フーコーの意義

従来の権力論(国家というイデオロギー装置、資本主義における疎外など)の批判。→ マルクス主義からの批判。「フーコーは抵抗の可能性を奪ってしまった」→ むしろ「権力」=「悪」とみなすことこそ、息詰まっている。

建築を視覚的に分析し、「装置」として分析→ 新たな「建築」の模索?。

現代人が自明のものとみなしている価値(個人、人間性、こころ、抵抗、科学の中立性・・・)などが、このような装置によって作り出されてきたこと。それは「最近の発明品」(せいぜい一九世紀以来)。Cf. 「人間の死」(『言葉と物』)。

新しい知識人の形。「大衆を先導=扇動する知識人」(サルトル)ではなく、考えるための材料を提供し、「ほかのかたちで考えてみる」ことをうながす。

ある種の行為が、不必要なまでに「悪」とみなされ、「矯正」すべき対象とされてしまうのはなぜなのか。

 

→ 「生の権力へ」