「ヤマトタケル/倭建/新アスカ伝説B」創作ノート1

2002年4月〜

4月 5月 6月


04/08
本日よりこのノートを始める。先月の27日にスペインに向けて出発し、本日の朝、帰国した。出発前に、「ヤマトタケル」の第1章を書いておいた。今回の旅は、ひたすら孫の顔を見たいという思いによって急遽計画されたものだ。希望どおり、孫の顔を見てきた。その間、仕事のことは忘れていた。孫というものを見たり、人の親となった息子を眺めたり、嫁さんの家族のスペイン人たちと接していると、人生というもののことを考える。そうした近しい人々の人生とともに、自分の人生というものについて考える。わたしの人生は、小説を書くことで塗りつぶされている。それでいいし、そうあってほしいとも思う。すると当然、これからの仕事のことを考える。わたしはまだ50代の前半であるから、あと20年くらいは仕事を続けたいと思う。これを書かなければならないといったライフワークは想定していない。与えられた時間、書き続ける、ということしかできないのだから、謙虚に、自分にできるだけのことを果たしたいと思う。とはいえ限られた才能と時間を、どの方向に向けるかという点については考えないわけにはいかない。で、いろいろと考えてみたが、昨年から始めた「新アスカ伝説」をしばらく続けるというのが、当面の、自分の主要な仕事だろうと思いいたった。実は並行して書いているものに「清盛」「頼朝」「後白河」という三部作がある。これも完成すれば、自分にとって大切な作品になることは間違いないが、「清盛」の売れ行きが芳しくないので、三作目まで進めるかどうか危ぶんでいる。書く意欲はあるが、売れないと、出版社の方が意欲をもってくれない。その意味では、「新アスカ伝説」も、最初の作品が売れてくれないと困るのである。
今回は、戦略を考えた。このシリーズは、三作目の「ヤマトタケル」に山場がある。何といっても、日本神話の中では、最も有名なキャラクターである。その前の崇神、垂仁は、はっきり言って、誰も名を知らない。とくに第一作の「ツヌノオオキミ」は、ほとんど架空の人物である。この第一作が売れないと、第二、第三の作品を書くことができない。そこで、「ヤマトタケル」が完成するまでは、出来上がった第一作を出版しないことにしたのだ。三作を完成させた上で、一挙に出版する。この提案を出版社が受け入れてくれて、「ツヌノオオキミ」を6月、「イクメノオオキミ」を7月、「ヤマトタケル」を8月に出すということで、出版の見通しができた。ここまで順調に二つの作品を書き上げることができた。あとは8月の出版が可能なように、三つ目を書き上げるだけだ。「ツヌノオオキミ」の内容には自信をもっている。キャラクターが雄大で、テンポもよく、世界観にも奥行きがある。「ハリーポッター」よりも面白いと自分では思っている。ただし子供向きではないが。しかし膨大な量の出版物の中に、この誰も知らない主人公を提出して、興味をもって買ってくださる読者がいるのかどうか、この点に関しては、やってみないとわからない。この創作ノートのここまで読んでいただいた読者は、三田誠広という書き手に興味をもち、ある程度、支援をしたいというような気持ちになっている人ではないかと思い。そうでないと、こんな読みにくい、テキスト情報だけのホームページをここまで読むことはないだろう。そこで、読者にお願いする。「ツヌノオオキミ」はぜひとも、発売直後に買っていただきたい。本屋の店頭になければ、三田誠広の「ツヌノオオキミ」(学研)はないのかと書店の人に尋ねてほしい。読者に負担をかけないように、値段の安いノベルス版の装丁で出す。わたしの読者にとっては、このサイズの本は、あまりなじみがないかもしれない。凡百の通俗小説の中に、わたしの本がこっそりまぎれこんでいる。砂浜の砂の中に、一粒の真珠がひそんでいる。
ともかく、売れ行きについては、読者に任せるしかない。自分としては、最高の作品を書く、ということしかできない。で、出発前に、1章だけ書いておいた。これは大切なことである。構想だけでは作品は書けない。文体と、ストーリーを展開するテンポが必要だ。書く勢いみたいなものだ。旅行は疲れるし、孫の顔などみて仕事を忘れているうちに、この勢いがなくなってしまっては困る。そこで、第二作を完成させた勢いで、第三作の冒頭を書いておいた。書く勢いをその中に封じ込めておいた。帰りの飛行機の中で、この1章のプリントを読み返した。赤ペンでチェックを入れた。読み始める前に、いくらか不安があった。第二作の勢いそのままに、いいテンポで書けたという手応えはあったのだが、書いている本人がコーフン状態にあるから、自画自賛で自惚れているかもしれない。まあ、どんな作品でもいくぶその傾向があって、しばらくたって読み返すとがっかりすることがある。今回、そういうことがあると、続きを書く気がしなくなって、仕事がはかどらないことになる。だが、心配は杞憂であった。プリントされた第1章は充分に面白く、第二作を書き終えた直後の充実感と高揚を思い出した。で、このまま一気に、第2章に進みたい。
第1章には主人公が登場しない。第二作「イクメノオオキミ」の最後に登場した悪玉の大王、すなわち景行天皇タラシヒコが、ツクシ島(九州)を攻めながら、悪逆非道の限りを尽くすさまが描かれる。今回は初めて、徹底的な悪玉として、タラシヒコ大王が登場する。この悪の大王によって、古代人が虐殺され、ツチ神(郷土の神々)が踏みにじられる。これを自然破壊ととらえてもらってもいい。そのツチ神の怒りを鎮めるために、ヤマトタケルが登場する。この人物は、強い英雄ではない。むしろ自らを生け贄の子羊と呼んだイエスキリストのような、踏みにじられることによって後世まで語り継がれる悲劇のヒーローである。その悲劇性を強調するために、第1章では、父親の悪逆非道ぶりが描かれねばならなかった。いまこのノートを書きながら気づいたのは、文庫本が出たばかりの「碧玉の女帝/推古天皇」の冒頭には、武烈天皇が悪逆非道の大王として描かれている。これは「日本書紀」の記述をそのまま転用したものにすぎないのだが、聖徳太子の徳を描くために、悪逆を描いておく必要があった。構造は同じだが、今回は悪逆のスケールが大きい。そのぶんヤマトタケルの悲劇性が際だつことだろう。聖徳太子は自らも超能力をもった偉大な英雄だが、ヤマトタケルはその悲劇性だけで記憶に残るヒーローである。言ってみれば、悪逆大王の影のような存在なのだ。「日本書紀」の作者が、兄の子を虐殺した天武天皇の政治権力の正当性を証明するために捏造した人物、というふうに考えられなくもないヤマトタケルだが、わたしの作品では、ひたすらピュアな子羊として登場させたい。
主人公が英雄としては非力なので、当然ながら、脇役が必要になる。前作にはマワカノオオキミという角のある英雄が登場した。同じことの繰り返しになるのだが(神話では同じパターンが何代にもわたって繰り返される)、今回も角のある英雄として、カニメノオオキミという人物を設定する。ついでにカニメノオオキミの子息のオキナガノオオキミも少年として登場させる。このオキナガ王子の娘のオキナガ姫が、神功皇后オキナガノタラシ姫なのである。神功皇后といっても誰も知らないか。日本の歴史の中に燦然と輝く、初代の女帝である。これが「新アスカ伝説C」のヒロインとなるはずだから、そのことも予告しておく必要がある。ということで、第2章の冒頭には、カニメノオオキミが登場する。ヤマトタケルはまだ出てこない。どこまで主人公を出さずにストーリーを引っ張れるかが勝負だ。主人公の登場しない作品は迫力に欠けるかもしれない。しかしじっとがまんして読んでいけば、主人公が現れた瞬間のカタルシスも大きいはずだ。鞍馬天狗や旗本退屈男が出た瞬間の喜び、といっても若い読者には何のことだかわからないだろうが。わたしも鞍馬天狗や退屈男を熱心に見ていたわけではないが。とにかく、この第三作の英雄は、シリーズの中でも特別の存在なので、少し思わせぶりの出し惜しみをして出番を遅らせたい。
自分の仕事の他にも、文芸家協会や文化庁における著作権の問題で、いくつか仕事をかかえている。怖ろしいことに4/12には、一日に三つの会議をハシゴしないといけない。この日も家に帰ってから自分の仕事ができるかどうか。創作にかける自分の意欲を測るパロメーターとしたい。

04/26
しばらくこのノートを書いていなかった。雑用が多く多忙ではあったが、作品そのものがうまく進行していたので、このノートに向かう時間がなかった。この前のところでは、4/12に会議が三つあるといったことが書いてあるが、ちゃんと会議三つをこなし、自宅に帰ってから仕事もした。週末までに2章完了とはいかなかったが、月曜日の4/15に完了。週末の4/21に3章完了。現在は4章の後半に到達している。
この作品は1章は大王ワカタラシ、2章はカニメノオオキミが中心になって展開する。3章に至ってようやく主人公のヤマトタケルが登場するが、まだ名前はヤマトオグナで、主人公としては軟弱な、少女のような姿で登場する。わがままで、弱々しく、とても主人公とは思えない。3章の最後に、オトタチバナ姫が登場して、ようやくヒーローとヒロインが揃った。
次の4章で、クマソタケルとの対決になるが、そこに至るまでにもいくつかの山場を用意したい。最終的には、イブキの白いイノシシとの対決になる。この作品は小さな戦闘シーンを積み重ねて、最後の山場に突入する。戦闘シーンだけでは飽きるので、しんみりとしたシーンを適宜に設ける。しかしストーリーの面白さだけでなく、思想的な核が必要だ。まあ、基本的には、自らが犠牲になって世界を救う「救いの皇子」というイメージがある。ただその仕組みが透けて見えないように、プロットでひっぱっていかないといけない。
並行して文化庁での権利制限についての議論とか、文芸家協会で新しい著作権管理の組織を作るとか、公の仕事もこなしている。小説を書いていると、自分のプロットどおりに話が進んでいく(当たり前だ)。だが、会議では相手があるので、なかなか自分のプランどおりに話が運ばない。そこが面白いといえばいえる。一種の小さな政治ドラマに参加していることになるので、小説を書く上での刺激になっているともいえる。とにかく会議があった日でも必ず自分の仕事はするようにしている。それでなければ公の仕事などやっていられない。


05/06
ゴールデンウィークは公用(文芸家協会・文化庁など)がないので、浜名湖の仕事場にいた。どこへも出かけずひたすら仕事をしていた。車に乗せたのが負担だったのか、前から足腰が弱っていた愛犬リュウノスケがさらに脚を傷めたようで、まっすぐに歩けなくなった。仕事場のフローリングはすべって歩けない。大阪から来る妻の両親に電話をしてカーペットをもってきてもらう。カーペットの上なら歩けるが、いったん寝ると自力では起きあがれない。寝たきりになってしまった犬を見ると気分が落ち込んでしまう。15年、つきあってきた友である。
暗い一週間だったが、よいこともあった。@仕事がはかどったこと。A長男がバレンシアのコンクールで入賞したこと。B巨人が負けなかったこと。(わたしは大阪生まれの巨人ファンだ)
「ヤマトタケル」は5章が終わった。半分をすぎた。孫を見にウェスカへ行く前に1章を書き上げていたとはいえ、本格的に書き始めたのは、旅行から帰ってきてからだから、一カ月で半分書けたことになる。快調である。クマソタケルを討つところまでを書いた。前半の山場が終わった。後半は東国への旅だ。さらにテンポを速くしたい。
今月の『すばる』には、引間徹と大泉芽衣子が作品を発表している。13年間の教師生活で、引間は教え子第一号で、大泉は最後の教え子になる。その二人が並んでいるというのは、なかなかの眺めだ。

05/16
先週、『新アスカ伝説』シリーズの第一巻「ツヌノオオキミ/角王」のゲラが届いた。いま書いている「ヤマトタケル」は第三巻で、6月半ば完成が目標で、順調に進んできたのだが、ゲラが入るということを忘れていた。ゲラを見るのに一週間かかる。あともう一回、来月のアタマに第二巻のゲラが出る。そうすると完成は六月末のギリギリになってしまう。少しペースを上げないといけない。
で、ゲラをようやく読み終えた。感想。すごい小説だ。こんな作品を誰が書いたのだ、というくらいにすごい。神がかりだ。実際に神さまがいっぱい出てきて、次から次へとストーリーが展開する。ただ考えるだけでこんなものは書けない。何かがとりついているのだ。これを書き始めたのは去年の9月だった。少し書き始めたところで、アメリカのWTC同時多発テロが起こった。神さまの話を書いていたので、現実の出来事がちまちましたものに感じられた。
何を書いたかはほとんど忘れていた。もちろんその続きをいま書いているのだから、およその記憶はあるのだが、細かいところで、こんなことを書いたか、というところがあって、いま書いている部分とつじつまがあわないところもある。修正しないといけない。いま第三巻を書いているのに、第一巻がまだ本になっていない。原稿はパソコンの中に入っているので、時々検索して参照してはいるのだが、本が手元にないというのは、少しやりにくい。読者の反応がわからないというのもつらい。いまはメールがあるので、本が出れば読者の感想がすぐに届くのだが。
ということで、「ヤマトタケル」の方は、一週間、停滞していた。遅れを取り戻したい。ようやく主人公は、クマソ征伐を終えて、東国に向かっている。ここからイセで叔母のヤマト姫と会い、オワリでミヤヅ姫と会い、それから焼津で草薙の剣を振るう。このあたりはよく知られた伝説なので、既存のストーリーに乗って書いていくしかない。主人公のキャラクターが新しいので、読者をひっぱっていくことは可能だろう。

05/20
現在、7章の半ばくらいのところ。ヤマトタケルの旅はようやくオワリに到達した。のちのアツタ神宮になるところである。ここから先は、草薙剣の名前の由来となる焼津。それから海を渡ってエゾ地へ赴く。そこから信州を通って帰還し、オワリに寄って草薙剣をミヤズ姫に渡してから、イブキの神と対決する、という手順になる。こういうストーリーは「古事記」「日本書紀」に記されているので、大幅に逸脱するわけにはいかないが、意味を読み解き、また読み替えることによって、独自のストーリーに変換することは可能だ。すでにおよその進行は考えてあるのだが、具体的なプロットをつないで、計画どおりに進行できるかは、やってみないとわからない。まあ、何とかなるだろうとは思っているが。あんまり細部まで事前に考えてしまうと、書く喜びがなくなる。それは筆つかいに微妙な影響を与える。これからどうなるのだろうというスリルを、書き手も感じていないと、文章に緊張感が欠ける。
寝違えて首が痛い。単なる寝違えではなく、疲労がたまっているのだろう。今週は文芸家協会の総会、文化庁、コーラスと、行事が3つある。残った4日で集中しないといけない。これからの過程で最も困難なのは、自殺にも等しいヤマトタケルの死を、どうやって読者に納得させるかということ。イノシシに負けて死ぬのだから、その死に意味づけをしないといけない。なぜヤマトタケルは英雄とされているのか、実のところ、よくわからない。父の景行天皇の方が明らかに英雄なのだが、おそらくこの王朝とは別の王朝がのちに政権をとったので、景行天皇を英雄とするわけにはいかなかったのだろう。そのために、景行天皇の批判者として、ヤマトタケルという人物が創作されたのだろうと思う。あるいは、天智天皇の子息から政権を奪取した天武天皇を正当化するために、天皇が批判される物語が必要だったのかもしれない。
わたしの作品では、そうした政治的配慮を排除して、物語だけを純化し、抽出する。そのための作業としては、話をある程度、単純化する必要がある。もっとも、政治的な配慮がまったくないと、リアリティーがなくなる。主人公が白鳥になるという奇蹟だけで物語を終わらせてしまっては、現代の読者は納得しないだろう。そこで、軍事的な側面として、カニメノオオキミがエゾやオワリを配下にして、ヤマトに攻め上るという設定を追加する。その伏線として、第二作で、イクメ王子とマワカ王子という二人の主人公を設定した。今回は、同じ対立が子息の世代で繰り返されるのだが、対立ではなく、奇蹟の力と軍事力が相乗作用で純化していくという、「物語の奇蹟」といったものに変換させたい。かなり無理なことを試みているので、読者が乗ってくれるかどうか心配だが、うまくいかないと、この作品を書く意味がないので、何としてでもチャレンジしたい。

05/29
8章の半ばくらい。オトタチバナ姫の死という、この作品の山場の部分を書いている。ここは少しトーンを上げないといけない。ゴールが近づきつつあるが、少し疲れてきた。この作品だけでなく、昨年の9月から、このシリーズを書き続けている。三部作なので、ようなくゴールにたどりつける。むろんシリーズの全体を見ると、12冊くらい必要だが、とりあえず3巻までで休憩する。6月半ばには第1巻「ツヌノオオキミ」が出る。はっきり言って、第1巻はあんまり売れないだろう。タイトルを見ても何の話かわからない。第3巻の「ヤマトタケル」が出て、少し動きが出るかと期待している。そうでないと、先へ進めない。ある程度の販売実績を残さないと、シリーズを存続させることができない。このシリーズが続かないとなると、中期的な展望を変更しなければならない。今年の後半の仕事の予定もまだ決めていない。
このところ、暑からず寒からずのいい天気が続いている。時々、夕立が降るのだが、すぐにからりとあがる。いい気候だ。文芸家協会の総会など、公の仕事のスケジュールがつまっていて、外出することが多かったが、仕事は順調に進んでいる。愛犬リュウノスケの調子もいい。連休の頃は自分で起き上がることもできなかったのだが、いまは何とかヨタヨタと歩いている。犬は顔に毛がはえているので、しわはないはずだが、目の下のあたりに深いしわのごときものがあるのがおかしい。

6月の創作ノートに進む


ホームページに戻る