塚原館

概説 『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』、『茨城県遺跡地図平成13年度版』では塚原館となっているが、別名、鬼塚館(『茨城県遺跡地図平成2年度版』)、沼尾城(『日本城郭体系』)などとも呼ばれる。標高34m前後の舌状台地先端部にあり、北、西、南の3方を急斜面に囲まれた台地側を幅12m、深さ5mほどの空堀によって区画した館跡である。堀によって区画された中は、さらに2つの土塁によって3か所に分けられていて、西側の曲輪が一番広く高い。また、東側には腰曲輪が見られる。構築者は塚原土佐守安幹。塚原氏は、鹿島城主15代義幹の策4子塚原親兵衛尉安重ー塚原安幹(1387〜1488)ー塚原義安(1521〜1591鹿島城落城時自害)ー塚原義隆(1545〜1591鹿島城落城時討死)。塚原卜伝は塚原安幹の女(長女?)と従兄結婚し彦五郎、のちに塚原幹重、卜伝高幹と称す(『矢作城主国分家系譜』)。『鹿島町史』では、塚原新左ヱ門安重の婿養子となり、幼名を朝孝(1489生)といい、1561年死去とあって生死共に違っている。卜伝養父安幹松木備前守政信に師事し鹿島新当流の祖となった。城は4代約200年続いたものと思われる。[『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』より]
北側からの遠望
塚原館周辺図(クリックで少し拡大)
その他の写真
  1. 東側の城壁は高さ20mはありそうな断崖絶壁
  2. 城址の南東500mにある塚原卜伝の墓
  3. 概略図
訪問記[2005/01/11]昨年秋にも来たのだが体調不良のため城跡まではたどり着けず、遠望写真を撮しただけ。そんなわけで今日は再度チャレンジ、そして美浦村お散歩団としては今年初の攻城。まずこの城へ入るにはポイントが一つある。下にも書いたが、民家へ入りそうになる所で直進するのがポイント。右手がすでに城壁である。写真ではぜんぜん迫力が出ていないが、城壁東側の断崖はそうとうの威圧感、絶対によじ登れません。『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』の略測図はけっこう正確なのでそれをベースに北側斜面の竪土塁を概略図へ描き加えておいた(ちょっと大きく描きすぎましたかもしれません)。
所在地鹿嶋市沼尾字根山950外。常福院の南方360m辺り。沼尾バス停付近から東へ100mほど入ったところから右へ細い道がある(周辺図の緑色の道)。昭文社の道路地図ではけっこうちゃんとした道路のように描かれていますが全然違います。そこから見た南側正面の台地が塚原館跡。その細い道を左へ曲がりながら進むと民家へ入ってしまいそうになるが、民家の垣根と台地との隙間の細い道をそのまま進むと右手に高さ20mほどの断崖が現れる。それが城の東側城壁になるが、そこからは上がれないのでそのまま直進し突き当たり付近まで行ってから右へ(周辺図のピンク色の道を)上がれば堀切近くへ出られる。
参考書『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』、『茨城県遺跡地図平成2年度版』